突然、通俗小説のごとく

 数ヶ月前にある病気で、短期間だが入院した友人から電話がかかってきて、その友人の体調が未だおもわしくないらしく、俺も「もうすぐまた無職だぜ!」と返すと「いや健康が一番でしょ」と浮かない返事が返ってくる。俺はてっきり治ったものだと思っていたのだ。きっとその友人もある時期まではそうだと思っていたのだろう。大丈夫だと思っていた後の落胆のやるせなさは容易に想像がつく。

 その友人の家は裕福で自営業だから、失職の心配も寝床の心配もないから、と思っていたけれど、話を聞いてみると命にかかわるようなものではないものの、これからまた近々入院をして手術をしなければならず、その後もその病気に付き合っていかなければならないということらしく、俺はその友人の生活基盤は盤石だったことに安堵した。

 会話をしながら、俺は「考えてよくなるものでもないから、気晴らしとかをした方がいい」といった内容のことを告げ、また「いや、まあ俺もそういうの苦手なんだけどね」とも付け加えた。

 俺自身が「あいた」な生活を送っているのだから、しかもそれを解決、改善できないのだから、人に声をかける際にはついつい自分で突っ込みを入れずにはいられないのだ。「いや、まあ俺もできてないんだけどさー」「てか俺もすぐにね」「俺が言うのもあれなんだけど」

 もし、「こいつアホじゃねえの?」と思われたら幸い(でも大抵の打ちひしがれている人は真剣に聞いてくれている、ように思うのだけれど)、たいていの場合、大した力になれはしないことは知っている、けれども大したことじゃないことでどうにかなる時も、たまにはあると思う。

「てか俺もーすぐ無職だし電話してこいよ」と頼もしい台詞をはいてはみたけれど、用もないのに連絡をしづらいのは、用があっても自分からは連絡をしたくない俺が十分承知しているので、とまで書いて自分がクラスになじめない中学生かよ、と思った、微妙になじんでましたよクラス。

 ふと、俺がその病気になったらアウトだなーとも思った。実際には、どうしようもなくて親に泣きつくのだろうか?だからといって建設的な生活を送るべく努力をしよう、等とは思わずに、できる時間のうちにさっさと「ゲーム」の続きをしなくちゃ、と思う。結局俺は身体の機能に甘えつつも「ゲーム」に救われる掬われる足元、自分が地面の上に立っているし地面があるし地面について多少知っているし、という幸福。
「突然、通俗小説のごとく」それが奪われることを心配するよりも、俺もあの人も好きなのは「ゲーム」