綱渡り芸人と僕

 ひょんなことから演技のオーディションを受けることになって、暇つぶしというか、普段なら金にならない面倒なことはしたくない、なんて怠惰な性格なので、そういう自分もだめだなーってことで一度は断りの電話をかけようともしていたのだが、結局向かう。
 
 自己アピールで考えなしに「ジャン・ユスターシュファスビンダーカール・ドライヤーダグラス・サークが好きです」とか言って、もしかしたら監督がそれを知らない可能性もある、という思いがよぎるが、まあ、そこは素人だし受かっても落ちてもどうでもいいとうか、「映画は編集権があるから(ファイナルカット、とまでは言わなかったが)監督のものだと思いますが、その役の人生は、役者のものだと思う」と言って、俺の大好きな俳優、ジャンヌ・モローやクラウス・キンスキーはそこからはみ出る、異質の、編集しきれない「かのような」、生々しさのある、監督、物語と真っ向勝負ができるができるような存在で、(役者志望なんてものではない俺は)役者になりたいなんて言えないし、そういう人が舞台に立ってどういうふうに感じるのか、その一端でも考える時間がもてれば楽しいと思うと告げた。

 そして、実技で、アドリブを入れて結構自由に振る舞うと、結構褒められ、多少はすれっからしの俺だっていい気分にはなるが、でも、まあ、そんなものでしょうというか、「ちょっとできる」みたいなのってどこにでも山ほどいるのを知っている、というよりもどんな素晴らしい役者でも芸人でも代わりが効いてしまうということを想起する。

 でもだからこそ、本来であれば代わりがきくのに、その人でなければ、という瞬間ってとてもロマンチックなことだと思う。アイドルでも俳優でも芸人でも。恋人でも友達でも。

 一時間後に面談があって、マネージャー(?)らしき人らにとても褒められ、そして監督からも褒められたことを告げられる。何度か、何人かに本当に演技が初めてなのかと聞かれて初めてだと返すが、日常的にそういうノリの自分に(しかもそれを少し得意になっている)自己嫌悪がわく。

 要するに合格したってことだった。でも、当然だが演技の経験のない俺はレッスンを受けなくてはならなくて、はいきましたー。そういうことなんですよねー。「夢をお金で買ってみないか?」ってことでしたー。


 いや、それは前からわかっていた上で話しを聞こうと思ったのだが、、別の監督にも紹介したいとか半年のレッスンをまじめに受けてくれたら小さい映画だけど役をあげるとか言われたら俺もちょっと心は動く、というか、二十代前半や中盤にも似たようなことがあったと思い出してしまって、気持ちがぐわんぐわんした。

 何度も同じ失敗を繰り返す俺。何度も人と喧嘩別れをしてきた俺。

 この人達は俺をカモにしようとしているのか、悪くてヒャクパーカモ、良くて半分以上カモ。だって彼らはそれで生活をしているのだから。畜産業が屠殺に良心が痛むだろうか? 農家が作物を出荷するのに涙をながすだろうか?

 俺はパンクで大好きなマザー・テレサの言葉を言って、他人について「愛しなさい、忘れなさい」と思うと気分が楽になるし、覚悟が決まると思うのだと言ったりする。神様を信じていないけれど、そういう信仰とかストイックな態度とかへのあこがれがあるとか、色々話して、二時間後に、俺は即決ができないなら自分の信念にゆらぎがあるということだし、長々と申し訳ありませんでしたと告げた。彼らは、とてもにこやかで、詐欺師、善良な詐欺師かもしれないけれど、とても熱心に話をしてくれたり、俺の話を聞いてくれて、気持ちが落ち着かなかった。

 そういう人のことを疑うのは、俺をカモにしようとしていてもそうではなくても、哀しいことだと思った。しかも、そう、俺はそういうことを繰り返してきていて、常套句ではあろうが、彼らに言われた言葉がリフレインする。「可能性が色んな人に会うことで開花するかもしれない」そう、前にも言われたことがあるし、俺は前もそれを踏みにじってきた。

 俺は、他人を、自分を、尊重できていただろうか?

