恭しい茨の……

 小説を書き上げて、少しほっとしたような気分と共にだからどうなるのだという気持ちが沸き上がる。この先の展望が無いと言うのは暗澹たる気分になる、ということを何年も繰り返していると流石に、自分の耐久性に対して真剣に考えるようになってくる。

 いかに死ぬか、というよりもいかに生きるか。こう書くと一見前向きに見えなくもないのだが、鬱々とした日々をどうにかしないと、本当に俺は何も意味もない生を消費し続ける。というか、してきた。その代償を様々な場面で痛感する。

 昔のことを忘れる、新しいことに二の足を踏む、なんてことは誰もが経験しているはずだ。ただ、自分自身にエネルギーが活力がないと、様々な嫌な思考にがんじがらめになって、思考が停止する。その状態を自分自身で望もうとしている。

 そんなのは嫌だ、と思ってもやはり展望はない。自分がお金を稼ぐ能力が絶望的に無いことに、何だか他人事のように「すごいなあ」と思ってしまう。一度きり、なら割と何でも平気なのだが、定期的に人間の集団に入るかと思うともう頭がおかしくなる。

「みんな」がそれをどうにかこうにかであっても、していることが不思議でしょうがない。何でみんなできるんだろう。何で俺はできないんだろう。

 生きよう、自分を愛そう、愛してもらおう、という感情が欠如している。でも小説を書く以上、それらを持っている人間が出てくるのだからそれを理解する「ふり」をすることは肝要であって、小説をちゃんと書くために愛のレッスンをしよう、だなんて、馬鹿げている。誰かといても小説を書いていても、リハビリテーションだなんて。愚か。

 ただ、俺が好きな作家が口にする愛の言葉はとても気持ちが良いもので、そう、なんとなく俺もそう言うことを誰かに口にしていたような、文章にしていたような気になってくる。何かを作り上げる時にとても大切なのは、虚妄のような熱情だと思う。

 ふと、自分は誰かを何かを十分に愛していたのか愛着していたのかと思うと、茫洋たる気分に胸を刺される。世界はぐにゃぐにゃしている。あまりにも情報量が多くて俺はしばしば思考が停止する。愚鈍になる。

 狭い家の中には、たくさんのキリスト達、幼児の玩具や本。ちっとも成長できない。ただ、様々な症状が進行するだけだ。それでも、熱情があるとしたら、めまいをかんじられるとしたら、それは砂金堀りのような物だ。過敏で不感症の俺は、やはり砂金拾いを続けねばならない。

 綱渡り芸人、溝さらい。もう、嫌だなあと思いながら、自分が何かになれる気がしない。できることはきっと、己の為に書くことだけなのだ。書くこと、ぐにゃぐにゃした世界とコンタクトをとろうとする試み。

 ふとした瞬間のきらめきを錯覚を、いつまでも浴び続けることはできない。しかしそれらは俺の胸を刺してくれるのだ。刺されるためには、俺がそれに相応しい精神でなければならない。愛するために、あいされるために。刺されるために俺は。