睡眠煙草

新しい服や下着を買うと必ず匂いをかいでしまう癖があり、穴のあいた下着、を修繕したのにさらに破れ穴のあいた下着を処分して新しい下着を身につけ、家の中でふらふらしている今日この頃、ふと、身体が熱っぽいような気がして、真新しい下着で薄汚れた寝台の中で丸くなる。

 俺は汗かきというわけではないのに、厚着をするのが嫌いで、大抵薄着でいる。多分ただの面倒くさがりなのだと思う、結果いらぬ風邪を招いてしまうことがあり、しかし今回のは大分楽な物らしく、目が覚めるといつも通りの不快感、そして病み上がりめいた妙な昂揚に背を押され、物を処分する手続きを黙々と進める。

 光りものを集める鴉のように、俺が集めた家の中にある輝かしいガラクタの量に自分のことながら少しげんなりしてしまう。俺は倉庫に住んでいるのだろうか?

 物を買うのが大好きな俺は、売り払うのもそこそこ好きなのかもしれない。というか、数少ない生産的な行為、というような気がしてきて、ばかばかしい発想ではあるが、心地よく、音楽もつけず、黙々と作業をこなす。仕事してる人みたいだろ?違うか。

 幾つかの段ボールを作り、それからこれから先の事を考えると頭が痛く、外に出る、好きでもない貰い物のエイプのウィンドブレーカーに七分丈のパンツで、外に出ると生ぬるい夏の少し、前の夜。

 この温度が割と好きだこの生ぬるくひんやりとした夜、また、買い物がしたくなって歩いて渋谷、に向かい口ずさむカーネーションの[It's beautiful day]


It's beautiful day 
It's beautiful day arlight
仕事も彼女もDJも車もTVもユーウツも
いらないバイバイバイ

It's beautiful day 
It's beautiful day one more
映画もギターもバイクもただの犬も新聞も課長さんも
いらないバイバイバイ

It's beautiful day
でもlonely


渋谷は東急の駅が無くなってしまって、いつも使用していた、恵比寿や代官山方面から向かう際に便利な地下通路も封鎖されてしまっていて、今日もそこを通ろうとして、途中で気づいてしまって、仕方なく大きな歩道橋を上る。ずっと歩いてきたから少し、汗ばんでいることに気づく。こんなカモフラ猿なんていらないバイバイバイ、とはいかない俺、見るだけなら、とか思いながら久しぶりに服屋に向かおうとしている、と、

 雑踏で肩を叩かれた。俺は一人きりなのに、飲み屋の客引きか、と思いつつ、しかし様子がそれとは違うのでイヤホンを外すと、やけになれなれしい表情と声で「よう! おっまえ、久しぶり、なあ、俺、分かる?」
「すみません、分かりません」とこの時点では警戒心をむき出しにしていたのだが、同じ小学校の名前を告げられると急にそれは萎んでしまって、でも目の前の彼についてぼんやりとした記憶しか持たず、はにかんで、別れようとすると、腕を掴まれた。
「俺仕事終わりだし、どっか飲みに行こうぜ」
 断るつもりだったのに、腕を掴まれてしまうと、もう、断るのも従うのもどうでもよくなってしまって、安い居酒屋に二人で入る。ぽつぽつ言葉を交わすと記憶の断片が、鮮明に蘇り、そう、彼は小学校の同級生でそこまで親しくは無かったのだが、高校生になった時に少しだけ一緒に買い物に出かけたりした仲だった。

「お前変わってねーな。スゲー背ぇ高けーからすぐに分かった」

 確かに俺は長身で、高校の時のように、黒の長髪にしていて、しかし目の前の彼は小学校の時の彼でも高校の時の彼でもない、スーツ姿の「大人」に見え、多少戸惑いながら、適当に話を合わせ、積み重ねるどうでもいい嘘、の数々がそれなりに心地よい。

「あー何だ、お前アパレル行くと思ってた。てか、やべーなあの離職率。なんか仕事もさあ、下っ端は機械みたいだもんな。」

 アパレル業界の厳しさ、というのはたまに人から耳にすることがあって、でもどこの業界も大変そうだとどこの業界にも属せない俺は思いつつ、とりわけ関心を抱けない彼が口にする煙草、がマルボロなのを見て、急に彼に仄かな好感を抱いてしまう。

 個人的に、煙草のデザインで一番かっこいいのはカルティエの赤だと思う。もう日本では廃止されているのだが、以前母が吞んでいて、親のことではあるがかっこいいなと思いつつ、でも親と同じものを吸いたいとは思えなくて、男で一番カッコいいのはマルボロの赤、という気がする。味はよく知らない。だって俺人から貰ったことしかないから。

 この彼からも煙草をもらったことがあって、にやけ顔で彼が言う「やってみろよ」。普段吸わない俺に煙草を勧めた人達は、俺が未成年であっても成人していても、少し、楽しそうににやつき勧めるのだ「なあ、やってみろよ」

 俺はそんなことを思いながら、初めて自分から小学校時代の同級生のT君はどうしてるのかなと訊ねてみた。彼はあーそんな奴いたな、というような反応だったが、小学校の時は、俺はT君と割と仲良しだった。

 T君を知ったのは三年生のクラス替え後の身体測定の時、なんと彼は待ち時間に自分の足の爪を噛んで切っていたのだ。俺は非常にショックを受けた。こんなことしてもいいのか、と思った、でも、俺も結構せっかちで落ち着きが無い方だったから、気持ちは分からないでもない、けど、臭くないのか? 足?

