正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ ところで魔法は?

どうにかもがく。どうしようもなさとかどうでもよさで俺の中一杯。どうにかしたいけどどうにかできない。何もない、何もない日々。いや、あるけどさ、生きてる実感がいつにもまして希薄で。自分の身体がどうでもいいとかどうにかしたいんだって焦燥。そういうどうでもいい日々。どうにかなりそうにない日々。

 直前になってキャンセルをしようかと思いながら、起床して、銀座のエルメスで映画見る。

監督マルセル・カルネ 『悪魔が夜来る』

15世紀フランスの伝説に基づく物語。美しき五月のある日、城では婚約の宴が続いていた。そこに紛れ込んだ吟遊詩人のジルとドミニク。二人は悪魔が人間たちを絶望に陥れるため地上に遣わした使者であった。ジルたちは不思議な力を使って城主の娘アンヌとその婚約者ルノーを誘惑し、破滅に導かんとする。

 しかし悪魔と契約を交わしたにもかかわらず、わずかな良心を残すジルは本来の目的を忘れアンヌと恋に落ちてしまう。そして嵐の夜、ついに悪魔自身が姿を現す。本作はナチス占領下の厳しい時代に製作されたこともあり、劇中には反ファシズムのテーマが垣間見える。映画史に燦然と輝く監督と脚本家の名コンビ、カルネ=プレヴェールによって作り出された美しき幻想譚。

 

 とのことで、俺集中力が園児だから、こういう話の筋がシンプルな物が好き。しかも製作が1942年ということでモノクロでさ、いいよね。モノクロ映画。

 昔の貴族の、豪華な宴というのは、とても映画映えする。だってみんな馬鹿みたいな衣装を着てるんだ。実用性から遠く離れた衣装。とても好きだ。話も演出も驚かせるとか特別な何かがあるわけじゃないけど、ぼんやりと饗宴を眺めることができるんだ。

 でさ、俺の隣、遅れてやって来た男性がいて、でもその人遅れてきたくせに隣で鼻息立てながら寝てるんだよね。たまに起きたら時計ちらちら。見なくてもいいのでは……という思いがよぎると、なんと、隣の女性もうつらうつらしていて、思わず苦笑いがこぼれそうになる。

 そう、この映画。結構退屈なんだ、堅実なつくりなんだけど、山場もないし演出も個性を感じるというものではないし。話は多分みんな分かるようなものだし。テンポ良くすればいいのになー120分映画だけど、90分にしたらいいのにな。

 とか思いながらも、やはり外で映画を見るのはとても健康にいい。それに、スクリーンの上でありえない、立ち会うことができない世界が広がっているのは、それだけでも幸福な事なんだ。悪魔とか魔法とか無駄遣いとか宴とかロマンチック過ぎる恋物語とか、虚構の輝き。手に入らないそれらのおかげで、ふっと、俺も気が楽になるんだ歩き出そうって気になるんだ。

 ふと、エロール・ル・カインの『おどる12人のおひめさま』を昨日読み直していたことを思い出した。12人もお姫様がいる、というだけで意味が分からなくてとても良いのだが、ル・カインの作品の中でも、個人的にはこの作品がベストではないか、と思うような、題材と彼の描く画との相性の良さを感じる。優れた絵描きのイマジネーションを広げる、自由でロマンチックな題材。絵本の中には秘密の宴。うっとりしてしまう、作り物。ああ、俺って本当に魔法が大好き。現実世界との親和性が低い人間は魔法のことばかり考えてるんだ。魔法が使えないのにさ。

 憧れのプレインズウォーカー(多元宇宙/Multiverseにおいて、次元/Planeの外に広がる久遠の闇/Blind Eternitiesを通り抜け、別の次元へと渡り歩く力を持っている存在のこと。読んで字の如く、「次元を渡り歩く者」の意)

にはなれる見込みはない

 

 けど、対戦する相手もいないのに、MTGの灯争対戦のパックを6つ買う。ワイも魔法使いになりたいんじゃ。お値段2200円。紙きれに2200円の出費なんて安すぎだろ!、なんて思う人は正常だがオタクだ。2200円は俺の眼球一つ売った値段だからねー。でも眼球はもう一つあるからねー。

 確率は物凄く低いが、当たりのカードは、売却6、7万なんだよね。天野喜孝リリアナフォイル。まあ、宝くじに当たる確率くらい? でも宝くじは外れたらゴミクズだけど、MTGはカードが残るよ! みんなMTGを買って僕と握手!

