毛皮を花をくれよ

 色々大変だった。ただ、どんな状況であっても、自分のテンション、生活を立て直せるのって自力じゃなきゃ自分の意志でなきゃむりなんだ。諦めよう、としながらも、でも、そうじゃないんだって。愚かな繰り返し性懲りもなく俺。

 何度か写真史の本を読んでいたら、やっぱ俺、写真撮りたい、というか撮りたい構図というか映像が頭に浮かんできて、めっちゃハッピーになった。何でもいいんだ、モノづくりをしたいという衝動ってハッピーなこと。

 でさあ、カメラ買わなきゃならない。とりあえず、十万位? 上を見たらきりがない。どうしても思いきれないんだよなー。一、二万位ならさすがにどうにかするけど、はした金でやりたいことを断念するのはみっともない。でもなー俺にとっては切実なんだよはしたがね問題。

 ただ、それだけじゃなくて、撮影道具とモデルに着てもらう衣装も必要なんだよね。何か作ろうとすると先ずお金が心配になる。がっくし。毛皮欲しいなあ。動物か人から剥ぎ取りたい。

 まあ、それはいいとして、問題はモデルだ。セルフポートレートみたいなのあまりしたくない(自撮り技術がない)んだよね。でもさあ、俺のしたい撮影に協力してくれるような、無茶を聞いてくれるようなモデルなんて、いない! 正確に言うならば友達が、いない!

 というか、素人の遊びに付き合う奇特な人はいなくて当然で、力入れて活動をしている人だってネットでモデル募集とかカメラマン募集してるのをちらほら見るよなー。

 ネットを見ていると、そういう時のトラブルを目にすることがある。男性から女性への、或いは女性から男性への卑怯な行為。こういうの見ている方も嫌な気分になる。ほんと、セクハラとか加害者が被害者ツラするのを見るのは気分が悪い。スケベ心で相手を傷つけるのダメ絶対。

 そういえば、数年前知り合いになった人に裸を撮られたことを思い出した。「あくまで練習でどこかに発表したりとかは絶対にやめて」と俺は言ったけど、相手は曖昧な返事をした気がする。でも今となってはよくわからない。まーどうでもいいやろ、俺の裸なんてさ。

 てかさ、脱ぐなよ、俺。肌にタトゥー入ってるから特定余裕だし。幾ら俺のハートとボディがプラスチック製だからって、玩具だって傷つくんですよ!

 セクハラ被害者可哀相! よくないよね! じゃねーよ。

 危機意識低すぎだね俺。やばいね。これを読んでいる悪いこのみんなは、親しくない人に(恋人だって後でこじれるやで)裸撮らせたらだめだぞ! お兄さんとの約束だ!(言われなくてもそんなんしねーよ)

 でもさ、いいじゃん裸位。昔のデッサン、モデルポーズ集とかだとちびっこの裸載ってるんだよね。こんなんでガタガタ言う方がおかしい気がする。勿論児童の権利が侵害されるという点で、そういうのが出なくなったのは良いことだと思う。でも、見る側が「裸位どうでもいい」というのが共有されていたらなあと思うんだ。子供でも大人でも性器が出ていても出ていなくても、(ゾーニングされていたら)過剰反応するほうが変だと思うんだよね。肌がでているからって、不潔とか言わないで欲しい。自分が不快なのを誰かの、世間の意見として言う、その無自覚な正義パンチしたがりの人、ほんと苦手だ。

 

 なんて考える俺は野山で暮らしたほうがいいのかもしれない。危機管理も自分の身体が傷つくということも理解してない。賢い動物並みの知性。てかさ俺マジ虎になりたいガルガルワンワン!

 てかさ、俺の為に路上に転がってくれよお菓子買ってあげるから、ってことだよいいじゃん友達なんだから裸になっても新宿でころがってもさあ、でも、俺、ともだち、いたっけな……まあ、いいじゃん。友情無くても犠牲になってくれ無様な姿撮らせてくれ。俺ならするのにな魔が差したらさあ、俺、割と簡単に魔が差す魔に刺される。

 ということで、勅使河原宏の『ふしぎな森 勅使河原宏いけばな作品集1』を読む。彼の映画の作品はとても好きなのだが、彼のいけばなの作品を見ていなかった。植物はとても好きなのだが、いけばなって、敷居が高い。やるならある程度勉強したいんだよね。だから遠ざけていた。

 また、企業やオサレ空間で振れるいけばな作品。或いは本で見て、そこまで……みたいな感想を抱いたことがあった。植物なんだからそりゃきれいだよ。でも、そこに何かを見出すのが難しい。見出す、とかいう発想がおかしいのかもしれないけどさ。

 なのにさ、勅使河原宏の作品は、とてもよかった。それは彼がこの著作の中に書いている言葉で表せると思う。以下引用。(本の見開き、左側が写真で右が作品のキャプションと勅使河原宏の文章で構成されている)

 

 

 

