愚かなけだもののように

 色々変化があって、よいこともあればそうでないこともあるというか、日々終えてあーっ疲れたーって感じだ。マジ毎日疲れ切っちゃう。え? 成人男性は大体そうだって? でもなー俺、生涯一、怠け者なので。

 軽い本ばかり読んでいた。疲れるとマジで頭を使う読書ができない。

 文豪の書いたラブレター とかそういう内容の本を読んでいたら、芥川龍之介が恋人に送った手紙がほんと、良すぎた。こんな人と結婚したい! って感じなんだマジ。相手への思いやりの上で書かれている文章。他の文学者の手紙と並べると、その素朴で愛情深くて思いやりがあって、平易な文章で書かれていて、彼の誠実な人柄にムネキュンするぜ絶対、って、ああ、でもそんな友達や恋人にしたい彼、自殺しちゃうけどさ! 

 それに比べて夏目漱石の安定の突き放した感じに思わず笑みがこぼれる。奥さんはアンドロイドと結婚、ばりの困難さだったのではないだろうか。

 あとは坂口安吾のがよかったなあ。思い煩いがありながらも、どこかそんな自分を観察しているような。深みにはまるのか、深みを覗き見るのか、という感が。

 ってなことを書きながら、俺にとってこの感想がそのまま坂口安吾への印象だという気がしてきた。

 他人の私的な手紙を見るのって、どんな言い訳があってもやっぱ品がないとも思う。でも、出版されてるものならさ、見ちゃう御免ね。

 『写真を紡ぐキーワード123―写真史から学ぶ撮影表現』大和田良

 を読む。

 写真史、といった内容の本は幾つも目にしてきた。誰が出した物でも、それなりに面白く楽しめるものだ。ただ、この本は珍しく、写真集を出している現役のカメラマンからの写真史(写真家)への言及と共に、テーマにそって、実際にカメラマンである著者が撮影をして説明をしている(前半が写真家、後半がテーマごとの撮影)。こういう構成珍しくない?

 写真家って、写真史、については語りたがらないものだと思っていた。美術家もそうだ。美術史を書く(出版できるような形にする)美術家というのは思いつかない。

 前半は写真家を取り上げ、説明と共に引用文献としてその人らが撮った本、写真集(の中身)載っている。これを見るだけで楽しい。評論家が書いた文章よりもずっとライトで読みやすく、手軽に色んな人の写真集についても一部ではあるが見られてとても楽しめた。

 それに加えて、簡単な実演、講義と言った感の、モチーフごとの撮影も載せられていて、これはこれから写真を撮るような人にはもってこいの良書だと思う。

 というかさ、これ見てたらマジ写真撮りたくなってきていて、でさ、写真撮るのにはやっぱそれなりの値段がするカメラが必要でさ、その上さ、俺、撮りたいと思っているのが頭に浮かんでるんだ。毛皮なんだ。高価じゃんか。カメラは用意できたとしても、毛皮(を着た人間)を用意するのは困難だ。なのに、俺、本当に撮りたくてたまらない毛皮がけだものが。

 ビーパルとか山と渓谷とかの雑誌読んだらさ、漁師のおじさんが自分で仕留めた狐(おかしらつき!)を首に巻いていて、超クールだった! ファッションアイテムとしての毛皮について、俺はフェイクファーでも成立してれば別にいいと思うけど、本物の毛皮のこと考えるとやっぱわくわくしちゃう。毛皮、欲しいマジ。

 撮りたいものがあって、でもお金が原因で断念するのってやっぱ情けない。でも、どうすればそれなりに見栄えのする毛皮(フェイクファー)を用意できるのだろう。ああ、真面目に生きて働いて毛皮のコートを買っていればよかったと数秒後悔。

 その本にはアーヴィング・ペンも載っていて、久しぶりに見た彼の写真はやはりとても良かった。俺はファッション写真に詳しくないけれど、俺は彼を一番「洒落た」「ファッション写真」を撮る人だと思っている。

 で、ファッション写真ってことは作り物だってことだ。

 そして作り物から遠く離れようとした、中平卓馬。そんな意識がなかったであろうウジェーヌ・アジェの写真が本当に好きなんだ。写真は物を映す機会だということに真剣に向き合った写真家だと思うんだ。誰かが見た景色が写真には写っていて、写ってしまっていて、それなのに匿名性があるのに彼らしか映しえない、かのようなそれを見ると、写真が目指すのはここなんだ、俺が見たいのはこういう写真なんだって思う。

 けど、「洒落た」作り物だってやっぱり好きだ。ラリー・クラークだってティルマンスだってとてもキュートだと思う。大好き。

 本書には俺が大好きなダイアン・アーバスについて語ったスーザン・ソンタグの言葉が引用されている。

アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集」する写真家であった『写真論』」

 以前も引いた、ダイアン・アーバスの発言をまた引用する。

 

 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。

 

 ほんといいこと言ってる。優しさとか誠実さとか挑戦とか、まるで芥川龍之介の恋文のようなムネキュン。真面目なアーバス自死を思うと胸が痛くなる。カメラになろうとして死んでしまったのか、とかいう余計な感傷さえわく始末。

 この本に、中平卓馬の『来るべき言葉のために』の海の写真が載せられてるんだけど、久しぶりに見たそれは、やっぱ、すごくてさ、俺にとって海って魅力的だけどとても怖いんだ。海を見ていると水葬、というか、自分が大きなものに呑まれて駄目になる連想をしてしまう、のに、何だか心が安らぐ、かのような思いを抱いてしまう。怖い海、その怖さをマッスを肌触りを捉える中平は本当にすごい。それに海はすごい。

 でもおれ、海よりもっと獣がけだものが毛皮が好き。

 動物園、行こうかな。動物園で檻の中の彼ら見るとさ、自分が猛獣を殺して毛皮を剥ぐ夢想が頭をよぎることがある。俺は虎大好き。虎長生きしてほしいけど虎を殺すならきっと一生折に触れて殺したことを思い出しわくわくしてしまうだろう。勿論そんなことはできない(逆に喰われる)から、荒唐無稽なことは小説とか写真の世界でどうにかするしかない。

 荒唐無稽な生真面目さも甘えも悪ふざけも、実生活でどうにもできないこと、何かでっちあげて感情の処理をしなくっちゃ。

 毎日、毛皮けだもののこと考えてる。この気持ちをどうにかして発散させなくっちゃ。俺には毛皮はないけれど、愚かさと少しの何かしらがあるんだよきっと。