 当然、そんな高額カードは当たらないわけで、でも、日本画ウギン、萌え画のナーセットとビビアンが当たって、ちょい当たり、かな? このセットはプレインズウォーカーが必ず当たるから、むいていて楽しい。プレインズウォーカー、すごい魔法使いはいくらあっても困らない。明日も買いたい。魔法使い、なりたいんだよね、俺。

 本屋で『ボタニカルアート 西洋の美花集』というのを買った。とても美しい本だ。だって、花が描かれているんだ。それだけでも最高ってことだろそうだろ?

 でさ、美しい本って、山ほどあるんだ。まあ、大体2、300円くらいで買えるんだ。買えちゃうよ俺の眼球並みプライスで。途方に暮れるよ。美しい本、山ほどあるありすぎる。ああ、全部欲しいでも、全部は買えない置けない、だから買わなくていい買えやしないんだ。

 なんて見る度手に取る度思うけれど、買って読むとさ、やっぱいいよね。手のひらの上、花園なんだ。

 見知った画、どこかで見た画。なのに、とても楽しい。だって花が描かれているから。その中で、澁澤龍彦の『フローラ逍遥』の表紙に描かれている見事な椿の絵柄があってすごく幸せな気分になって、また彼の本が読みたくなるんだ。

 そして百合のページで思わず目が留まる。俺のタトゥーの柄と同じなんだ。てか、俺、図書館で適当な百合の画を図鑑から見つけて、彫り師の人に渡したんだよね。まさかここで再会するとは。誰が描いたか分からない画。でも俺は君の百合がとても素敵だと思ったんだよ。

 

 身体中が花園になる夢を見られたら、なんて思いながらも俺の身体、何年もタトゥー入れてなくて、無駄金使う代わりに生活費に消えてる。生活費以外に余裕がない生活。そんなんでプラスティックの心もズタ袋みたいな身体も駄目になってく、けど、誰かの魔法のことを非実在の王国のことを考えると、気が楽になる。俺も偽物魔法使い。

 帰りの電車でユルスナールの『とどめの一撃』を再読。俺は戦争とか歴史とか血筋とかほんっと興味がない。なのにさ、彼女の小説は本当に優れているから素晴らしいからその題材がどうであれ読みたくなってしまうんだ。

 「抑制した語調と抽象的な文体を用い、辛辣さをまぶした」語り口で、俺は「第一次世界大戦ロシア革命の動乱期,バルト海沿岸地方の混乱」なんてものを理解しているわけでも理解したいわけでも理解できるわけでもないのに、この作品は優れていて、この作品に見出すんだ痛ましくて、高潔なんだ。

 ユルスナールは序文で「高貴さとは、利害打算の完全な不在を意味する」と語っている。また、この作品は「人間的ドキュメントとしての価値(もしそれがあるとすれば)のゆえでこそあれ、決して政治的ドキュメントとしての価値のせいではなく」と述べている。だからだろう。俺みたいな政治も歴史も戦争もどうでもいいよ、なんて人間だってその痛ましさに高貴さにげんなりして、惹かれてしまうんだ。禁欲的な文章。それは彼女の持つ厳しいモラルから生まれるんだと思う。

 厳しい、げんなりするモラル、というので映画監督のハネケやキェシロフスキを想起する。それは誠実であるということだ。そして各々の誠実さがそれぞれの異なる刃物になり手にしようとする者らを拒絶し、手にできた者たちを傷つけ困惑させる。

 しかしそれは誰かの正義ではない。正しさの為のナイフではない。誰かを叩きたくて自分が被害者のふりして振り回す正義、楽しい卑近な凡庸な闘争なんかじゃあない。美しいモラルなんだ。美しく出来上がってしまっている=作品、なんだ。作者も傷つけずにはいられないようなモラルなんだ誠実さなんだ。だから、俺も知りたいって思うんだ。正義なんて知らないよ、でも、君の誠実さを魔法が見たいと思うよ。

 正しさを証明したい人らの、自己実現と正義の混同混交は本当にうんざりする。でもさ、正しさから距離を置きながらも自分のモラルを誠実さを「正義に近づこうとする姿勢」は、尊いと思うよ。自己実現よりも信念を。特定の性別とか政権とか国とか人種とかをぶちのめそうとする人の(しかもかれらは被害者ぶっていて差別反対をしていて平等とか正当防衛とか大好きなんだ!)正義なんかじゃない。

