かわいい或いはわくわく

いかなきゃなーやらなきゃなー、とかなんとか思いつつ、本当は大してそんな熱情もなくぼんやりしたままそんな、数ある内の一つ、小谷元彦展を見に森美術館に行った。

 決して好き、とはいえない作家だけれど、これだけの量を展示されるのは圧巻というか、単純に「美術館に来て良かった」と思うことが出来る。やっぱ金(コネ)持ってるからか、森美術館ヒルズ)の展示とかイベントを目にするたび、やっぱ規模にせよクオリティにせよすげーな、と思う。優等生的だ。文句がつけにくい。決して天才ではない。天才なんているか。

 彼の作品の変遷についてどうこう思う所はないが、あれだけ多様な作品を作り出せるバイタリティというか熱情は素直に感服するしかないし、また、こういった場所での展示を見る度に、広義での「かわいい」(或いは後述する感情移入)の文脈の上でしか(一定以上の規模の)「美術館」での展示は無理なのだなあ、としごく当たり前のことを、毎回のように思う。

 彼の作品を見ることが出来て良かった、と思うが、やはり俺はビデオアート、インスタレーションの類の良さが全く分からない。分からないと言うか、吐き気がする。でも、それこそが批評家に語らせる言葉を生みだし金持ちおっさんをだまくらかしちょこっと美術に興味がある人に楽しみを与えるのだ。

 滝みたいなのが大きな画面いっぱいに流れる映像があり、それがハコ状、つまり四方が滝の映像を体感、というもはや「アトラクション」に、30分待ちの立て看板が立っていて、やっぱこういうのが求められているのだと再確認する。当然素通りしたが。

 再三言っているが、インスタレーションの類に憤りを覚えるのは、それが安易な感情移入でしかないからだ。糞劣化哲学神秘学モドキの再現、「光が溢れて消える」とかを「付属品」のキャプションによって自立させる、そんなのが美術だといえるだろうか? 単独では意味をなさない、プレゼンありきのそれが主体の「アート」。でも、そうするしかない市場で勝ち残る為には、それを「したい」とアーティストが心から望むなら。


 空間を時間を光を閉じ込めたい触れたい見つめたい、と多くのアーティストやらアーティスト志望の人が考えたことがあるはずだ。なくってもいいけど。でもさ、それを物量でごまかす(マッス、質量への敬意なしに!)のは杜撰すぎる。例えば周囲の壁が全て明滅する、とか、それなりに威力があるに決まってんじゃん、でも、そういったコンセプトが生まれた瞬間に死に児になるはずだ。後はもう感情移入、プレゼンテーション、集客の問題だ。ダダは何も意味しない、で、もうおしまい。「○○はなぜ××なのか」って客釣り新書のタイトルと同レベルだ。品が無い。

 でも、それは俺以外の多くの人々に求められているのだから仕方がない。それに、小谷はそういう作品だけ作っているわけでもないし。多くの流れの中に制作者も人間もいる。好きとはいえないけれど、力あるなあ、という感想。嫌な感じの俺。

 でも、やっぱり、広義での「かわいい」しか受け入れられないのかなあ、そういう土壌があることは確かだけれど、そういう土壌を既得権益にかまけてふんぞり返るような姿勢はなかったのか、と訝しむ。色んなの、見せた方がいいよねやっぱ。出来るはずだし、しなきゃいけないんじゃないのか、と「まっとう」でつまらない感想が浮かぶ。

 先日初めて動くチェブラーシカ、つまり映画を見て、超キュートで面白かった。人形アニメとか見る機会ないし、ってのもあるだろうけど、チェブラーシカかわいい。日本でもこーゆーのやればいいのに無理だけど。

 日本で可愛い、というともう、「萌え」とか美少女とかのイメージが頭に浮かんでしまう。俺が毒されているにせよ、別に的外れでもないし、この雑な感想はあしがかりでしかないので話を先に進めると、アニメとか漫画とかそういった物の大部分は「かわいい」しか存在を許されなくなってしまっている。もちろんそれだけではないにせよ、やはり「チェブラーシカ」的なものが「深夜アニメ」(とか)で放送されるなんてことがまず考えられない状況と言うのは、やはりまずいのではないかなあと思う。

 確かに求められている、それを提供する、それ以外の商品を出すと会社(組織)がつぶれかねない、なんてことなのかもしれないが、それにしても、普段アニメを見ない人間からすると、「かわいい」ものばかりなのは焼畑農業的であんまりいい気分はしない。制作者だって、そんな素人の推論なんてとっくに了解しているはずだが、やらねばならないのだろう会社をつぶさない為に作品を作り続ける為に。

 でも、いわゆる萌えとか美少女イラストとかの一部は、俺も「かわいい」
 と思う。いいじゃんそれで、いいのか?

 HACCANというイラストレーターがいるのだが、彼がアヴァロンコードというゲームのイラストを担当していて、それがえらく良かった。キャラが全て可愛かった。童話的というか、小説の挿絵的と言うか、そう、ファンタジーイラストという言葉が良く似合う素敵な画だった。

 ファンタジーイラスト、と言う言葉を今使ったが、要は、誰が見ても「かわいい」と思えるような「ファンタジック」なイラストだとして、俺は嬉しかったのだ。美少女イラスト(的現代アート)の多くを俺が好まないのは、それが単に「媚び」を別のパッケージにかぶせて販売しているからだ。直球ならともかく、様々な場面に「媚び」と「感情移入」ばかりが反乱している(それを語ることに因り自分の世界像を構築する、ことに無自覚な人)ように思えて、なんとも嫌な感じがする。

 でも、HACCANのイラストは別に萌えイラストレーターでも何と分類しようがされようが知ったこっちゃないが、媚びよりもずっと、物語が始まる予感のような「わくわく」感のあるイラストだった。俺はそう思った(作品やクライアントの依頼によって色々画に差はありますが、アヴァロンコードにおいては特に)。森本晃司みたいな、わくわくする、作者が好きなことを描いているような、冒険に行く予感を感じさせるイラスト。キャプションなんて必要としない(或いは単なる従属物としての本来の役割にとどまるか、よき伴侶となる)、子供からお年寄りまで楽しめる、みたいな感じ。

 繰り返すが萌えとかが嫌というより、そればかりになるのが、それを利用して自分語りをするのが嫌なのだ。あんまくわしくないけど、岸田メルとかこ〜ちゃとか、可愛いと思う。萌え、というのは良く分からないし正直この言葉をタイプするのはあまり気乗りしないのだが、「ふつーにみてかわいい」って思う。他の多くの似通った「美少女」達も

 かわいい、と言えば、先日見た『ビキニの裸女』の、若き日のバルドーがめちゃくちゃかわいかった。ほぼノーメイク(っぽい)で、グラマラスと言うよりもやせっぽっちなあどけない表情で、これも残念ながら「バルドー映画」ではないので、出番は少ないというか、監督がバルドーに恋している感がほとんどない映画だが、若き日の彼女はひどくかがやいて見えた。勿論三十過ぎとかの彼女だって十分魅力的だとは思うが、その時期その時期にしかない魅力があるのは、間違いないだろう。

 どんどん過ぎ去っていく。周りの心配よりてめーのことしろ、と俺も思う、けど、こういうどうでもいい思考の断片で、進んでいっている気はする。俺も、早く冒険に行かなくっちゃね。かわいいもわくわくも、俺の敵じゃないし、味方でもない。でも、消費することなら出来るから。