花筏アンセム浮草家業

 初めて子どもだけで花見をしたのは小学三年の時で、友人に誘われて向かった青山墓地は平日だというのに人が多く、おまけに昨日の雨で地面はぬかるんでいて、どうにかましなところにシートを敷いて、コンビニの弁当を広げ、見上げて子どもらしい定型句を交わす。

 桜は日本の花、とか日本で一番美しい花というような意見が、どっかのどうでもいいコピーがあったとして、俺もそれに同意するし、風で散っていく様を見られるだけでも、随分上等な花ではないだろうかと思う。

 のだが、周囲の人々もしきりに褒めそやし、ぬかるんだ地に落ちた桜の花弁を踏み行く姿は本当に気分が悪くなる光景で、落ちた桜の花弁などには価値は無いのだ、というその、上だけを見据えるまなざしも、泥に飲まれて形も無くなる桜も、同じように気分が悪く、しかしそんなことを口に出しても仕方がないのだと小学生ながらに知っていた、けれど気分が悪いものは、いつだって気分を悪くする。

 住んでいる部屋の騒音で一年以上悩んでいて、深夜から朝方の三時過ぎまで好き勝手なバカ騒ぎは明らかに契約違反だろと直接言っても管理会社に言っても全く改善されず、人にそれを話せば「話が通じない人と話すだけ無駄だから引っ越しをなさい」というような言葉が返ってくるのだけれど、それは多分正しくって、近づいている契約更新などするはずがなく、でも俺はそれが出来ないでいるつまり金。

 追い込みの時、そして小説を書きあげて腑抜けになった今も、気がつけば外に出てしまっていて、交通費だけでその日の食費になるのだからなるべく外出を控えるようにしているのだけれど、あんな家に長くいるなんておかしい話で、家でも外でもイヤホンで音楽を聴いている。

 そのせいか耳の調子というか、妙な疲労感らしきものを覚えることもあって、それもまた苛立ちにつながるもので、でも音楽なしでどうしろってんだってなわけ、でも音楽だって聴きたくない時に、ずっと止めていた錠剤や眠りを誘うアルコールや限度額の低いクレジットカードや常用しているチョコレートでどうにかなる、時もあるしどうにかなるといいなと思う。

 たびたび、あと少しでとか大丈夫だから大丈夫、とか頭の中で言葉を回していたのだが、そんなものを捨て去るのはやはり過剰にエモーショナルな体験をしている時で、偉大な、好みの芸術家たちの作品はいつだってあまりにも過剰で、その一部を味わいながら物思いにふけることはとても幸せな時間だろうし、過剰ではないものは芸術ではない、とまで言い切ってもいいかもしれないのだけれど、それは堅牢さに裏打ちされた、統率された情報群、というよりも豊かな身体性さえ備えた、といった方が今の気分に近い、というかどうにか鼓舞したいときのミュージックには、案外、全然詳しくないヒップホップ、ラップが詳しくないせいかとても新鮮に感じられて、それは彼らの音楽がソウルミュージックの悪ガキ達だからかもしれない。

 Arts the beatdoctorのthe anthemという曲がとてもいい感じでリピートして聴いている。たたみかける、ラップのリズムの早さはとても気持ちがいい。それでいて後半のスキャットが重なり、それが音につぶされていく過程が美しい。本当に、この曲が「アンセム」だと思う。

 crystal castlesのbaptismもすごくいい感じでリピート、ボーカルの声がエコーで歪んでガラージ80’っぽいテクノサウンドと共に刺さるような声で音で反復されるのが気持ちいい(あれ、もうラップは無いや)。こんな洗礼(baptism)があったらいい、キリスト教に帰依しちゃう、わけでもないけれど、

 four tet のangel echoesもかなり好きで、エイフェックスツインのXtalを想起するような、けだるくって気分がいいアンビエント、天使のこだま、これもぴったりだ、素晴らしい、いいな、天使、羽あるし美形だし、でも天使って奴隷ってことじゃん? 働かなきゃいけないじゃん、だったらやだな、俺。

 仏教徒三宝に帰依するそうだが、キリスト教のように洗礼を重視するわけではないそうで、現代日本では死後に洗礼みたいな儀式をすることがままあるそうで、現代日本のお坊さんは厳密な意味での仏教徒というよりも仏教の教えを支持する人たち、という話を聞いた。数ある宗教の中で、哲学者的佇まいの釈迦はクールで、どれかひとつ選ばなければという状況があったら仏教を選ぶだろう、けれどそういう人達の中ではキリストが一番のヒーローだ。俺の髪も伸びてきてくれてうれしい、これで職業選択の幅がさらに狭まる。

 どうしようもない状態で、とにかく街に出て音楽と歩くしかない時でも、次に書くこと、考えることがわきあがっている状態は、やはり幸福と言ってもいいかもしれなくて、喜捨のごとき蕩尽に思いを馳せる時、気分が楽になって、やっぱり色々な情熱と無下にすることは素晴らしいなあと思う、どうか、住みやすい日本国のために、
セックスなんてしないで
おかねもうけなんてしないで
祈りなんてしないで
天使になんてならないで

 秋葉原の溝川の上を桜が流れて行って、東京の都心で育った俺は川といえば溝川ばかりで、頭に(比較的綺麗な川)目黒川が浮かんでしまったのだが、あそこは今住んでいる場所の近所で、しかも桜に群がる人々が気分をすさませるので除外する。やっぱり川は驚くように美しい川か溝川、なのだが溝川の上を花々が滑って行く様子には目を奪われてしまうもので、この光景を最初に花筏と名付けた人は本当にセンスがいいなあと思うし、日本人でよかったなと思う。

 川端が「雪月花の時に友を思う」(うろおぼえ)とかジュネが「美には傷以外の起源はない」とか口にしていたことを思い出す。花々が流れていくのは花々が散るように気分がいいことで、それらをたまゆら、集めて形にしていくのが創作というような、そんな感傷的な気分で家でアルコールとチョコレート。まあ、しばらくはこれでもいいんだと思い込む。