 正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ。俺はそう思っているよ。

俺の生活、どうでもいいどうしようもない。でも、続けてもいいような気分になるよ。

 だから、もう少しもう少し、騙し騙し、チープな夢を錯覚を。

君のビヂネスになりたい

気分を上向きにするというのはとても難しい。なんとかどうにかしようとするんだけれども。

 どうしようもない日々。続いてる続いてくずっとだ!嫌になる慊い。

 外に出て歩きながら音楽を聞いている間は、俺もまあ、どうにかなるんじゃないかどうにかやっていけるんじゃないかって、そう思うんだ。どうにかなるとかどうしようもないとか、結局の所俺の思い込み。だったら、勘違いできますように。いつも、悪いことばかり考えてしまうんだ。それが俺の現実だとしても、目くらましを、目を見開いて、等と。

 でもさ、どうにかしようとしてもどうにもならない時の方が多くって、借りてきた映画、二本見たけれど、どちらも途中で飽きてしまって中断した。集中力が切れてるのかな。映画を見るって、二時間身体をあずけるってことだからさ、暇なくせに、時間が減るのが怖いんだ。考えたくないくせに、何かに夢中になっていたいんだ耽溺していたいんだ。自分の現実から逃れるために。

 でも、酔いは夜は夢は必ず醒めてしまう。素面で向き合わなきゃいけないんだ現実に。そんな時に頼りになるのは、結局の所本とか音楽とか映画とか……それしか知らない、頼れない。好きなのか好きじゃないのか分からない。でも、それ以外、よく分からない。

 でも、深く知ってるわけでもない。いつもよそもの。というか、よそものになれるからよそものでもいいから、俺は彼らのことが好きなのだろうか?

 堀野正雄の写真集を見る。彼は早くして写真を辞めてしまったのだが、初期の建造物を撮った写真はとても好きだ。いつもの俺のハイコントラストモノクロ大好き、という補正があるにしても、その構成美はかなりのものだ。ファッション写真にも通じるようなフィクションの世界を想起させる、強大、巨大な物質の持つ存在感。題名が○○に関する研究というのも好きだ。

 沢渡朔の写真集『ナディア』を見る。気になっていたけれど、数枚の写真、ではなく、写真集として見るのは初めてだ。ナディアというイタリア人モデルと恋に落ちた沢渡。その二人の愛の記録。なんて書くとナルシスティックな私小説的な甘い感じがしてしまうし、実際写真にはそういった点も魅力の一つとして表されているのだけれど、それとは正反対の不安感や孤独を写真から感じ取るのは、先入観からだろうか。

 この写真集は二人の親密さの記録だ。でも、二人はすぐに別れてしまう。この本の末尾に、ナディアが慣れない日本語で書いた文章が、切ない。

 

「最初軽井沢で貴方は私しにこう言いました『ナディアは私のニンフェット、私しのヴィーナス私しのナルシス、私しのダフネ私しの女……』今貴方のビヂネスとなった?」

「貴方のハートの中に入りたかったけれども貴方の悲しいフィーリングの写真に入っただけかも知れない。貴方は人形およくとった。私しはその写真はとてもすばらしいと思う

 人形は気持ちがないでしょ貴方は自分の気持ちで人形をとる。多分私しはもただ貴方の人形だった。『森の人形館』ベルメルの人形よりも少しダイナミックな人形でしょ!!」

「貴方はかびんからまだフレッシュな時に捨てたでしょ枯れてから捨てればよかったとおもわない?」

 

 昔の写真を見ることになったナディアは、その写真について恥ずかしい懐かしいと言う。そして「文章についても懐かしいですか」と聞かれた彼女は答える「わたし、このときのことを忘れてしまいたい。100パーセントあのころのわたしです。文章の方がこわい。いまはまだとても読めません」

 また、ナディアにとっていちばん懐かしい写真は という問いに、彼女はおばあちゃんの写真と告げる。亡くなってしまったから、と。

 

 この写真集は、森で街で、裸であったり服を着ていたり、悲し気であったり幸福であったり、演技をしているようであったり素に近い表情であったり、つまり、恋人、だった人の恋人であった時間の、そして「ビヂネス」による眼差しによって捉えられた、ナディアの記録だ。

 その中でも、俺が一番素敵だなと思ったのは、黒いマフラーに二人で入り、頬を寄せ合い歩くナディアとおばあちゃんの写真だ。他のフォトジェニックなファッション写真のようなナディアも素敵なのだけれど、他にはないあどけなさ、安心がそこからは感じられた。

 フェイクの、フィクションの美しさというものがある。俺がとても好きな世界。ギュスターヴ・モローの言葉を想起する。

「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 この写真集『ナディア』には、そういうフィクションの美しさと、親密さ、或いはナディアという撮られてしまった愛されてしまった女性の危うさが現れているようで、胸を刺す。写真は写真だけで評価されるべきで、他の要素を見出すのはフェアではない、のだけれど、でもそれらは写真に現れているのだ。好きだけれど、一緒にはいられない、戻らない。でも、その写真の中には、それらは収められているのだ。

