amazonのダンボール製の僕と握手!

 南米の鳥のことばかり考えていたら、鳥が欲しくなってきて、でも鳥<オニオオハシ>なんて飼えるわけがないので、それを考えるとテレサ(のルームライト)が欲しくなる。幽霊欲しい俺の家。

 テレサ君、ゲームセンターのプライズなのだが、1200円前後で手に入るようだ。俺は今まで十回位クレーンゲームをしたことがあると思うが、一度も取れたことがないし、とれる気がしない。こういうのも、きっと向き不向きがあるのだろうか。

 テレサ、というか鳥のことばかり考えていたら、開催されているサンシャイン水族館ではなくて、上野の動物園に行きたくなってしまった。だって、動物園、動物たくさんいるじゃん!(バカ?)

 水族館のほうが「水」が見られるし、臭くないし、館内だから涼しいし、ずっと好みで動物園には数年行っていないのだけれど、久しぶりにスゲー行きたくなってしまった。動物園。動物触りたい。でも、触れるのイベントとか、そういう箇所はあるのだろうか?

 以前書いた、代官山の自然派食品店の前に客寄せ用の子ヤギが繋がれていた時のことを想起する。清潔なヤギ(失礼!)俺の意思なんて無視してひょこひょこ動くヤギを撫でる、本当に気持ちが良かった。なんで動物を撫でると気持ちがいいのだろう?
 アニマルセラピー、とかそういった類の話や効用は確かにあると思うのだが、多分、人間はそういう風に出来ている、って、それだけのことかもしれない。

 大学生のころ、足を悪くした御老人の代わりに、犬の散歩のバイトをしていたのだが、その犬がきちんとした躾がされていないらしく、とにかく前へ前へとリードを引っ張り進みたがる、というかそういう性質の犬だからこそバイトが必要になったのだが。

 でも、俺が犬小屋に向かって、リードを手にすると飛び上がって喜んでわんわんしているのを見ると、ちょこっと「お前そんなにテンションあげてどうすんだべ」と思いつつも、なんだか、嬉しくもなる。散歩が終わって小屋に入れる時も、いつも嫌がった。でも、俺も一応バイトで来てるし。散歩、一時間すれば飽きてくるし。

 どの小説家が言っていたのか忘れたが(保坂かな?)悲しい顔の猫(動物)なんていない、と口にしていて、それはつまり人間の勝手な感情移入によるものであって、勝手に動物の感情をそていするのは傲慢だ、ということだ。俺も、「もし」動物なら、こっちがしゃべれないからって、勝手に悲しいとか嬉しいとか言われたら腹が立つだろう(それを認識していたとしたら)

まあ、そんなこと(認識や変容)はないけれど、だから、勝手なことを口にしたって、別に大したことではないのだけれど。でも、俺は動物とは心が(ほぼ)通じ合えないからこそ、好きな部分が大きい。人間は人間らしく。けだものはけだものらしく。けだものは(人間のような)感情なんてなくたって、いとおしい、あいらしい。

 一度、俺もテンションがわっしょいだった時、犬のリードを手にして、「走るから、ついてこい!」って、急に走り出すと、犬も「わーい」ってノリで走り出し、当然というかなんというか、数十秒でばてた俺。犬に走りでかなうというか、並走だってできるわけがない。

 知人の家のわんこもそうだし、ネットの動画サイト等でも見るが、本当に犬は走るのが好きなんだなと思う。リードをもって、全身でおねだりをする。俺もアホだからか、わーい、みたいな感じが好きだ。それがいまいち理解できなくても、わーいってきぶんになる。

 走る、というか縄張り巡りというか散歩というか。犬の習性について明るいわけではないが、リードなしに広場で走り回る姿よりも、首輪をはめられて、リードで引かれるのをより、喜んでいるように見えるのはどういうことだろう。

 その考えが俺自身の誤った認識だとして、でも、そんなに走るのが好きなら、とっとと逃げだせばいいのにと思う。帰巣本能や生活の為だとして、でも、不思議だと思う。いいとか悪いとか好き嫌いとかではなく。首輪をされておねだりをする君もしくは俺。

 高校生のころ大好きだった、アントニオーニの「さすらい」の台詞を想起する。

「逃れられない悪癖以外の全てから 逃げ出そうとした」

 高校のころは、本当に彼の映画が好きだったのに、ここ数年は見ていない。レンタルで見られる主要な作品は見てしまったのもあるけれど、なんとなく、見る気にならない。だって、ほかにもすばらしい作品が、すばらしいかもしれない作品があるのだから。


 外に出れば値が張るものではないのだが、何かを買ってしまって、その多くが本で、読んでいない本の山が常にあり、少しずつ崩しながら生活をしているのだが、乱雑な本の山にげんなりすることよりも、「とりあえず」手に取るものがなくなったときのほうがずっと怖い。

