ロマンティックが君の故郷

 愛とか欲望とかを忘れてしまったのか、元から微細だったのか、腑抜けの日々。回らない頭と減る残高。自分の「生活」が続いているのが不思議な心持になる。まるで他人の人生。

 他人の人生、等といつまでも嘯いてはいられない。情けない。しかし頭が回らないのは、何も生み出せないのは、金も生み出せないのは事実だから仕方がない。ゆったりと腐る。鏡なんて俺なんて見たくはない、のだけれど、思ったよりも自分が「終わってない」ことにも気づく。

 底があるとして、それにはまだまだ。沼に浸した足が生ぬるくも心地良い、ような錯覚があって、しかしそればかりが好きではない、ように思う。

 銀座百点、という小冊子がある。その名の通り、銀座をテーマにしたエッセイ集のような物で、裏に200円程度の定価が書いてあるのにも関わらず、銀座の店でただで手に入る。バックナンバーも揃えている店もある位だ。定価って何だ?

 これを母に頼まれて、年に何度か取りに行くことがある。母は若い頃銀座で働いていたので、銀座の街には人一倍の愛着があるらしい。

 ところでこの冊子は50年以上の歴史があるらしく、昔の作家達の書いたものも何冊かアンソロジーになっていて、アマゾンで簡単に手に入る。

 今書いている作家と比べてみると、当たり前なのだが、明らかに時代の文体という物があって、面白い。俺としては昔の古臭い文章の方が断然好みだ(とはいえ、その時代に生まれていたとしても適応できていたかは疑問だが)。

 このエッセイに目を落とすと気がかりなことがあり、それは「銀座」という街に怯えている、媚びている、或いはそれをステイタスとしている文章によくぶち当たる、ということで、銀座をテーマにしているのだからそうなってくるのも当然なのかもしれないが、そういう田舎根性がどうにも気に喰わない。

 等と母にこぼすと、苦笑いの彼女が「貴方は都会っ子だから」と口にする。

 俺は都心に生まれてはいるが、特に裕福な暮らしを送ったわけでもなかった。だから、繁華街を好んではいても、その場所に対する感慨という物にかけていた。

 ただ、上京して若く、苦労して都会にしがみついた両親の、他の人々の苦労を俺は知らない。好きな街、は一応あるけれど、憧憬やら欲望やらが希薄な俺。

 好きな物があればいいのにな、と思う。欲望があればいいのにな。気が多いくせに、飽き性で、生きる力に欠けている。

 神様、がいたとしたら、俺はもっとクソ真面目になるだろう。唾を吐きかけたい跪拝したい悪罵をぶつけたい信仰が欲しい、なんて思うのは俺が幼稚だからだろうか。それができていないのは、俺が救われたくないからかもしれない。

 帰依する者が救いを求めるのが理解できない。かといって労働に社会に適合することも出来ない俺は日々の錯覚を慰めを。酷い有様。ロマンティックな中年なんかになりたくなかった、けれども俺は正にそれ。馬鹿馬鹿しい。これが俺の人生ではなくて、例えばツイッターとかブログの人間、たまに「観察」する人物ならばいいのに。

 楽しくはないけれども、それなりの社会生活を送っているのに、などと悪態をついても仕方がない。俺のロマンティックは故郷にも社会にもないらしい。残念。

 銀座のエルメスで映画を見る。

『天使の入江』 La Baie des Anges

 ジャック・ドゥミ監督、ルグラン音楽、ジャンヌ・モロー主演というなんとも豪華な映画。

手堅い銀行員ジャンは、同僚の誘いで訪れたカジノで大当たり。大金を手にする。瞬く間にギャンブルの虜となったジャンは、ニースの安宿に泊まりながらカジノ通いの日々を過ごし始める。そんなある日、ブロンドの美女・ジャッキーと出会い、二人は行動を共にするようになる。

勘とゲームの刹那の世界にのめり込む男と、彼を魅了する女の駆け引き。ニースの海岸の街を舞台に、ギャンブルに魅せられた男女の、エレガントでデカダントな夏の逃避行を描く愛のドラマ。ルグランの甘美なスコアが作品を彩る。