 親密になること。簡単だし困難で、途方に暮れてしまう。いつも、途方にくれるんだ俺。ただ、誰かについて親愛について孤独について考える時間は、俺がまだ生きているという実感を与えてくれる。俺の慰め。

 誰か、そして誰かについて考えるしかないんだって。

お前の頭ハッピーセットでデビル未満

 誕生日を迎えてしまった。二十代の頃は、三十代になっていたら死んでいるか気持ちだか人生だかが安定しているのだろうか、等と人ごとのように考えていたのだけれど、どうやらそういうのは訪れず、ずるずると、しぶとくみじめに生き延びていて、数年後、四十歳に自分がなるとしたらまたそんな感じなのかな、と思うとげんなりする、というよりかはもう、どうにかしなくっちゃ正気でいられる自信がない。諦めてしまうとか生き生きとした日々をおくるとか、そういうのがいい。そういう日々にしないと。死んで終わりなんだから、その間は、できるだけ多く良い一日を。

 なんて思っていても、惰性惰眠に飲まれる。過ぎていく日々。

 誕生日には無駄遣いをしなければならない。無駄遣いの下品な行為の残虐な行為の愛の言葉の口実欲しいんだ毎日毎日。そう思ってはいても先立つものがないわけで、しかし家にいるなんてまっぴらで、ぐずぐずとしているうちに日は回り、何の感慨もなくパソコンでタイプしていると電話が鳴った。

 ぎょっと、しながらも反射的に出てしまう。

 それはお世話になった先輩からの久しぶりの電話で、急なことがあって、現場に入ってくれないか、という頼みで、一瞬迷ったが、すぐにそれを受ける。久しぶりに六時起きでおきれるかなーって思いながらも、心配しているならば起きれちゃうんだよね。リラックスが苦手だけど、約束の時間は守れる俺。

 朝起きて、駅に向かう道。少し、ひんやりとしながらも日の光が身体に心地よく、ふと入った視界には山吹の黄。朝っていいなと久しぶりに身体が、そう思う。

 great3の『素敵じゃないか』がイヤホンから流れる。

 

 

愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか

"このくらいのことができない?"なんてさ
小さな頃から言われ続けて なんだか誰かに愛されるなんて あぁ
そんな資格ない そう思って ひとりぼっちだった
誰を抱いたって ただ泣かせるだけで
最後は幸せに できやしなかった
でもこれからは違う そうなんだ

愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか

 

 動画はなかった。でも、彼らの曲ならなんだって好き。好きな人らの曲をいつでもきけるなんて、うんざりする位幸せで、正気じゃいられないね。音楽とか美術とか、そういうのがあって、みんな法を順守しているのきちがいじみていると思う、いや、そうじゃない多分俺が知らないだけなんだ見ていないだけなんだみんなの乱痴気騒ぎ。

 

 

「悪意に満ちた言葉の その否定の強さに惑わされるなら

 己だけを崇めて 憧れなんてすべて捨てるんだ」

 GREAT 3 - I.Y.O.B.S.O.S.

 

 

 新兵のように前向きになれる。いつでも、何歳でもどんな病状でも正気でも、新兵のような気分。ってことにして。いつでも、大したものを持ち合わせていないのにいっちょ前のふり。楽しいふり。よきかなよきかな。

 駅で先輩に会うと、「あーマジありがとねっ」てノリで、朝ごはん食べたって聞かれて、食べましたって答えたんだけど、じゃあ朝マック行くかってさ、俺がどう言ってもマックに行くのは決まってたんだよね。

 とても賢い岩澤瞳ちゃんが「一週間マック食べたら人を殺したくなる」って言ってたと思うんだけど、それは学会に提出すべき論文の草稿。だけど、たまにマック食べると俺も工業製品みたいだぜって思えて、幸福だ。まずくもおいしくもない食糧。いや、おいしい、かな? わかんないや。だってさ、俺の頭ハッピーセットだぜ。

 現場で仕事する。単純作業、肉体労働はだるいけど、身体や頭に良い。それに元気なふりをしていると明るいふりをしていると、何だか自分がそういう人間みたいなきになってくる。これは本当なんだ。明るいフリ元気なふり、毎日した方が良いんだきっと。自分なんてものはない、のだから、健康な時間が多い方が良い。多分。

