さよならの国 くちづけの街に生きる のは君



 家でも外でもイヤホン生活を続けていて、最近やっと、一日十時間以上もイヤホンで音を聞くと頭が駄目になることに気がつきましたはい。でも、いまもまたイヤホンですはい。調子が悪い時はやはり音楽が、というか静寂や、それを破る雑音に過敏に反応してしまう駄目な俺、

 そんな俺に思いもよらないプレゼントが、しかも、アマゾン以外の! って、何かと思えば東京ガスのガスパッチョグッズとかいう微妙なもので、薄いまな板、菜箸、小さなノート、って、どうしろっていうんだ、というかそんなのに応募したことすら忘れていたのだが、よく見ればかわいい、のだが、微妙にいらないというかもてあましているかわいいガスパッチョ。

 その反動か、また、寝てしまったり、眠れなかったり、でも近所の新規オープンラーメン屋で開店300円セールをしているということで向かうことにしてみる。

 世の中の男性はラーメン好きがとても多い、らしい。のだが、俺はラーメンがそこまでおいしいと思ったことがなくて、しかもラーメンってそこそこ値段がするので、なんか、これなら定食でも食べたほうが、とか考えてしまう。

 そこのラーメン屋は何店舗もある店らしいのだが、正直あまりおいしいとは思えなかった。というか、俺にラーメンをおいしいと感じられる味覚というか、センスがないのかもしれないけど。

 それにしてもラーメン屋に共通する、あの「みつを」かつ「ヤンキー」精神(内装、メニューにいたるまで)はとても肌に合わないというか、謎で、何かそうしなければならないきまりでもあるのだろうか? 成り上がり系体育会文化というか。

 でも組織と言う者はえてしてそういうもので成り立っているともいえるし、うんざりするあの、(会社)組織におけるホモソーシャルホモフォビアの結びつきには本当にうんざりする。どちらか一つなら、愛欲か差別だけならいいのに、その結びつきが醜悪なのは、善良な振りして「ケツの穴を舐めろ」と宣言する、あの愚鈍さ、おぞましさにあって、しかも結果それが単性生殖のような様相を呈しているからだ。そこ生じるのは生存以外の物はほとんどない。生存だけ。生きるだけ。人間なのに、俺ら。機械でも神でも天使でも獣でもないのに、人間なのにね俺ら。

 でもそれが蔓延しているというのは、つまりそれが組織が共同体が大きくなるには必然であるということで、ゲーム、という視点では興味深く、たまにそういう事柄に触れると新鮮な気持ちになることもある、

 って新鮮とか言ってる場合かよ、反社会的な人の文章みたいじゃねえか、なあ、ガスパッチョ。

 きっと現実逃避の一つ、しかし別の小説の骨子が組まれていくと、何だか心が穏やかになるような気がしていて、きっと他者の自分の、勇ましさが残酷さがそして諧謔が、志向性を導いてくれるからかもしれない。(映画でいえばゴダールの)「パッション」がガイド。

 それに伴って資料というか体験も必要だなあと思うことがあって、しかしながら家には未消化の本もCDもDVDも漫画もゲームもたまっていて、もう、一生こういうのに追われていくんだなあと呆けてしまう。呆けてばかりいられる時間なんて過ぎているってのにガスパッチョ。

 そういう時に、あはり音楽を少し止めてじっとしている時間も大切で、そのうちに寝てしまうこともしばしばあるのだけれど、音が無いというのも、何だか刺激的な経験だ。茶道や瞑想、ということを考えていきたいのだけれど、今の俺には不釣り合いではあるのだが、ふとした時に意識が勝手に流れて行く、あの感覚に仄かな秩序めいたものを与えられたらな、と思う。

 それにはやはり一定の型、というか礼儀、礼節を学ぶことから始めるというのが筋で、実際に体験するのが一番だとは分かっていても、それを軽々しくするというのはかなり困難で、いつもの継ぎはぎのキメラ創造的な発想で乗り越えるしかないのかなとも思っている。

 バレエとかオペラとか能とかではない、身体パフォーマンスの「美術化」としての消費、というものに対して俺は懐疑的で、結局俺はありもしない型が必要だと思っているのだ。そういったパフォーマンスは芸術の中の「祝祭」的な効能であって、陶酔の熱狂の共有という点で優れているのだろう、だから芸術とは志向性を導く堅牢で朧な秩序であるという俺の価値観とは乖離している。

 でも、俺は労働も祝祭も、そして瞑想さえ軽視して距離を置いて、何をしようとしているのか、といえば自分の身体が流木になったような感がしてくる。

 それでも、まあ、大丈夫、だということにして、とにかくまた、新しい人々に人々の意識について思いを巡らせている間は、小旅行の途中のような、どこか、目的地の無いそぞろ歩きの途中という感がして。