 リラックスする、ということが苦手で、特にここ二、三年は、一人でいる時にはほぼイヤホン、ヘッドフォンで音楽とかを聴いている状態で、それも体には良くない、と知っていても止められない。ここ数日はどうにか努力して(!)イヤホンをしない時間を作っているのだが、すると様々な生活音が耳に入ってきて、調子のいい時はそれらがとても面白く感じられる。少し質のいいヘッドフォンに変えたときのようなライヴの生の音を聞いた時のようなフロアで流れ出すダンスミュージックのような。様々な豊かなノイズミュージック

 本ばかり読んでいて体にいいわけがないのだけれど、同じことを続ける、というのが悪いとは思えない。というのも、マラソン選手は毎日何キロも走るはずだ。書くこと/読むこと/考えることは、それをしつづけていないと、感覚がにぶってくる。不安になってくる。

 ベストセラーの新書とかの題名、「頭がいい人のしゃべり方」「自分を変える二十の習慣」「モテる人間の人生哲学」とかがあほらしいのは、「○○すれば××になれる」なんてのは存在しないということで、そりゃあまったくそういうことに不慣れな人なら幼稚園児が「足し算引き算割り算」を知るような発見があるだろうけれど、こういう能力は日々の経験や内省で培われるものであって、そういったマニュアル本や自己啓発本を読まない生活をするほうがずっと有意義だと思う。

 だって、鍛えられた身体(能力)の人に一週間でなろう、ってみんな無理だって分かるはずなのに。精神面は目に見えないからって、それはちょっと、貧乏臭くって、厭だ。精神が貧しいって思われるって、やっぱり厭なことだと思う。

 でも、それらは求められているし、だって、健康の為に。余計な、過剰な情報なんて求められていない。俺だって、youtubeの音楽のリンクはあまり見ないようにしている。レンタルや買えるものだけにしている。だって、情報を処理できないから。どんなにすばらしい、美しい、楽しいものがあるとしても、敏感でありつづけることなんてできない。

 身体を置き去りにしているような気分になることがしばしばあって、俺は、俺の身体を操縦しているような気分なのだ。だからか知らないが、俺はロボットに搭乗する系のアニメやマンガにあまりテンションが上がらない。だって、俺も、サイボーグみたいな感覚だし。自分の身体が意志があんまり自分のものにならないのは興味深く面白く呆然となる。でも、俺は選ばねばならないってことだ。俺の身体はとりあえず、俺のものだから。

 だから、水族館か動物園にでも、と思って、ふと財布を見ると紙幣が一枚もなく、代わりに大量のクレジットカードとポイントカード、少しの小銭。祝日のATMは手数料がかかる。自分が困っているのか、困っていないのかも分からないけれど、なんかね、いろいろと楽しいと思う。

 出たのは去年だが、金井美恵子の数年ぶりの新作、『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』を読む。


「多分、その当時でさえ、古めかしいというか、いくらか異様な印象を与える衣装―。その当時でさえ、と書いて、それを消してから、再び、その当時でさえ、と書き直すのは、それをどう言い表すべきなのか、よくわからないからだ。おそらく、その当時でさえ、彼女の着ていた絹のドレスは、いろいろな点で異様な印象だったのだが、そうした異様な印象には同時にぴったりと(丁度、黒に近い濃い青と銀白色の細いストライプの絹の布地が幾つものダーツ縫い目で胸のふくらみや胴体の線をくっきりと布地越しにあらわにしながらぴったりはりついていたように)」

 まだ続いていく、彼女の息の長い、流麗な文章に息使いに触れると、ふっと、気が軽くなり、読書をしていて良かったなあと思える。優れた芸術家は、一文で一瞬でその人だと気づかせてくれる。もちろん彼女もそう。現代で書き続けている、俺の好きな作家のひとり。

 でも、彼女も高齢で、エッセイで身体を悪くしていることもかいているから、後幾つ彼女の作品が読めるのか、と考えると不思議な気分になる。(本とかなら)しようとすればできてしまうから、というか、コレクション、というのが何だか楽しいし空しいものだという感覚があって(他人がしているのを見るのは結構好きなのだが、というか、なんにせよマニアの人のほうが話していて楽しい)、しかし、俺も身体があまりできのよくないロボでも、好きなことをちゃんとしなきゃなと思う。

 俺が文章において信頼している人に金井美恵子が好きだというと、その人は「僕は苦手なんだ。どうしても好きになれない」(俺も全部大好きってわけではないけど)と口にしていて、何ヶ国語も喋れる(どの程度か、とかは知らないが)し博学の彼はそういえば蓮實重彦東浩紀も嫌いだったはずで、しかし彼は愛の言葉は大切にしていて、奥さんのことをとても大切にしていた。

奥さんとかいないほうがガキっぽくていいんじゃないかな、と思う俺は、彼が既婚者であることに少しだけ寂しいと思っていたのかもしれないが、信頼できる、気の合う人ともいろんな点で違いすぎることを、簡単に疎遠になれることを、本当に、楽しい、刺激的なことだと思う。

 でも、もう少し俺も俺の身体を大切にしなくっちゃ、ということで、九月の終わりまでには、動物園か水族館で、僕と握手! (後楽園遊園地って、ヒーローショーって、今もあるのかな?)