夏には甘いチョコレエト

 友人に渋谷のアツコバルーが閉まると教えてもらって、最後の展示を見に行った。廃材や流木等を利用したらしいもので、好みの、良い作品だった。空間としても、渋谷の文化村近くのいい雰囲気だった。

 ずっと行こうと思っていたくせに、行ったのが最後の展示というのは悲しいなと思った。そういえば渋谷の大きなブックオフも閉まる。それだけ本が、古本でさえも売れないということなのだろう。

 無くなるものばかりが目についてしまう時もある。自分の調子がよくないとなおさらだ。

 自分に体力があればいろんな物に触れようと、何かを作ろうとできるのだけれど、それに体調が追いついてこない。

 暑い夏でただでさえ体力が削られている。陰鬱と惰性の日々。

 でも、たまに、小説を書いたり本を読んだりできていて、そのシンプルなことがうれしい。書くこと読むことで俺はできている。自分をチューニングする、チューンナップすることは絶えず行わないといけないことだ。バージョンアップはできないにしても、自分の身体は大切にしたいし、自分の見たいものは見ていかなきゃなと思う。

 その友人が教えてくれたペトロールズというバンドがとても良かった。センスが良い、円熟というのがぴったりの心地良い音楽。中々こんな音を出せないと思うのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=ek2BThAmsKw

トロールズ「止まれ見よ」

 パヴェーゼの短編集『祭の夜』を読む。ロマンティック、メランコリックで、優しくも寂しい作品集。そして穏やかな詩情に満ちている。ショッキングな出来事も大したことのない日々も同様に流れゆく。読み終えると軽い疲労感に包まれながらも、この本に詰められた感情に少し酔っぱらってしまう。

 夏の暑さがひどくて、金がないのでエアコンをつけないのだけれど、体力がない状態でこんなんばかりの生活と言うのは危険で、やっぱり元気を出すには女の子のポップソングがいい。

 生きる体力があふれている人は、死にかけな、病的な、繊細な、いかさまの、虚言癖の、詩人の男の吐息をどうぞ。俺は遠慮したい。でもそれが欲しい。俺の口から勝手に漏れて、俺を周りを困らせるそれに似た何か、幻。

 元気を出すには女の子のポップソング。

 俺はゲーム好きなので色んなジャンルのゲームをするのだが、萌え系のゲームはほとんどしない。理由はキャラクターをすぐ好きになっても、感情移入することはまれだから。だから萌えている人、尊いとか言っている人をいいなあと思うし、そういうゲームもやってみたりする。

 元々ポップソングが好きなのだが、脳がとける系の曲はギャルゲーやエロゲーの主題歌に多い。でも俺は二次元のかわいいギャルと恋愛やエロをしたいわけじゃないのだ。それなのに俺は結構エロゲギャルゲ曲に詳しい。話したい。もえが分からない人間の燃えるポップソング集、

https://www.youtube.com/watch?v=_DdLNQYiif4
魔界天使ジブリール4 Op

ほんとこれ好きで何年も聞いている。げんきかわいいぽっぷしゃれー。みたいな感じがとても良い。アニメもかわいい。何年もこのシングルが、アマゾンのお気に入りリストにはいりっぱなし(プレミア価格だ)


https://www.youtube.com/watch?v=2Tw_hER_udg
Hey Darling! / ワガママハイスペックOC OP

聞いていると元気出る曲 何度もリピートしてしまう。アニメもかわいくて好き。でもエロゲー特有の、胸を強調する洋服のデザインは苦手なのだが……

https://www.youtube.com/watch?v=9n-nBhQ05HQ
個人教授 La Lecon Particuliere OP

 ゲーム動画で知った。こういう絵柄、ギャルゲーには珍しい部類だけど、自分的にはかなり好き。曲はこのままでもいいけど、編曲今風にしたら十分通用しそう。サントラの曲名がブリジット・バルドーのコメディ映画のタイトルばかりでオサレ。


https://www.youtube.com/watch?v=4vDpc9UkSbI
 きゅんっ! ヴァンパイアガール

 アイマスはほんと良曲多すぎ。(もはやここからギャルゲとかではない……)ライブ行けないけど行きたいなーと思わせてくれる。ライブ映像はりっちゃんの「いっぱいいっぱい」も好き。

https://www.youtube.com/watch?v=IS5FQpFdLlw
LIVE!! かくしん的☆めたまるふぉ〜ぜっ! 土間うまる(CV 田中あいみ)本人によるFULLver.

 アニメは合わなかったが、このOPは好き。こういう元気があるのが萌えアニメって感じでとても良いです

https://www.youtube.com/watch?v=ODqRfxqa1j8
【神MAD】めいあいへるぷゆー?【NEW GAME!

