やっちゃったやったー

「普通の」本を読もうとすると活字が幾つかの塊になって頭をがんがん殴ってくるので読書どころではない。渋谷と原宿へ買物に行く。

 歩きながら、Ceiling TouchのPURE RIVERという曲を何度もリピートしていた。マイナーコード(でいいんすか?)の切ない旋律を繰り返す、ピアノと女性ボーカルが爽やかでどことなく物悲しい、ハウスミュージック。良質の、どこにでもあるようなどこかで聞いたようなしかし初めて聴くことになる(当たり前だ)ハウスミュージック。

 あくまで踊りの為の、ハコの為の、快楽の為のミュージック。定番の展開やらコードやら、しかし、それは一部の人に求められ続けていて、また、それは心地よい、そして俺にとっては物悲しい。繰り返される快楽のやましさこちよさ。

 また、それはあくまで「小説を書く」という立場の俺から見た、「批評家」への立ち位置への疑問にも通じる。何故、ある人は「批評家」になる、なってしまうのだろうか? 批評と言う行為に、ハウス。ミュージックに通じる物悲しさとやましさここちよさを感じるのは俺だけなのだろうか?

 柄谷行人福田和也が、屈折した「批評家としての私」に関して、短い言及をしていたように記憶している。対して浅田彰の「常にクール」な態度やもはや軽やかにすら見えてくる蓮實重彦、アグレッシブ過ぎる東浩紀、そんなことを意識していないであろう、東チルドレンと呼んでも間違いではないような書き手たち、或いは最近名前を知った大澤信亮や可能亮介といった整理の得意な或いは挑発的要するに俺がわりと好みの批評家、らの名前と多少離れた位置で(彼の内情を知らない知る由もない)「頭のいい兄ちゃん」として振舞うことができている(ように思える)石川忠司
 
 といった人物について、その著作について思いを巡らせると感じる物悲しさと心地よさ。ハウスに似ている。それは、きっと彼らが世界(社会)との親和性の或る一定以上の高さを示していることに起因するのだと思うのだ。コクトーが「批評家なんていらない、芸術家だけいればいい」といった趣旨の発言をしたが、それが暴言だとはどうしても思えない。

 何故彼らは「他者について語らねばならないのか?」「他者について」「熱情を持って」踊る為の、快楽を肯定するかのように彼らは!

 しかし俺は批評(家)にもハウス・ミュージックにも、「そこそこ好き」だが真剣に向き合っているわけではない、のだけれど、彼らについての考えが頭から離れない。真剣にはなれないのに! 真剣になるって、恐ろしいことだ批評家として生きるDJとして生きると同義だ! 

 というのはあまりにも大袈裟にしても、己の親和性の低さと予め用意されている断絶とがその原動力となっていることは自覚している。

 「彼らはハウス・ミュージックを聞いて作って或いは批評家に成って(分類分けが大した意味を為さないにしてもそう自覚したとして)、悲しくないのか?」

 と俺は訪ねてみたいのだけれど、この問い自体がかなり馬鹿げていることは自覚している。生活している人に生活は「やましくも心地よいですよね?」と告げるようなものだ。

 けれど、それを感じてしまったのだから仕方がない。

 
 ハウス・ミュージックと批評に関する通底する物を感じ取る、という考察をどうにか小説としてまとめる、言及できないものかと考えていて、その前に片づけることはあるのだが、本が読めない状態で聞く、心地良い、「ループする」音楽は大変ありがたい。こういった思考の断片が面映ゆくとも、こういったグロテスクな集積で、どうにか歩いて行ける時、もある。

 原宿と渋谷を歩く。冷たい風が心地良い冬だから。

 この前たいして期待せずに購入したうちの一枚、myloのDestroy Rock & Roll がかなり好みの、ほぼ捨て曲なしのアルバムで、綺麗なハウスに疲れた後は繰り返してipodで聞いていた。エレクトロ寄りハウス、なのだが多彩な曲調でアルバム通して退屈せずに聞ける。題名に反して、いや、即して、とてもクールでポップなアルバムだった。冷たい風が心地良い。相性がいい、渋谷と原宿とも。

 この時期に来てしまったということは、まあ、セールをしているということで、セールって言っても大抵目に着くのは「セール対象外」の普通の定価でも売れるような魅力的な商品なのだけで、でも、やはり洋服は見るだけでも楽しいし、その機会を増やすべきだ、とほとんど引きこもりのくせに
思う。