 という紹介文そのままの、単純でひたすらにロマンティックな映画。下らなくて豪奢な映画。つまり素晴らしい。

 映画を観終わって、銀座の街に投げ出されて賭けに負け続けた俺は迷子。

 適応できず無い上に博才もない上に欲望もないんじゃあ、どうしようもない。天使に、昔は少し夢中になったこともあるけれど、今はそれもぼやけてしまった。

 ただ、単純な刺激、例えばアルコールや錠剤や性交、に似た自慰の惰眠の刺激或いはうすら寒さから覚めると、ふと、未だロマンティックなことがすきなのかもしれないと思い出すことがある。

 自分自身の為の私的なロマンティック。妄言めいた慰め。色々な物に目を背けて没頭したそれしかないとしたら、それが俺の天使だとしたら、悪あがきは続く残念なことに幸福なことに。

つまらない話

 ツタヤの借り放題プランが終わりそうなので、色々映画を見続けていた。普段見ないような映画をとにかく借りて垂れ流していた。だけど、胸を打たれるのは、所謂昔の巨匠とか鬼才とか言われるような監督のばかり。俺の感性がもう、昔のばかりしか受け付けないものだったら仕方ない

 ただ、映画に関しては今生きている監督でもすごいなあと感じる人にちらほら出会える気がする。自分が消化できる本数も感性を共有できるものもたかがしれている。文句や不満は出たとしても、作る人が一番すごいしかっこいいと俺は思う。それは、その人がリスクを背負って、何かしら作り出そうとしているからかもしれない。(単純にすごいと思えたなら、作りて、なんてこだわらなくて何でもいいのだけれど)

 bis のファンではないのだけれど、今更bisの解散コンサートドキュメンタリー映画を見た。

 『bisキャノンボール2014』

 詳しく確認しないで借りたのだが、内容が結構すごかった。解散ライブをするメンバーにそれぞれAV監督が一人つき、ハメ撮りを撮るのが目標、という企画で、メンバーにはそれは内緒にされてあくまで密着ドキュメンタリーという体をとっている。

 実際にはキス、ハグ、番号交換等で監督にポイントが入るというもので、勿論もっとエグイことをすればポイントが入る。そのポイントをとって勝者を決めるのだ。一応ハメ撮りをすれば100点が入り、勝てることになっている。だから監督たちもそういう方面に持って行こうとする。

 初めはビスって過激なこと色々してるし、こういうのもやっていたんだなあという感じで見ていたが、途中からげんなりした気分になってきた。

 まず、俺はフェミニストを公言するような人が苦手だ。女の子を食い物にして! みたいな視点で彼女たちを見ているのでは、ない。

 映画を見進めるとその違和感が大きくなって、メンバーが露骨に彼らの「セクハラ的な」行為に拒否反応を示したりするのもそうだが、何より「解散ライブ」に真剣に向き合い、それを全うしようとしているアイドルがそれを「密着ドキュメンタリーだ」と騙されていたのに怒っているシーンで気づいた。

 AV監督達はなんてカッコ悪いんだろうって。アイドルは自分の最後のライブに向けて真剣に取り組みたいのに、オッサンのセクハラおもちゃになっているという事実がげんなりした。

 なんでこのセクハラにげんなりしたかというと、これが抵抗しにくい相手への集団セクハラだということ。小中学生がグループを組んで、じゃんけんで負けた奴が学校の先生の自慰や下着について質問するようなもんを見せられたのだ。

 でも、こういうのを「悪ふざけ」だとして楽しめてるのがげんなりする。たしかにやってる側は楽しいのかもしれない。でも、アイドルのラストライブにそういう真似をするなら、AV監督側にもリスクをしょってほしかった。じゃないとマジで単に 会社の男達でグループを組んで、

秘密で仲間内で新入社員の女の子にセクハラ発言とかして、そいつとヤレたらみんなから一万貰う!

