君は何人

キャラクターばかりかいていた。そういえば、一番初めになりたいと思ったのは少年漫画家だったことを思い出した。少年漫画描いてる気分、だった。

 書きながら澁澤龍彦浅田彰について考えていた。この二人の名前を知ったのはほぼ同時期だと思うし、どちらの名前も、見つけたら本を手に取るようになっていた。

 けれど、思想に興味がわくと澁澤が物足りなく思えてくる。彼は「趣味の良い」サロンの人間だった。王国の魅惑的(と言ってもいい)な君主。しかし、かといって浅田のように「完全に過去の遺物」と切り捨てるような真似はできなかった。

 その浅田に対して高原英理が「浅田の言う『ポスト』は死んで澁澤は残って愛されている」といった趣旨のことを自著で発言していたのも、何だかもやもやした気分になった。

 澁澤が浅田に言及した文章を俺は知らないのだが、浅田は何度か澁澤を切って捨てる発言をしていたように思える。アプローチは違くとも、二人は結構似ている人物だったように思える。残酷な王国を精神と本とナルシスで作り上げるか、残酷ささえ許してくれない王国の探究を極めて真摯に勤めるか。幻想的な口づけのような美術も、美術のごとき幻惑と堅牢さをもった思想も、どちらも素晴らしい、王国だ。俺も王国の住人になりたいな、と、思っていたこともあった、けれどいつの間にか何で自分がそう思えないのかと思うようになっていて、俺は道端で見上げる城壁。

 キャラクターのことばかり、世界の設定資料について考えていると、自分がどこかの王国の住人になれるような気がしてくるのだ。

 でも、それも終わる。一日中パソコンに向かいっぱなしで、体調や気分がすぐれなかった。思考する時間がすくなくて幸せだった。王国探しよりもなすべきこと? それともまた別の?こんな考えはただ辟易するだけ、ど繰り返す。

 以前つげ義春の『夏の思い出』という短編集を持っていた。つげの作品は、時代を考慮に入れたとしても、物によっては出来が悪すぎるものがちらほら。この短編集にはそれが沢山収録されていた。自身でそれに触れているのだが、貸本屋時代に金の為に書き散らしたにしても、ひどい作品。

 そんな中で、自分で描いた少女向けの「つまらないお涙ちょうだい漫画」を再読して、何故か胸にきた、とつげは語っていた。

 俺も自分でキャラクターを書きながら、胸にきていた。こんな話がいいのか。と。こんなのが?しかし、それでも一応色々とさらさら読めるように工夫、というか意匠を削り感情移入できる隙を残す、なんていう風な言葉を使わないようにするとだらだらと漏れる言葉。ポップソング
のようなキャラクターの言葉。しかしもうそれはない。書き終えてしまった。他人の作ったゲームに早く逃げださなければそれか、王国へ。