 昼飯おごってもらって、色々とどうでもよい話をして、今日急遽穴埋めで来て、たいしたことしてないのにめっちゃ感謝されて、そんなことないのになーって、ぽろりと「今日誕生日なんすよー予定ないし金ないし、逆にたすかりましたー」って言ったら、「エーマジごめんねー」からの、おっさん同士しみじみと年取ると身体やばいよねーって話になって、それもすぐどうでもいい話に変わる。どうでもいい話ができるのがありがたいなって思う。

 雑できい使いの先輩が、誕生日に仕事させてしまってるからか、やたらと俺をねぎらってくれるので、映画のデビルマンで、「ハッピーバースデー、デビルマン」って言われた位幸せですよと告げると、先輩マジ「はぁ面」していて、こういう伝わらなくてもいい、雑な会話ができるのが、しみじみありがたいなって思うんだ。

 仕事終わって、また会おうねって言って、誰かにまたねって言うとき、笑顔でも作り笑顔でも、その機会ってないものだけど、先輩とは多分また会うんだろうなって思うと、今日は良い日だなって思って、仕事終わりに寄った繁華街で無駄遣いを何もしないのに、それはそれでよかった、けど、デパートで(値引きシールが貼られた)お寿司とお惣菜を買って、華みやび飲みながら歩いていると、俺の息、少しアルコールの匂い。すぐに俺の頬は熱を持って、ふらふらと、悪くない、悪くないんだって思えてくる。

「愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか」なんちゃって

人並みに人のふりの処方箋

 色々駄目だ。体調も調子も。明らかに俺悪くねーよな、ってことがちょちょいあって、本当に嫌な気分になって、解決なんてしないそういうことに拘泥してしまうのは、馬鹿なことだし、つまり俺の余裕がないってことなんだけど、いっつもないんだ余裕ぎりぎりで生きていたい、訳なんてないのにぎりぎりなんだ。

 

 いつまで身体が持つのだろうかとか、前向きに、建設的にものごとを感じられるようになるのか、というのは四六時中考えていて、馬鹿馬鹿しい。

 認知のゆがみ、という単語や概念を想起するとむやみやたらとむかむかして気分が悪くなって、つまりそれは俺の中にあるらしいのだけれど、ゆがみでも幻想でも錯覚でもなんでもいいのだが、自分で獲得しているのならば、それが世界を認識しよとする姿勢でありひいては美意識に繋がるものだ、とは思っても真実は事実は現実は、生きようとすることに、恒常性に優しくない。生活するための「認知の歪み(に相当するような目隠し、虚偽)」は称揚されるが、他人を自らを蝕むような、治療対象になるような思考は、正すべきなんだ、なんてものはまっぴらだし傲慢だしうんざりする、けれど俺は健康になりたい。健康に。ほんわかふわふわした気分、とはいかなくても、人並みに人のふりができるような生活がしたい人並みに人のふりが。

 とはいっても、しているのはいつまでお金が持つだろうかとか、いつまで俺は誤魔化していけるのだろうかという下卑た算段。

 そんな時に読み散らす本。本を読む、というのは、まあ、いいことだ。何かをしたような気がする。家に山積みになっている、未読の本やら何やら。ベッドの上、本だけで十数冊あって、酷い有様。家にヤコブセンの椅子とヴェルナーパントンの家具を飾りたい、けれどそれは俺の人生じゃないんだ多分ごみ溜めの繭の中での寝食。

 いつもにもまして集中力がないのだけれど、せっかく買ったから再び見る映画、アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ

 ルグランが音楽を担当していて、ゴダールやカリーナもちょい役で出演している、これだけでも幸福な映画。

 

 自らがガンではないかと不安を抱くシャンソン歌手・クレオは、診断結果が出る7時まで、街で時間潰しをすることにする。

 のだが、モノクロのパリの街が、そしてクレオが、とても美しくって、モノクロの映画にはとても点が甘くなる俺だけれど、それを差し引いても、レネの『去年マリエンバートで』のごとき美しさ。一々構図が美しいんだ。うっとりするんだ。

 それは自分が癌ではないか、と悩むクレオの様々な感情の発露が捉えられているからで、彼女の不安も喜びも覚悟も笑いも映画の中に盛り込まれているのだ。不可解で硬質で美しく見るものを拒絶する『マリエンバート』とは違い、『クレオ』は単純な筋書きで、しかしクレオの不安定な心境がうまく映し出されていることから、この映画を豊かな物にしている。

 パリでの二時間(映画は90分)の情景は、彼女の衣装チェンジと街と室内との変化、そしてクレオ自身のころころと変わる情感によって表されていて目まぐるしく変わり、宣告へと収斂する。

