ナダレノトリコ

ひょろ長い貧弱な身体に似合いの黒のタンクトップにハーフパンツを穿いて外に出れば酷い雨で、確か天気予報によれば一か月ぶりの集中的な雨で、ビニール傘を掲げて歩けば冷たい雨が肌を打ち、穴の空いた靴は瞬く間に変色し、家に帰ろうか、どうしようかと考えながら、家に戻るのが嫌になるまで、そんなことを考えなくなるまで歩いて行く。

 ジュネの遺作『恋する虜』を補完するような内容の『シャティーラの四時間』を読む。ジュネの「新しい本」が読めるなんて!! なんて俺は幸福なんだ!! 『ボードレールのサディスム』なんて読んでいる場合じゃないよ、でも、<拷問についていうならば、それは官能的快楽に飢えた人間の恥ずべき部分から生まれたものだ><人は上品に愛の要望などと呼んでいるが、外なる肉の中で自我を忘却したいという欲求だ>とかいう詩人の言葉と再度出会えるのは、中々いい気晴らしにはなる、けれど、ジュネだ、俺に必要なのは更に有用なのは、ボードレールの研究家の言葉よりも、ジュネの言葉だ。

 晩年にジュネが傾倒したパレスチナイスラエルの問題について、俺は詳しくは知らないし、知ろうともしていない。ジュネのテキストを読みとるのに必要だろうか? 必要だと思う人は、「テキストを読みとる」という作業に向いているだろう。そして、俺はその恩恵を十分に受けている。にもかかわらず、何故、と、何度も口にしている。構築、腑分け、意味づけ、それらは恒常性を想起させる。もっとあからさまに、他人の官能を有用な官能を享受したいと、口にするべきなのだろうか?

 「あなたは話す時にいつも少し嘘をつくのだと言っていますね。それは単なるアイロニーだったのでしょうか」

 こう質問されたジュネが対談相手に語っている。

「こう言っておこう。ちょっとした冗談でもあった。けれども根本では、事実そう感じている。自分に対して正直になれない。話し始めると、まわりの状況にとってよって裏切られる。聞いている人間に因っても裏切られる。コミュニケーションというものは、私は自分を感じない。時間が無いし、自分に作り話を聞かせるまでもない。自分に嘘をつくには年をとり過ぎている。それに、私がパレスチナ人たちと一緒にいることを受け入れるのは、孤独の中でのことだ。ライラにウイといい、君と一緒に出発しようと言うときではない。そういう時ではない。それは私が一人でいて、自分だけで決心する時なんだ。そしてその時は、自分に嘘をついていないと思う」

 しかし、語りたくなってしまうことはあり、それを体系的に構築的にしてしまう行為を咎めることができるだろうか? ふしだらだと? しかしとにかく俺は、そのふしだらの周辺で、巧く書かれている(と自分で判断した)物をつまみ食いだけ、している。確信しているのは、ジュネの本にジュネのジュネの本の構成要素はどうでもよいことだ。好きな人のならば、どうでもいいことでも意味を見出す、なんて、何にでも適応するべきではないと思う。しかしそれはふしだらか? その中の幾つかを、どうせ、懐疑的な俺も味わってしまうのだから。

 j.axle[deepness is served]というCDも当たりだった。帯に書いてあった「ラウンジ系北欧系ディープハウス」という(何だそれ、な)言葉がそのまま当てはまるような、ひんやりとまったりと出来る素敵なCD。ほとんど適当に買ったのに、半分以上が当たりというのも、たまたまにしても運がいいことだと思った。

 調子に乗って、youtubeで適当な名前で検索をしながら適当にリンクをたどっていったら、かなりポップな、ポップすぎるハウスが流れていて、ituneで150円で購入した。marie digby[avalanche]のダンス・ミックス。伸びのいい声の女の子が、キラキラハウスサウンドで同じフレーズを繰り返す、まあ、どこかにあるような、「普通に楽しめる」曲だ。

 俺は、批評、評論を想起していた。ハウス・ミュージック或いはDJに対しての俺の感情と、それとは微妙に対応している。躍らせる為の、フロアでかけられる為の、一定のBPMの、曲。そんなの別の音楽のジャンルだってそうだろ、とも思うのだが、DJとハウス、という関係性は俺にとっては、批評をせねばならないしたくなってしまう構築してしまう「抗いがたい官能とうすら寒さ」に通底するような何かを感じてしまう。ポップソングとは異なり、口ずさめない、身体を動かせてしまうメロディー。官能と言う名のミニマル。

「自分に対して正直になれない。話し始めると、まわりの状況にとってよって裏切られる。聞いている人間に因っても裏切られる。コミュニケーションというものは、私は自分を感じない。時間が無いし、自分に作り話を聞かせるまでもない」

 俺はDJにも批評家にもなれないし、その真似事をするつもりもないけれど、気になって仕方がない。何度も言及をしている。それは、生活を人間を受け入れることに近しいからかもしれない。好きな物とかキラキラダンス、だけでは十分な時間を拘束してくれないけれど、とりあえず、未だ家にはCDがあり、本があり、気分が悪くないならば、未だ付き合える。