 T君は癇癪持ちで知られていて、激昂すると訳のわからない言葉をしゃべり続ける、でも勉強は結構出来る子で、自分の性格をたまに自己弁護しながらも、周りに溶け込もうともしていた。

 彼と友達になりたい、と思ったのは、歴史好きの彼が授業中に先生に言われて小田信長が好んだ、敦盛の一節を諳んじたからだった。

「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび生を得て
滅せぬもののあるべきか」

 俺はその頃もまだ、自分が死ぬことを認められずに、おびえていた。確実に俺は死んで、しかも俺はゲームのキャラクターでも漫画の主人公でも神様でも機械でもないなんて、恐ろしくって頭がおかしくなる、叫びだしてしまう、一人で。一人の時に。駄目だよ、一人の時だけだよやっていいのは。

 夜眠るときは死ぬ前の準備をしているのだと思っていた。だって、寝てしまったら、起きる「確実な保証」は無いだろ? ていうか、確実な保証なんてないだろ、っていうのを認められずにいたから、その一節を口にできるT君は俺には強い人に思えた、癇癪持ちで自分に都合のよい解釈ばかりして面倒な人だけれど。

 T君の家に遊びに行ったことが何度かあって、最初は分からなかったのだが、T君のお姉さんの頭には障害があって、小学生の俺はそれに触れてはいけないのだと、本能的に思ってしまって、ただ、少しだけ怖かった。だって、いきなりファミコンの電源を切るんだもん。

 T君はお姉さんをあやすように叱り、隣の部屋に連れて行き幼児番組のビデオを見せる。彼は、確か一度だけ「お姉ちゃんは頭に障害があるけれど、驚かないでくれよ」と言ったことがある。俺は、多分答えられなかったはずだ。でも、それを黙って実行していた、はずだ。

 そんなT君が癇癪を爆発させ、縄跳びをやたらめったらに振り回した時があった。俺はT君を落ち着かせようと近づくと、当然プラスティックの縄が命中して、俺の顔には大きな蚯蚓腫れが出来、騒ぎが大きくなって先生と三人で保健室に向かった。T君はずっと泣いていて「ごめんよぉ、だってぇ、お前が出てくるなんて思わなかったんだから」と口にして、悲しくもないのに目が痛いのか空気に飲まれたのか、俺も涙を流し「T君は悪くないよ」と繰り返して言った。本当にT君は悪くないと思った。ただ俺も彼も少し馬鹿なだけ。

 その事件の少し後、T君を含めた数人でかくれんぼをする機会があって、俺はたまたまT君と同じ場所で暇になってしまって、鬼を待っていた。階段の上の彼に俺は、
「どうせみんな死ぬから、こういう機会がたくさんあるといいね」と告げた。俺の記憶では、T君は答えてくれなかったかおざなりな対応をした。俺が彼の姉についてした反応みたいに。

 しかし俺は身勝手に傷つき、やっぱりこういうことを言うのは良くないのだと思った。それからもT君との交友は続いたが、それぞれ別の中学に上がると全く親交は途絶えた。携帯電話の無い時代の子どもたちは、多分皆そんなものだったと思う。それでいいのだと思う。

 マルボロの彼は俺よりずっとアルコールを飲み、煙草を吞んでいた、から支払いは彼が多くしてくれた。ありがたいというか、ねえ、俺、ビール一杯だけだよアルコール。飲めるけど、すぐに顔が赤くなるから厭なんだ。煙草も、未だに肺の入れ方がわからなくてふかし煙草しかできない。何度か教えてもらったはずなのにね。

 店を出て、別れ際になって連絡先を交換しよう、と言われ、俺はまた会えるってとはにかみ、自分から彼の手を握る。少しだけ驚いた表情の彼、の手を離し、手のひらを見せて雑踏に紛れると、本当に、彼とまた会えるような阿呆な気分になって、服屋は既に閉まっていて(というか俺が渋谷についた時点であらかたしまっていただろう)、ネオンばかりが元気で、仕方なく家に帰り清潔とはいえないベッドに横たわると思いの外疲れていたようで、けだるげなままくすぶっていると薫る、のはマルボロの匂い。ふと、俺は自分から誰かの手を握ったのはいつぶりだ、と思う、が思いだせない、しかしマルボロの芳香は心地よい。

 普段は吸わないから、喫煙家の人と食事を共にすると家に帰った時にふと、匂いに気づくことがしばしばある。それだけ煙草の匂いは強く、人によってはとても不快な物だと思うのだが、普段は吸わない俺はその残り香が結構好きで、何だかたまゆらの友情のしるしのような気がしてしまって、でも俺はずっと歩いていたのでシャワーを浴び、小奇麗になって再び薄汚れた寝台に。