 ラストの、クレオの覚悟は、美しくも痛ましい。まるで、自分自身を納得させているかのような、そんな感想を抱いてしまった。幸福も不幸も、映画の中の人も、そうでない人も、凡庸で(本人にとっては)重大な生活は悲喜劇は続いて行ってしまうのだ。

 映画を終えて、狭い家の中に引き戻されてしまう俺だって、生活は続いて行ってしまう。

 いつにも増して体調が悪い、でも、真夜中になる少し前、その時間帯だけ、少し、体調が良くなることが多い。真夜中になるまで、朝になるまで。淡い夜の帳の時間、その間は何だか、俺も誰かの友愛の中にいる、かのような。ディスコミュージックやハウスミュージックやブルースやジャズやポップソング。そういった物に向いている時間。他人の声他人の肌、朝になるまではきっと幸福、だなんて、そんなことはないんだってさすがに知っているのだけれど。でも、まあ、音楽位なら、簡単に手に入ってしまう。幸福。幸福ということで。

 Big Fun - Blame It On the Boogie

 

 

  ジャクソンズのカヴァーで、プロデュースがPWLってマジ最高じゃないっすかね。しかも女の子向けの、三人組アイドルの男の子がゲイとか、オチもきいている。こういうクソダサポップスほんと好き。モータウンサウンドをクソダサポップスにするのほんと好き。リック・アストリーみたいに、歌唱力がある人をPWLプロデュース(ソウルミュージックをユーロアプローチ)よりも、やっぱ歌下手アイドル能天気ディスコポップスの部分を引き出して欲しいんだ。

 クソダサイファッションと下手な踊りも好き。子供が真似できそう、ってこういうポップスだと不可欠な要素だと思う。りゅうちぇるがカヴァーしたらヒットしそうじゃないですかね俺静止画のりゅうちぇるをみたことしかないけど。

恋=Do!

 田原俊彦のこの曲ほんと好き。歌詞が意味わかんない所も好き。恋はDO!って何だよ。このサビの上下ダンスありでも歌えるってさすがアイドルって感じで好き。

ギャル (GAL) - マグネット•ジョーに気をつけろ

 マグネットジョーって誰だよ。知らねーよそんな奴。でも、聞いたらその説得力を感じちゃうんだ。正に「私だけはと 誰でも思うけれど」「だめと言われる度に心が動く とっても危ない」んだよね。さすが(作詞)阿久悠やで。スリリングでどこか隙があるコーラスも好き。

NONA REEVES / 夢の恋人

 安定の良質ポップス。こんな曲を聞いていると、まるで俺の人生も素敵、みたいに錯覚しちゃうよどうしよう。

 俺、こんなにポップスが好きなのに、明るい曲が好きなのに、人生に反映されていない気がするんだおかしいな。

 高校の時に読んだ雑誌で、テイ・トウワが「家でテクノ作ってるみたいな人はネクラでしょ」とかいうようなことを言っていて、腑に落ちた。実際の所なんて知らない分からない。でもさ、DJが幸福な仕事だとしたら、何だか、居心地悪いよね。別に、幸福な音楽を作り出せる人が幸福だとして、それが悪いわけじゃないけれど、人の人生に楽曲の中に、幸福も不幸もどちらも大量にあるとしたら、『クレオ』みたに素敵だと思うんだ。

Private Eyes (feat Bebel Gilberto) Model: Faifah

 

 

 高校の頃に買ったテイ・トウワのCDに入っていて、ガキながらにすげーおしゃれーって思ったし、好きなアレンジなんだけれど、何だか寂しい気持ちになってしまうからあまり聞けなかった。ハウスミュージックをポップソングを、聞いて寂しくなるってことは、それが良質だってことの証だ多分。

 じっとしていられないような、でも好きな音楽。そういうのを聞きながら、行きたい場所なんてないけれど、一人、外を歩くと、どうにかなるような気がしてしまうことがあって、凡人の錯覚/Delusions of Mediocrity とか天才のひらめき/Stroke of Genius っていうような出来事があるとして、それはロマンティックなことだけれど、俺ができるのは日々の小さな積み重ねだけで、無為に過ごす日々、それしか『哀れみの処方箋』(この書名は好きなんだ)が思い浮かばないような人生。まるで、俺の認知に歪みがあるみたい、笑い事。喜劇、いや、悲喜劇。終焉トラジコメディ。

 でも、音楽を聞く気にすらなれない。夜になるまで。夜になるまでなにもしたくない。時間を無駄に何てできる「身分」じゃないのに。駄目になるまえにどうにかしなくっちゃ。俺が駄目になって、困るのは俺だけなんだから。

 そんな日々。効き目なんてあてにしていなのに頼ってしまう処方箋じみた、いや、何でもいいから代わりの何か代用品になる埋め合わせになる目隠しになる何か! 何でもいい何か! 何か!