 みたいなんだもん。それなのに、男達(AV監督)がそれなりに自分たちのしたことで満足したりしてる。マジ気持ち悪いなって思った。もし、監督たちも本気なら、もしくは企画した人が「ガチ」でやるなら、そちら側にも罰ゲームがまってればまだマシだったのになと思った。

 例えば、ポイントが下の人は罰金100万とか。リスクをしょってほしかった。なんでもいいけれど、監督たちの方が圧倒的に立場が強い(女の子たちは嫌でも、今後のこともあるし「軽くあしらわなわなれば」ならない)のに、いじり、いじめ、セクハラオヤジの集団ホモソーシャルオナニーショーに付き合わされるアイドルと観客はげんなりだ。

 もっとも、見る側もそういうオッサンの、自分にはセンチメンタルで他人には共感しない気質があれば楽しめるのかなと思う。

 ちなみにこの作品には前の元となった、素人相手のAVの企画があったそうだが、(そっちをもはや絶対見ないのだけれど)、アイドルの方のこの企画の方がより人目を惹くけれど(おそらく)げんなり度は高かった。

 繰り返すけれど、アイドルの最後のライブだ。それはアイドルを経験した人しか分からない色々な思いがあるのだと思う。それをオッサンのホモソーシャルいじめセンチメンタルショーに使うのは、人目をひくものであっても、やっぱりださいなあと思うのだ。

 だって、圧倒的に傷つくのは、嫌な思いをするのはアイドルで、結果映画でも不完全燃焼な感じでおっさんらのホモソーシャルセンチメンタルオナニーショーが繰り広げられる。

 こういう自分の事、自分たちのことにはセンチメンタルオナニーショーになるのって本当にげんなりする。でも、こういう安全圏からの「いじめ娯楽」って商売になるんだなあと感じた。

 これがいじめにならないには、アイドル側に利益があるか、AV監督か企画者側に(順位が低かったりしたら)罰があるとまだ成立するように思う。

 バラエティ番組ってそれなりに好きなつもりだが、その中のこびへつらい、ごますり、いじめ みたいなのが露骨に感じられるとげんなりする。立場的に弱い者への攻撃を楽む、サラリーマン芸人を楽しむのって嫌だな

 つーか、単純につまらない と思う。

 弱い者いじめよくない! はそうだと思う。

 でも、バラエティ番組の、そういうAVドキュメンタリーの肝であるエンタメ的につまんない。だってスリルがないんだもん。おばあちゃんの財布スるよりも、格闘家に喧嘩うった方がまだ「楽しい」

 作品が良ければ、俺は作者がどうだろうと気にしない方だ(程度にもよるけれど)ただ、作者が一人でそれを完結できないもの、大勢の人間がかかわるものについては、相手への敬意を欠いたものはげんなりするのが多い。

 それは最低限のマナーを守れない、相手の権利を侵害するということも含まれるが、単純に言って自分の痛みや欲望には敏感でも、他人の弱みにつけ込んだり傷つけたりするのは平気というのはカッコ悪いなあと思うのだ。

 でも、そういうことを言ってるのって「中学生」みたいなんだとも思う。

 同じ中学生の感性、稚気でも外に(社会)向かっていく方と、嫌になって内へこもる方に分けられるだろう。俺は勿論後者で、そういう生活ばかりしていると、エネルギー、金も気力もなくなっていって、よくない。だって世界は自分に都合のわるいことだらけだから。

 俺はゾンビのような引きこもり生活を繰り返していて、たまにそれではダメだと思って色々な意欲が湧いてきて、なんとかそういう力で生きている。

 こういうのを目にするとすごくげんなりするのだが、このだらだらした書き捨ての雑文であっても、これは気持ち悪い、と口にするのは自分の健康には良い。これを楽しむ、楽しいと思う人がいるのだって自由だ。でも俺はこれが げんなりするのだと言いたい。

