こしこしタイム

最近、ちょっと自分でもヒク位おしごとをしてまして(まじめなフリーターの人位働いているということです)、夏の暑さと共に自分が何してるのかよく分からない状態(進行形)なんですけど、でも月の後半にはあれ、そう、あれみたいな、ふわふわタ、ドリームタイムに入るので、それはそれでいいのかもしれないと思った。

 というか急に、腰を動かせなくなり、マジでひいた。歩けないの、いや、歩けるけど、超ゆっくり。帰宅途中でマジ助かった。五分の道が倍以上かかった。丁度一年前にも似たようなことが起きて、その時も「え? マジで?」とか、友達で、同年代でぎっくり腰になった人とかのことを思い出す。俺はぎっくり腰ではない(ガチの人は何日か寝たきりになるらしい)はずなんだけど、まだ痛みが引かないというか、単に極限に運動不足なんだと思う。人の話やネットの話を見るに、「ガチぎっくりごし」ではなく「割とぎっくりごし」なんだと思う。何だそれ。やめてくれガチで。

 体調の悪さやら雑務やら求職やら、気分が最悪な時にする読書もまた嫌な気分を引きずったまま、可能亮介の『圧縮文学集成』を読んで、え? とプチギックリ腰気分になった。前作のようなものを期待していた、というか、勝手に前作の『圧縮批評集成』の批評の部分を求めて読んだら、そういったものはほぼ収録されず、小説や詩や戯曲が収録されていて、その中で一番初めに収録されていた小説が、まあ、「え?」だった。

 一応連作のようにはなってはいても、俺はそれを習作にしか思えなかった。というか一番初めの短編が、マジで、どうかと思った。文章を見ることのできる、批評の上手い人の、習作。色々な萌芽のようなものが見える、だけで、アイデアが形になってないような、何とも読んでいてもどかしさを覚える小説で、柄谷が帯で褒めているのがさっぱり分からない。下手とか巧いとかではなく、そういうのを目指したとしても、文が巧くは機能していないというか超雑に言うと、保坂風味町田風味前衛風味、みたいな感じだと、少なくとも俺には感じられて、げんなり。でも、俺最初に中原の小説を読んだ時も「コンセプチュアルアートっぽさ」が鼻についてどうかと思ったし、可能の小説も読み返すと何か感じられるようになるのか、とも思ったが当分読まないだろう。
 
 で、続いて収録されているのが戯曲。俺は戯曲が、というか演劇を解さない、けれど読む。この本に収録されているのは可能が20代の頃書いた戯曲らしく、ちょこっとベケット風味というか、熱心なモノローグというか、「文学」っぽくて、だから、そこそこ理解(受容)できて、そういう発想をした自分にげんなり。でも、マジで演劇とかよくわかんないというか、俺には演劇に反応する力がないですはい。

 で、げんなりはまだ続いて、高橋源一郎の最新作『「悪」と戦う』を読んで、ふくーだかずーやが高橋の『ゴーストバスターズ』(俺は多分この本を読まない)への短評「恥知らずの一言」が想起され、「ふくーだ、で、てめーこそ恥知らずだろ」、とか思ってる自分にげんなりふくーだ、高橋二人に、いや自分にげんなり。げんなり祭り!! フィーバー!!! ぽっぷんみゅーじっくフィーバー中古なのに定価越え!!!

