葬列には虎も花々もハウスも

 思い立ったが吉日、というよりも、なんかもう頭ん中ゆるゆるで、夕方に行ったくせに、また原宿に向かう。

 時刻は深夜の二時を回っていて、こんな時間に外に出るのは久しぶりで、暗い中で電灯の明かりが目に優しい。何だか、景色もシャボンみたいだ。

 場所柄仲間でイェーイ系の人らが占領していたらやだな、と思ったが、誰もいなくてほっとして、ジャングルジムに登って、シャボン玉を吹いた(正確には機械で発射した、だけど)。

 街灯がある個所はかなり綺麗に映る半面、そこから外れるともう、すぐにぼやけてしまって、やっぱりシャボン玉は昼間にするものだなあと思うけれど、誰もいないひんやりとした空間を独り占め出来ているのは何だか、ちょっとだけ幸福な気分だった。

 シャボン玉を吹くときは、いつもならダンスミュージック系のノリが良い曲ばかりかけていたのだけれど、ふとTortoiseのIt's All Around You をかけてみた。すると、このアルバムを初めて聞いた時の広がりが蘇ってきた。

 アルバムの発売は2004年で、確かその時の俺は二十歳くらいで、でも、今と同じようなもので、でも、変ったものもある。

 トータスを始めとした、ジョン・マッケンタイアとその仲間たちの話が出来た、仲が良かった先輩がいて、その先輩はおぼっちゃま(的性格)で、「にゃーでわー」な感じの俺とはとても気が合っていたのだけれど、今となっては音信不通で、こんなことはよくある、つまらない話。
 
 時折、多分シャボン玉なんかを吹き続けなければならない時にふと、そういうことを思い出してしまう。関係を壊すのはいつだって俺で、でも俺だってやりたくてしているんではなくて、仲がいい人とは、その仲が続けばいいなと、普通に思うけれど、それでは守れないものがある。多分、それはエゴなのかもしれない。エゴ、醜いエゴ、でも俺はそれを守り続けている。


 幼稚園児の頃、ロックマンというテレビゲームの、アイスマンというエスキモーの少年みたいなロボットに憧れていた。そんな俺に、たまたま母はエスキモーっぽい、青くて、内側にモコモコしたフードのあるブルゾンをプレゼントしてくれた。

 俺はわくわくして鏡の前に立つ、そこには期待外れの姿があった。俺はちっとも「アイスマン」なんかじゃなかった。醜い、と思った。正確には別に醜くも美しくもないのだけれど、丁度時期が悪かった。その頃自分が死ぬのだと知ってしまい、しかもそれが逃れられないのだと気づいてしまってパニックになって、夜中に泣きながら親を起こして死後の生について詰問したが、無宗教の親はきちんとした回答をくれなかった。

 今思えば小学校にあがるかあがらないかといった子供に難しい話をするのは厳しかった、と思うことも可能かもしれないが、俺は子ども心に「こいつ、何も知らないんだ、嘘つきやがって」と激しく憎みながら、「ごめんなさい、もう、こういう質問はしないようにします」と謝罪をして寝室に戻った。何度もうなされる、今でも。

 六歳の俺が知ったのは、俺は醜いまま死ぬということ。それは頭がおかしくなるようなことで、でも頭がおかしくなるのも、やっぱり怖い、頭がおかしいまま死ぬのもいやだし、頭がおかしいなんて、カッコ悪いじゃないか。頭がおかしいってことは、助けを求めているってことじゃないか、そうだろ? そういうのさ、少ない方がいいよね。

 久しぶりに聞いたTortoiseは、やはり素晴らしかった。好き過ぎると聞けない音楽というのが幾つかある。俺にとってはTortoiseがその筆頭かもしれない。でも、彼らは、音楽が素晴らしいってことを、音にはこんなにも広がりがあるんだってことを、俺に教えてくれた。それって、彼らがカッコイイ人だってことだ。

 一番好きなブランドは、コムデギャルソン、でもかなりきちんと働いている人しか、定期的に手に入れるのは難しいだろう。しかしあんな、挑発的で、かつ美しい服を作りながらもビジネスとして成功し続けるという奇跡(ほんとはこんな安っぽい言葉を使うのは厭だけど)的なありようは、本当に、クールだ。川久保玲。俺も、彼女(達)がデザインしたものでなくてもいいから、かっこよく、カッコいい服を身にまといたいと思った、

 けれど、金銭的にも精神的にもそんなことは許されなくて、それに精神があれなのに、カッコいい服なんて、絶対に着たくなかった。洋服なんて、俺のことなんて、考えたくもなかった。

 数年前に胸から腹にかけて、先の尖った黒い十字のタトゥーを入れた。そこそこ値段がとられ、金銭が逼迫した時や心に余裕がない時はあの金でどうにかできたのにと思ったこともあったが、やっぱり、あのタトゥーは入れて良かったと心から思う。好きなように生きるってことは、好きなものを自分で選択すること、好きなものを、離しちゃいけないってことだ。俺のタトゥーが、俺は好きだ。黒い長髪、穴のあいた、穴をあけた服が、好きだ。

 好きなことばかりで、もう、どうでもよくなってしまっても、俺の人生は続いてしまっていて、次の日は秋葉原に行ってシャボン。3331の前の公園は広々としているし、場所柄少し秋葉原の中央から離れていて人も少なめだし、ギャラリー(学校を改装した)の前ということで人も穏やかな気がする。がーがーしてても、一度も写真を撮られなかったはずだ。

 イヤホンばかりつけていて耳がどうにかなりそうだから、しょぼいスピーカーで音を流せるのが嬉しい。カイリー・ミノーグとか歌っちゃって能天気、

 九本のゲームソフトと十冊の本を買って、分かる、こんなのしている場合じゃないってでも、これらの半数は売るから、売るために欲しくもないものを買っているから、大丈夫だ大丈夫だ大丈夫、大丈夫だから、なあ? 分かる。大丈夫だから。

 あと、友人へのプレゼントを買った。こういうのっていいよね。誰かに何かをあげられるって。こういうのって不思議な気がする。俺が誰かに何かをしてあげられるって。しぶとく生き抜いてきたんだ方法なら分かるんだでも、そういうことじゃないでしょ?

 さすがに借金をしてまでいかないけれど、またタトゥーが入れたくて、タトゥーとティガー(くまのプーさんのトラ)のことばかり考えている。先日ティガーのアニメ映画(でいいのか?)を見て四回も号泣した。でもつまんないし(アニメーションはさすがにディズニー、素晴らしいのだが)泣いちゃいそうだし、もう当分見ないだろう。ティガーがないなら俺に花々を。俺の身体に花々を。


 何かあった時に、よく「もう二度と合わないから」とか「どうせ(俺が)死ぬから安心して」みたいなことを思うことがあるのだけれど、体中が葬列みたいな気分になったら、人生がもっと楽しいと思う。

 すべてのお葬式には、帰依している人やDJなんて呼ばないで、適当にネットで拾ったハウスミュージックを流して欲しい。はしたなくってキュートで寂しい、ダンス、ハウス・ミュージック

 葬列の事を、花々の事を考えて、きっと俺は気分がいいんだ、って。