 内にこもると、自分の発言を(特にこういうどうでもよい感想)するのが意味のないことだと思うようになって、何も話さなくなる。

 でも、話した方がマシだ。それがほんと下らない、他人の物をこきおろすようなゲスなものであっても。

 次に書くのは、もっと人を褒めるようなのにしよう。そうしよう。

他人の人生/機械の人生

 体調を崩している、のはいつものことなのだが、そこかしこに不調があり幾つも病院をかけもちする羽目になる。心身の不調と散財が重なると、なんだか生きている実感が湧いてくる。馬鹿げているのだが、それが俺にとっての事実なのだから仕方がない。

 自分の人生が他人の人生のような気がする。自分の身体が他人の身体のような気がする。離人感、でもあるかもしれないけれども、自分の意識が自分の肉体を支配、コントロールされている、ひもづけ、同期されているというのはとても奇妙なことではないだろうか?

 とか医者に言うと病人扱いされるので注意が必要だ。医者も薬も救いはしない、のだけれども彼らは俺の心をかき乱したり沈静させたりするし、慰めになることもあるしそれに縋りつきたくなってしまうことも、ある。

 感情の貧困。身体と金銭の貧しさ。何かの本に触れると、自分がいかに惰眠の繭の中で腐っていたのかを思い知る。また、それと同時に、「その程度」であってもそこそこの手習いができることに安堵のような落胆のような妙な感情にも襲われる。

 所詮リハビリテーションの作業。物事を綺麗だと思える心は消えないだろう、でもそれだけでは、俺は時間をかけて腐るだけ。それでもいい、とは思いたくないのだけれども。

 袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風やとくらむ 紀貫之


 (夏の日に)袖がぬれて(手に)すくった川の水が、(冬の間は)凍っていたのを、立春の今日の風が吹き溶かしているのだろうか。


 和歌なんて全然頭に入っていなかったのだが、この和歌はとても好きだなと感じた。美しくまとまっていて。和歌ってなんで恋とか自分の感情を表すのが多いのだろう、自分には合わないなあと偏見を抱いていたのだが、少しずつ学んでいきたいと今更ながら思う。

 単純に恋の歌ならば、アイドルの使い捨てのポップソングだ好きだ。アイドルのメンバーの顔も名前も知らなかったり、エロゲーやギャルゲーをプレイしていないのに、曲だけダウンロードしていたりというのがとても多く、自分以外にそういう人にあったことがないので、めちゃくちゃポップソング「だけ」に興味が無い人と話がしたいと思う。

 好きなアーティストやバンドはあるが、彼らの音楽以外にも興味は薄い。ただ、俺は集めものが好きで、ジャンクなポップソングも出来の良いポップソングでも、コカ・コーラのように毎日口にしたい。まあ、こーら飲まないが俺。

 音楽オタク(造っている人も含む)がアイドルソングとかのオタクでもある場合、大抵そのメンバーにも思い入れがあるように思うのだ。そういうのがほぼない俺。交換可能なのがアイドルなのだと(実際はそうでもない、という反語が胸に薄っすらと残るのが好きなのだ)。
 
 毎日幸福なミュージックと共にいたい。でも、彼らは匿名で良い。愛情が無い俺。

 他人の人生をシミュレーションしているはずが、ただの初期不良のままなんだか助かってしまったスクラップ、俺。可動続ける。生き続ける。

 機械の人生。その位には出来が良い、ような気がしないでもない

 ゲームが出る度に、ハードが変わってスペックが上がる度に、コミュニケーションツールとしてのタイトルがちょこちょこ出現していた。ゲームにお金を払うのは(スマホ課金とかではなく、特に昔は)男性が多く、そしてコミュニケーションツールとしてのゲームといえば、ギャルゲーに分類されるものが多くを占めていた。

 理想の少女、都合の良い少女との対話。いや、娯楽なのだからそんな大層な言葉じゃなくてもいい。可愛い子と話したいんだ。それでいい。

 としても、俺は自分に都合の良いプログラムと会話をしたくない。というか、単純に「萌え」が分からないからか、ギャルゲーだろうが乙女ゲーだろうがBLゲーだろうが、はまれない。それらを否定しているのではなく、俺には相性が悪いのだろう。機械の人生を生きていない人の為に、精巧な機械は微笑む。