 元アニメ見てないので……というかこのMADとてもかわいい(NEW GAME! も途中で脱落しました……)

 あと元々ハウス風味のJPOPが好きなので、萌え、電波系のそっちよりの曲も大好き。

https://www.youtube.com/watch?v=cwn8uW9v9ww
 GO! GO! MANIAC (PandaBoY remix)

 PandaBoYセンスいいですね。原曲を生かしながら、ちゃんとクラブミュージックになってるのすごい好き。

 https://www.youtube.com/watch?v=RyveCTc1KcY
 Lazy Gung - Strawberry Fiction (Neetskills Remix)

 ちょい懐かしい感じもするダンスミュージックって感じで、心地よいしとってもキュート。

https://www.youtube.com/watch?v=Xf_hJ4Pkyq0
 ナイショの話(A Electro Remix)

 原曲もとってもかわいらしくて好きなのだが、ちょっぴり味付けをしながらもそのかわいらしさを生かしていると思った。


https://www.youtube.com/watch?v=bF0xikxgSbU
  Tokimeko fuse [ときめきの導火線]

 原曲も好きなのだが、このコテコテハウスリミックスも好き。ぼーっと聞くのに良い。口ずさむのもノリが良くていい。

 

 女の子のポップソングについて考えると少し元気が出てくる。今日読んだ本は
森茉莉のエッセイのアンソロジー『紅茶と薔薇の日々』

 彼女の文章の持つ魅力と言うのは、自由でいて美意識があるということだと思う。それは両立するのは難しい。それに彼女の文章は良くも悪くもちぐはぐだったりわがままだったりしていて、それが大きな魅力になっているし、特に「パッパ」のことや食べ物に対して目を輝かせている茉莉は「上等上等」と鴎外気分で頬がゆるんでしまう

 バタ(バタァ)やチョコレエト という文字を見るだけでもうおいしさが伝わってくる。いつでもサヴァランの彼女。好きなものに夢中な人はいつだってかわいらしい。

 鴎外が好んでいたという、ご飯に饅頭乗せてお茶かける、というメニューは普通に食べたいのに(おはぎみたいだ)評判が悪いのはなんでだろう……

 
 かわいいでエネルギーを充電して、そしてまた気が滅入る小説や、働かなくってもいいなって思える音楽を聴くことにしよう、そうしよう。

水槽の中の人型

 惰眠の日々。幾らでも寝ることができる。だからといって、『マイプライベート・アイダホ』のリヴァーフェニックスに様な美しさなんてあるわけがないし、キアヌ・リーヴスのような友人がいるわけでもない。

 鏡の前の自分を見るとぞっとする。

 不摂生をしていたら、「普通」の人は酷い顔になる。映画スターでさえ、生活によっては酷い顔になるのだから推して知るべしだ。

 ひどい顔、嫌になる、眠くなる。しかし月末の支払いのメールが幾つも届く。背筋を舐められるような恐怖感の後で、ああ、こういうのをきちんとするまでは死ねないなあと変に前向きな気持ちもわいてくる。

 先日、ケイト・スペードが自殺したことをニュースで知った。俺は彼女のブランドの物を持っていない。でも、俺が女性だったらバッグを持ちたいなと思う感じの、センスの良い、大人も持てるキュートなデザインのバッグは素敵だなと思っていた。

 自殺した人について語るのは難しい。それは単なる自分語りであったり、ゲスの勘繰りになってしまうような気がする。それが許されるのはきっと近親者だけのような気がするのだ。

 愚かであっても場違いであっても間違いであっても、その人について語らざるをえないという宿命めいた熱情。

 ただ、何の縁もない俺が感じるのは、彼女が死ぬのは、自殺したのは何だか悲しいという感情だけだ。

 自殺したい、と思うことはあまりないのだが、身辺整理をしたいとか消えてなくなりたいとか生きるとか死ぬとかが良く分からないとかはしょっちゅう感じている。

 俺がそういった考えに囚われていても、それでも支払いは待ってくれない。当然のことだけれども。俺は生きるのに向いていないのだ、向くような努力をそれなりにしてみたのだが、あまり効果はなかったらしい。

 最近病気の人や生きづらい人についての漫画やエッセイ、コミックエッセイが山ほど出版されている。それを読んで少し心が軽くなることもあるのだが、それだけ。それはその人にとっての処方箋なのだ。

 俺にとっての、その場しのぎではない処方箋があるならば、それは芸術作品で、しかし体力気力がないとそれすら消化できずに、本当に自分がクズだと思い、また眠ってしまう。

 人並みの生産性もなく喜びをかんじることもなく、さらには美しいものを感じられない人生ならば?
 

