お姫様お嬢様聖者様

一時期ホスト関連の話題がメディア上で頻繁に登場していたが、今はキャバ嬢関係が熱い。そういえば高校生向けのアンケートで、なりたい職業の一位がキャバ嬢だったそうだ。

 東京の女子高におけるギャルの比率が、メディアでの露出に反してたいして高くない(学校にもよるだろうけど)のと同様に、アンケートなんていくらでも操作できるのだから(そういった層を選ぶことも意図する記事の為にでっちあげることも簡単だ)たいした意味はない、のかもしれないけれど、現代の若い子がキャバ嬢でお姫様的な体験ができると考えても不思議ではないと思う。

 綺麗な衣装を着て着飾って男を手玉に取りお金を手に入れる。それを実現するにはどれだけ面倒なことがあるのかは勘定に入れない。とにかくキャバ嬢を目指す(お金につられてやるのではなく)ことができるような女の子にはお姫様へのビジョンを見ることができる。男とお金とおしゃれ。それだけでも、お姫様。

 でも、俺がお姫様という単語で真っ先に連想したのはロリータ服を身にまとう女の子のことだった。きっと、現代の日本で(簡易)お姫様になろうとするならば、きっとキャバ嬢かロリータになる道を選択するのではないだろうか。

 キャバ嬢やら夜の蝶関連に、俺は特別な勘定を抱かない。それは(あくまでお姫様、王子様志向の)彼女(彼)達が社会のコードの上での幸せを追求しているように見えるからだ。彼らの幸福は社会性やらポジティブシンキングやらと不可分で、単純にしてみれば「お金持ちの人と結婚したい」「好きな服着たい」「男の人に好かれたい」といった、普通の女の子が抱く希望の中にある。

 対するロリータ服を(甲冑のように)身にまとう女の子にはそういった志向は「好きな服」に突出していて、他のものは割りと低いように思える。普通の男子は「見る」には好んでもそれ以上のことを理解しないだろう。

 そうしたらロリータ服を着る女の子は普通ではないのだろうか?普通ではないだろう。それはあくまで社会から見て、という点において普通ではない、つまり、彼女達が特別な存在と言うのではなく、社会不適合的、マイノリティーという点で彼女達は普通ではないのだ。

 過剰なフリルや日傘やヘッドドレスやパニエで膨らんだスカート、それらは社会から身を守る、肥大化した自意識でもありエレガントな甲冑でもある。単純に可愛いからそれらの洋服を身に着ける人もいるだろうが、原宿辺りにいる完全装備の彼女達を目にすると、ロリータには武装という言葉が相応しいように思う。

 洋服を選ぶのも職業を選ぶのも様々な理由や事情が絡み合っている。俺がロリータの服を愛好する人に肩入れして、やや自分の都合のいいように解釈しているのは、俺がもし女の子(男なので、或いは美的観点からみて、自分が見に付けはしない)だったならば、きっとお姫様になりたいと思っていて、きっと、ロリータの洋服を着ているような気がするからだ。

 汚い自分も他人も嫌で、可愛らしい美しいものだけの世界にいたい。そういった幼稚な願望が未だに捨てられず、身体の中で燻っている。ロリータの洋服を偏愛する人には、こういった考えの人が多いのではないのだろうか?しかし俺は二十数年様々な品の(文字通り)無い行為を繰り返して、それでも憤死することなく暮らしてきている。そしてなにより、俺は「絶対」というものを何故か生まれつき信じていないので(「絶対」の証明は「絶対」にできない)、そのせいで情緒は不安定になるし些細なことでけ躓くし、そして、聖者に憧憬を抱きながらも、素晴らしい人間はいても絶対的な聖者なんていないのだ、と生まれつき感じているのだ。

 それなのに、俺には聖なるものが必要なのだ。様々なものを微細に分析し、否定しながら判断を保留しながら悪態をつきながら、上手く構成された芸術作品を求める。純度の高い夾雑物の入り込む余地のない連鎖反応は、受け手の志向性を導く堅牢な秩序があり、それは聖なるものに極めて近いような気がする。

 俺が女の子だったらきっと、毎日本を読むなんて真似はしないような気がする。フリルを目にするだけで、身に着けるだけで社会で暮らせるような、そんな女の子になっているような気がする。

 朧な光の明滅を追って、何だかよく分からない状態で、俺はまだふらふらしている。信仰心を失いながら信仰に極め近いものを求めるせいで。ロリータの服を好む女の子の中には、そのフリルが(他者存在のまなざしではなく)、自分自身を摩滅するような魔力を秘めていると感じている子がいるだろうか?「本当」に、私がフリルを着て、「純粋なお姫様に(笑う所でしょうか?)なれるの?」
 
 可愛らしい洋服を身に着けてそんなことを考える子いないだろうが、会ってみたいなと、思う。