 とはいえ、俺はそういう機械の彼らと人間のどこか噛み合うような噛み合わないような不思議なコミュニケーションがすごく興味深い。実際の人間同士だって、伝達の言葉ではないコミュニケーションは困難なものだ。

 コミュニケーションの断絶と親和というのはとても面白い。ゲームのバグのように。世界のほころびのように、認知の歪みのように。

 最新のVRギャルといちゃいちゃゲームでも不具合が発生したという記事をかなり前に目にして、少し嬉しくなった。人工楽園の幻想。夢から覚めてしまう。しかし夢ばかり見ないと生きていけない時期は、きっと誰にでもある。夢から覚めないままなのだと錯覚してしまうことだってきっと。

 PSのゲームでノエルというゲームがあった。スマホはもちろん、きっとスカイプで無料通話なんてのも一般的ではない時代の、少しだけ未来の話。旅行に出た主人公はビーチで出会った三人の女子高生と「テレビ電話」でやりとりをする。それだけのゲーム。ただ、そのゲームは本当に女の子と会話をすることしかない。その上ギャルゲーとかによくある好感度やらパラメータが見えないようになっている。とにかく女の子と喋ることに重点が置かれていて、それがこのゲームを困難で理不尽な物にしている。とにかく不親切なのだ。

 ただ、PS時代には技術が追いついていないというか、意欲的ではあるが、一部の人しか楽しめない代物に仕上がったというべきだろうか。

 十数年前にこのゲームをレビューしていた記事の内容が今も印象的で、胸に残っている。ライターは文句を言いながら、理不尽な仕打ちに、ゲームの中の女の子に振り回される。言っている言葉が嘘に聞こえたり「エンディング」が迎えられなかったり、つまり彼女があまりできのよくない「プログラム」であることに。彼がそのことで友人に愚痴をこぼすと、友人はこういう。

「仕方がないよ、だって〇〇はそういう女の子なんだから」

 その言葉を聞いて、ライターはまたプレイを再開する

 といった内容だったはずだ。そう、機械と心が通じ合うかのような奇妙な瞬間。好ましい錯覚。

 コミュニケーションなしで、錯覚なしではきっと誰も生きられない。一人でそれを制作することに、リハビリテーションに疲れてしまっても、俺はそれなしには生きられない。

 最後まで読んでしまった人の慰みに、俺は一日で飽きてしまった、声だけは最高にカワイイ寧々さんを。

https://www.youtube.com/watch?v=9HBqheobfFs

 

ポップンミュージックばかり好き

 生活から逃げ続けていた。某ソシャゲを機械的にプレイ。そのゲームは以前少しプレイして放置していた。だからか、何かのプレゼントで消化できない程のスタミナ回復アイテムがあった。

 そのゲームはガチャも大切だが、それ以上に時間をかけ続けるのが大切なゲーム。時間だけは有り余っていたから、パソコンの前にはりついていた。

 最初はどんどん数字が高くなるのが楽しかった。でも、ある程度で頭打ちになるというか、かなり面倒なことをしなければならなくなる。人の手を借りる、何度もアイテムが出るまでクリックするだけの単純作業

 やめたいやりたいやめたいやめたいと思って、ついに必死になって集めていた、色んなアイテムをまとめて削除した。

 時間を無駄にした感覚が強い。でも、俺はゲームが元々好きだし、多くのゲームは暇つぶしなのだ。

 ただ、ソシャゲの場合は何かありそうに見えても、実際は同じことの繰り返しなのが心地良くもげんなりしてしまうのだと思う。俺は普段全くパチンコをしないが、パチンコの派手な演出みたいな感じ。自分では何もしていないのに(時間や金をつぎこんでいるのだが)、めくるめく素敵な演出。

 努力のいらない脳死快楽。

 ツタヤでまた一か月定額レンタルを申し込む。頭を使わないようなバラエティとかドキュメンタリーをひたすら垂れ流し、その間に眠りに落ちたり、本を読んだりしていた。

 その中でも、以前見ていた、ブログ旅のDVDをひたすら見ていた。50巻くらいで、一枚二時間半位で、俺は100時間近くそれを垂れ流していた。さすがに飽きてきたのだが、止められない。