 そんな頭で、ドストエフスキーの『賭博者』を十数年ぶりに読む。ドストエフスキーは長ったらしくて、読めばぐいぐい引き込まれる反面、根気なしなので敬遠していて、しかしこの短編はさらりと読めて楽しい。

 止まらない悪罵、分かれればいいのに、止めればいいのになんて野暮なこと。自ら災厄の渦中に飛び込み、それもまたエネルギーにする多弁症はうんざりするし、楽しい。

パヴェーゼの『流刑』を読む。流刑、という題名はそれだけでなんだか惹かれるものがあるのだが、内容は結構なロマンチシズムあふれる作品。大した読書量があるわけでもないのだが、暑い国の文学はロマンチック、だなんて偏見を抱いてしまいそうだ。

 とはいえ飽き性な俺が最後まで読むことができたのは、少々鼻につく、といえなくもないのだけれど、全編が詩的で控えめな美しさに彩られているからだろうか。

 日本文学とフランス文学は、とても陰気で陽気で大好きなのだが(というか、それらから自分が好きなのを選んでいるだけなのだが)、そんなのばかり読んでいると惰眠への誘いが加速する。

 俺は下手な歌が好きなのだけれど、たまにはうまい歌の人の歌でも感動したりする。久しぶりにローラ・ニーロを聞いたら、とてもすてきだなと感じた

https://www.youtube.com/watch?v=3_69YAIa2CE&index=7&list=PLGaBtf8SblQuZkAMlmGiMv7HSKs_vWgsJ

LAURA NYRO time and love



生きる力が湧いてくるような、胸にしみる歌声。


声を出す、ということは身体にいいらしい。ひきこもっていると人と喋ることがないから症状が悪化する。かといって、外に出るような気分にはなれない。なれる時もあるが、数十秒間で気分が変わるから、それだけで疲れ切って、ベッドに身体を任せる羽目になる。

 下手な歌がとても好きなのだけれど、ハレルヤコーラスや、唱歌、聖歌の類はとても好きだ。

https://www.youtube.com/watch?v=BIYBlAhTlDo
もろびと,こぞりて

https://www.youtube.com/watch?v=VI6dsMeABpU
'Hallelujah'' chorus, from Händel's Messiah - Mormon Tabernacle Choir



 合唱をする人は、声楽とかの仕事についている人の鬱病率は低いんではないのだろうか? 糞みたいな精神状態の俺でも、こう言った曲を聴いたり口ずさんでみると、自然と気分がうわむきになる(こともある)

 単純な話、身体を動かすというのは身体にいいということかもしれないけれど。

 様々な問題が解決しない。小さな、そのひとつひとつに向き合うべきだと分かっていても、できないものはできなくて、すべてが嫌になってどうでもよくなって、自死を選ぶとしたら、「他人事のように」哀しいかもしれないと思う。

 だが、三十代も半ばにして、仕事で週に何度も同じ人に会う、というのがどうしてもできないのだと気づいてしまった。日雇いだって同じようなものだ(というかそっちのほうが労働環境は劣悪だ)。

 保護を受けるレベルではない、かといって、人並みに働けるとも思えない。

 何にせよ、決断を迫られているのだろう。願わくば、俺がこの先のことを考えていることを。どうせ死んでおしまいなのだ。それまでは、楽しいほうがいいな、かっこよくなくても、カッコつけているほうが、投薬やアルコールなしで酔っ払っていたいな。

https://www.youtube.com/watch?v=hK242uE5t2M&list=RD2ACWWm-ofeY&index=21
 Kaleido - Meu Sonho (yasuka nakata - capsule remix)


https://www.youtube.com/watch?v=Fc1q2Qlc_9M
 Weekend Warrior- 80kidz



せっかくなんで元気な曲でも。一人で繁華街を歩きながらこういうクラブミュージックを聞いていると、なんだか俺の人生、悪くないような気がしてくるから不思議だ。誰と会う用事も、金もないのに、ダンスミュージックはいつも俺に少しだけ優しいのだ。

 自殺よりもダンス、なんて言えてしまうのは健常者の戯言、だと思ってしまう。でもあなたが傷ついているならば、万引きの方がセックスの方が口づけの方が手を握るほうが、自殺よりかはましかもしれない。

 死んだら怖い位に幸福な、サンデーモーニングだって聞けないんだ。それはきっと、寂しいな。

https://www.youtube.com/watch?v=3qK82JvRY5s

Velvet Underground-"Sunday Morning"

シャボンはアルコールの調べ

 人からガルシア=マルケスの本をもらって、久しぶりに彼の著作を読む。『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』

 帯にスピーチ嫌いの作家の全講演と書かれているが、とても読みやすく、彼の人柄の良さがうかがえるような内容だった。俺はマルケスは短編をいくつか読んだことしかない。幾ら生活が孤独でも、『百年の孤独』なんてまっぴらだ。

 文章がうまい人は読みやすい文を書く。それは相手に伝えようとしていたり、余計な部分、ナルシシズムやセンスがない文という、贅肉をそぎ落とす作業にたけているからだろう。

 でも一般には悪文と言われる人たちの中にも十分魅力的な人もいる。読み手は泥の中で砂金を探しているような文章になれるのだ。泥も砂金も好き、だとしたらその人は悪文家か、性格がひん曲がっている。

