さようならのふりだけを

 買い物が好きだ。本も好きだ。他のも好きだけれど。一人で外にでると、とりあえず、本を買ってしまう。狭い床の上に、狭いベッドの上に平積みになった本の山を崩すのは、結構好きな作業なのだが、でも、明らかに減らす分量よりも増える分量のほうが多いというか、おまけに再読やら図書館でも借りてしまっていて。

 長距離を走り切るマラソン選手のように、染色の度合いを測る職人のように、日々の積み重ねでもって成せることが身体が覚えることがあるだろう。何かになっているものはきっと、絶え間ない反復によって生み出されたものばかり、だとしても、それを同時に退屈だと思ってしまうこともたしかで。

 旅行エッセイを読み返す。その本の中で、現代社会で生きるという事は感受性を抑制している、抑制しなければならない、みたいに書かれている箇所があって、ああ、そうだなあと思う。

 脳は、なんて言葉は好きではないが、誰がいったのだか、脳は楽な選択をしようとするというのには、どきりとさせられるものがある。そう、好きなものでも慣れていることでも必要なことでも、何だってある一面では惰性でもありうる。新しいこと、があるとして、それよりも慣れている景色を見よう見たいと思う。もちろんそれ自体は悪いことでもないのだけれど、神経ばかりが過敏になって、どこかで人や自分や作品に対してうまいすり抜け方ばかりが小慣れて、肝要なものから回避しようとばかりしているとしたら。

 多分、外に出て、ipodと一緒に歩くのがいい。それもできないのならば少し横になぅて。音楽なんて捨てて。いらないものを捨てて。いらないものばかり人生。でも、すぐにまた、欲しくなるはずだ。


 たいして興味があったわけでもないが、上野の国立西洋美術館に行く。展示は『ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場』。十七世紀に活躍した銅版画家ジャック・カロの作品展、ということで初めて目にした画家の作品ではあるが、銅版画ということで特に目新しさも落胆もなく、見ることができた。

 のだけれど、でも、あの大きなハコに多数の銅版画が一度に展示されていて、それをみられるというのは中々いいものだった。銅版画って普通なんかの時に申し訳程度に展示みたいなものだもんなー。作品としては宗教をテーマにした銅版画が興味深かった。あとアウトサダーやらこじきやらの作品が。写実の中に窺える作家の視線というのが面白いと思う。でもまあ、多作な人で色々作っていたんだな、職人気質だったんだなとは思うが。

 それと同時にしていた企画展が作家の平野啓一郎キュレーション『非日常からの呼び声』で、平野が国西の所蔵作品群から選んで展示したものなのだが、正直俺は平野の作品がちっともいいとは思わない。というか、実力があるのはわかるが、センスも色気もないというか、てかさー芸術作品を「非日常からの呼び声」って! もう少しなんとかならないものでしょうか……。上等の紋切り型責めにあってる感じになる。ハレもケも曖昧な、もう了解された時代で、作家がそれを非日常とか言えるセンス…。いや、この人自分でキャプション内にエロスといえばタナトスだなんてこっ恥ずかしいみたいに書いているくせに、いや、そういう感性があるだけまだまし、

 あ、いいや、悪口ばかりになってしまう、って、本当に嫌いなら、軽蔑しているなら話題に出さない、出すべきではないと思っているけれども。

 だって、世の中って嫌いなことばかりで、そういうのに目を向ける時間はなるべく少ないほうがいいと思うから。

 で、肝心の展示の方は優等生的な手堅さというか、モローもクールベデューラーもルドンも見られて満足だ。ふと、某女性作家が「平野くんはああみえてたらしだよ、○○も◎◎も友達になってた」みたいな発言を対談本の中でしていたのを思い出した。だからどうしたって話だけれど。でも、まあ十数年たって生き残っているそのしぶとさだけでも、好みではなくてもいいことだとは思う。

 ついでに常設展も見ていたら、二時間以上立ちっぱなしで集中力が切れてきた。ああ、でもこういう疲労なら、贅沢なもので、大歓迎だ。豪奢な、大して興味もない(好きだが)絵画の群れ群れにげんなりできる瞬間。自然の中で野生動物の中で戸惑うかのような
 
 連日の雨やら強風やらで、桜がだいぶ散ってしまった。でも、そんな中でも花見をしている人は結構な数がいて、花盛りのにぎわいというよりもむしろこちらのほうが好みかもしれないと思う。祭りの終わり、にもまた祭りは続いている。

 フェリーニの『カリビアの夜』のラストシーンが頭をよぎる。そう、あんな風に、軽やかに痛ましく、祝祭が身体を通り過ぎるように生きられたなら。そういう場に自分をおけたならば。

 すぐに、慣れた気に飽きてしまったような感覚に襲われても大丈夫。それにも飽きてしまえるから。

 楽だと思ったならば、別のことを。合わないと思ったら別のことを、ってそうやって今迄だって生きてきたじゃないかと思い返し気持ちの悪い自嘲のような心持ちになって、でも、まあ、今はそれでもいいような気がする。祝祭から瞳を逸らさないで。疲れたならば、声も瞳もあることを忘れてはいけない。俺はスピリチュアルなことに対しては懐疑的だが、楽しいほうがかっこいいほうがいいと思う。 身体も人も自然も、もう少し仲良くなってもいいんだな、なんちゃって。