 ショパンマズルカ第1番~第51番 / サンソン・フランソワ (ピアノ)

 

 クラシックってバッハ以外はよくわかんない、感性の乏しい俺だけれど、アファナシエフやグールドやカサルズは好きなんだ多分。そして、この人、サンソン・フランソワも。

 ショパンってあんまり聞けないのだ。演奏している人によっては、すごい拒否反応が出てしまう。なのに、彼のショパンの野性的な激しさは、ショパンの足りない部分にぴたりと収まっている、ような気がしてきて。うっとりする。乱雑な詩情。アファナシエフショパンはげんなりするような美しい怠惰、しかし統率されているそれ、があって、それも好きなんだけれど、フランソワのショパンはそれと対照的な野生が感じられて好きだ。

 酒におぼれて腕が衰えて四十代で死んでしまった、そうで、そういうエピソードも心温まりますねいやいや長生きして欲しかったですねそうですね。

好きなんだ、それに好きって言葉、嘘でも本当でも冗談でもいいから、口にした方がいいんだ。健康の為に幻想の為に認知の歪みの為に。

 ちいさなことで、救われる一瞬数分数時間。駄目になりませんように。何度も思う。何度も目隠し、いや、『目を見開いて』読んで。

何でそれ何て知らないよ

メンタルが沼の中。沈殿したまま浮上する気配がないのだけれど、何かしらどうでもいいことを書く/喋る方がいい。

 

メンタルがどうしようもない。スカスカな頭とブレブレの集中力でパゾリーニの『デカメロン』を見る。頭に入らないなりに、単純な物語の筋が助かる。

 ああ、いいな。こういうどうでもいいエロチックな物語。豊かな気持ちになる、ほんの少しだけ。

 好きな映画監督の映像、というのは何であれ良いものだ。俺はわりと神経質で甘々なので、何か一つでもよければオッケーだと思う。色々分からなくても好きではなくても、好きな人の(撮った)映像がある、としたら幸福な事なんだきっと。

 写真機が欲しい、と思った。正確には、何か作りたいって思ったんだ。何か作る、と考えると、小さな目標とかやるべきことが頭に浮かぶ。何でもいい、作りたい、と思いたい。或いは作る、という覚悟が。覚悟があるならとりあえずは大丈夫だ。大丈夫だ、大丈夫だと自分に語り掛ける。

 写真集とか、写真の雑誌とか、写真の批評の本をまとめて読んでいて、でもそれは単に暇つぶしでしかないんだけれどね。てか、図書館で一度に十冊程度本を借りるから、大抵どうでもいい、大して見たくもない本を借りるのだ。

 でも、一度に多くの人らの作品を見るというのは、とりあえずよいことだ。アマチュアの作品もセミプロ(という表現がいいのかは分からないが)もプロの作品も、とにかくたくさん見て、考える感じる。考えることが感じることがあったなら、その作品は自分にとっての何かを与えてくれたってことなんだから。

 普段有名な人の写真ばかりみていたからか、雑誌の投稿写真をじっくりと見るのは新鮮な気持ちになる。それと、セミプロだったり、写真史には名前が出ないような人の作品。やっぱプロとは違うねとか、あれ、この人の好きとか思ったり。勝手な感想。ただ、撮られてしまったものなのに。

 写真って、簡単に撮れてしまうものだ。それに最近はスマホのカメラが高性能だからか、SNSがあるからか、カメラ雑誌や写真史とは無縁な素人のあの子もこの子も結構オシャレな、或いはどっかに載っても不思議じゃないようなのを撮る。

 素人のそれと、プロのそれ。或いはちょっと勉強した人のそれとプロのそれを比べて、どちらが良い、と言うのは難しい問題だ。そりゃ、自分が好きな作品とか作家は別格であったり(見てわかったり)、他の分野だってそういう問題はあるけれど、写真というのは他に比べると、発表媒体によってはそこまで技術が必要とされないという側面があるからか、何だか判断に困ることがある。

