but not for me

 寝過ぎてしまったり、気がつくとまどろみ、落ちてしまっていたり。そんなに眠いのかと自分に訊ねてみても分かるはずもなく、

 そう、ドラゴンを殺しまくってしまって、ゲームのエンディングを迎えてもこちらの人生は続き、少し、調子が悪くって、でも、大量に買った物を、買ってしまっていた物を売り払う手続きを済ませて、そして外に出かけると何も解決はしていないけれど、多少気分は落ち着きを取り戻してきて、本当に、「あーよかった」と思う。やっぱ余裕がないのを楽しめてないってのは、みっともないわけで。

 渋谷の東急で海洋堂の展示をしていて、タダだから、とかいう気の無い理由で向かうと、かなりの盛況ぶりで、年齢層も幅広く、展示されているフィギアも萌え系から動物怪獣戦車にロボット仏像妖怪、とバラエティに富んでいて、デパートの展示としてかなりいいものではないかなと感じられた。だって、皆、声を交わし、写真を撮り、とても楽しそうだったから。

 俺は一応デジカメを持参していたのだが、一枚も写真は撮らなかった。好みのキャラクターが特になかった(でも等身大のロボットはちょっと撮りそうになったが)というのもあるが、皆でパシャパシャしているのを見ると、何だか素に戻るというか、萎えてしまうのだ。

 友人が食べ物を携帯のカメラで撮影していた時に、俺は「やってはいけないことをしている」ような気がしてしまった。勿論その場で咎めるようなことはしなかったが。

 フィギアよりもさらに、食べ物の写真は、写真を撮る瞬間は良くない、見たくはない。それはきっとマナーの問題に起因するものだと思うのだが、何だか消えてしまう物を無作為にしかも大量に留めるという行為が、言い方は悪いが、何だかとても品が無いように感じられてしまうのだ。

 かといって俺が品がいいか、となると別の点で落第しているのは確実で、しかも、俺は芸能人でも一般人でも、ブログにアップされた、綺麗に撮られた食べ物とかの写真を見て、普通に好感を抱いてしまうのだ。おいしそーじゃんか。俺、宅配ピザのチラシ見ながら食事したりしてるよ(小学校の時にこれをしたら、母親にめちゃくちゃ怒られた。当然だ)。

 でも、撮るのは、撮るのを見るのは駄目。自分でも矛盾していると思うが、何でも、さっさと無くなってしまうのが大切なことだと、諸行無常、とまではいかなくても川端康成が「忘却が恩寵」と言った、その言葉は俺の胸に強く刻まれている。

 俺は昔公園に捨てられていた二匹の猫を飼っていた。だからかもしれないが、動物を捨てる人を、捨てる人を容認できる人を信じられない。怒りとか恐れの感情ではなく、価値観が違いすぎて「こりゃ無理だ」と、思ってしまう。

 しかし動物愛護、となると話は複雑で、俺は未だにペットショップが苦手で、毎年殺処分されている犬猫が大量にいることを、ペットショップの動物虐待的管理を知ってしまうと、元々苦手だった場所がさらに苦手になってしまう。

 でも、愛情のような、プライドのようなものを持って経営しているブリーダーとか店長だっているだろうし、こちらが勝手に、「なんとなく厭」な感じになってしまうだけなのだ。

 大学のキャンパスに、毛皮をとるとか化粧品の品質管理の為にむごたらしい動物実験の様子を記したポスターが貼られていたことがある。こういうのはなくなった方が、少なくなった方がいい、と思う、けれど、ふと、不思議に思うのは「動物愛護団体」はあっても、「昆虫愛護団体」は(俺は知らない)無いということだ。

 だってはちみつをとるとか、蚕から絹を採るとか、かなりむごたらしい事をしているのに、「かわいい」以外のは虐殺オッケーなわけで、でもそもそもそれを言ったら物を食べるという行為が、生きると言う行為が絶えず他者を犠牲にすることに直結していて、その犠牲の様の幾分かを覗きたいと思い、また、屠殺も虐殺も、蓋をしたいと思うのは、多分人として正常というか、残念なことにそうそうストイックには生きられないということだ。

 ベジタリアンも植物を殺す。無駄な殺生をせずとも、勝手に自分の細胞が、絶えず身体に触れる、侵入してくる細胞細菌、異物を殺し続ける殺し続ける俺ら。

 フォイエルバッハが「神学とはつまり人間学だ」と言い、神は「死んで」すらくれないのだと宣言をしてしまって、マルクスは「宗教は阿片だ(しかしそれなしに人は生きられるだろうか?)」と言ったが、俺は信仰心が無いくせに神様のことばかり考えている。信仰心がないから、かもしれないが。

 ただ、物を、人を、自分を粗末にすること、喜捨に供犠に蕩尽に、心が楽になるような感覚を覚える。「武士道とは死ぬこととみつけたり」みたな、道徳的な言葉にさえも、それなりの共感を抱いてしまう。

 それなりの品位を保って、悪い事をしなくっちゃ、って多分、そういうことなのかなと思う。なんだ、自分の生き方の自己正当化をしているだけじゃないか、と思えばげんなりしてしまうが、でも、こういった思いを無駄にしなかったこともしばしばあって、それはなかなか気分がいいことだ。超克、超越なんてとても観念的で信じられないのだが、忘れて行く思いを、捨て行く感情を鞜青のようにしていけるのならば、なんだかそれはとても良い行いのような、とりあえず気分が悪くない行為のように思える。

 今、耳元でChet Bakerが「I fall in love too easily」と歌っていて、俺はこの人の甘く、か細い声が割と好きで、感傷的でも幸福でもないような、妙に、妙な爽やかなヴォーカルだと思う。少し、疲れている時には丁度いい。

 別の曲で彼が口にする、”but not for me”

 とても心地が良くって、また新しいドラゴンの事を兵士のことを思う。