 性格がひん曲がっている、といえば大好きな川端康成の『千羽鶴』と『禽獣』を再読。『千羽鶴』は少しメロドラマが過ぎるような気がしないでもないけれど、『禽獣』は何度読んでも胸糞悪い上質な短編だ。

 ひどいはなし、を読むと案外俺もまだまだ生きていけるような気がしてくるから不思議だ。世界にはいろんな人がいるということ、いろんな不快感や美しさがあることを、俺はしょっちゅう忘れてしまう。

 もしそうだとしたら、生きているのもいないのも似たようなものだ。快、不快無いという生ぬるい地獄。

 腐った繭の中での惰眠。

 外に出たほうがいい、身体を動かしたほうがいい、とは思っていてもできない日々。

 過日、代々木公園にシャボン玉を吹きに行った。いい年したおっさんがシャボンと言うと、たいていの人が軽く引く。友人、知人を無理に誘って道ずれにしたことがあったが、一名の阿呆以外はみんなのってくれなかった。残念。

 だが、公園でipodとちっこいスピーカーでテクノミュージックを流しながらシャボンを吹くと、かなりトリップ効果が高いのだ。楽しいマジ。目の前に球体が幾つも! コムデギャルソン、草間彌生、あめざあざあ。

 ただ周りの人に迷惑をかけたり注目を浴びてしまうことが多いので、なるべく人がいない場所で、心を無にしてひたすらシャボンに集中するのが良い。宗教の勧誘にあったり、無断で写真を撮られても心を乱してはいけない。あ、ちびっこには欲しそうにしていたらあげよう、シャボン。

 数年ぶりにYMOを流していたら、えらくシャボンとあった。


https://www.youtube.com/watch?v=hto-Y9CfsFU


以心電信



https://www.youtube.com/watch?v=2T7TXVtGGFc

Tong Poo




東風のピコピコスカスカシンセとシャボンのキュートで間抜けがマジであっていて、うっとり。

 https://www.youtube.com/watch?v=iTLQofzisLY

ロックマン3 BGM ハードマンステージ


https://www.youtube.com/watch?v=t4pDT3Puwx8

ロックマン3 BGM スネークマンステージ



 ロックマンは何でもいい(個人的な好みだとFCの4までが特にいい)。でも一日にロックマンのBGMを何時間も聞いていると気が狂う。てか、ファミコンのBGMは脳に良すぎて、よくない。アルコールみたいだ。

 しょぼいシャボンの時間は、一時間もしないで終わる。終わるころには、シャボン液で手もびしゃびしゃ。映画館を出る時とは違った虚しさに襲われる。でも、何度も家で目が覚めてしまうよりかはまだましなのだ。

 きれいな死、生、なんてありえないのだから
なんて思いつつもそれがあったらいいのになと思う。つまらない考え。その足しに、今日も摂取するアルコールじみたミュージックとひどいひとのひどいはなし。

赦して、サイコパスオーパーツダーリン

テクノを聞き始めの時ってケンイシイから入ったなあ、と懐かしく思い出した。ガキの頃は電子音のインストを聞いただけで少し大人ぶった気になっていたのだ。

 十代のころは男なら皆、カート・コバーン、女ならアンナ・カリーナ浜崎あゆみ川久保玲になりたいんだってそこそこ真面目に思っていたが、かなり見当違いだと知ることになる。

 見当違いばかりの人生。

 テクノの中でも、ポップソングが好きな俺はハウスミュージックを知ることになるけれど、クラブは特に好きにならなかった。ひどく飽き性だからだろうか。雑踏は好きなのだが、雑踏で立ち尽くしたままだと思うとぞっとする。

 俺が大学生だったころ、ダフトパンクがとても流行っていて、コンビニとかでも「ワンモーターイム!」って流れていたような気がする。

 当時仲が良かった教授に「ダフトパンクは好きだけど、なんかきれいな感じがする」と「きれい」を言葉足らずで、自分としては少し否定的なニュアンスも含めていったのだが、教授に「あんなのただのベタなダンスミュージックじゃないか」と笑われた。

 後日、俺が大学のキャンパスでバグルスを流していた時にその教授が通りかかって、嬉しそうに「何でバグルスを流してるの?」と言われた時に、はっと思った。その時は思っただけで言葉にはできなかったけれど。

