数年前には、男の子は皆犯罪者か芸術家になりたがるんだって思いこんでいたけれど

文章ばかり書いていた。少しは気分が良くなった。この先を思うと寄る辺の無さに薄ら寒くなるけれど、考えずに書いていられる今がマシなのかもしれない。

 思えば俺は「小説のこと」を常に考えてはいても、「小説を書くこと」は常に頭の中にあったわけではなかったのだ。知りたいことや知らなければならないことは幾らでもあるし、誰かの堅牢な、素敵な作品に触れることは精神衛生上とても良い事なのだ。積み重ねる物のない日々に、最低限の張りを与えるのだ。

 笙野頼子の論争本を三冊読んだ。思うところは沢山あったのだが、本気でこれに言及するならば、論争相手の著作にも目を通さなければいけないことになるだろう。自分にとって魅力が薄い人の本でも読む必要性にかられてしまう。俺が、論争というよりも、社会学への関心を削ぐ理由がここにある。そんな時間があるのか?興味の薄い人間、事柄にぶつける情熱が?

 無数のイメージを夢想するのが好きだ。きらきらしたイメージ。俺にとって都合の良い世界。自分がまともに生きていける時間は思っているよりも、楽観視しているよりも、少ないかもしれない。他人の素敵な作品よりも、自分の作品のことを考えるべきだ。小説を書くことはリハビリだ。現実世界に秩序を与えることだ。

 大学生の頃、俺はミニマルアートに心を奪われていた。ジャッド、ニューマン、スティル、中でもダン・フレイヴィンが特に好きだった。文章にも似たようなものを求めていた。簡潔で、削ぎ落とした、そっけない文章。ジャコメッティの彫刻のような文章を目指す。

 そのせいか、ただの怠惰か、俺は文章を書き惜しむようになった。しかし、今は違う、とにかく書く。後でくだらないものだと思ったとしても、とにかく書く。ジュネのように我儘に、行うリハビリテーション。数日前にはベルニーニのことを小説内に書いた。ジャコメッティに並んで敬愛している彫刻家だ。滑らかな白い固い肌の恍惚。好きな人のことばかり考えていられるならば、好きな人の幸福や不幸について考えていられるならば、下品きまわりない労働もつづけられるように思う。

 自分の中にある恣意的な、または金銭で手に入る無数のイメージが美しい物だとして、おれはそれを享受し続ける生活力がないのだ。そういう人間はとにかく作るべきだ。