肌の上の腹の内の舌の上の貴方

 薄着が好きなので、この時期になってもTシャツ一枚で過ごしていたら、軽く風邪をひいて、でも軽く、というのがなかなか厄介で、でも大丈夫だろうと少し無茶をしたりだらだらと休まずにすごしてしまったり。

 肌の表皮は冷たくするのが良くて、身体の内は温める方が良い、とはよく耳にすることで、実際そうなのだろうと思うのだが、ついつい薄着をしてしまうのは、肌の上の衣ずれや風の走りの冷たさを気に入っているからだと思う。

 でも先日コアラのマーチ型のゆたぽんが売っていて、中はお湯を入れるのではなく電子レンジでチンするものだったらしく、少しだけ買えば良かったかなと思った。でも、ホッカイロとかも少し苦手なのだ。長風呂も苦手だ。俺はかなりせっかちだ。

 食べるのも結構早く、しかし俺は胃腸が丈夫な方ではないので、ゆっくりと噛んで食べる方が良いとは思いつつも、ついつい食べ物をかきこんでしまって、食欲を満たすだけ、という色気のない様で。

 先日ちらし鮨をいただく。本当に、鮨はきれいだなあと思う。回転すしでもスーパーのだって、まあ、それでも好きだ。あんなに鮮やかな色の食べ物がお菓子ではなく主食になるなんて!

 ちらし鮨のいいところは、実際の物はどうであれ、なんとなくあり合わせで作られたような手軽さがあるところで、鮪の赤、卵の黄、雲丹の橙、胡瓜の緑、甘海老の仄白、といった品々の上に、いくらが星くずのように散らされているのは、目にも楽しめる。

 何より好きなのは、あの冷やされた魚の肌が舌の上の微熱を奪うあの瞬間で、いくら俺が肉が好きだからって、生食は無理な話なのだから、肌の上の戯れのように食事を楽しめるというのは、日本人ならではの喜びといっても大げさではないように思える。

 おいしいものを食べると、自然と食べるペースもゆっくりとなる。時間を大切にできる、というのは大切なことだ。安物もそれなりに好きだけれど、たまには、舌も、したとの時間も大切にしなければと、おいしいものを口にすると、たまに、思う。

 以前読んだ著作の中で、茶道家の人が頻繁に「茶道っていうのはおもてなしの心なんですよね」ということを頻繁に言われる、ということに対して、注釈のようなことを口にしていてい、つまり、彼ら茶を点てる人達は非常に心を砕いて来客をもてなす準備をしているということで、季節の菓子や生ける花、掛け軸、香、道具といった来客への用意に加えて、その場その場での所作、始めや終わってからの心づくし、心遣いといったものまで、非常に様々な事柄に気を配っているわけで、それを「おもてなし」と招かれる側が口にするのは少し無粋のような気がしてくるのだ。

 当たり前の、そして経験と才と努力が必要なものを矮小化するような気がしてきてしまうというか、それが身についていないからこそ、形骸化したしかしそれなりに安全な文句を口にしてしまうというか(しかし信頼し合っている関係ならともかく、それでことたりてしまうのならば、それでもしようがないようにも思えるのだけれど)。

 多くの茶道家の人は完璧さや厳密さを求めていないということを口にしていて、そう、自分でも相手の心に応える心構えがあるのならば、作法としては間違っていても、相手を不愉快にはしないだろうし、もし自分で気になるのならば気づこうとするのならば質問をすればいいだけなのだ。間違えているのならば、頭を下げればいいのだ。才が、経験が不足しているのならば、自ら、恥をかかねばならないということだ。

 こういった流儀について、茶道を学ぶ茶席に参加するということよりもむしろ、その精神性が素敵だな、と思う反面、茶道というものは「場」が必要になるものであるから、社会化されていることについて「よそもの」の俺は御礼状に一筆、なんてして二度と合わない、なんて選択肢がないのならば、やはり遠慮したくなってしまうもので、様々な日本の文化的なドレスコードの美しさに感銘を受けつつも、自分の身体には染みつかないのだろうかなあと思っている。

 それでも、そういう心を砕く(という表現がやや過剰ではあるだろうが)準備や心構えくらいは、身の内にあるほうが望ましいだろう。心を砕けないなんて、寂しいことではないだろうか?

