量産型だから

正直ドキュメンタリー映画にはあまり関心がないし、日本で上映している物やレンタルで見ることのできる本数もあまり多くはないのだけれど、評論を始めとして様々な分野で活躍する町山智浩の『松嶋(オセロの人)×町山 未公開映画を観る本』はアメリカのドキュメンタリーについて語られた、かなり興味深い本だった。

 アメリカでは大量にドキュメンタリーが撮影されているそうだ。曰く、「ビデオ器材等の進化、安価」「マイケル・ムーアの成功(おっさんの聞き込み映画が大スター集めるより収益を上げた)」「ブッシュ政権の問題に対するカウンター」らがドキュメンタリー制作を後押ししているらしい。

 この本にはボケと質問の松嶋に優しい先生役の町山(いつもと違うが、きちんとはまっているのだ)という配役で、25本の映画を軽快に紹介してくれる。中でも印象深かったのが、『ジーザスキャンプ』と『アーミッシュ』の二本だ。

 アメリカでは聖書の言うことを(ほぼ)丸ごと信じる福音派が約25%存在しているそうだ。その彼らが子供たちがサマーキャンプで牧師の説教を受ける、という内容なのだが、映画を見ると、信仰心のない俺(日本人)にはきな臭い新興宗教や糞会社の新人研修のような洗脳プログラムが行われているようにしか見えない。自分たちの敵を排撃するように子供たちに檄を飛ばし、現実が、現実に毒されている「貴方達」がいかに汚いかを伝え、恐怖心を植え付け、そして「キリスト」による救いで浄化しようとするのだ。

 牧師の誘導によって、集団で涙を流し続けるティーンエイジャーを見せられると、とても居心地が悪い。仕方がない、ような気がしてきてしまうし、それに、彼らが弾劾する社会が悪ではないように、彼らの行いが「悪い」、と、言えるだろうか? 俺はためらいを覚えてしまう。

 ちなみに牧師の女性はかなりのデブなのだが、この人「信仰心がなくなって近頃の人は断食一つしようとしない」とか言ってんの。お前がしろよって話なんだけど、言っても通じないのは目に見えているというか、そこまで自分自身に盲目的だから、あそこまで他人を攻撃できるのだろう。

 人口の四分の一を占める福音派ブッシュ政権に利用されてさあ大変、なのだが、何故か聖職者である福音派のリーダー達はキリスト教で禁止されている金かセックス・スキャンダルで失脚しているらしい。え? キリストの教えは? 

 でもこのスキャンダルのおかげ、というのは不謹慎かもしれないが、こういった身も蓋も無さが暴露され続けているおかげで、アメリカが狂う一歩手前で留っていられる、といえるかもしれない。本当の聖職者が、カリスマがいたのならば、もっとアメリカの軍事介入が進んでしまっていたのかもしれない。

 もう一本の『アーミッシュ〜禁欲教徒が快楽を試す時〜』は残念ながらレンタルできなかったので未見なのだが、個人的には対談を読んだだけのこちらの作品の方が考えさせられた。

 アーミッシュ教会というキリスト教の一派は、車もテレビもない、俗世と断絶した生活を送っている。そしてそのコミュニティの中だけで育った彼らは、16歳から始まる期間に、洗礼を受けるか俗世に入るかの決断を迫られる。彼らはいきなり俗世の快楽を浴びる権利を獲得するのだ。

 寂れた田舎に突然おとずれる、性交乱交、良識的な(!)大人が眉をひそめる音楽に薬物まで、俗世のテーマパークを彼らは味わう。にもかかわらず多くの人が俗世ではなく、洗礼を受ける方を選ぶという。一度破門されたら信者の親にも会えない、という厳しい戒律もそうだが、16でいきなりほっぽら出されても、やがて快楽が倦怠を連れてきてしまうのだろう。倦怠を飼いならすのには時間が必要だ。
 
 でも、この映画の公開後、テレビ局が彼らを田舎の娯楽ではなく大都会に連れて行くという企画をすると、なんと多くの子供たちは俗世に行く選択をしたそうなのだ。それを町山は「彼らが求めたのは快楽ではなく仕事、将来の可能性」と説明する。大都会には、キリスト以外の神様「みたいなもの」に触れる機会がたくさんあったのだろう。

 俺が最初に触れた『ジーザスキャンプ』で覚えた違和感は、子供たちの判断力を狭めていることにあった。神様が正しいからお前を救うから信じろ、ではない。神様は間違っているかもしれないけれど、こんなにかっこよくてセクシーなんだ、だから君にも伝えたいっていうのが筋じゃないのか、と俺は思う。正しい人だから信じるって、背信行為だと、信仰心とか色んなことが無い俺は感じる。キリストが正しいから救ってくれるから好きなんだったら、別のもんでもいいだろ。そんなん信仰と言えるのだろうか。

