スィーエンハーニ僕はロボッ 君ーの前じゃロボトダーンス

 一進一退、なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。そんなどうでもいいことが頭に浮かぶ。反復が好きなんだろ? 俺。

 用があり、久しぶりに会う知人やら会いたくもない人やら、近頃俺にしてみれば割と人と会う機会が多く、少し楽しく疲れる。まるで、ハウス・ミュージック

 頭を使いたくない、いや、もう少しマシな言い方があるはずだ。リラックスの為に、ituneでMAKAI DAISHI DANCE THE STANDARD CLUB とかの「きれーなだけ」のすばらしー音楽を流しっぱにしながら、pspで600円でダウンロード出来る、pcエンジンの『弁慶外伝』という昔ながらの(20年近く前のゲームだから当然だ!)不親切だけど出来はそこそこいいRPGを(消音状態で)プレイしていた。

 その時に、ふと、「何してんだろ」って気分になった。でも、きっとそういうのも必要なんだと、そう思う。きれーなはうすと武骨で(キャラクターデザインは俺の空とか書いてる人!)不親切なRPGの組み合わせは嫌いじゃない。むしろ、すきなのかもしれない。久しぶりに会う、知人のように。

 タトゥーの一部がはげてしまったので、ケアをお願いしに行った。ケアは無料なので本当に助かった。だって、この先また何かあったら面倒だ。てか、初めて入れたので、一回で終わりイエーイとか、そう思っていた。けど、そうそう簡単でもないらしい。勿論超個人差はあるけど。

 入れた後は色々と気を使った生活をした方がいいんだけれど、ケアしに行った際に「ライブとかイベントとかやっぱまだ無理ですか」と聞いたら、「いえ、ちょっとしたら全然大丈夫ですよ」と言われた。最初に貰った紙には色々注意事項が書かれていたのに! 一ヶ月はそういうの控えましょうね、みたいな!

 というか、俺は一人でも踊る。なるべく服を脱いで、部屋を真っ暗にして、ipodの音量マックスにして、踊り狂う。当然、踊りまくっている最中に、何度もイヤホンが抜け落ちる。だからよく断線して、頻繁に買い替えている。高くて音質のいいヘッドフォン(てか、ヘッドフォンってかっこよくないか? )を買う気にはなれない。絶対にすぐに駄目にしてしまう。

 一人で踊るほうが楽しいかもしれない。好きな曲で、そして、好きなように、痙攣するように出来そこないのロボットのように自由に踊ることが出来る。普段身体を動かさないせいか、割と気持ちがいい。残念なことに俺はサイボーグでも機械でもないのだから、身体性を大切にしなければいけない、らしいよ。大変だ。

 でも、批評、とハウスについてはまだまだ学ぶべきことが多く、ある人に「なんで人は批評家になるのでしょうか」と質問したら「またそんなことを言って」と微笑を返された後で、「批評だけじゃ食っていけないから大学の教員とかになるんでしょ」とはぐらかされて返されてしまった。

 のだけれど、俺は続けて批評家(ハウスミュージックの制作者と、皮肉ではなく幸福な享受者)について、彼らの親和性の高さについての疑問を口にしたら、相手は黙り込んでしまった。俺の質問が抽象的すぎる(単につまらない)のかもしれない、のだがその話相手の、ハウスミュージック、批評、から一歩身を引いた立場の方の、その慎ましさ、(不躾だが)分を弁えた態度と、元気いっぱいな、ハウスミュージックの反復、或いは「声の大きな」批評家達、との関連性はとても興味深い。

 その後は別の話を俺からした。黙するべきだと、そう思っているのだ彼もそしてきっと俺も。大切なことは他人に言うなたまに言えたまに騙せたまに正直になれ。そういうことを俺は「好みの人達」から学んだ。感じ取った。それとは全然関係ない人や、近しい人は、割と好きだ割と。

 でも、もう少しどうにかなんないのかなーとも、思う。やはり、どんな分野であっても矢面に立つ、或いはそういった気概がなければならないはずだ。「自由と言う刑に処されている」とは思わないけれど、カッコつけの為に、やらねばならぬことは山積みになっている。少しずつ消化している、ような気がするが、奴らは待ってなんてくれない生活。

 それでも、ダンスの対話の思考の時間は作らねばならない。その為に自らの品の無さを良しとしているんだろ生活は唾棄するものだなんて馬鹿なことを(ほとんど)言わないで済んでいるんだろ? 

 一月は誇張抜きに、百何十枚だかのCDアルバムを聞いていて、少し疲れた、けれど、当たり前なのだが、俺の知らないことがまだまだあり過ぎるのが嬉しい。音楽楽しいよね、でも、俺、文学の方が好きかも。

 嬉しいという気持ちは大切だ。こういったか細い錯覚を紡いで、コラージュ、パッチワークをしているのだから。それが生活。生活と言えるのか? 言えなくっても反復は続く終わるまで。