日本製の僕ら

 ふらふらしていて、というか、外出ばかりしていると、家にいるのが何だか不思議な感じになる。バックパッカーとか、そういう人にオレはなれないけれど、違う景色ばかり見るのはいい気分なのかな。

 人の家を見るのが結構好きで、人の家に行くと本棚やCDラックがどうしても気になってしまう。その人の好きなモノがわかるし、知らないものだと興味もわく。でも、家の中が整頓されていない倉庫みたいになっているオレ、つまり人を呼べない家ではない人の家って、たいてい整頓されているというか、物がとても少ない。必要なものと、インテリア的に配置されたあれやこれや。

 それを見るとオレの家の乱雑さとかが浮き彫りになるというか、やばいなあ、と思いながら、個人的にはいつ人を迎えてもオッケーな人の家よりも、おもちゃ屋とか書店みたいな人の家のほうが好きなのだけれど。

 というか、物を買うのが好き過ぎるのだオレ。だから物を買うのが好きな人が好きかもしれない。友達になれそうな気がする。街には素敵なものが山ほどありすぎる! カタログを見るのも楽しいけれど、youtubeのリンクのようにきりがないから、いつからか雑誌を見るのもほどほどになってしまった。

 貴方の身体は貴方が食べたもので出来ている、というのは誰が言ったのかは忘れたけれど、オレの酷い(しかしサプリメントはしっかりとっているのだが)食生活を自戒するのに、たまにこの言葉を思い出す。オレは体質的に?胃下垂か何かなのか、何を食べてもほとんど太らない。腸の吸収が悪いということだろうか? 酷い食生活をしていると精神的にも体調にもすぐに現れる。 それを、分かっていながらも、改善することもあまりなかったりする。

 母親が一人でいると(父は出張が多かった)ご飯を作らずにお粥でも十分なの、と言っていたことを思い出す。オレの場合はお菓子なのだが… まあ、一人でいると何を食べても味気ないのだ。おいしい、とは思うけれども、食事は誰かととるからいいものだと思う。

 とはいえ、最近話題のランチパスポート、1000円の本を買えば、それに掲載されているお店のランチ(場所によっては終日可能)が約三ヶ月500円、というので、普段行かない店に行ってみると、結構いい気分転換になる。オレが買ったのは渋谷原宿恵比寿代官山エリアなのだが、その辺なら結構暇つぶしに行くし、こんなところに店があったんだ、みたいなのが面白い。食事としてはそこまでおいしい!というものでもないけれども…

 でも、まあ、贅沢を言えばきりがないし、それに多分、二度と行かない割りと好きな店、というのもいいものなのかもしれない。

 こういうオレの態度について、冷めているとかドライだとか言われることがたまにあって、でも、ずっと誰かに何かに熱を上げるなんてムリだし、それを意識しているからこそ、あんまり下らない嘘とかやめて、せめてその時だけでも楽しめればな、と思うのだ。

 そう、好きな人との食事、よりも素敵かもしれないイヴ・サンローランの(服)自伝的映画が上映されるということで、これはやっぱり映画館の大きな画面であの素晴らしい服を見たい、と思って楽しみにしていたのだけれど、でも、たまたまテレビで少し映像を目にすると、行く気がかなり失せてしまった。

 いや、悪い映画ではないというか、むしろ歓迎すべき、手堅い作りのように思えたのだが(でも見たのは二十秒程度だ)あの洋服の魔法のような素晴らしさに比類するようなカメラワークや構図ではないのだった。こちらが高望みすぎるのだ。

 彼の洋服は、オレが女だったら、女としてあの洋服を着てみたいと思ってしまうほど素晴らしい、魔法のような服だが、映画は「普通に素敵な」ものらしかったから。魔法を使える人は、ものは、恐ろしく少ない。そして、それは手には入らないものだ。

 また、浅草橋のパラボリカ・ビスで恋月姫の展示をしているので向かう。球体関節人形の中でも、この人の作品は本当に群を抜いて恐ろしいのだ。多くの人の展示では、悪い意味での作り物や「手わざ」が見えてしまうのだが、彼女の作る人形は、ビスク・ドールであることもあるが生々しく、永遠の美しすぎる少女のような息遣いを秘めている。人形でありながら見るものを拒絶する。美しいものは、他から遊離しているのだ。誰のものにもなりそうにない。しかし、彼女たちは、ただの人形。

 二階の展示では人形を撮った写真が飾られていて、やはり実物のほうがいいのだが、これはこれでグレタ・ガルボイングリッド・バーグマングレース・ケリーのような、彫刻のような、暑すぎるライトを浴びて恍惚となる、彼女たちの姿を想起する。
フォトショップの力もいいけれど、真っ白な世界の彼女たち、そして人形たちの写真は作り物めいていて、とても素敵だ。

 そして、一階で実物を見る。何度見ても、また見たくなる。こういう展示はとても貴重で、好きになれるものがあるというのはいいことだと思える。何かを好きになる力をくれるのはいつも、残酷な程身も蓋もない現実であったり、罪も罰も許してくれない、魔法のような、紛い物のような輝きだ。そして、きっと、それを作り出す人の意志だ。

 同じ時代の、違う時代の誰かのことを思うと、肌の上を風が走っているような心持ちになる。朝起きてミネラルウォーターを体の中に入れる時のような、細胞が動き出すような心持ちになるのだ。

 時代ではなく、世界(というのがあるとして)が違う人たちのことも思う。本の中の映画の中のゲームの中の音楽の中の人達。彼/彼女達。彼らのあまりに輝かしい、そして貧しい生命、生活。純度の高い、そして作り物の、割れ硝子のようなパラフィン紙のような輝き。それがとても愛おしい。簡単に手に入る、簡単に失ってしまう。

 遊び呆けていて、まあ、その代償を受けるのも自分自身だ、と開き直りというか覚悟を決めてから、割りと気が楽になっていきた。そういうキリギリス人生。でも、冬も、割りとオレは好きだけど。本物のキリギリスでは無いからだろうか? ひんやりとした、肌の上の風も、毛布も。

 少し、やることもして、それと日銭稼ぎもして。その為には人形ではないオレは、壊れかけの機械の身体に油を注すように、音楽を入れる。

ガラージ系の、あらくれた、貼りたい曲がことごとくないので、正反対のこの曲を。って、これも大好きだけどね!


 Jazzin'park - Long Time Ago

https://www.youtube.com/watch?v=JbjvnqPGVm0

 爽やかすぎて、めっちゃ好き。Prismの方がさらにすきだが、こっちは動画ないんだよね…

 でも、オレの中ではパンク、オルタナ、ポストロック的な曲もハウス・ダンス系のミュージックも同じような心地よさがある。美しい一瞬の心地よさ、そして、もう一度。インスタント・リプレイ。そんなこんなで、やっていけたら。
って、