こどものいいわけ

 クレジット会社からのメールを見て、「あれ?」と思った。てか、今後の生活費も含め、いい加減どうにかしなきゃいけないと思う。思う、けれど。

 借金はしたくないな、と思う。でも何で借金をしたくないんだろう? それは返せるような予定が無いから。予定が立てられないから。でも予定の事を考えて進んで行くような、そんなんでやっていけるような性格でもないか、そうか、でも借金は嫌だなと思う。

 駄目人間の日常をゆるい画で描く、日常系、とかそんな感じの漫画、コミックエッセイは(多分)数年前から大量に出版されるようになった。スカスカな内容の、しかしそれが長所ともなる、読みやすい、読み捨てる為の本。「駄目」を共有するような空気が、市場が出来上がっているのだと思う。俺もたまに立ち読みをする。題名が人目を引くようなもので、大抵十分二十分で読み終えることができるようなものだから。

 そんな感じの本は多数出版されているけれど、中にはスゲー面白いものもあり、最近の当たりはカラスヤサトシの『カラスヤサトシ』という、実体験や自分の身辺を題材にした四コマ漫画だった。

 何が面白いって、著者カラスヤの「ズレ」が面白い。普通「駄目」なのが売りで書く人って、あんまり「駄目」じゃない、「普通」の、どこかにそういう人いるよね、的だったりするんだけれど、カラスヤは違った。

 三十過ぎてガチャポンを二百体所持している。まあ、それだけなら普通かもしれない。でも特設リングを作って、そこでガチャポンバトル(ノック式ボールペンの後ろでぶつけあう)をして、それがファイトマネー式で、強いガチャポンが病院経営をしたり温泉治療(自立しなくなったガチャポンはお湯に入れると治ることがあるそうです)をしたり金持ちが貧乏選手に金貸しまでしたり、それらを全てパソコンで管理しているとか、今も継続中で三十年近くガチャポンバトルを「超楽しそうに」しているとか、マジ、「ズレ」てる。

 他にも本人の「あるあるネタ」で、中学生の頃親がいない時にカラスヤが好きなバンド「せいきまつ」の(ふろしきとか手作りベルトとか身の回りのものでするクオリティのすさまじく低い)コスプレをして過ごすのが楽しみだった(髪は砂糖水で固めるそうです)、「ねーよ」ネタ。

 とか、

「見ているだけで悲しくなるジオラマ」と称して、海洋堂戦車シリーズの前に世界の料理フィギアを並べ、背景をお花畑の写真にしたらもう号泣!! とか、ズレまくっていて面白い(でもこの「悲しいジオラマ」は俺も「分かる」と思った。やらないけど)。

 そんなズレまくっているガチで「少年のような」カラスヤだが、幼い甥っ子が自分の家に遊びに来た際に

「何で一人で住んでいるの?」と尋ねられ
愛する人も愛してくれる人もいないから」と答えたり、

飲み会で誰も何も言っても聞いてもいないのに、自分のことを
「私は人をお金とか地位で判断しない人だから〜」とか「わたしは人を外見で判断しない人だから」アピールする女子に対して、
「お前は誰の気を引こうとしているんだ? 神か?」と(頭の中で)答えたり、中々突っ込み上手(だと思う)な所とかの変なバランスがとても面白かった。四コマで読みやすいので、何度も読み返している。

 でも、今はともかく当時はカツカツの生活だったらしく、「ビョーキ」なネタもちらほら出てくる。でも、自分で自分のことを「超ポジティブ」と言っているのがとても頼もしかった。サービス精神が旺盛で、自分の「ズレ」を無理に強制しようとしない姿は、漫画として見ていて、とても面白い日常風景だった。

 そんなカラスヤの著作を結構購入していたのだが、自分の身辺を扱った『カラスヤサトシ』のシリーズ以外は、あんまりおもしろくはないなあ(主として四コマ漫画を書いているので、画はお世辞にも魅力的とは言い難いし)と思っていたのだが、最近購入した『おのぼり物語』は中々胸に来る作品だった。