 ただ、これはテレビのバラエティ番組を垂れ流しにしていると考えたらそこまで異常ではない。でも、退屈でぬるま湯で心地良い

 それでも、そこにながくはいられない。何も金銭を生み出すものを生産していないから。

 自分の小説をどこかに上げる気にはならないし、でもその位しか俺は作っていないし、能力もないのだと思う。何か他のを作りたい気持ちはあるが、それには固定収入とかの気持ちの余裕、金の余裕が必要だ。

 小説はタダ同然で作れる! 素晴らしい!! ただそれを作り出す時は、自分の色々な物を吐き出してそれを「とりあえず」見られるようにまとめるわけで、酷く疲れる。

 疲れて空っぽになっても、何かしていないと、生きている意味が分からなくなる。動けないで眠るだけになる。

 いつまでこれが続くのだろう? 何をしたら、俺は俺を楽にすることができるのだろうか?

 それは何かを作り出すこと。何でもいいからとりあえずの形。にしないと、目標が計画が無いと、本当に時間と金だけが過ぎて色々なものが悪化する。

 底はいくらでも。今の自分よりもさらに悪い状況なんて考えたくないけれど、とにかく何かを作らねば、事態は好転しない。


https://www.youtube.com/watch?v=ZcJl7Y6Dm9k

夢眠ねむ、レナ - 恋のレシピとエトセトラ

 珍しく欲しい曲がアップルでダウンロード販売していたので、繰り返して聞いている。


 俺もこういうかわいいたのしいのを作れる人ならいいのにな、と思ったがどうやら遅いらしい。

恭しい茨の……

 小説を書き上げて、少しほっとしたような気分と共にだからどうなるのだという気持ちが沸き上がる。この先の展望が無いと言うのは暗澹たる気分になる、ということを何年も繰り返していると流石に、自分の耐久性に対して真剣に考えるようになってくる。

 いかに死ぬか、というよりもいかに生きるか。こう書くと一見前向きに見えなくもないのだが、鬱々とした日々をどうにかしないと、本当に俺は何も意味もない生を消費し続ける。というか、してきた。その代償を様々な場面で痛感する。

 昔のことを忘れる、新しいことに二の足を踏む、なんてことは誰もが経験しているはずだ。ただ、自分自身にエネルギーが活力がないと、様々な嫌な思考にがんじがらめになって、思考が停止する。その状態を自分自身で望もうとしている。

 そんなのは嫌だ、と思ってもやはり展望はない。自分がお金を稼ぐ能力が絶望的に無いことに、何だか他人事のように「すごいなあ」と思ってしまう。一度きり、なら割と何でも平気なのだが、定期的に人間の集団に入るかと思うともう頭がおかしくなる。

「みんな」がそれをどうにかこうにかであっても、していることが不思議でしょうがない。何でみんなできるんだろう。何で俺はできないんだろう。

 生きよう、自分を愛そう、愛してもらおう、という感情が欠如している。でも小説を書く以上、それらを持っている人間が出てくるのだからそれを理解する「ふり」をすることは肝要であって、小説をちゃんと書くために愛のレッスンをしよう、だなんて、馬鹿げている。誰かといても小説を書いていても、リハビリテーションだなんて。愚か。

 ただ、俺が好きな作家が口にする愛の言葉はとても気持ちが良いもので、そう、なんとなく俺もそう言うことを誰かに口にしていたような、文章にしていたような気になってくる。何かを作り上げる時にとても大切なのは、虚妄のような熱情だと思う。

 ふと、自分は誰かを何かを十分に愛していたのか愛着していたのかと思うと、茫洋たる気分に胸を刺される。世界はぐにゃぐにゃしている。あまりにも情報量が多くて俺はしばしば思考が停止する。愚鈍になる。