いけばなから出発してオブジェに至る道程がある。それにはいけばなを反自然なものとして捉える理念に徹しなければならない。私はそこに光明を見出しているのだ。

庭がそうであるように、いけばなもまた反自然のものである。日本人の美意識は、自然のものをいかしながら抽象空間にせまるという独自性をもっている。

人がいけばなをいけているのを見るのは面白いものである。特に無駄なものを切り落としていくとき、自分の感性にてらしてみると大いに参考になる。

いけばなの素材はそれ自体の表現が豊かであるから余程しっかりした構成力を持っていないと、素材のおしゃべりに負けてしまって騒がしいだけのものになる。

いけばなの素材を、色と線とに割り切って捉えることが素材をいかすための最大の条件である。

緻密に練り上げていた花が、さりげなくという風情に仕上がれば最高ではなかろうか

こういう空間の取り方をするのは、昔私が日本画をやっていた、その名残りかも知れない。

いけばなをしている人の大半が、三次元の空間に気付かずに、専ら平面的生面性の世界に安住している。

いけばなに、いろんな意味を与える作り方には賛成できない。何かを象徴しているつもりになっている作品があまりにもそのものになり切っている場合は空間が限定されて白けてくる。いけばなは菊人形ではない。アブストラクトなものだ。

私はいけばなを反自然なものと解釈している。素材が植物だから<自然らしさ>に傾斜しがちだが、間違っている。利休が花は野にあるように、といったのは自然模倣ではなく、反立華を説いたのである。

いけばなに季節感などは無い。見るものが勝手にイメージするだけだ。

 

 

 

 こういった彼の言葉は、俺にとってとても分かりやすいものだった。それは俺が抽象画やミニマルアートが好きだからだと思う。感情移入の為の作品ではなく、空間把握と省略から生まれる形。それが美しいということなのだと思う。そして、美しい物の組み合わせで人をもてなす。

 茶道、なんて門外漢だって学んでいる人だって簡単に言えるものではないのだと思う。でも、簡単に言える部分があるとしたら、美しい物を作り上げてもてなすという精神なのだろう。そしてそれを生み出すには感性も構成力も必要なんだ。何かを作り出す時は、作品について目の前の物質を良くすることを、きちんと配置することを考えるべきだ。エモーショナルな部分はその後だ。

簡単なことではないとしても、するのが好きなら、それでいいんだとりあえず。美しい空間を作り上げるのが、もてなすのが好きだとしたら。

 で、勅使河原宏の映画「利休」についての本『利休ワークス』勅使河原宏+満共敬司 を読む。

 映画の中でスポーツやら武道やら舞踏やら絵画やらが題材になることがある。でも、その多くが退屈なものだ。それは本物を見た方がずっといいから。その当たり前のことを了解していないと、辟易するようなものができあがってくる。単純に、その「動き、運動」は映像として見るに耐えるものか、という価値判断が、美意識が肝要になる。

 『利休』は良かった。映画自体もそうだが、秀吉と利休が対峙し、花を生け合うシーンの簡潔さ。利休の映画と言うだけではなく、この最小限の応酬、省略はすばらしかった。美しいとされるものでも、長く映す必要が必然性があるのかというのは、考えなければならないことだ。短くて済むならば短い方がいいに決まっている。

 この本はその利休の副読本というようなもので、見ていて映画を思い出して面白かった。

 個人的に面白かったのが、秀吉(山崎努)の怒りをかって、利休(三國連太郎)が自分の意志を曲げようとせずに、このままでは死んでしまうとりき(三田佳子)が泣くシーンでの解説。

 

ラストカットで、りきは利休の膝に顔をうずめてすすり泣く。この芝居がやや新派風であるという批評があった。つまり、型にはまりすぎているということだろう。

 たしかに現実生活では、人間は多分、ああいう悲しみの表現はしないだろう。もしする人がいれば、その人は芝居か映画でこんな場面を見ていて、それを演じているに違いない。

 では一体どんな悲しみ肩をすればいいだろうか? それも桃山時代の女性がだ。……考えてみればなんともむずかしい問題である。

 ただこの芝居をしている三田さんは、型にはまっているからこそ、いかにも気持ちよさそうに演じていた。そしてそんな芝居を喜ぶ観客がいるのもまた事実である。

 

 この映画の出演俳優は、三國連太郎山崎努中村吉右衛門松本幸四郎岸田今日子、といった名前が連なる豪華なものになっている。でも、演技では素人の人も多く出ているのだ。映画は最終編集権、監督の物であると俺は考えるので(編集で無言でどうにかなる)、演技の良し悪しについてはあまり分からないのだが、明らかにうまいとか下手なのは感じてしまう。

 で、三田佳子、わりといつも、なんか、下手というか型にはまった感じだと俺は感じていて。それを的確に評した文章がちょっと面白かった。

 ただ、演技がうまかろうと下手だろうと、迫るようなものだろうと型通りの物であろうと、映画として完成しているならそれでいいのだ。色々な役者がいて、それをうまく生かす。ああ、勅使河原宏は映画でも華道でもうまくそれをやっているのだなあと今更ながらにそう感じたのだ。

 やっぱすごい人がすごいの作ってるのを見られるのは、その考えに触れられるのはとても幸せなことだ。俺も何か作ろうって気になるし、プラスチックの心でも身体でも、暮らしていて悪くないって錯覚できるんだ。

 酔っ払うためには錯覚するためには、素面じゃないと真剣じゃないとフラットじゃないと難しい、というのはなんとも面倒な話なのだが、でも、もう少しもう少し、投げ出すことばかり逃げ出すことばかり考えていないで、頑張らなくっちゃ素面にならなきゃ人生。