手のひらグレイヴディガー

前回の日記から四カ月近く経っていることに自分のことながら少しだけ驚いたが、平常運転日々手のひらひらグレイヴディガー。掘れ、掘れもっと掘れ。下らない反復。下らない、いや、そうでもない。

 先日ファスビンダーの映画を見に行った。映画館に行くのは久しぶりだ。ファスビンダーの映画はレンタルではどこにもない(と思う)ので、上映はかなり嬉しい。一月中旬までイメージフォーラムで三本上映している内の一本、ローラを見る。期待通りのファスビンダー節ににやにやしてしまう。直接この映画についての言及ではないが、彼がインタビュアーの「貴方の映画には繰り返し出てくるモチーフ、愛は力関係なしにはありえないのですか」という質問への回答が面白い、曰く。


「ぼくは……また……つまり、あの忌々しい話題にまた戻ってしまうんですけどね。つまり、僕らはそれがありえないような形で教育されているってことなんですよ。どうしても愛する者、より強く愛する者、その愛により執着する者、関係に執着する者は、弱い立場になってしまう。それは、愛の弱い者の方が力を行使できるということと関係している。当然ですが。感情や愛や欲求を受け入れるには度量の大きさが必要になってくるんですが、ほとんどの人間はそれを持っていない。というわけで、大抵の場合は醜い。僕は、どんな人であろうとその関係が美しいと言えるようなものを知りません」


 愛は醜いしかし、愛を求めずにはいられない。彼の映画の主題に相応しい二時間のメロドラマが終わり、劇場がスクリーンから光を取り戻す時の、あの柔らかい虚脱感は映画館特有の体験で、少しだけ物悲しく気分が良い。アートにおける物量、マッス、量感、と言うものの暴力は確かに有効だと思うし、映画(館)もまた。どうでもいい映画はDVDで十分だが、やはり映画館で出会うべき映画はある、けれど、小さなモニターで見た映画でも、むしろ粗さや不便さが好ましい体験をもたらすこともある。

 大学の頃、実家に帰宅途中に電車内(携帯機)でファイアーエムブレムをプレイしているとエンディングに入ってしまって、止まらずに流れ出してしまうスタッフロール。渋谷の駅で下車した時に雑踏の中でバックライトのない画面を見ながら(イヤホンを本体に刺すという発想が無かった)か細い音を耳に入れていた(社内では迷惑なので音は切っていた)あの時は、不便で楽しかった。断片的な情報を必死で追いかけるのは好きだ。

 不便で楽しいとか断片がどうかとか、そういう考えだから生活がマシにならないのかな、と思う。最近はよく外に出ている。でも金銭的にはかなりヤバイって、いつものことか。

 代々木公園のフリマに久しぶりに行った。半年くらい前には服屋なんて絶対行きたくなかったのだが、最近はわりかし古着を中心にひやかしていて、いいことだと思う。

 以前俺もフリマに出たことがあったのだが、嫌な客(俺は今まで一度も値切ったことがないので、しつこく値切ったりおまけを要求する人の心理が理解できない)に対してスマイル付きで「あ、じゃあ買わなくてもいいですよ」とか言ってるクズっぷりを発揮していた。いやーよくこれで大丈夫でした、大丈夫か? 

 フリマはきちんと並べている人よりも、雑で声が大きい感じの人らの方が投げ売り率が高くて好きだ。ブランド物を並べている人に値段を聞くとやっぱりそれなりの値段で、だったらこっから歩いて五分でラグ○グ行くべ! とかいう気分になる。フリマはそこまで欲しくないものを馬鹿みたいに買うのが楽しいんじゃないかなと思っている。洋服三点購入。

 翌日購入したのとは別の洋服を売りに行く。二束三文と予想していたよりもさらに低い値段に少し驚くが、まあこんなもんだと自分に言い聞かせる。
言い聞かせても財布は暖かくならないけど。最近また色々売ってるなあ、売ってるってことは買ってるってことでもある、のでもあるけれど、それにしてもガラクタはけっこう持ってるんだ、ガラクタ。値段はつかないって意味で。

 気付けは何度も似たようなことを繰り返してしまっていて、そのうちに駄目になってしまうのかなとも思うのだけれど、とりあえず今日は明日は駄目ではないし、俺はファスビンダーではないけれど繰り返すしかない。どうせ死ぬんだし、したいことしなきゃねディガー。