ディスイズスティルオーケー

 首にしてくれ首にしてくれ首に、と思いながらする雑務、それにしても首、って中々インパクトのある言葉だと思う。首。彫刻で頭部の像の事を何故か「首」と呼ぶけれど、舟越保武萩原朔太郎の「首」は結構好きで、保武自体はそこまで好きでもないのだけれど(でも二十代の時の、木で出来た痩躯は好きだ。題名を失念したのが悔しい)、優れた彫刻家が凛々しい詩人をモデルにするとああいう作品が生まれるのか、と何だか幸福な気分になったことを覚えている。

 以前友人の習作のモデルとして、粘土の「首」になったことがある。アルバイトでもしたことがあるのだけれど(しかし着衣だ)、モデル、というのはじっとしていなければいけないからそれなりに大変、ということになってはいるが、俺の場合「ぼーっとする」口実が出来て助かる。特に友人の申し出を受ける時には、役に立っているのかな、とか、仄かに心地よくぼんやりと、喫煙者が煙草に口づける時はこんな気分なのか?

 出来上がりに近い俺の「首」は、当然だが俺に似ていた。作品というよりも、簡易な素描みたいなものとはいえ、他人に描いて、作って、撮ってもらうことには不思議な気持ちになる。気恥かしいような少し嬉しいようないや、それよりももっと、不思議な気分になる。

 少し、友人が「首」の台座を動かしている最中に、俺の「首」は落下した。俺の原型をとどめたまま、顔の三分の一が俺ではなくなっていた。二人で「あーあ」とぼやき、友人は「首」だったものを拾い上げて粘土を混ぜ合わせる機械の中に落とた。スクリューの刃で瞬く間に、俺の「首」だったものが破砕される。それは不思議な体験ではなかった。快い体験だった。

 ウィザードリィ、というゲームがある。1981年に発売がされ、ひたすらダンジョンにもぐって敵をやっつけお宝を手に入れ罠をかいくぐる、とかいう感じの内容で、システムは古臭いながらも今もなお一定のファン層を獲得している。システムを古臭いと言ったが、それが愛好者にとってはウィザードリィの大きな魅力になっている。ただ潜る為の地下迷宮があれば、後の演出なんてどうでもいい、むしろ不必要なのだ。名前だけの冒険者達、に次第にプレイヤーは感情移入していく。

 このゲームはかなり高難易度で、マップには意地の悪い罠が多数ある上、敵が強いのにレベルは上がりにくいし、やっとレベルアップしたのに能力は下がるし、おまけにレベルドレインをする敵までいる始末。しかし、戦線をかいくぐっていった緊張感が、次第に「名前」に愛着を物語を与えていくのだ。中でもウィズをプレイしたことのあるプレイヤーなら最も印象的であろうことは、何時間、何十時間もプレイを共にした主人公達が、二度の蘇生に失敗すると、ゲームから消えてしまうことだ。死体から、灰になり、そして、消滅。一応リセットという救済措置もあるにせよ、運が悪ければ死んだら灰になって、消えるんだ、というシステムは気のきいたものだと思う。

 ベニー松山、というとスタジオベントスタッフもといアルティマニアという、大体400〜600ページもある分厚すぎる攻略本の人、というイメージがあった。主にスクウェアのRPGに対する本を出していて、攻略本というよりも設定資料集という感のそれらの本は、俺のかなりのお気に入りだった。だって、酷いのになると、一つのゲームに対して同じ出版社から「アルティマニア」が三冊も出ていて、合計1500ページ分の情報が載っていたりすんだよ。そんなやりすぎ感が俺は大好きだ。

 その本のスタッフであり、アルティマニアの巻末に小説を書いているベニーさん。彼が若い頃にウィズのノベライズ小説を二冊手がけていた。『隣り合わせの灰と青春』と『風よ。龍に届いているか』。合計約1000ページ、一気に読むことができた。てか、『隣り合わせの灰と青春』って、題名、かっこう良くないか?

 ノベライズ、特にファンタジー小説について愛好家ではなく大した数を読んでいるわけではないのだが、個人的に少し否定的な印象を受ける場合が多い。それは若者を対象とした軽い読み物、といった位置づけにあるものだから、なのかもしれないが、俺が連想するのは「メイク」。化粧を一切しない俺だが、多くの場合メイクというものが「引き算」で成り立っていること位分かる。多くの「ファンタジー小説(に類するもの)」は足し過ぎているように思える。それも書くことに自覚的とは到底思えないせいか、説得力のある、筆力のあるグロテスクとはかなり離れて。

 また、文章の中で説明と言う名の言い訳(と俺は感じる)が多いのも気になる。なるべくならそんなので納得させようとしないで欲しい(キャラの会話とかで示唆して欲しい)し、また「何でその魔法(超能力)が使える世界に彼らがいるのか」という動機づけが弱いような、その世界で実際に暮らしているような感じが薄い、ような気がしてしまうのが多い。ラブコメとかならともかく、できたら、魔法が使える「代償」をきちんと書いて欲しい。こっちの世界だって本を読んだ文字を覚えた咎を受ける羽目になるのだから、それって普通の事だろ?

 ベニー松山の小説はそういったものとうまく距離をとっているように感じられた。彼の「ノベライズ」小説が(ゲーム愛好者にとって)かなり評価が高いのも、実際に長編を読んでみて納得できた。しかし「魔法」がつかえてしまう世界なのだから、いや、世界が「ファンタジー」なのだから、割と御都合主義な所もある。けれど、「ファンタジー」ならばかっこよくってなんぼだとも思う。かっこいい。いいことだろ? 化粧の無いファンタジー小説なんて。まあ、俺は、ちょっと読みたいけれど、そんなものが出版されるわけがないだろう。現実だって恐ろしく「ファンタジー」だしね。俺も、ファンタジーの中に放り込まれている、だって、なあ、首を、首の破砕を思いながらなんだかんだで死体にも灰にもなろうとしてないじゃないか楽しんでるんじゃないか糞野郎。