 哀しくてチープできれいなのだ。バグルスダフトパンクも(一部の楽曲が)。

 


https://www.youtube.com/watch?v=QOngRDVtEQI

 Daft Punk - Digital Love

https://www.youtube.com/watch?v=N7_HCriSm5U

THE BUGGLES【CLEAN CLEAN】1980



 俺が思うハウスミュージックの条件は、華やかでベタでキュートで虚しい。踊れても踊れなくてもいい。でも、単にこれは定義というよりも俺の好みの話になってしまうのだけれど。

 https://www.youtube.com/watch?v=UdSI8R3nank

 SPANK HAPPY - 拝啓ミス・インターナショナル

 エンジェリックがなかったからこの曲で、というかこの曲も相当好きで相当すごい。

 俺にとっての、誰かにとっての最高のハウスミュージック。チープで虚しくて狂おしい位キュート。ブルースの、歌謡曲のエッセンスとチープな電子音は最高に相性が良い(と思う)。ポップソングはやっぱりキュートじゃなくちゃいけないと思う。
 
 きらきらした音楽が、消えそいりうな音楽が、鬱々としてしまう音楽が、耳を刺すような、ノイズ、ガラージロックみたいなポップソングが好きなんだ。

 けれどもそんな地に足がつかないものばかり好きな俺は、実生活でも地に足がついておらず、投薬と惰眠と求職の日々。多分、本当にハウスミュージックが好きな人は健康的な人だと思う。ハウスミュージックが哀しいから惚れてしまう、なんて思っていると日常生活に支障が出る。

 薬を飲むと、思考に靄がかかる。何もできなくなって落ち着く。何もできないのはヤバイと思ってそれを止めると、そわそわイライラうつうつしてくる。

 様々なことを試して、十代からこの調子なのだ。死にたいとか生きたいとかではなく、安定したいと思う。思考の統合、志向性の編集、なんて想起するとうわーってなる。安定したい。

 それには何かを作るのがいいらしい。建設的な思考、或いは趣味の時間はその人を落ち着かせる、豊かにする。はずだ。

 ということで何か作ろう、と思っても先立つものがないからダメだとか、それより早く就業するべきだなんて思いがちらついてどうもうまくいかない。

 でも、どうでもいいものを作るのって、とても素敵なことだ。まるでハウスミュージックのように、ダサイエレポップのように素敵。

 俺に資金と技術があるなら、宝石を作りたいなと思う。MTGというカードゲームが好きなのだが、アーティファクトという単語を目にするとわくわくする。古代の超技術とか失われた部品とか、そういったイメージを喚起する人工遺物。

 アーティファクト、人造髑髏の宝石を作る、作れるならばなんて素敵なんだろう。万が一職業につくならメシアが素敵だと思う。キリストになって石をパンにして街のおいしいパンやさんになる。メシアのパン。望むならワインもどうぞ。バイトに裏切られそうだけれど。

 将来はオーパーツ職人になるのもいいな。オーパーツ。解明されていても、記事を読んだって、解明されていないことにしている(自分の中で)。

 なんて阿呆なことを書くのが、リハビリテーションにはいいのかもしれない。ひどいはなし。阿保の人生。しかし俺の人生。

 最近はクラウドファンディングというのが流行っているそうで、とてもいいことだと思う。俺の知らない人や俺が一方的に知っている有名な方々まで多くの人が活用している。
 
 
 今俺が作れるならなんだろう、と考えて「免罪符」が欲しいと思った。俺は神も生まれ変わりも信じていない。でも、免罪符って、本当にゲスでロマンティックでキュートだと思う。お金を払って罪なんか消えるか! バカ! クズ! お前が犯した記録は記憶は永遠に残るんだ!! お前が忘れても俺がお前の罪の汚泥の記録を覚えていてやる糞野郎! 人型の泥人形め!

 なんて思いを胸に免罪符を作成するとしたら、今流行りのたべものエッセイみたいで、ほっこりしますね。しますね。

 免罪符が売っていたら欲しい。罪を許してほしいんじゃなくて、その存在があまりにも阿保らしいから。ジッドの『偽金つくり』も学生の頃読んだなあ、内容忘れちゃったなあ、『偽金』をつくるのも中々キュートだと思うが、一般市民(俺)が免罪符を作るのもキュート、つまり相当馬鹿げていると思う。

 叶うならクラウドファンディングで免罪符を作りたい。俺が手書きで作るよ。紙切れが数万円になる。これを俺ではなく著名人がしたなら、悪趣味な人に多少、需要がありそうな気がする。ただ、アートとしての免罪符作りではなく、ゴミ(金銭的価値がついて流通しない)としての免罪符が、俺が求める免罪符の在り方だ。

 俺のような信仰心なき一般人が「免罪符」を売りつけるというのは、突っ込みどころが多くて、本当にバカげていて、「まるで気狂いみたい」で中々キュートだと思う。

 欲しいな、免罪符。行ったことがないのだが、コミケコミティアに行けば売っているのだろうか? 聖人が作ったのはいらないです、一般市民が心をこめないで作ったのが欲しいんだ。心をこめて免罪符を作る? 君大丈夫? 病院に行ったほうがいいかもよ?

 数量限定! 今話題の「免罪符」の委託販売を開始しました! 

