まるで病理

腑抜けの日々。腑抜けている場合ではないとは思いつつも、似たような暇つぶしの繰り返し、物を売り払い、音楽を聞き、本を読む。

惰性でナショナルジオグラフィックを何冊も読んでいるのだが、内容は自然、科学凄い―の繰り返しなのに、読んでいて飽きない。

 その中で聖母マリア、奇跡という号が中々興味深かった。紀元前から現在まで、世界で目撃された聖母は2000件、ローマ・カトリック協会がそれを審査してきて、信頼性が高く、教義に沿っていて、好ましい影響があったものだけを認めるという。

 そして、そのバチカンの承認が得られたのは、わずか16件だという。

 教会の承認、というのがどういった意味があるのだろうか? それらの奇跡、と呼ばれるものは、主に病気の回復が主らしい。中には予言もあるという。

 ただ、カトリック教徒だからといって、聖母の出現を信じる義務はなく、懐疑的な聖職者も多いという。

 ただ、世間でいう奇跡には、医学用語で「自然寛解」と呼ばれるものが含まれる。がん組織の大半が消失するのは極めてまれな出来事だが、統計的には起こりうるという。

 その「奇跡」を受けた患者は言う「信仰が心身の平安をもたらし、そのおかげで息を吹き返した免疫システムががんをやっつけてくれた。すべては神のみわざです」

 奇跡に群がる、巡礼をする人々。バカ高い物を売りつけ商売をしないだけましなのかもしれないし、それが利用されるのかもしれない。けれど、実際に助かりたい、という切実な思いを持つ者の「救い」に対する渇望を責めることなんて、笑うことなんて、できるだろうか。

 俺が聖書、聖品の類が好きなのは、信仰心もないのにそれらに囲まれて暮らしているのは、俺もどこかで奇跡のような、何かを期待しているのだと思う。

 でも、奇跡はなく、俺は何年か何十年かで死ぬ。出来るのは、同じことの繰り返し。好きなのも同じこと。それが辛くもあるが、たまに、楽になるというか開き直れる瞬間もある。まるで、アンナ・カヴァン、やウニカ・チュルン、ヘロイン中毒、或いは(旧分裂病統合失調症。またはデイヴィッド ヴォイナロヴィッチ、ジャンジュネのような、男色、被虐、おぞましさ美しさ。

彼ら、彼女らの文学の、言葉の中にある、意味を捻じ曲げる詩のような言葉の連なり、虚しく不安で美しい。奇跡は無くとも、彼らの言葉が奇跡のもつ幻覚作用のような、錯覚のような感情をあたえてくれる。がらんどうの俺の身体に大きな風が駆け抜けていく。

 仕事をして辞めて、眠り、本を読む。こういった繰り返し。こういう生き方を望んだわけではないのだが、こうでしか生きられないのかと思うと、我ながら吐き気がする。でも、その嘔吐を友人として生きてきたのだと。

 奇跡は、誰かに起こしてもらうものではなく、自分自身で起こす、錯覚できればいいなと思う。それは美しい虚妄。でも、花一輪でも幸福になれる俺は、それはそれで幸せな人間なのかもしれない。