そーらにーそびえるー、あこれ違うやつか


もう当分は映画について書かなくていいやと思っていたのだけれど、頭を整理する為、もう二本ほど。

 実相寺昭雄の『哥(うた)』なんだけれど、初見、初めて数分はすごい映画が始まる、と感じたのだが時間が経つにつれて、色々ともやもやとしてきて、それをだらだら書く。

 雑なあらすじは、旧家に使える青年だけど家の者は俗物ばっかで家(山)売り払われちゃうよ没落物語。なのだが、

 ATG映画ということで観る前からある程度テイストの予想をしていたのだけれど、良くも悪くもその期待通りの、しかし印象深い作品だった。

 雑なくくりではあるが、俺、多分ATGの一連の作品を好きではあるが大好きではないんだな、と再確認したような、何だか微妙な気分になった。

 こんな回りくどい言い回しをしているのは気に入っているからこそ、細かい点で色々と文句をつけたくなってしまっていて、特徴の一つといってもさほど的外れではないであろうこれらの映画の暗闇表現が、いささかやり過ぎではないかと感じる場面が多々あって、そのトーンで構成しているのだから口を挟むのは筋違いだとも思うのだが、何だか森山大道や安井 仲治の傑作や習作や模倣作を幾つも見せつけられたような心持になった。一々これアウトじゃね? とか 綺麗だな、とかこれ「ギリ」アウトじゃね? とか感じながら映画を見るのは大変疲れた。

 でも最初の方にあった喉仏の「(俺の判断で)アウト」なショットが後半の病床の喉仏につながり(個人的に)溜飲を下げるといった点もあり、一度でこのショットは駄目だとか言いきれないもどかしさも感じたのだが。

 あと、この映画は映画館の大きなスクリーンで見てこそ、なのかなと強く感じた。パソコンのモニターじゃあ、駄目かも。

 でも音楽の使い方がかなり駄目だと思った。揮毫の際に一々「シュッ、シュ」と効果音が入るのは勘弁してくれと感じたし、管弦楽の入れ方がかなりすべっていた、ように感じた。もしこれがいいと言うならば、ゴダールの映画、例えばモーツァルトとかカルメンにおけるクラシックの挿入は(その人にとって)どう評価されるのだろう てか、まあ、すごくダサク感じた。

 にしても、面白かったし美しいシーンもカットも幾つもあった。特に主演の使用人にして実は当主の血を分けられた青年、篠田 三郎のロボット美丈夫っぷりは見ていて楽しかったし、手にした懐中電灯と瞳で、たるんだ人物や画面(これはそういう演出意図があってのことで批判しているのではない)を不気味に照らすのが可愛らしかった。

 彼が命令に従い絶食して倒れて臥せってしまう際に、それを聞きつけて駆け付けた家の主が冗談めかして「妻(だったかな? まあ、家の肉親)に恋をして、食事が喉を通らないのかな」といった趣旨の台詞を吐くと、その妖艶で使用人(三郎)に露骨な誘いをかけた(一応仕える身に当たる)女性に向かって、憎しみをこめて「売春婦」と言うシーンで俺も、問いかけた画面の向こうの男性達と共に笑ってしまった。ほんと、イラついたり笑ったり忙しいな俺。

 マジ蛇足だけど、「淫売」とか「くされ外道」とかそういった言葉って結構口にするのは楽しい。(濁音が「ちびっこ」に喜ばれるそうで、子供向けの番組とか玩具とかって大抵強そうな濁音入り横文字だ。最近のカードゲームだけでも「ヴァンガード」とか「ヴァイスシュバルツ」とか「デュエル・マスターズ」とか、子供、俺、はやっていないが、俺が中学生とかならわくわくしていたと思う)。中原昌也も好きだと言っていた、ユスターシュの『サンタクロースの眼は青い』のラストシーンで若者たちが「淫売宿へ! 淫売宿へ! 淫売宿へ!」というシーンは俺も好きだ。(本当の訳では売春宿のはずだが、まあいい)

 でもこれはたぶんね、相性ってものがあるってことで、俺が最近見た中で一番胸に来たのが、ビクトル・エリセの『エル・スール』で、空気の捉え方や自然光の使い方(俺は階段のシーンが一番好き!)やらとても美しく、文句なんて一点もなかった。

 内容としては娘の自分を裏切った父についての回想、という説明で十分で、後は映画をみるしかないだろう、という気分で一杯だし下手に書くとまた長文になるので好きな所を書くと、

 娘が自慢の父への疑いを抱き「突然父を何も分かってないと 気付きました」と独白するシーン

 父の不倫(文通)相手の美しい映画女優の出ている映画の作品名が「日陰の花(荷風と同じ題にしたのはたまたま?)」

 成長した娘(この前の自転車で道を行って、帰ってくる「映画的」としか言えないシーンのあぶなっかしさ「ギリギリセーフ!感」の胸を打つこと!)のモノローグ
「私も人並みに成長しました 一人でいることにも 幸福を考えないことにも慣れました」

 ベッドで気付いてしまう両親のいさかい、そして消灯と沈黙が訪れ、少女が蒼ざめた画面に置き去りになってしまうショット。

 もうこの位で止めておくが、何より素晴らしいのは、各々が様々な確執や明言されない問題を抱えながらも、この映画が悲惨な色合いを帯びていないことだ。誤ってしまった父も、娘も、小市民としての幸福や倦怠や悲しみを受け止めているのが感動的なのだ。ひたすらうすら寒く、おそらく心地良い景色。

 ふと、自分が大好きな映画を思い浮かべると、大抵人が死ぬか喪に服すという内容にちょっとどうか、と感じた。でもまあ、好みですから。簡単には変えられない。

 別にそういうのばかり好きなわけでもないし、もうちっと明るい奴を、
 ってことで『ゲッターロボ』全三巻を読んでみたのだが、かなり楽しかった。あ、これも明るい漫画じゃないか!

 出来が悪いなんて思ってはいないのに、いや、むしろ面白そうだとも思っているのに、なぜだか俺がハマれない(でも一部で超人気な)漫画に『ジョジョ』や『シグルイ』や『バキ』があるのだけれど、大雑把なくくりだと『ゲッター』もこの中に入るんじゃねえの? と一人ゆるーく感じたのだが、『ゲッター』の犠牲を払って特攻する分かりやすいダークヒーロー的要素を俺は好ましく受け取ったのだ。前述した漫画たちにはそれを感じなかった。感じなかったのは漫画のせいではなくて、俺のせい。実相寺よりエリセが好きだけど、好みに差はあっても、どっちが本質的に「上」とかいう問題ではない。

 何かを行う際に、犠牲を払っている、その覚悟がある人やキャラクターに俺は敬意を払う。スクリーンのモニターの紙の上のヒーロー/ヒロインはそのまま死ぬことが強制終了ができるけれど、俺、人間なわけで、そうはいかないわけで、大体喪に服しているわけで、でも喪に服すってえことは生に対しても敬意を抱いているともいえるわけで、何だか今日も元気です。

 まあ、大体嘘。