 狭い家の中には、たくさんのキリスト達、幼児の玩具や本。ちっとも成長できない。ただ、様々な症状が進行するだけだ。それでも、熱情があるとしたら、めまいをかんじられるとしたら、それは砂金堀りのような物だ。過敏で不感症の俺は、やはり砂金拾いを続けねばならない。

 綱渡り芸人、溝さらい。もう、嫌だなあと思いながら、自分が何かになれる気がしない。できることはきっと、己の為に書くことだけなのだ。書くこと、ぐにゃぐにゃした世界とコンタクトをとろうとする試み。

 ふとした瞬間のきらめきを錯覚を、いつまでも浴び続けることはできない。しかしそれらは俺の胸を刺してくれるのだ。刺されるためには、俺がそれに相応しい精神でなければならない。愛するために、あいされるために。刺されるために俺は。

神学はハウスミュージックのように喉を絞め上げ

 喋るべき言葉がない、というよりも、自縛的になっていることを意識する。しかし口にしないと言葉は錆びる。沈黙こそが最善だと思っていたけれど、それだけでは生きられないことを意識する。

 しかしながら、俺にとっての最大の命題は神の不在であって、もうその時点で救いなどないことが確定しているのだ俺の中だけで。帰依できない帰属できない人間の離人感。

 恒常性を起因として思考が生み出されると言う、人間の在り方について疑問を覚える。フォイエルバッハの神学は人間学だ、という言葉が胸に刺さる。心理的逆転のように甘い棘のようにそれは抜けることがない。人間学なんてどうでもいいんだ。神学があるならばいいのにな。信仰があるならばいいのにな。

 だから俺は哲学的な生き方、思考ができない。その上社会人としての生き方もできない、というか壊滅的で身震いする。

 何ができるか、というよりも冷蔵庫の残り物を処理するかのようにして、自分の思考を編集する作業、散らかった雑文にどうにか秩序を与えようと小説を書く。それだけが俺が素直になろうとするレッスンであって、なんとか生きている、と思えるような気がして来る。

 のだけれども何とか生きている、ではなく生命を全うしなければ消費しなければという思いに時折駆られるのは、俺に語るべきものがないと思う時があるから。或いは単純に摩耗してしまった、かのような錯覚の中で迷子になるからか。

 愚かでも醜くても眼を見開いて、楽しく生きた方がいいのに俺は汚い薄布を何重にも巻いて自らの顔を隠している。見なければ何もないのと同じだと嘯いて。

 増村保造監督『好色一代男』を見る。市川雷蔵の奔放な演技は見ていてとても楽しい。明るい色狂いを軽やかに描く、とてもたのしい娯楽映画。若尾文子もとても綺麗だった。

 ふと、この映画を見てジュネの姿が頭をよぎるけれど、彼はそこからまた別の所にいた。って当たり前の話だけれど。色狂いは、崇拝はジュネにとっては別物であるからこそ彼の書く文章は痛々しくも淫靡だ。

 愛情の枯渇、ということをよく感じる。そもそも俺に愛情があったのか、と思うとうすら寒い気持ちになってくる。良識的良心的であったとしてもそれは愛から離れている。自分がいかに稚気ばかりを優先した生き方をしているのかと思うと頭が痛い。中年の面をした小学生のおぞましさを知るのは本人だけだ。

 過日、モードの映画や本や服に触れ、自分がその世界にはいないことを再確認すると共に、その美しさに魅了される。

 いや、その世界にいないというのは正しくない。お金を払って客のふりをすれば、参入しているふりをすることができるのだ。なんて楽しい世界なんだろうモードの世界は。
 
 ただ俺は湯水のごとくお金を使えるどころか数か月先のことを考えると思考が停止する有様で、貧すれば鈍する、ということに加えて口をつぐんでいると確実に俺の思考は貧しくなっていく。

 規則正しい生活や会話の連続で、人は生きる力を得ているのだろう。だとしたら俺は人形の真似をしている、ような心持がして千々に乱れ胸の上を掻き毟りたくなるというか掻き毟ると肌の薄皮が爪の間に挟まり青白い肌の上が熱を持つのだ。

