夢の先は夢

 腑抜けの日々。とにかく寝るのだ。逃げ出したくて先送りにしたくて、でも、それで解決することなんてないこと位分かっている、だけれど眠る。物語の中では眠り姫とかマイプライベートアイダホとか、美男美女が眠ってしまう話があるけれど、おっさんだって眠り続けるのだ。夢魔が友達。

 

 つまり、いつものように調子はとても悪く不安定、なのに、小説はわりと書けていて、というか自分の中から様々な言葉が出てきてくれているのがありがたい。生きているって感じがする。大げさな話じゃないんだ。引きこもりが外に出て太陽を浴びて誰かと会話をしたら「生きてる」と思うだろう。その程度の話。でも、俺には小説を書くことが必要なんだ。

 久しぶりに、数年前に書いた小説をさらっと読み直していた。今ではこんなん書かないな、とか、それなりによくできてるんじゃないかな、とか。でも、だからといってどうしろっていうんだという話。でも、自分にはその位しか能力がないのだ。私的な妄想を編集して、閉じ込める能力位しか。

 最近スマホで花の写真をよく撮っている。だからどうしたという話だが、花を見るのは、楽しい。満たされているような気分になる。いかに、自分が物を見ていないかと、いつも思う。最近は詩集、花、画集、といったものを少し目にするだけで、後は深夜に小説を書いたり、寝たり、スマホゲーをしたり。

 モーツァルト 《レクイエム》全曲 カラヤン指揮/ベルリン・フィル

今、この演奏を聞きながら雑文を書き散らしているのだが、この曲というか演奏はいいなあ。でも、何か集中したい時はバッハだけど。ていうか、バッハは死者にも俺にも優しいんだ。どんな人間にも等しく安らぎを与えてくれるのがバッハの音楽だという気がする。

 なのに、俺が書く小説は、けだもの、傲慢、差別、裏切り、暴力、軽蔑、憎悪、と言ったもので彩られる愛情の世界で、腐敗した、汚泥の宮殿のごときおぞましさ。でもさ、それが好きなんだ俺。けだものも愛情も大切にしたい。だからいつも迷子だ、不健康だ。嫌だなって思う。

 自分が腐敗しているのか摩耗しているのか、時々考えて、ゴッホは38歳で自殺して、ほんと彼は頑張ったなあと思いながら、ベッドの上で彼の描いたひまわりやアイリスを見る。綺麗だなって思うんだ。花がいきいきとしている、自然の花の生命力をカンバスに描いた気がするんだ。

 俺もさ、けだものについて愛について憎しみについて書いていると、生きているって感じがする。健康になりたいのにさ、駄目だこりゃ、おやすみ。