 少し前に出た「ソウルトレイン」も、え?、『ニッポンの文学』は?とか、とても手前勝手な感想を抱いたんだけれど、(可能の小説等に関しても、彼が無数の石ころを愛でる、みたいな至極まっとうな発言への「あんたも他人から見たら石ころやん」とかいう、「まっとう」な「感想」を抱いたことを想起)げんなりは続くよどこまでも!! 高橋の最新作は、おっさんが無理してライトノベル風純文学書こうとしたような、しかし作家生活を40年続けている作家の作品だから、とりあえず読めてしまうし形にもなっているらしい、とかげんなりな小説でした。


 で、げんなりげんなり言っているのは、要するにそれを受容しようとする俺の側に問題があって、俺が彼らの作品に真面目に向き合っているかといえば、そうでもないのだ。でも、俺はげんなりしていて、こんな色々とクソみたいな状態でまともに他人の書いた「あんまり好みではない」ものに向き合うなんて、考えられない。そんなことしてたら、どっかの他人をぶん殴ったり罵声を浴びせたりしなければならなくなるよ!! 怖いね!! 俺平和主義者だし今はやりの屍系男子だし!!

 本当は、というか、ずっと休みたい休みたい仕事とか休みとかお金とか考えたくない、と思っているのだけれど、そうはいかない。適当に時間を埋めなければならなくて、その大部分を、俺の場合本が担当してくれているのだから、仕方がないので本を読む、金井美恵子の文庫版の『柔らかい土を踏んで』

 これは単行本版とは違って、最後に対談が収録されているんだけれど、珍しく金井が自作についてのびのびと、楽しそうに語っているのを目にして、なんだか元気をわけてもらっているのに気付く。金井の文章の、過剰な、様々な交通の喜び。それを語る金井自身は、なんだかキュートだった。

 あと、やっぱり金井が自分を「賢い」と自認しているのが、よかった。金井のこの対談とか、エッセイを読んで不快に感じる人もいるだろうが、金井は実際に「賢い」し、「賢い」ことなんて大したことでもないことを知っている(はずだ)から、「正しい」のだ。賢く見られて喜ぶ人間が自分を賢いと自認しているのではないのだから。

 作家や、そういう職業の人は、やはり「賢く」なければ駄目だと俺は思う。確かに、賢くなくても魅力的な作品やらを作る人はいるけれど、そういう人は例外と言うか、プラスアルファがあるからいい。でも、文章やら芸術やらに従事しながらも自分の賢さからは逃げようとしている人は結局のところ、不勉強な自分を相手(社会、業界)に許容してもらいたいだけなんだと思う。「友達同士」での話し合い、とかならいいかもしんないけど、でも、事態はそうじゃないっしょ?

 たとえるなら、アイドルって容姿やキャラクターとかで売り出すじゃん。そのアイドルが最初から客に「私顔に自信がなくって……身体も普通だし……」とか言ってるようなもんじゃん。自分の魅力を売りだせっての。受け入れられることばっか考えんなって、思う(勿論顔がどうだとかいう話ではない)。

 金井の文章を、対談を読みながら、「日記」ではなく、小説を書きたいな、と思った。きっと、それができていないから、自分自身げんなりしているんだと、そう思った。

 いくつかのイメージがふわふわ浮かんで、それを書きとめてはいるものの、書きだすまでには至らずに、イメージがイメージのまま、断片として、ばらばらになっている。それをまとめるのは、というか誰にとってだって、何かを作るのには労力やら、気持ちの余裕やらがいる。特に俺は根気なしで、すぐ、「あーもーいいや」っていうか、さあ、為すべきことなんて、きっとないんだ、何もない為すべきことなんて、でも、やりたいことは、やりたくなることは、ある。


 その為に、家のクーラーをつけて(リモコンをなくして一度も使ってない!!!! 極限に気持ち悪いってばよ!!)、仕事なんて考えないで、やりたくなるときの為に備えるのも、いいのかもしれない。てか、数日後に面接が入った。正直、バッくれたいけど、とにかく一度行くには行く。辞めるのはいつだってできる。疲れることを考えない方がいい。


 なんだかんだいって、やっぱり書いてないと駄目になるし、考えられなくなると駄目になる。暑さやぎっくりごしや仕事がその邪魔をする。しょぼい戦い。これは断じて「悪」でもないし、繰り返される日常なんかでもない。当然。金井みたいに、とはいかなくても、少しは楽しんでいるよ俺もきっと。