お前はじきに放り出される

気分がふわふわしている。恐怖を、先延ばしにしているかのように。
怠惰で、よく眠る。日々。

 銀座のエルメスで映画を見る。11月のプログラムは、一時間の上映で、大地に関するオムニバス映画四本。正直見る前から、期待はしておらず、しかしこういった上映をしてくれるのはありがたい。

 ただ、アースアートや体験型の(ハプニングも含む)の類はかなり、いや、包み隠さずに言うと、認めていない。俺に認められなくても誰も困らないだろうし。

 俺にとっての芸術は「何度でも再現可能で、堅牢で(演者や観客)感情や喜びや驚きを無視する」ものだからだ。人を驚かせたり楽しませたり政治に使うなら、別のがいい。芸術なんて、金剛石の徒花だ。金持ちの道楽、貧乏人の慰めだ。あんなもの、土は土に、灰は灰に、塵は塵に。

 12月の「美女と野獣」はコクトーが監督で、これ、十代の頃に見て、俺としては珍しく、十年以上たつのに、ラストシーンを、構図まで完璧に覚えている映画だった。

 だからといって、そこまでお気に入り、というわけでもなく、それを言ったら俺はコクトーの詩も小説も絵画も見たが、好きなのもあるが、という程度のファンだった。

 あまり期待しないで見たのだが、筋はもう有名過ぎて割愛するが、さすが、と言うべきか、衣装が(背景も)モノクロ映画なのに華やかだし、主人公のベルは呪いがとけ王子になった相手にも、そんなに甘い言葉をかけないしたたかさを持っているし、思った以上に楽しめた。

 これで今年のプログラムは終わり。次は三月から。三月まで、生き延びているだろうか生き延びたいのだろうか、わからない(こういう文章を書いているということは、つまり、生き延びているのだと思うが)

 映画、というスクリーンの夢の世界から追い出され、銀座の街で途方に暮れる。それは、別に、嫌いではないのだ。


 自分は前衛詩、というのがどうも苦手で、もっと言うと、詩心がない人間なのかなあ、と思うこともある。好きな詩人は何人かいるにせよ。

 で、その前衛詩を、つい、買ってしまった。家に本の置き場なんて限られているのに。でも、家に帰ってちゃんと読むと、買ってよかったなと思った。

『死刑宣告』萩原恭次郎 という詩集で、とにかく語尾に! が多く、力強いと言うより、若さが先走っているのではないか、とも思うのだが、勢いがあるのはいいことだとは思うし、おとなしい詩もあるので、引用する。

(この本は旧字体での当時のそのままの復刻版で、旧字体の方が雰囲気が出るのだが、面倒なのでこのままで)


カルタの札をかき回していると


カルタの札をかき回していると
骨と骨の抱擁
みぢんになった淫売婦の骨粉
弱いアルコールの幾滴
血の干からびた金貨
もみくちゃにされた性欲が密かに匂っている
殺人と嘘偽りと接吻と
若い倶楽部の男女の骨が消えかかっている
カルタの札をかき回していると
私の思い出の友人は今は皆死人である!


あと、このみみっちくわびしい詩が一番のお気に入りだ。



食事


食べた飯は穴だらけな死体であった
飯の中にはなんの栄養もない
空虚の茶碗に欠伸と倦怠がつまっている
みんな飯はこぼれ出てしまう
お茶をついで箸で虚無を追い出す
割れそうな瀬戸の茶碗に憎悪が鬱積している



 ランボーボードレールとか、派手で性格悪そうな人の詩が好きなのだが、こういうやるせない虚しさと鬱屈、というのは日本人、うまいなあと思う。

 ちゃんと、色んな人の本を読み返さなきゃ、いや、読み返しているのだが、そうすると、ますます普通の社会復帰から遠ざかっていく。それで、いいのかもしれないと、思い始めているのは、幸福なのか何なのか、俺には分からない