 でもこれがネットがある現代のしかも日本の話でないとすると、また事情も変わってくるだろう。

 好きではあるけれど、作品によって出来不出来がかなり見られる、と個人的には思っている、古屋兎丸の『インノサン少年十字軍』の最終巻を今日購入した。

 インノサン<無垢な子ら>少年十字軍、という題でもう、多くの人は結末まで想像はつくと思うが、始まる前から筋やラストの予想がついていてもなお、この作品は魅力的だった。

 また、個人的な意見ではあるが、美術の解剖学的な知識が指先にも染みついている人、つまり美大出の人は、あまり漫画のデフォルメ、キャラクター制作には向いていないように思える、というか古屋の漫画をみると失礼だがそんなことをたびたび感じてしまう。特に青年誌とかに連載された作品はキャラもコマもびっくりするほど動いていないのだ。一枚絵が優れたイラストレーターが漫画を描いたら、と同じように。

 でもこの作品は題材に合わせて画風も器用に変化させる古屋に合っている
ように思えた。

 作品の内容は神の声を聞いた少年らが旅をしていく過程で、というような単純な物だけれど(というかそこを独創的にしたら少年十字軍という題材が生かせないだろう)、その中で売春婦や同性愛や双子(当時双子が生まれるのは二人の男性と関係をもったせいだと言われていた、そうです)といった差別問題や(教会の禁止していた)世界の知識や同一宗教間の対立等を上手く織り込んで、物語を平易なものにしていない。
 
 当然、彼らの道程が気持ち良いものになるはずではなく、神聖な12という文字の元、1212年に集った12人の少年たちは、少しずつ分裂し、破滅への道をたどる。

 最終巻で好きなシーンは結構あるが、中でも印象的だったのが、以下の場面だ(多少のネタばれを含む)

 怖がりだが十字軍に参加した少年が、仲間が殺される場面で騎士<十字軍>としてふるまえなかったことから、大切な友人の信頼を失ってしまう。その少年は自分の失態を取り戻す為に、誤って仲間を手に書け、動揺し、結果裏切った友人の姦計にもはまって、かつて信頼していた大人の手で凌辱される。その最中、怖がりの少年の頭に友人の声が響く

 「闘え 闘えよ アンリ」

 その言葉に従い、行為の最中に耳の一部を齧りとった少年は、激昂した相手に半殺しにされて、ゴミと一緒に崖の下に捨てられる。それを友人達に発見された少年は、穢れてしまった弱い自分は騎士ではないから、殺してくれと言い、謝罪をする。その願いが叶えられなかったので、彼は落ちていた鋭い槍状の物で自らの喉をつく。

 その少年の介錯をしたのが、盗賊上がりで、神を信じていない人殺しの少年だ。彼は言う。

「アンリは自殺したんじゃねえ!!
 俺が殺したんだ!

 聞いてるか? 神様よ!!

 だからちゃんと 天国へ入れてやれよ!

 アンリもレミーも ちゃんと天国に入れてやれよ!!

 その分地獄で俺を苦しめてくれ!!」

 そう言って少年らは涙を流し、復讐を誓う。

 町山が紹介した映画には少年兵について触れられた作品もあった。伊勢崎賢治氏らの著作に詳しいが、少年兵とはかなり厄介な問題だ。人を殺すことに躊躇が無い(最初に、相手を殺さないと殺すという「教育」を受けるから)。そして馬鹿な甘言に従う「死んだ後で天国に行ける、神の兵は決して弾に当たらない」(投薬されるケースもあるらしい)そして、人を殺すことしか習っていないので、争いが終わった後は奪うことしかできなくなる。

 岡崎京子の漫画は好きだけれど、名作、ということになっている『リバース・エッジ』が、個人的には全然いいと思えない。そこにあるのはセンチメンタルな大人の視点だ。「文学的」に消費される/解釈できるセンチメンタルのどこが魅力なんだ。そんなのから離れた作品こそが彼女の魅力ではないだろうか。

 「平坦な戦場」なんてどこにも存在しない。存在するのは、「平坦な戦場」なんて言葉が必要な人間の所にだけだ。そんなのは必要じゃないんだ俺の元には、きっと、インノサンの元にも少年兵の元にも。

 多少の共感が出来たとしても、俺には誰の痛みも分からない。ただ、見ることはできる。しばらくは未知/既知の景色を瞳に。そして願わくば、自分の手で選択を。