 てか、タンクトップ(この時期に!)とシャツ一枚、買っちゃったし! 買うつもりなかったけど(は?)、でも、まあ、新年明けちゃったし、おめでとう、ってことで、

 なんと本が半額のセールをしているb○○k ○○fにも行ったら、予想通り欲しいハードカバーの本は棚にはなく、こりゃあ漫画でも買おうと、中村明日美子の読めば良作なのは確信しているのだが確実に甘酸っぱ過ぎるだろうからちょっと読む気になれない「同級生」シリーズでもまとめて買おう、と思ったら、なかった。いつもは「人気漫画家コーナー」みたいにして何冊もまとめて展示してるくせに、半額じゃなくても売れると踏んで隠してるんだ絶対そうだ、と腹立ちながら、普段は割と素通りするオサレ雑誌コーナーで足を止める。


 雑誌は買うと切りが無い。というか、置き場所に困る。引っ越しの度に、特ファッション雑誌は処分していた。だって、俺、洋服と、自分の(表層上の)スタイルを見ないようにしていたから。

 やりたいことの全部はできない、ってのはいいわけだけれど、でも、確実にやれることの容量と言うのがある。俺は洋服を切ったでも、好きだ。けど、きちんと美容院に通い、コーディネートを考えて外出をして、さらに服を見せる、もはや服の為に「大勢の人と触れ合う」なんて、こんな「日記」を書いている人間がするか!

 って、思うんだけどさ、でも、安いし、久しぶりに洋書のファッション雑誌を購入した。
「VOUGUE」
[VOGUE HOMME]
[ELLE]
[L'OFFICIAL 1000 MODELS]
[L'OFFICIEL HOMMES]
[STILETTO HOMME]

とか、どうせ後で捨てるんだろうと思いながらも馬鹿みたいガンガン買って、相当の重量になっていて、紙袋を二重にしてもらったのに途中で持ち手が切れたクソ! 抱きかかえて帰った。

 俺は日本語しかできないので、雑誌の英語やフランス語が適度に配置されたノイズのように見えて助かる。モデルや洋服を見る。楽しい。

 菊地成孔に『服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達について』という著書があり、そこで菊地は「なんでランウェイでモデルはハウスの音楽に抗って無機質に歩くの?」というなんとも興味深い問いをたてていて、それに対する考察を深める(小西康陽との対談での小西の「単にゴージャス、お洒落感が欲しいだけでしょ」という見も蓋もない回答が一番的確だと思う。でも、この問いは魅力的だ。)、

 というよりもファッションに関する菊地の愛情が語られている好著で、いつものような「自分大大大好き菊地先生語り」ではなく、洋服に関する愛情が感じられる素敵な、軽く読めるエッセイになっていて、「菊地の文章を読むと(略)だけど読みたいんだよな」という人に特にお勧めするがそんな人俺以外に数人しかいないと思う。

 一日の食費×××円だぜイエーイ!、とか言っている人間には、特に、一枚数万のTシャツ(てか数千円でも)なんて縁が無さ過ぎる世界、だけれど、そこはセールやら貰い物やらで手に入る機会はあるし、特に一部の在庫大処分セール(大体ハウスミュージックがかかっている)美しい墓場で、デコラティブ・グロテスクな売れ残りの布切れ達を、「適正価格で」救い出すあの瞬間、友情に近い物を感じるこれを、友情と呼んでいいのだろうか?

 打ち捨てられている、アルテ・ポーヴェラ(自然の材木やら石やらをあまり加工せず用いる、貧しい芸術という意味の方の)すら想起してしまう、友情(のようなもの)を感じてしまう彼ら。


 俺がファッション・ビクティムだった時期は数年しかない、でも、その時はものすごく楽しかった。だって、ビクティムになれたんだから!! 今だって洋服は好きだが、自分がビクティムでもないし真摯でもないことに、どうしても引け目を感じてしまう。

 洋服は「気分を良くするもの」

 それで十分すぎる。けど、俺はまた、多くの事を求めているのだと思う。でも、とりあえずは、かっこいい洋服やらモデルやらに「触れ」られて、いるような気分で、それでいいのだと思う。『どうにかなる日々』? どうにかしなきゃね俺も。