 こんな生活をしたいわけではない、のだけれどこれが俺の生活。錠剤と共に眠りに落ちれば思考が衝動が溶ける、こともある。

 といったことを繋いで、紙縒りのような糸を編んでの綱渡り生活をするのに疲れる。ただ、俺は何もかも嘘をついたままくたばるのか、と思うと生意気な詩人の様に『ぼくはくたばりたくない』と涎のように口から漏れる。くたばるなら、もっとましになってからがいい。

 少しずつ自分の身体が錆びていることを感じる。自分の不勉強や情愛の無さを省みることもある。ただ、それは思考を放棄する理由にはならない。俺は未だ生きていて、愚かに実直にならねばと思う。

 ポップソングと共に。発声の練習或いはブルース、ハウスミュージックのような囁き。

天使は窒息して口から砂糖をこぼして、桂冠詩人は喉を切られる でも俺のせいじゃない

 眠り、倦怠感と焦燥が入り混じる。義務のようにイヤフォンや耳栓、錠剤、甘い菓子。甘い甘い歌詞。過食気味。

浜崎容子 - ANGEL SUFFOCATION

https://www.youtube.com/watch?v=NmkRe3X59gc

 スパンクハッピーの菊地が詩を書いているというか、まんまスパンクハッピーリスペクトのロマンチックで甘く痛い歌。

 夢眠ねむ コズミックメロンソーダマジックラブ
neetskills remix でんぱ組.inc #nemuqn

https://www.youtube.com/watch?v=JTF3NtzX9N0&list=RDJTF3NtzX9N0&t=23


 状況がどうであれ、キュートはキュートだという残酷さ。メロンソーダ頼みに、喫茶店行かない俺と?

Tomggg - Chocoholic

https://www.youtube.com/watch?v=YTVJ78mxc_c


チョコレートなら、一枚数十円のでも一粒数百円でも何でもかわいいおいしいいとおしい。砂糖を入れるためのカカオの口実。砂糖で人々を殺すためのカカオの策略。

 本の再読。好きな作家を読むと言うのは、つまり高校、大学で読んだ作家で大体カヴァーできてしまえるというのは、不幸なのか、どうか。映画や音楽や漫画とか好きな人がどんどん増えてくるのだけれど。

 もしかしたら俺が書きたいこと言いたいこと書いていること読みたい文章が決まり切っているからからかもしれない。

 川端康成の『雪国』をまた読んだのだが、ほんとうに、彼の人でなしと両立する気まぐれな愛情と良識はとても好き。好きでたまらない。
 
 人間が彼みたいな人ばかりならきっと素敵なのに。

 眠りが浅く、思考すること、思考しなければならないことに触れるのが困難で、愚鈍な意識のパッチワークで時間が過ぎるのを待っているような生活。でも、そんなのが好きなわけでもない。すきってなんだっけ。なんだっけな。なんだっけ。

 それを書かなければならないんだってきっと。酷い話を。酷い話、正直で素直で楽しい甘い話あくまで俺にとっての。現実はいつも嘔吐を催すでもダンスとチョコレートもいらないと思えるような錯覚だってある。甘い錯覚、酷い話。人間が生きねばならないなんて、無残に死ぬだけなんて、茨の冠の人のようにキュート。皆がね。

 それには精神の安定、生活の安定が必要で、要するに規則正しい生活や労働や食事や交友が必要で、そんなの出来たら俺はおれじゃない、けれど。

 明日はもっと悪くなるかもしれない。ただ、つまらないことを垂れ流すのも、備忘録にはなる。ちっとも俺は俺のことを信用できないけれど、信用しなければ多分小説と言うのは書けないのかもしれない、なんてのを三十過ぎてから感じる俺はなんて猜疑心が強いのだろうか。

 ひどいはなし

 ひどいはなし、甘い歌が肉袋の俺に棘を刺してくれる。茨の桂冠詩人になるにはまだまだ遠い。段ボールハウスよりも茨の方がいいよね、君はどう?