 それにちょうど最近割りと遊びほうけていて、俺と阿呆な会話をしてくれる、俺の会話を楽しんでくれる人らが、俺のことを「褒め言葉」として「変だ、変わっている」と何度も何人にも言われて、慣れているはずなのに、帰り道そのことも思い出し、どっと疲れた。変だと言われないようにしているのに言われるなんて、というか、人と素直に喋れないというのは哀しいこと思うから。

 だからこそ、「愛しなさい、忘れなさい」と思えば気が楽になる。感情も、自分自身も大事にできる気がして。

 でも、嘘を沢山ついて、他人の人生を請け負う(ふりをして)ことで、それで褒められるという倒錯ぶりは、とても楽しかった。楽しかったんだ。

 ジャン・ジュネの『綱渡り芸人』を想起する。愛する恋人に、綱渡り芸人にジュネは言う。俺らは娼婦を見に来たのではない。しかしナルシスト踊れ。輝かしい死ぬ行く孤独への恋に、我々は惹かれるのだということを。美しくくだらない虚栄の中で死んで、また、蘇れと。それが、芸人の、役者の生だと。

 翌日渋谷の文化村での展示を見に行く。『ミラノ ボルディ・ベッツォーリ美術館 華麗なる貴族コレクション』騙されてもいいんだよと金を捨てる気にもなれない俺にぴったりの豪華で華やかで安定感のある展示だ。露悪ではなく、一時期はやった、穴の空いたスタイルに偽のパールやらジルコニヤやらを合わせたグランジスタイルがとても好きなんだ、俺。

 下手に刺激的な展示よりもずっと素晴らしい品々。いかにも、だれでもが思い浮かべられるような展示の数々。でも、それらはやはり素晴らしいものらだ。意匠だけではなく、意志も感じられる品々。ポストカードを買った。このくらいなら、そばにいられる、手の中にいてくれる。

 その後で四谷の教会ショップでメダイやらカードやらをたくさん買った。こういうものをたくさん買うのはショップの趣旨に反しているしかも俺は信者ではない(こういう品々は寄付金とかのおかげか結構安価に買えるのだ。)ので後ろめたさがあるのだが、でも、たくさん買ってしまう、天使、聖母、キリスト。

 その後で教会に寄ると、休日ということもあり、バザーが開催されていてとても活気があった。かなり国際賞豊かな感じで、日本人の方が少ない空間。聖堂の中では、お祈りをする人がイコンを写メでとっていてびっくりした。(信者でもない俺がメダイとか買ってるけどね!)


 俺は、がらんとした、平日の、人がいるかいないかの聖堂の中が好きだ。でも、こういうわいわいした、様々な肌の色の人が集まる教会こそ、良い光景なのかなと思う。

 見上げれば天井は花の意匠がされていて、俺を高い場所から見下ろすキリスト。でも、おれは目が悪くて、その顔の細部まではわからない。わかったってなにもないけれど。 でも、人けのないときに、また行きたいなと思った。


 四谷から総武線で近いから、という気のない理由で秋葉原に向かう。俺にとってはキリストもマンガやアニメの主人公も、かっこよくて、好きなのに、夢中にはなれない。
多分、都合が良すぎるから、綺麗すぎるからだと思う。でも、彼らの残酷で輝かしい人生にはとても惹かれてしまう。ヒーローがいない人生なんて、きっとつまらない。

 そして、自分自身がヒーローの、新兵の候補生ですらないのだなんて思ってしまうなら、人生はとてもつまらないものだと、俺は思う。

 そう、人生は楽しいほうがいい。自分の好きなことを考える時間が、好きなことをする時間が多いほうが。

 作品をつくる、何かを演じるというのは、何らかの理論や感情を身をもって受け、埋葬していくことのような気がする。そいうことができていけるならば。いや、していくことで、俺は自分に満足できるのかなと思う。

 嘘をつくのも素直になるのも、とても気持ちのいいことだと思う。