ル ロア ソレイユ コマンタレヴ?

 用があっても用が無くてもとにかく繁華街に出向いていて、街に出る、ってことはあぶく銭を得てもあぶくになるってことで、睡眠も不規則で途切れ途切れ、になり、電車で後少し、と思いまどろんでいるといつの間にか終点で、駅員に起こされ、慌てて電車を出た。

 俺って案外しっかり者(は?)なので、駅員に起こされるなんて初めてだった、あ、嘘、前にも一回あったわ、なんて考えながらトイレに向かうと、間違えて女子トイレに入ってしまって、でもね、すぐわかんのよ、だって女子トイレには女性いるし、それに壁とかタイルの色が赤とかピンクなんだよね、俺、今までぼーっとしていて、四、五回は女子トイレに入ってしまったことあるけど、あんまり中はいらないですぐに気がつくからね、一度も変質者に間違われたことないし、

 って、これって幸運なことかもしれない、じゃなくて、基本的に俺は人生なめてんだな、と思う。でもさ、なめてなきゃやってらんねーだろ、な。

 三月から開始されていた、無料だし行こうかな、と思っていた中原淳一の展示がもうすぐ終わることを思い出し、あまり気は進まなかったが、外出する口実が出来たのはありがたい事で、とりあえず新宿へ向かう。

 持参したパンフレットに記載された地図には靖国通りと書いてあったから、駅前の交番で「この(会場最寄りの)九段下って駅のところに歩いて行きたいんですけど」とたずねると、渋い顔で「歩いていける距離じゃないよ」と言われ、状況が良く分かっていない俺に、駄目押しで「ほら、この君の持っている地図に武道館も書いてあるでしょ。皇居の近くだから。地下鉄で行かなきゃ」と言われ、あっさりと行く気が無くなり、ありがとうございましたと退散。

 ぼんやりと新宿の街を歩きながら、昔は結構好きで本も持っていた彼の事を思う。もう、全て売り払ってしまったが。彼の残したメッセージや信念は素晴らしいものだと思うが、なんか今のおれにはしっくりこないというか、「それいゆ」な気分でもないのだ。駅前の電光掲示板は26℃を示している。夏には出て行かなきゃいけない、新しい家も仕事も決まって無いのに。少しだけ汗ばんで、花々が描かれた真っ赤なシャツが肌にまとわりつく。

 てか、行きたいなら電車で行けよ、と思いながらも結局中野に向かい、店先で冷やかし、だけでは済まずにまた少しだけ散財。

 店頭で投げ売りされていた横光利一永井荷風の本はとてもボロく、装丁もそっけなく、でもこの位の本も美しい装丁の本のように魅力的で購入する。赤茶けた紙の上に並ぶ旧字体の活字も、ざらつくパラフィン紙の手触りも、わくわくする、中身が早く見たくなる、

 けれど分かってる、家には図書館から借りた十数冊の本と、数えていない本の山があるってことを。

 最近視力がさらに落ちていることを実感する時がしばしばあり、一応裸眼で通しているのだが、眼鏡を使うのは何だか面倒そうで、一時期はブルーベリーの錠剤を摂っていたのだが、効果が分からないしそれなりに値段はするし、今はもう止めてしまっている。でも、この先を考えると状況が好転するなんて思えないので何かしなくてはならない。しかし問題はいっつも先送り、

 なのにそこまで不安定でも無いのは、多分新しい小説の骨子が組み上がっている最中だからかもしれない。多分それは現実逃避って奴なんだろうがゲームも芸術も大切な現実であり現実逃避、

 とか適当をかましつつ積んでいる本の中の一冊、藤巻和夫フォイエルバッハと感性の哲学』を読む、のだがこの本はとても読みやすく、というか単純にフォイエルバッハと考え方が似ているってことに加えて、著者がそれをかみ砕いて提供してくれているってことなのかなと思う。

 著作における「近代の課題は神を現実化し人間化すること―神学を人間学に変え、また解消することであった」「自己否定、自己を捧げることは神の好意をかちえんとする為」とか、無宗教の俺にはとても合理的で分かりやすいのだが、その一方で、俺は(或る)信者の中にあるストイックな部分には、確実に敬意を払っている。

 どこまでが自己実現であるのか、苦行も巡礼も瞑想も聖戦も、誰の為でも無い、自分自身の為だと俺は思うのだが、彼らが思考の中にいるときに、横から「馬鹿じゃねえかこのナルシスト」なんて言うのはお門違いだ。好きなことをやった方がいい、それにどうせやるなら、無駄になることを。

 俺がどうしても自己否定的な見解が多くなってしまうのは、結局俺は、そして生きる、ということは恒常性の内の、恒常性を規範とした思考に厭がおうにも陥ってしまうということだからだ。毒されてしまう生きる意志生きる喜びに。これじゃあ『自由からの逃走』だって出来そうにない。一生生命の囚われ人なんて。

 しかし、それだって悪い事でも無い。中原淳一の「それいゆ」のような言葉にだって、武田百合子の豊潤でおかしなエッセイや幸田文のさらりと読めるが身を律するようなエッセイだって、生活に根差した人から出る言葉だからだ。簡単に否定出来たら、崇拝出来たら気分がいいのだけれど、そう簡単にはいかない、

 から絶えず考えてしまう喜捨に蕩尽に供犠についてそして、聖餐式について。

 現代におけるそれは、俺はきっと、感情労働の問題とそれらを結びつけてしまう。金銭を介在とする、しない、感情労働。そしてもてなし<茶道>、効率的殺害<武士>。

 やはり考えていないと、物を買っていないと読んでいないと駄目になってしまう。色々な期限が迫っているのは分かるが、それでも何だか人生をなめているのはきっと、『どうにかなる日々』というよりも、何だか楽しんでしまえているってことだと思うし、そうだったらいいなと思う。もてなそう処分しよう色々と。