僕は眠る、解決はない

希死念慮と眠り。元々自分は生命を維持するのに適していないのだという思いが強く、また、物事の持つ意味が剥がれ落ちて行く。刑法に抵触する、という理由で、禁止されていることらの意味が曖昧になる。

 昔、あ、これ、頭がおかしいぞ、と自分で思って(その時点で判断力はあるので、そんなにおかしくないはずだが)経過の日記をつけていたのだが、或る日、凄まじい怒りを覚えてそれも処分した。でも、それも凡庸な内容だっただろう。狂人の、或いは狂人のふりをした人間に付き合うほど、退屈なことはない(何かに帰依したい『驚きたい』余裕がある人なら別だが)

 薬を変えた。数年前無理だったが、強い効果の物だ。服用時に異常を感じたら、すぐにやめて下さいという紙が入っているようなもの(普通、入っていない。だが、副作用が出る人はほとんどいない、と新しい医者は言った)

 そして、俺は、一日に八回程度起きては眠ることを繰り返していた。眠り病のようだった。起きている時間もあるが、一、二時間すると眠る。自分がおかしいと気づくまで一週間かかった。どうでもよかったし、惰性も怠惰もまどろみも、心地良い。

 振り返ると、『マイプライベートアイダホ』のことが頭をよぎるが、俺はリヴァー・フェニックスではないし、親友のキアヌ・リーブスもいない。それは皆、同じこと。物語の中の美しい照れくさい出来事。

 最近映画を見る体力がないので、音楽も落ち着いたのばかりきいているのだが、
 グレゴリオ聖歌聖歌隊ミサ曲、死者の為のミサ曲、といったものばかりで、かなり落ち着く。普段は耳に刺さるテクノやダサくてかっこいいロックが好きなのだが、長時間聞くのはこういう曲がいい。

 それと、暇つぶしに書いたファンタジー小説の中で、聖書の一節や、聖歌の歌詞を引用しているのだが、主よ救いたまえ、ばかりで本当にうんざりする。お前ら自己啓発本とか楽して痩せるとか買ってる人と同類だぞ、と思う。

 神への愛(俺はありません)と救いがセットになっているのが本当に分からない。(それが利己的であるということは、哀しい)

 現実逃避で、南国や東南アジアに行きたいな、と思う。自分の思考や行動先がマンネリ化しすぎて、本当に死んでいるのも生きているのも変わらないような気がしてしまうから。

 まあ、金が無いので旅行は無理としても、自分の書きたい小説で、あまりにも「悪人」ばかり書きすぎた。悪人(広義での悪を志向する人間)だから、書いていると消耗する。

 悪人がいるならば、ストイックで、稀に、木漏れ日の中に迷い込んだかのように、惑いを感じるのだろう。

 旅行、もできないし、悪人なんて「歌の中だけよ」と、サライの花と寺の本を読んでいたら、どれもいい景観ではあったが、奈良の長谷寺の、牡丹がとても美しく撮られていた。


 しべの黄色、中央は紅色で、花さきに向かうにつれ白くなる、艶やかでどこか楚々とした牡丹、そこに緑の葉の上に雨粒が幾つも乗っており、この重くも美しい景観に清涼感を与えていた。

 だからと言って長谷寺に行かないのが俺で、不精ということではなく、多分、行っても「結構感動」するだけだからだと思う。

 なんか、これ書いてたら上野動物園でトラ見たくなってきた。トラ欲しい。それかPS VITA