 先日勅使河原宏の『利休』を見る。俺はこの監督の作品がかなり好きなのだが、残念なことにレンタルでは滅多に見かけないし、DVDBOXだって、ほぼ全部見てしまったのだから、再び買う気にはならない。それに、正直俺は歴史物とかチャンバラ、アクション作品にてんで興味がなくって、この『利休』は見ていなかったのだが、それに勅使河原の作品を見つくしてしまうのが嫌で(でも全部は見られていない)後の楽しみにとっておいたのだが、なんとなく、見ることにした。

 久しぶりに目にした、彼のカラーの映像、しかも歴史物というので、最初は少し、違和感を覚えた。利休役の三國連太郎はかなりはまっていたのように思えたが、秀吉役の山崎努が秀吉、というよりも山崎努を想起してしまって(彼に興味があるわけでも詳しいわけでもないが、つまり必ずしも褒め言葉とはいえばい、何だか演技がうまいベテランみたいな)、しかも冒頭の利休と秀吉の二人で行われる茶席の簡素ぶり(映画としての所作の簡略化というよりもずっと)が、もっと言うとあまりにもそっけない画面(それはモノクロにとても合っていたし、『サマーソルジャー』なんかの寄る辺なさはあまり美しいとは言えないカラーにとても合っていたのだが)に多少、入り込めずにいたのだが、少しずつ、この映画に引き込まれていく自分に気づいていった。

 脚本は勅使河原と赤瀬川の共同だそうだが(原作は別の人だが)、赤瀬川は本当に多彩な人だなあと思った。硬軟どちらもこなしてしまうバランス感覚の良さというか、屈託のなさ。数年前にギャラリートークで目にした時も、好々爺といった印象で、いい感じに肩の力が抜けているのだけど、やりたいことはする、という感じだ。

 物語は秀吉と利休、つまり利休と歩みを(一応は)共にしていた秀吉が頂点に上りつめた結果の不和というのが舞台になっているのだが、三國連太郎の頑として己の姿勢を崩さない利休(しかし彼の頑なという弱さにたいする面にもきちんと焦点は当たっている)に対して、赤と金の羽織を身につける醜悪で傲岸でしかしどこか所在なさげな「猿」との対比が面白く、「猿」の態度も物語の中でころころと変わり、しかししめるところは「ベテラン役者」、いや、天下の秀吉として、しっかりと締めているのも見事だった。山崎努の秀吉って、ミスキャストじゃないか、とのぬぐいきれない違和感の印象が、そのまま愚かしさに満ちた、しかし絶大な権力者という点をやや奇妙に表現しているような印象を受けた。

 ねね役の岸田今日子もいい、というか、この人の顔も声もどちらかといえば苦手なはずなのに、画面に出ていると否応なく注目してしまう。本当に、こういう人が俳優なのだなあと思う。チョイ役で、家康役の中村吉右衛門も出ているのだが、この人も役者だなあと思う。こういう人たちの存在感というか、過剰な演技なんてしないのに、自然とその人がそこにいるのだと思ってしまう色気というか、強い引力。

 茶や利休について俺は明るいわけではないのだが、禅の説く「本来無一物」という心境に利休の茶はあるというのはとても興味深く、元々ミニマルアート、抽象表現主義の(おもにアメリカの)作家達の興味から、茶道、禅への関心という日本人らしくない(むしろらしい、か?)道筋を辿っていて、過剰な美しさグロテスクさというのもとても好きな半面、必要最低限の物で表す美、或いは諦念や虚無主義とは異なる砕いた心を差し出したままの、キリストのような(しかし神を必要とはしないのだ!)姿は、とてもかっこいいと思うのだ。

 「殺生戒」というのは、つまり徹底的にものを生かせ、という解釈も合理的というか論理的で好きだ。本当に、武士道の根底にある意識に茶道(禅)は近いと思うし、つまりそれは、自分の好きなように、カッコよく生きるということだ。

 信仰、「道」における投棄の親近性について思いを馳せると、ひどく、肌の上の冷たい風のように或いは舌の上のひんやりとした噛み砕かれる赤身のように、気分が良くなるもので、しかし、俺は生活の中にいて、結局は社会の中にいるということに落胆し、しかし、それなりにわくわくもするのだ。

 せめて、たまには「おすし」を食べられるくらいの生活はしなきゃなあ、と思うし。レンジでチンするコアラのマーチも。頭の、身体の微熱も、ウイルスのせいなんかではなく、じぶんで選べるように。