 
  今日は自分にごほうびとして、ラデュレのイスパハンとクソザコナメクジパンピーの免罪符を買いました(インスタ映え、パチー)

 
 とか、自分でタイプしていて、頭がくらくらしてくる。バカだ。好きだ。

 まるで、質の悪いアルコール、或いはハウスミュージック。キュート。つまり現実逃避。でも、何が現実なのか分からない。ギュスターヴ・モロー大先生のありがたいお言葉、


「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」



 ああ、すてき。なんだかねむくなってきた。ながくねむれるように、おくすりでものんでねることにします。そうだんしようそうしよう。せきしてもひとり。

「塵は塵に、灰は灰に」

渋谷の山下書店が四月に閉店した。

学生の頃山下書店で、田村マリオの『社会不適合者の穴』を買って読んで、わくわくした。漫画のわくわくした記憶と、本屋の棚で本と出合った記憶はリンクしている。高校のころから、たまにではあるけれども利用していた書店が閉まるのは寂しいことだ。

 青山ブックセンターの六本木店も、来月閉まる。結構利用していた、というか立ち読みばかりだけれど、一度復活して、その後再び閉店してしまうというのは、満身創痍という感もあり、妙な感慨深さに襲われた。

 本は、本当に売れないのだなあと、分かり切ったことを実感する。本を読まなくなった、と言われて久しい。その分別のメディア、コンテンツで文章を消費する頻度は増えたのかもしれないが、そういったものは「消費される」ことを念頭において作られている為、文章ではあっても本とは性格が違うように思える。

 本は、実用書的なものではないとしたら、大げさな言い方ではあるが、作者の信念に虚妄に付き合う羽目になる。他者との対話、或いは独白を聞くというのは結構なエネルギーがいるものだ。それが作り出す側でなくて、受け手であっても。

 でも、その面倒くささが、物語の、信念の、小宇宙の、小箱の快楽というものが確かにあって、それは本という媒体に対するフェティッシュにも通じる感がある。

 本はゲームに出てくる「魔導書」のような物だ。現実世界ではただの人間が、思想にアクセスできるなんて! まるで魔法みたいだ! 今となってはスマホ、PCの魔法がみんなのお気に入りなのだろうけれど、本の持つ魔力というのはネット上の文章とは違った宝石のようなものだ。

 そういった原石、宝石が展示されている場所が書店、図書館であって、アレクサンドリア図書館やバベルの図書館のごとき酩酊を、割と簡単に現代人は味わうことが出来る。
 
 人によってはそれがPCなのかもしれないが、俺にとっての情報の展示場は、書店であり図書館だった。様々な、読み切れない本が無数にあるということは、時には俺をうんざりさせ、また、わくわくさせてくれた。

 俺の狭い家は本が山積みになっていて、時折雪崩を起こしてしまう。

 でも、これでも随分減らした。本を読む人は皆、余程のお金持ちでない限りその置き場所に困ってしまうだろう。好きなものに囲まれる生活、といえば聞こえはいいが、二度とは読まないかもしれない本に執着したまま過ごすのは難しいことに気づかされる。

 ボロボロの、愛着のある衣服を着続ける生活をしていると、ある時ふと、目が覚めてしまう。あんなに楽しませてもらったものだとしても、ずっと手元に置いておくわけにはいかない。

 だからこそ書店は、図書館は自分にとってのもう一つの書斎、書架という側面もあった。新しいものに、慣れた言葉に出会える予感。言葉を手にできる喜び。

 書店が町から消えるということは、自分の中の記憶や執着から切り離される体験に似ている。単純に、見知った街の景色が変わるということは、何らかの感慨を覚えたりするけれども、書店には沢山の本があって、それに触れた記憶がなくなった書店とも結びついているのだ。

 記憶や執着とはつまり、その人の生命に通じていて、自分でも少しびっくりしたが、十数年前から利用していた場所の閉店で、俺は喪失感に襲われていた。

 お店の代わりはある。正直、買った本より立ち読みで利用した方が多い罰当たりな(普通の?)客でしかない。それなのに哀しい。申し訳ないような諦念のような、感情を感傷を持て余している。

 俺にとって書店とはロマンチックな場所だということだ。簡単に誰かの何かのロマンスにアクセスできる場所だということだ。

 そういった自分への慰めが、インターネットでの「雑記」の「タイピング」というのは皮肉な気もするのだが、これはこれで丁度いいようにも思える。

 「塵は塵に、灰は灰に」

 生きるには多くの場合お金とロマンスが必要だ。お金は無いが、ロマンスは未だ欲しいと思う。

メランコリーの天才

 気分はいつもの通り。いつも最低で安定。そんな時に男の作ったテクノミュージックなんて聞いたら死にたくなるから聞かないほうがいい。そうそう、
Serph - Pen on Staplerとかいいよね
https://www.youtube.com/watch?v=L0Wz2jLNdeU


skyrimの方が好きだが動画で無かった)

MELANCHOLY 「Twilight Gloom」

https://www.youtube.com/watch?v=0-Nq8v4yyHM

メランコリーってなんのこと? 俺幼稚園児のころからこんな感じ。

 なのだけれども、死にたいなんて思っちゃいけないきっと。死にたいなんて、死にたいなんて思っちゃだめだ、そう、スパンクハッピーが活動再開するんだし!

