オーヴァードーズ或いはリップサーヴィス
引越しをしたからということで、久しぶりに会う友人に引越しそばをご馳走になる。久しぶりに築地に行った。そばの作法、なんて知らないしこれといって知りたくも無いのだが、香り高いそばをずずずとすするのは、とても気分がいいものだ。
昼過ぎに築地を歩くと、多くの店は閉まってしまっているのだけれど、夏だと言うのにどの魚屋の前からも魚臭さが皆無で、代わりに磯の香りがしていて、いい気分になった。
ふと、岡本かの子の『鮨』という短編を思い出す。母性愛、というか自分大好きかの子の、自分をモデルにしたであろう、口に物を入れるのが苦手な子供が母のにぎった色とりどりの鮨を口に運び、その喜びを官能を知るという短編だ。
手鞠鮨、なんてものでもなくても、本当に鮨はかわいいと思う。美味しくなくても、回転すしはかわいいからいいと思う。指でつかんだ、色に肉に口づけ。
商店街の魚屋の前を通ると、あまり良くない臭いがすることをしばしば体験していた。死体の死骸の臭い、のような気がしていた。あの濁った瞳も苦手だった。でも、築地の魚たちはもっと清潔なものがあるような、単純阿呆な心持ちになる。まあ、香りにまで気をつけるのが、おもてなしをする心構えと言っても間違いではないだろうけれど。
友人にはお礼として漫画本をあげた。その友人の好みは分かっているので、気軽に手に出来る、そして持っていないものを。
よほど人がいいか趣味が合っているなんてことが無い限り、物を貰っても困ってしまうことはしばしばあるだろう。人に何か渡すことが出来るというのは幸福なことだと思うが、やはりどんなものであっても贈り物なのだから、喜ばれてなんぼだと思う。しかし、喜ばれるものは割と高価であったり、相手が驚いてしまったりするのも良くない。
ということで、仄かな喜びというか誤配のような物、といことで岩波や新潮文庫の、詩集を幾つか渡したことがあって(当然相手は選んでいるのだが)、後はプラザのアホなおもちゃとか、シャンパン。
やはり無くなってしまえたり、無くなっても構わない物が一等すばらしいように思える。小さなものを、消えてしまえるものをしかし異質な目にしないようなものを。一番この条件を満たしているのがシャンパンという気がするのだが、何かあったらシャンパンを贈るなんて、ちょっとキモイわけで(詩集もたいがいだが)、でもあの、街や店で耳にしたポップソングの、心地よくて忘れてしまえるフレーズのような快感は、とてもすばらしいものだと思う。俺の舌が悪い、というわけでもないはずで、シャンパンはありがたがるような美味しいものではないだろう。
しかし、シャンパンの泡のような幸福。ありがとう、さようなら。グッド、グッド・バイ
久しぶりに聞く、ピチカートファイヴ。ピチカートはもう、高校の頃にドはまりして、しかもちょうど解散後にはまったから、買えるCDは全部買う勢いで集めていった。
大きく分けてピチカートのメインボーカルは三期に分けられる。普通にイメージするであろう、<東洋のバービードール>野宮麻貴も当然大好きなのだが、二期のオリジナル・ラブの田島のボーカルもものすごく好きで、オリジナル・ラブ(初期のソウルミュージックよりの方が好みなので)の田島よりも個人的にははまっていると思う。
素敵な、アダルト・ソウルミュージック。『リップ・サーヴィス』
https://www.youtube.com/watch?v=fVLWi1xC2IA
言葉は ただの言葉 ただのサーヴィス
たとえ本当は好きじゃなくてもいい ほんのサーヴィス
本当のことなんてつまらない
さあ 君とサーヴィス
朝までふたりきり くりかえす
頭がとろけるような、どうでもいいのにどうでも良くない気分になる。官能に似た言葉、音。
そして、第一期のセルフカヴァーともいえる、野宮麻貴が歌う素敵な『連載小説』が、この曲とセットになって想起される。
窓ガラス越しに雨が降り出すのをみてたら
突然私はあなたを愛していると気づくの
悲しくなるほどすきなの
死にたくなるほどすきなの
嫌いになるほどあなたがすきなの
いつか年をとって それでも互いに愛して
いつも 静かな気持ちで毎日を過ごすなら
私はそれで構わない
それでもなんだか少し戸惑うの
http://www.youtube.com/watch?v=eWup9uijUr8
ピチカート・ファイヴの曲と歌詞のほとんどは小西康陽が書いてるのだが、曲のワールドミュージックマニアっぷりも大好きなのだが、彼の書く歌詞の、すぐに戸惑うし忘れるし悲しくなるし、でも、それらも忘れてしまう、みもふたもない、幸福やその他の感情の流れが好きだ。
ぼんやりしているうちに、色々なことが過ぎ去っていって、高校の頃の俺の倍の年がたってしまっているのに、本当に自分が変わっていないことに時々ぞっとしてしまう。本当に、なんでこんなことになってしまったのだろう、と思うときもしばしばあるのだが、それも、きっとどうでもよくなってしまうのだ。
特に自分の集中力の無さというか飽き性っぷりは、自分でも引くときがあって、幼い頃、テレビに美形の芸能人が映った時に、親が「私この人好き、嫌いなの」と口にしていて、酷く驚いてしまったのだが、数年後に自分もそれと似た行動をとっていることに気づいたときには愕然とした。
そして、その理由も分かっているのだ。口にした瞬間に、もう満足してしまう飽きてしまう。何も矛盾していない。少し好きになって、少し嫌いに、どうでもよくなるだけだろ?
でもそんなことを口にする親だってきちんと結婚をして家庭を守ってきた。俺だって、どうにかなるのだ、いつかは多分。
その為には、どうでもよくない人には、気軽に、サーヴィスを出来るように。
大好きなCDジャケ、overdoseのように、ような。