紛い物の星々に祝福を

 変に昂揚したりダウナーだったりの日々、っていつもか。

 友人を誘ってひさしぶりにプラネタリウムに行く。あの紛い物の星空というか、細工小箱の中の住人になれるような感覚って映画館とはまた違った趣があって、結構好きだ。

 待ち合わせをして、開場時間前の館内で友人に本をプレゼントすると、友人は俺が日本で一番好きなバンドのチケットをくれた。思いがけない贈り物に嬉しさと共に少しだけ狼狽して、(だって俺の買った本の何倍もするのだ)でもその人は「誕生日も近いから」と言ってくれて、それは素直にうれしかった。何もない日に、何かがある日に、誰かに祝福をあげられる人になれれば、もしくは、自分がそうでいられたなら。


 そのバンドに本気ではまっていた頃、活動を長年停止して、最近また彼らは始動していた。「好きすぎて」ライブに行こうだなんて思わなかったというか、ちょうど俺の熱がピークの時に活動を何年も停止していて。

 それで俺もいろいろごたごたを無視して、ライブに行こうかな、と思っていた矢先に数万円の出費が相次ぎ、テンションがだだ下がりでもういいや、と思っていたので、嬉しくも戸惑った。いや、うれしかった。ぐだぐだいってないで、好きならそれでいいと思えた。

 俺が買い物が好きなのは、何かを見た時に、それを受け取った誰かが喜んでくれるかなと思うことができるから。誰かの好きなものが、俺も好きになれる瞬間。

 最近バンドでデビューする若い子と、食事の終わりにふたりきりになって、ガードレールの上で終電まで何時間も話していた。彼の若々しい野心と素直さはいいな、と思ったが、一番好きな音楽は正反対かもしれない。彼はとにかく音が詰まったミクスチャー、メロコア、ハードコア、シャウトありで歌い上げる感じの。俺はスカスカテクノや音響派や歌唱力なんていらない感じのが好きだ。でも、趣味があわなくたぅて、何かに打ち込んでいる人の、野心が目標がある人と話すのは好きだ。

 でも、不思議なのが、そういう「元気で魅力的な」、あるいは「社会的に成功している(であろう)」人は自分のことを自分の作品を知ってもらう受け入れてもらうことに躊躇がないというか、むしろとても貪欲だということだ。

 愛されたい、と素直にいろんな人に言えるということ。そういう人と接する度に、自分にはそういう感覚が端から欠如していることにきづかされ、少し戸惑ってしまう。


 多くの人は自分へのジャッジが結構甘いように思えるというか、俺だって「本当に」自分には厳しくできないし、誰だってものには限度があるのだと思うが、得をしたい損をしたくない、愛されたい社会的に評価されたい、みたいな思いを抱いていて、なおかつ自分にはその「価値が」ある、と思っている人の多さに、少しくらくらする。いや、生活するというのはきっとそういうことだと思うけれど。

 それに卑屈になったり自己卑下してじぶんを守り続ける人よりも、「俺のこと好きか?」って言ってくる人のほうがずっと好きだけれど。(一時でも)愛されたいのならば、勝ち取らなければ、捧げなければ、魅力的でなければ。多分。

 だるいかんじで、休みたい、と思って行ったプラネタリウム。球形の天井が暗くなり、星々が灯る。解説のナイスミドルの職員の声が心地よい。少し、目を閉じる。そしてひらいてもまだ、目の前には星々。

 プログラムの後半は彗星の一生というドキュメンタリー映像の上映だったのだが、これが予想外によかった。彗星に乗っているようなパノラマ映像は360度スクリーンのせいで下手なアクション映画や遊園地のアトラクションでは味わえない臨場感と開放感があった、というかこれ、他のとこでもすればいいのにと真剣に思ったほどだ。

 小一時間ほどで星々との小旅行は終わり、渋谷の街に吐き出されると、外は汗ばむ陽気で、この前まで外套が手放せなかったのがうそみたいだ。でも、俺は夏が嫌いだ。汗かくから。ずっとはるがいいな、なんて思ってもそんなことがあるわけがない。

 東急に向かいつつ、友人に次にあった時に何をあげようかなと思う。ふと、色々と投げ出したくなっても、誰かに何かをあげたい、あげなくちゃならないと思えるうちはまだ平気なのかなと思うし、それに自分にもごほうび(笑)あげなきゃなとふと思うと、それは何もしない時間かもしれないとかいう恐ろしい答えが浮かんで、嫌というか今無為だが、でも、それが一番かもとも思う。

 リセットしなきゃ先に行けないような、そんな気分と、そして、夢の夜の続きをもう少し見ていたいんだって気持ちと。