 二十歳くらいでデビューをして、一度は就職したものの、じきに会社を辞め、漫画の仕事も軌道に乗らなかった著者が、三十を目前にして突然「東京に行こう」「漫画一本で生活してみよう」と思い立つ、上京青春記、みたいな話で、これは自伝的な内容ではあるのだが、カラスヤはあとがきで

「紙に描かれた時点で もう実際の私の状況話とは似て非なる まったく別の物語」と語り、また「ぼんやりした夢をもって ぼさーっと東京に出てきた よくいるどっかの青年の物語として読んでいただければ幸い」と語っている。

 確かにそれは「自分の日常」を切り売りするギャグ漫画家として正しい姿勢だと感じた。漫画に書かれていたことが嘘でも本当でも、「駄目な(魅力的な)著者のキャラクター」を売りにしていたとしても、それを読んだ読者が楽しめるかどうかが全てだと思うから。
 
 カラスヤは毎日夜に一人酒をしているそうだが、自分で「超ポジティブ」と語っているのも加えて、それらの要素はこの『おのぼり物語』にはとてもプラスになっているように思えた。三十前で大したコネも当てもなく、貯金を食いつぶしながら東京で一人で暮らす。見る人から見たら十分悲惨なことだけれど、時に感傷に浸りながらも、漫画の中のカラスヤは、頼もしく、突っ込みどころのある日々を過ごしてくれているのだ。

 しかし物語の後半で父親が癌になり、他界するエピソード(実話)は、やはりギャグ漫画にはならなかった。やつれてベッドに眠る父親が半分無職の息子を心配して「でもお前も三十だから大丈夫やろ」と告げ、カラスヤが

三十にもなって「大丈夫」の根拠が「三十であること」しかない我が身がなさけない

 と心に思い、そして父が他界した後、母親に将来を心配され「三十になって四十になって……今のままでそんでもあんた……誰とも会わんと部屋で漫画描いてんのか?」

 と問われ「この言葉は身に染みた 多分私は人生を生きていない」と思う。そのシーンは俺の身にも染みた。

 多分、俺も人生を生きていないかもしれない、そう思った。誰が人生を生きているのだ、とも思うが、そんな一切を考えないような人がきっと、人生を生きているのだと思う。しかし、どこか、やましさなしに生きれるような性格ではない。多分、この本の著者も。

 しかしこの漫画は自伝的漫画を描くことのできる漫画家が描いているので、ゆるやかなほんのりと前向きに終わっていく。実生活でも、少しずつ、著者の事態が好転していくことになっていくのだ。

 悲惨な自伝というものはほとんど存在しないだろう。自伝は(金銭的)成功者が描くものだから。多分、多くの人がしょぼいことになったり悲しいことになって、消えていく。それを悲しまない術を、多分、いくらかの人は、幼いうちに学んで、日々を過ごしている。

 俺は東京で生まれ、育って、立地的には不自由なく過ごした。でも、多くの、しょぼい、平凡な問題が巣食ったまま、どこかの誰かと同様に日々を過ごした。
 
 憧れというものが、昔から薄かった。別に東京に住んでいたのとあまり関係はないだろうが、行きたい場所も、どうにかなるような気分も、幼いころからあまりなかった。多分、「人生を生きる」ことが苦手なのだと思う。

 でも、無職生活が続いて行くと、「まあ、一度位真面目にやってもいいかな」という気分にも、たまにはなる。底はどこまでもあるとしても、何だか市民プールの底で水面を眺めているような、そんな穏やかでどうしようもない気分だ。

 超ポジティブでもないし酒もほとんど飲めないけれど、でもカラスヤの本や、好きな物を手にしていると、何度目かの「あともう少しやってみるかな」という気分になる。哀しむ、忘れる以外にも、することはあるだろう。