行かなくっちゃ行かなくっちゃ

 クソ腹立たしいことや呆然としてしまうこと、ちょっとだけいいこと、なんかがあって、要するに普通の日々でした。

 でもそんな中でも消化すべきことを少しはこなしているので、今俺がおかれている現状に反して、気分はそこまで悪くない。お姫様と海賊が済んだら、神様のいない時代のハウス・(ミュージック)について書いている。書きながら、また、新しことに手を出そうとしている。集中力の無さというかこの移り気は自分でもすごいな、と思うが、まあ、それはそれでいいような気がする。

 ふと、ここまで書いて、ここ最近物を大量に買ってしまったり大量に売らねばならないあの関連した行動を想起する。ちょっと自分でもひく位買ってしまって、でも、それらは(金になるならば)売ればいいだけの話だ。未だ、売る物があるのだ俺。そういうのが好きなんだよね俺多分。好きなら仕方がない。付き合うしかない俺。

 音楽ばかり聞いていた、のだけれど、最近はやっとテクノやハウスじゃなくて、ロックとかジャズとかも聞けるような体調になってきて、といっても恐る恐るMGMTを聞いてみると、最初こそ「うわーロックだよ止めてくれよ」とか思っていたのだけれど、サイケでポップで普通に楽しく聞けて、嬉しかった。俺はロックもまだまだ聴ける、って、そんなの自分で十分承知しているけどね!

 後、The Baker Brothersを皮切りに、Incognitosly & the family stoneCheryl Lynnとかも聞けるような気分になっていて、嬉しい。ほら、だってさ、ジャズ、ファンク、ソウルって、(基本的には)幸福の為のよりよい生活の為のミュージックだろ? 踊ろう歌おう、みたいな。ロックみたいな叫びじゃない分聴きやすいけどさ、てか、やっぱ少しだけ元気をくれるよね。

 とか書きつつ、大体ピアノ系の「きれーな」ハウスとレンタルしたゲームセンターCXのDVDばかり流しっぱにしていた、けど、それもそれでいいっていうか、ずっと、それだっていられなくなるんだって分かっている。飽き性なんで俺。

 でも、歌を口ずさめるようになったのは良かった。ここ一、二ヶ月は、外でIpodと一緒にいても、ずっと黙ったままだった。普段なら、落ち着きないので、ずっと何かしら歌いながら歩いていたから。

 jazzin'parkの prismって曲を繰り返し歌っていた。
「良くできた、どこかで聞いたようなしかし初めて聴く」(ラウンジ、ボサ、ポップソング寄りの)ハウス・ミュージック。歌いやすい、英語の歌詞の歌はとても好きだ。詩の内容なんて分からなくていい。ただ、さらさらと、口から音をこぼせれば十分だから。口から言葉を出すって、健康にいいだろ? そうだろ?

 久しぶりに本も読めていた。ま、そんなの当たり前の事なんだけどね。本が読める位の事。その中の一冊、サミュエル・フラー『映画は戦場だ!』。フラーへの長編インタビューをまとめた本で、これを読みながら、自分がいかにフラーを好きでいながら、大好きではない、数本しか作品をみていないし、それほど監督自体に注目はしていなかったなあ、と毎度に近い、感情を覚える。
 
 でも、そんな俺の下らない感想は置いておいても、フラーが好きじゃない人でも楽しめる発言が沢山あった。面倒なので長々とした引用は控えるが、戦争の時代に生まれ実際に戦場にも行ったフラーが

「自分を英雄だと思いましたか」という質問に対して、「手柄なんて偶然の産物」で、また「貴方の映画には、英雄は絶対に出てきませんね」という質問への回答もいかしている。

 「英雄を描いたことは一度もない、大嫌いだ」

 そんな反骨精神が、荒々しくて、素人目から見ても「もうちょっと『うまく』撮れるんじゃないのか?」と思うシーンがあるにはあるにしてもそんな感想を吹き飛ばす躍動が、映画的な(!)瞬間が彼のフィルムにはあることは事実で、多くの、俺も好きな映画監督が彼を慕うのも十分に理解できる。いつだって「人間」は特に「彼ら」は、箱におさまったダンス、或いは単純に、運動を好むものだから。