曲名は『夏の天才』

 だってよ!

正直俺は岩澤瞳のボーカルがほんとに好きなので、期待と不安と共に聞いてみたら、
新しいスパンクハッピーは、アヴァンでアンニュイでポップで、最高! 新しいボーカルのODさんもいい感じのアンニュイさにほのかなキュートさがあっていい感じですね。

https://www.youtube.com/watch?v=McJ2Bd1Mma4


 スパンクハッピーの曲を聴くと、菊地が好きだと言っていた、フェリーニの『甘い生活』のことを想起する。豪奢で絢爛で退屈で虚しくて居場所がない映画。素敵な夢に迷い込んで、追い出されてしまう映画。映画の魔力、なんてものがあるとして、それを余すことなく体現している、かのような映画。

 ポップソングはすべて甘く虚しく哀しくて最高。代わりがきくのに、初恋じみた、百円で買えるチョコレートのような狂気をくれるのがポップソング。勿論、『夏の天才』も

 お茶のことをたまに自分の小説で書くことがある。しかし素人が書けない、書くべきではないことは沢山ある。例えば、映画で舞踏をテーマにしたものがたまにあるが、それらは失敗しているように思える(俺が成功例を目にしていない)。

 それは編集できる映画で他のジャンルを表現しようとすることが極めて困難であることを示しているということだろう。あきらめをもってあるいは省略や愚直をもってそれに当たらねばならない。

勅使河原宏の『利休』や市川崑の『東京オリンピック』のような姿勢。

 にしても、素人の俺でもお茶をたてていただいた経験位はある
 幼児の肌のような分厚い茶器の口縁に口づけた時の感覚は今も覚えている。グラスは口当たりが薄いのが高級品なんて言うけれど、濃茶、冬向きの厚手の茶碗は土の肌、といった感があるぬくもり。礼儀作法なんて知らなくても、唇の舌の官能は感じることができる。

 よくおもてなしと言うけれども、裏を返せばサディスティックでオブセッションの達人が茶道には向いているはずで、とかいう思想が出る時点でお茶を習うにも仕事に出るにも不向きなのだと自分でも感じるのだが、ほら、さあ、

 釜肌がごつごつしていて、まるでルブタンの靴みたいな釜肌のことを霰肌っていうんだって。本にそう書いてあった。素敵な名前だ。ルブタンの靴でシャンパンを飲むスノッブよりも、霰肌で火傷を負って、その傷痕を恐る恐る撫でるほうが素敵じゃないか(個人の感想です)なんて着想が生まれるなんて、茶道ってポップソングみたいに素敵ですね。

 意地汚いのかオブセッションが頭の中に住んでいるのか世界への親和性が低いからか、しょっちゅう過剰なことを求めてしまう俺、例えば、過食。何かを口にしているときに、次の何かを求めてしまうはしたなさ、恐怖。

 こういった時には小さくて高いお菓子がいいと識者は言うけれど、そうそううまいことはいかない。だって、少なからず気分が悪くなりたいんだものきっと俺たちその時は。その時はね。

 でも、不幸が好きなんてわけでもない。不幸が好きでも美しいのは、(美形の)ティーンネイジャーだけだから。お酒が飲めるようになったら、不幸ともほどよいお付き合いを心掛けるべきだ。

 インスタントな依存先を大人はそれなりに知っているはずだから。

 チョコレートを食べすぎるのは、砂糖を食べるのがよくないのは、血糖値の急激な上昇と低下らしいのだけれど、和菓子、干菓子、和三盆糖の干菓子ならそれを抑えることができる。

 季節を模す干菓子は舌の上でじんわりと甘く広がる。ガツガツ食べるものではないし、見た目がとてもかわいいというのがいい。正直、味は洋菓子の方が好きなのだが、見た目は和菓子が好きだ。家に何冊和菓子の本があるのだろう?

