ドラゴンハウスダンジョンズ20202

 itunesでCDを焼こうとしたら、なんかずっと前から出ているエラー設定の為不可能で、そういえばitunesの更新もしていない(というか不可能な)状態で、これ以上俺のパソコンに負荷をかけないでくれと強く願う、願うだけ。

 でも、アマゾン先生からセブンスドラゴン2020-Ⅱが届きまして、もうね、数か月ぶりにやりたいゲームをプレイしている感じ。いあ、ゲーム自体はほぼ毎日プレイしているけれど、やりたくもないゲームばっかプレイしてんの。そこらで投げ売りされてる、ゲームを「何でこの商品企画通ったんだろうなー」「これはどの客層向けのゲームなのかな」とか思いながら惰性でプレイする虚しい楽しさ、にはお別れだ、2020年の東京で竜狩ってきます! わーい!

 軽い気持ちで読んだ、美術手帖の連載をまとめたらしき、芸術家の発言とそれについての考察、谷川渥の『芸術をめぐる言葉』を読み、久しぶりに大学時代に戻った気がした。こんにちは、ボードレール、グリンバーグ、ヴォリンガー、フリード、って、ほんとね、この人らの本も時間を割いて再読しなきゃなあと思いながら、あんまできてないんだよね。それは多分彼らの考えがそれなりにしっくりきていて、それ以上に俺の血肉になるものが少ないからかもしれない。いや、まあ、読めば気づくことが多いだろうとは分かるけどさ、でもドラゴン殺さなくっちゃ俺。

 その本の中で、フリードのミニマルアート批判における「芸術は演劇の状態に近づくにつれて堕落する」という言葉があり、俺はミニマルアートは支持するが、演劇という名のパフォーマンスは全く支持出来なくて、再度フリードの(ミニマルアート批判の文脈の)言葉をひくと、

「演劇的とは、観者が作品と出合う現実の状況がそこで大きな役割を演じるということ」

 であり、(この本の著者も指摘しているように)補助線としてボードレ−ルによる(当時の)彫刻批判の文章を参照すると、彼は「彫刻はあまりにも多くの面を示す、自然に近い芸術であることから、それゆえ退屈だ、ということなのだ。

 俺にとっても、演劇はまだ大丈夫かもしれない(つまり良さが分かるかもしれない)のだが、志向性を導くほどの堅牢な秩序を持たない舞踏、身体パフォーマンスになると、美術館の中でキャプションがついて成立する「芸術作品」というような、げんなりするものを想起してしまうし、実際俺はセンスの無いプログレ、フリージャズのごときパフォーマンスに辟易していた、

 けれどそこには狂熱の陶酔の共有(というか演者本人の)というものがあり、それが商売にも快楽にもなり、芸術と言うパッケージで売りに出すこともできるのだろう。

 今までにも散々こういったパフォーマンスに否定的な意見を書き連ねながらもまだ考えてしまうのは、かれらのような熱量が俺には不足しているからかもしれない。うらやましいというのではなく、なんとなく、彼らについて知りたい、ような気がした、って、『アンミュイ・エレクトリーク』の歌詞のように、

「DJあなたは匂いも味もしないの セルロイドの香りだけがせつないわ
 フロアにいるクールなだけの人達
 ねえ あたしが泣きたくなるような曲は
 聞かせないで聞かせないで聞かせないで」
 
 みたいに、きっと、うんざりしてしまう、肉体、ハウスミュージック、つまりはしたなくって、たまらなくキュート。東京がフロワロ(竜の蔓延る場所に生える赤い花)まみれになって、竜を殺しまくるみたいに、キュート。

 なことが最近不足しているような気がして、いや、多分そんなのずっと不足している、から、こんな文章ばかり書いてしまっているのかもしれない。でも、こういった断片が思考や雑記のヒントになっていることもあり、大切だと思う、身体を動かすこと、身体を、軽視しないこと。俺の骨も、肉の中にうずもれているのだから。

 骨へのなれなれしい友愛と、肉への妙な憧れ。多分俺は身体を使うのが上手くない。でも、一人で部屋を暗くして、爆音IPOD下着だけで踊り狂うことはできる。音楽に音素に反応する身体、はやはりとても気分がいい。一、二時間位は飽きない、そして倦怠感から、時間を浪費したことへの軽い罪悪感から電気をつける、あの、くだらないパーティが終わった時みたいな気分。

 それでもダンスもダンスミュージックも俺には必要だし、たまには身体を大切にしなくっちゃと思う、けれど今は竜を殺さなきゃ俺。