品なし

だますつもりだったのだけれど、保健証はまだ使えた。でも、父が定年する来年の三月までらしい。とりあえず助かった。で、二日で、保健証の三割負担が1あって一万円が飛んだ。初診やら器材の検査やらがあったにせよ、少し引いた。自業自得ではあるけれど、金ない奴は(「普通」のフリーターは健康保険証なんて持っていないはずだ)治療の対象外ってことか、と今更気付いた。別に向こうだって営利団体ではないのだ。

 心療内科で色々と居心地の悪い思いをした(淡々と仕事をこなしているあちらに非はないのだけれど)、処方箋の代金も入れて、一回5000円もかかったのは、心底驚いた。保険がきかなかったら、数十分で一万五千程度のもうけがあるらしい。器材の初期投資もほとんどいらないだろうし、ぼろい商売だなあと思う。でも、以前のように途中で出て行かなかっただけまだましだった、いや、俺は出ていくべきだったのだろうか? 

 ドクターではないカウンセラーに因る糞みたいなカウンセリングもどきを受け、適当に話を合わせていたのだけれど、馬鹿な女目当てでキャバクラに来る男に「本当に○○はおばかさんだなあ(ハート)」とかいわれて「もう○○さんったら! 私ばかじゃないもん!」と怒ったったふりをする、みたいなクソ寒いやりとりを想起した。でもそれを言うべきかと思いつつも口には出さなかった。その女性が親身になっているようなマニュアルをこなしている、俺には殺意を抱かせるようなものであっても、彼女は仕事をこなしているのだから、それに付き合うべきではないのだろうか? そうだろうか?
 特に後でカウンセリング代という名目で500点(値引きされる前の5000円相当)という値段に殺意を覚えた。生理的に合わない糞女が「うん、そうだよね」とフレンドリーに言っているのに金を払うなんて、なんて悪趣味な拷問なんだ。

 それはドクターとの会話でも続く。俺は、患者は或る態度を求められている、それを無意識に演じる。空気を読むのだ。自己愛がよほど強くない人でないと、逸脱はしない。俺は自己愛があまり強くない方だと思うが、その分、別の意味でとても品がないのだ。

 ドクターの方が「にこやか」でも「フレンドリー」でなく事務的である分ずっと好感が持てたが、現実的に一週間で5000円も払うなんて生活が安定している人しか出来ないだろう。それに内科にも通わなきゃいけないのに。普通に輸入代行で購入した方が安いなんて、ジェネリックがあるにせよ馬鹿げている、と俺は思った。あ、医療費が三割負担になったのも多少は関係あるかな? で、もうすぐ俺の医療費は10割負担になることだし。

 親と電話やメールをして、口汚い言葉の応酬があり、それは俺がこういった状態になると必ず怒り、しかも何度も同じことを反復しているのだ。正直つらいとか苦しいとかではなく、何も考えられなくなってしまうのだけれど、どうしても認めたくないことは誰にだってあること位俺は知っている。

 しかし、俺は彼らが俺を心配しているのは知っている。うちは「普通」の家族だと思う。でも、親だからって、仲良くできるとは思えない、それに、俺は金が欲しくて連絡をしたのだ。多分、少し貰えそうだ。それだけでも十分有難い。感謝しています心から。God bless you too.

 少し前に東浩紀の『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 』という本を読んでいた。彼が編・著に携わった作品は二十作近く眼を通したはずだけれど、特にファンというわけではない。すごいなあ、とは思うけれど。でも、「頭がいい人」の気軽なおしゃべり(東は軽めの本を多数出版している)を図書館で「ただで」目にすることができるなんて、とても素敵な暇つぶしだと思う。

 はっきり言ってその本は暇つぶし以上の意味をほとんど持たないものだけれど、シンポジウムの中で、参加者の一人が「東さんわざわざ西洋哲学のタームでオタクとか文脈に押し込んで語ってるの寒くね?」みたいなことを言って、けっこうヒステリックに東が反論しているのは印象的だった。そして、それは東に分があるように思えた。こんな状況で読み返すわけないので、細部は違うかもしれないが、要するにどうしたって自分は主観的にしか語れず、それを止めてしまってはこれからの評論の世界が貧しいものになるだろう、みたいな、まっとうな意見で、そう、まっとうだと思うながらも、いつも感じる違和感を覚えた。

 何度も書いているが、東はシンポジウムやら対談に、自分に批判的な意見を持っている人間や、「異質」を加えるのを好む。それはとても模範的な行為で、話芸のない(しかし一定の既得権益を保持している自分達は自分の発言が有用なのだと「確信している」のだ)人間の褒め合いやら提灯記事やらのなんとも多いことを思うと、彼の態度はとてもすっきりとした、印象を受ける。

 けれど、その東の求める「異物」やら「誤配」やらの闖入は、どこか想定の範囲内にあるように思えてしまうのだ。同じような人が集まる。彼らの根にはきっと恒常性がある。承認への強い渇望。悪いことだろうか? 悪いなんて誰が言えるだろうか。でも、そればかりを目にしていると、吐き気がする。貧しい世界。マクドナルドだけの世界。本当に、承認で心が溶けるのか?

 ずっと、俺は恒常性について思いを巡らせていた。それは人間を貧しくしているのではないだろうか? 恐ろしくなる。恒常性を称揚する社会に合わせなければならない、と思いこんでいたし、実際、恒常性は俺に様々な恩恵を与えいてる、半身でもあるのだ。恒常性への絶え間ない愛憎。

 
 俺は信仰をもったことがないのにも関わらず、原罪、のようなものを信じている。何で、様々なことを許して生きて行くのだろうか? 赤信号みんなで歩けば怖くない、のような幼稚なそして絶大な論理にからめとられているように思える。恥ずかしい、として、その周知が死で抗われるものでもないこと位自覚している。

 帰依なき信仰こそが、それにいくらかの慰めを与えてくれるように思えている。少し前、森有正のエッセイ、思考の断片を読みながら、スピノザとキエルケゴールを読みなおそう、あとヴァレリーも再読しなければ、と思っていたのだけれどあまりその体力が続く自信がない。ともかく、今は身体を休める為に、ひたすらゲームセンターCXのDVDを見ている。エンドレスリピートだ。DVDボックスを買おうかすごく悩んでいる。診察に行かなければ余裕で買える。レンタル版ではないセル版はかなり特典映像があって、二枚組で6、7時間にもなるのだ。最高のヒーリング・ノイズ・ミュージックだ。時折、楽しそうな声がする。最高じゃないか?

 この先も小さなウソを重ねながらコミュニケーションをしてお金を稼ぐのだ、と考えると、もう、そろそろ終わりにしてもいいのかもしれないと思う。薬を飲むと思考が散漫になったりして軽い本しか読めなくなる。でも、薬は確実に、自殺する為の後少しの元気や、思考の切断を約束してくれる。

 きっと俺は正直に、死にたい、だけでもなく、殺したい目の前のお前を殺したい(以下くだらない長文につき略)と正直に告げるべきだった。どうせそんなことはしないのだ。するならば、(こう言った類の心身喪失、いや、白痴的犯行は)突発的に行われる。迷惑をかけない客であろうとするのではなく、正直に話そうと思う。何にせよ。そうでないと、頭がおかしくなる。薬だって、大した効き目ないから、本やらゲームやら映画やら音楽やらに頼っているのだけれど、それが今の状態では満足にできないのだから、何かで発散するしかない。

 でも、これって冒険者っぽいね。ゲーム脳なんで俺。