低級地獄にご相伴

なんてことは馬鹿げているのだけれど、俺は馬鹿げているのでそんなことをしてしまって。そんな気分でげろげろだらだらと生活をしていたのだけれど、そんな中でも少しは嬉しいこともあるのだ。

 佐藤ラギの『人形(ギニョル)』が百円で売っていたのだ!ありがとう!B○○K ○FF!一度図書館で借りてしまったのだけれど、この本はかなり欲しかったのだ。だって表紙に映っている人形が吉田良の人形なんだぜ!で、肝心の本の中身はっていうと、まあ、ホラー小説っぽい感じのです、表紙が吉田良じゃなかったら、百円でも買わない気がする。

 悪魔とか耽美とか天使とか人形とか、俺の食指をそそる様な題材の小説を目にする度に失望を重ねてきた。どれもこれもが題材はグロテスクだったりスキャンダラスだったりしたとしても、その文章と言えばちっとも題材には相応しくない凡庸な文体でご丁寧に説明をしてくれるものばかりだった。神話を語る際には恐ろしい文章なんて必要がなくて、「多くの人間が問題なく理解できる」文章が必要なのか?まさか!

 その点、俺の嗜好から外れている(一部の)人々の本は安心して読める。この違いは何だろう、と考えると、小説に限らずに、わくわくして読める本と言うのは、作者がその方法、文体に自覚的かどうかというのは大きく関わっているように思える。趣味嗜好、の前に、例えば小説という表現形式を選んだとするならば、その小説自体も愛さなければならないのだ。俺は小説が好きな人の書いた小説を読む方が面白いのではないかと思う。実際にはそんなこと分からないし、感覚で言うしかないけど。でも、そこに苦悩の痕跡を見れないのは、少し疑問に思う。面白くない、ただ題材だけがスキャンダラスな小説を読むときには、この人は小説が好きではないのだなあと感じる。苦悩が、書きたいことがあるのは当然としても、作品を捧ぐのは小説で、著者自身ではない。小説が著者自身の為に書かれていることは当然としても、あくまでそれは「小説」に従事していることを忘れてしまうと自己陶酔のぶちまけという羽目に陥るだろう。

 恒常性に生かされている人間は、おそらく悪魔でいられる(と錯覚できている)瞬間は短い。皆悪魔が好きなはずなのに、自分が悪魔になることまでは考えようとも実践しようともしない。皆、頑張って悪魔になろうぜ!てなことを言って人とアレなかんじになりまいた、が後悔はしていません。皆も周りの人を招待しよう!