 和菓子の本を読むと四季の、暦の勉強にもなる。俺の好きな『花筏』だって和菓子になっている。散った花びら(桜)が集まって、川の上をすべっていく。

 美しくも哀しい、どうでもいい。砂糖をあっという間に消費してしまった後の様。

 虚しいのは、メランコリーはパッシブスキル或いは標準搭載だとしても、やはり気持ちいのが、ポップソングみたいな瞬間が好きだ。

 いつでも哀しいなら、チョコレートを、エビリファイを、それでも効かないなら人間を土を、獣を。それでもだめならばきっとあなたは小説を書くほうがいい。

指先には飴玉

銀座のエルメスで映画を見る。

『短編セレクション ― 気ままなオブジェたち』という、五つの映画のオムニバス。あまりオムニバスの映画を見る機会がないから、こういうのはとてもありがたいなと思う。好きでもない映画であっても、十分とかで終わってくれるし。

 ただ、こういう短編映画でしばしば感じてしまうのが、コンセプチュアルアートのように、説明文が実際の映画を見た時の驚き、感慨に満たないと言う問題だ。キャプションでどうにか自立する作品なんてちっとも俺は好きではない。

 例えばこの短編集の中にも、新品のトランプのジョーカーだけを抜き取って、全てジョーカーのトランプを作り上げて、それを丁寧に封をして売り場に戻す。なんてものがあって、この説明文以上の何かを受け取るのは難しいように思える。

 こういったモノに何だかんだと理由付けをするのは野暮ったいという気がする。俺が批評家と呼ばれる人達に警戒心を抱いているのは、畢竟、それがラブレターじみているという場合があるからだ。ラブレターを公開するのは、出来はどうであれ、恥ずかしい物だ。恥ずかしい、という自覚があるのならば、作品に依拠しているという自覚があるのならば別なのだが、自信満々な方々が多いように思うのは気のせいだろうか。

 俺はしょっちゅうお金がないから、お金のことを考える羽目になる。馬鹿馬鹿しいこと。その上生活力もないのだから、そのこともついて回る。馬鹿らしいこと。しかしうんざりする、本当にうんざりすることだ。

 貧乏はまあ、いいかもしれない。でも貧乏くさいのは、やはりみっともない。貧乏だと、貧乏くさくなる。代わる何かがあれば別だが、ないのならば仕方がない。

 数百円とか数千円の出費で思考が止まる。みっともない。でも、それが俺の生活なのだ。お金を惜しむと、欲望が消え失せてくる。自然と選択肢が狭まってくる。

 何かから逃げ出してこのような酷い生活をおくっているのに、それを貧しくしているのが自分自身だと思うとやりきれない。

 年に何度か、お茶、茶道の本を読む。茶道についてもっと深く知りたいなあと思うが、それには結構なお金が必要だ。いや、茶道に限らず、何かを学ぼうとするとそれ相応の出費がある。当然だ。

 最近クラウドファンディングがとても流行っている。いいことだと思う。俺が昔大好きだったゲーム関係の人も、会社ではなく資金を集めてゲームを作っているのをちらほら目にする。

 本当に自分には金を生み出す力がないなあと思うと感じる。俺がクラウドファンディングをしたとして、リターンがあるのか? そもそも客がいない。純文学とかいう死語、そういう読みにくい小説や詩をわざわざ公開してもどうなるというのだろう?
でも、俺が出来るのはそれくらいしかないのだ。

 お金にならない、でも好きな事があるというのは、多分幸福だ。げんなりする幸福。

 先日、知人の誕生日に絵本を買った。絵本を買うなんて何年ぶりだろうか? 美術が好きな人間のいやらしい思考で、絵本を買うなら画集や写真集を買った方がいいじゃん、なんて思いがよぎるのだが、あくまでプレゼントならば、大人向けの絵本というのも素敵なものだと思う。

店頭で目にした『あおのじかん 』という、フランスの画家、イラストレーターが描いた絵本。ページをめくって、久しぶりに絵本で感銘を受けた。世界の様々な動植物、昆虫、風景等が青色で描かれている。エッチングのような技法で描かれたそれらはとても美しく、見ていて飽きないものだった。楽しいなあと思える時間。様々な青色がページを彩っている。表紙よりもずっと、濃密な青の時間。ページをめくる快楽。

 それを誰かにあげて、喜んでもらえたらなと思える機会。それはきっと幸福なことだ。

 同じものを見て美しいとか美味しいとかかわいいとかかっこいいとか楽しいとか感じられるというのは、とても素敵なことだ。俺の場合、それがどうにもうまくいかなくって、おかしな独り言なんて言わないようにしようと閉じこもってしまうことがしばしば。

 しかし、腐るような睡眠よりも、美しいと言える方が、誰かに何かをあげられる機会の方が、素敵なことだろう。問題は、俺は友人とか知人がとても少なく長続きしないし、自由になるお金もないということだ。

 たまに、自分のしたことで相手がよろこんでいるらしい時には、何だか他人事のような気持になるというか、不思議な気持ちになる。嬉しいとか悲しいではなく、不思議。

 なんとでも説明できてしまうだろう。それは簡単に「治る(なおるものだとして)」ものでもないだろう。

 ただ、自分が自分の為に何かできるとしたらやはり、ずっと怠けていた小説を書くことに他ならない。文章を書く。それは俺の意識を整理し、つなぎ留める手段だ。文字が生まれて行く快楽。何かを生み出す、生産的な行為は、きっと誰かが生きるのには必要不可欠なのだろう。たとえそれが俺以外に必要とされなくても。