 また、彼が「暴力」について「好きではない」と発言していたのも興味深可かった、「うんざりする」とまで言っていた。

――映画の中で、作劇上のリズムとして暴力を利用している、ということですね

 という問いに対して、フラーはこう答えている。

「その通り。だが、暴力という言葉にあまりこだわるのはもうやめよう。この言葉はボロボロになるまで使い古され、いいように扱われ過ぎている。」

 また、自分を神話化する人に対して、冷静で真摯な対応をとっていて、「これは間違いないが、私はいつまでも生きながらえていることによって、多くの人をがっかりさせていると思う」とまで発言しておきながら、エピローグで「ご自身を定義していただけますか」という品のない(しかしこれも仕方がないのだけれど)質問に、こう答えている。

「映画の脚本を書いて監督をし、そしてこれからも死ぬまで、映画の脚本を書いて監督をしてゆくであろう男。すぐに死んでしまうのでなければ、話したいストーリーが山ほどあって、それはそれも新しいと彼は思っている」

 そしてここでは後半は略したが、後半部は要するに「金集め大変だぜでも金集めて好き勝手やりたいぜ!」 と元気よく答えていて、とても読んでいて楽しかった。音楽もいいけれど、やはり、本を読む方が「対話」をしているような気分になれる度合いが高いので、こうやっていかした台詞を聞けるのは嬉しい。ふと、気が楽になる。

 最近また、森有正について考えていて、彼の著作は高校から大学にかけて読んでいて、最近はご無沙汰ではあるけれど、彼がフランスで何十年も一人で研究、思索していたパスカルやらデカルトやらに対して大した知識を持たない(それは今もたいして変わらないのだけれど)俺にとっても、彼の思索的なエッセイはとても美しく、また、心を打つようなもので、

 最近では数年前に文庫化され、入手は容易になっているものの、例の、文庫本のくせに一冊千円以上する筑摩がくげー文庫で(てか、今見たら中古で3000円越えしていまして、再販の意味あんまなくね? とも思ったが、これがなきゃ他の著作がもっと高騰していたかもしれないのだ。マジで、どんどんいいものは本に限らず、もう一度売りだすべきだ。だって、作り手は転売屋や業者が儲けることよりも、読みたい人に読んで欲しいと思っているはずだから)、古本で苦労して見つけて買ったのと重複するのもあり、というか、本の山に埋もれ、何があるのか自分でも分からない。何を読めばいいのかも分からない。だって、一から順に読むのが好きなんで俺。

 いつものことながらそんな不熱心な俺であるけれど、彼の著作を目にし、思索を「聞いて」いるうちに学んだ、生まれてきた命題は「信仰なき帰依へはどうすればいいのだろうか」という問いで、これについては簡素な回答も自分の中で用意はされているのだが、未だ、もう少し考えてみたい事柄だ。

「パパが殺された ラジオが騒ぐの 陽射しが強すぎて衛星も映らない」

 なんて、「真っ黒なバカンス」を楽しめるほど、俺は人生に向いていない(この曲自体はすごく好きだけどね!)。神様がいなくても、周縁で、似たような構造でBPMで繰り返す、ハウス。

 だから本当はスピノザとヴィトゲンシュタインベンヤミン、あ、あとアーレントも再読、しっかりと読まなきゃ、と、ずっとここ数ヶ月思っているのだけれど、でも、思想を思索を続ける足がかりは、意外と、音楽の中に、そして、このどうしようもない状況にあるような気もしてきている。優秀な他者の言葉を子細に点検することよりも、「見る前に飛べ」の方が、今の俺にはあっているような、そんな気がする。

 とにかく、多少なりとも、書く事/読む事が出来るのは、幸福なことだ。「駄目だ 俺はもう駄目だ オーイエー 俺はもう駄目だ!」って、「ズックにロック」な気分で、ゆらゆらと。