 撮れてしまうんだ。たまたまなのか、「センスがいい」ってことで片づけていいものか。

 写真がうまくなる、ってどんなことだろう。どういうつもりで写真を撮っているか、ということは前提としても、自分が写真家だとしたら、何だか心細い気分になる。

 いや、そんなのは写真への情熱がない人間の物いいだ。撮りたいと思うから撮る、撮り続ける。それだけだきっと。

 色んな人の作品を見ると、こんなん自分でも撮れるんじゃね、なんておこがましい気持ちと共に、俺が撮らなくてもいいんだって気持ちになったりする。

 まあ、でも、何にせよ、下らなくたって素晴らしくったって、何かを生み出している人は好きだし、そういう時間が多い方が良い。

 

 大橋仁、第二写真集。『いま』を見る。

 

妊婦、病院の協力のもと1年8ヶ月に及び10人の出産の瞬間を、そして、とある幼稚園の、四季を通じて強い光を放つ園児たちの姿を撮影。大橋が「命」を真正面から撮りきる話題必至の問題作。

 とのことで、この人のインタビューがわりと前のめりな感じで興味を持って、写真集を見てみた。

 出産の写真は、生々しく、正直ずっと見ていられなかった。勿論これは悪い意味ではなく、俺がそれに慣れていないだけだ。少ししか見ていないのに、新生児にまとわりついたぬめる体液の色を想起できる。ああ、親も、写真かも、きっと生まれてきた子に何かを感じ取っているんだなって伝わるショットだ。

 そして、園児たちの写真。とても良い。元気な子供たちの写真、なんて言うと陳腐だが、それを魅力的に撮るというのは、やはり大橋の眼差しがあってこそで、彼はきっと、カメラを手に、こどもみたいにわくわくしていたんだと思うんだ。

 俺は二十代後半になってからか、小さな子供を素直にかわいいなーと思えるようになった。それまではわりと無関心だった気がする。かわいいなーって思えるようになったきっかけは分からない。でも、ある時、彼らの、ちびっこのエネルギーってすごいなーって了解したんだ。もしかしたら、それが自分に欠けていたからだろうか。

 社会に出るということは、庇護ではなく、能動的に他人との関係を作るということだ。相手と社会と会社とチューニングを合わせなきゃいけないんだ。でも、子供は体当たりをする。良いとか悪いとかじゃない。わかんない。わーっていったりおどおどしたり泣いちゃったり新しい物に夢中になったり。

 オンオフの切り替え、というのが上手だったり適応したりできてしまう人ではないんだ俺。だからといって、子供ではないしむしろおっさんだし俺。だけど、あー、全身で喜んだり悲しんだりしたいなしたほうがいいなって、してないなって、たまに思う。子供には戻れないけれど、わくわくしないなら、生きてる意味ないよ。一度で終わりなんだから、それまで長く夢を見れるように、幻を描けるように。

 この写真集は大橋の家族への子供へのあたたかな眼差しと好奇心に満ちていて、優しい作品だ。

 ああ、俺はこういうのできないなあって思う。それが嫌いとかではなくて、そういうのをはいした、感情移入を拒む(かのような)写真が一等好きなんだ。質の違いはありまくるけれども、感情移入の為の写真を撮るのはそんなに難しいことではないと思うし、見るものに安心を与えてくれる。

 俺はそういう写真に触れると、どこかで居心地の悪さを覚えていた。

 質、と、自分で勝手に思い込んでいる独善の物差しで、「私小説」のごとき写真に触れ、あわないと思いながらも、その中に好き嫌いを見出す。親密さが嫌いってわけじゃあないんだ俺。でも、なんで俺は居心地が悪いんだろう。何で、私情がない、かのような写真に惹かれてしまうんだろう。

 大切なのはきっと、考え続けること。参加すること。ずっと、何も感じなかった「子供」への興味がわいた、みたく、俺は親愛さの発露と和解しなければならないのかもしれない。誰かを撮る/撮られることでそれは回復に向かえるのだろうか? 

 とにかくできることは、こういうどうでもいい垂れ流しの思考。黙って寝ているよりかはまだましだ。もし、できたら、誰かを何かを見る。立ち止まって考える。貴方は何で、写真を撮ってるんですかって、写真家を、写真を見て考えている。

ファンシーと暴力は、わりと俺に優しいんだ。

ぼくはこどもだから、ねるときぬいぐるみとねます。

ぬいぐるみがいると、よくねむれます

永眠できます。

ぼくはこどもだから死んだらげーむします。

ファミコンゲームボーイで発売された さんりおカーニバルやります。

「サンリオ」ブランドのファンシーなキャラクター達を使った落ち物パズル

なんですけど、ネットのwikiで書かれてる「ポイント」って項目が

便乗企画にキャラを乗せて出来上がり 

 って描かれててさ、ほんと端的にこのゲームの全てを表していて、ああ、しょーもねーゲームだなあって思うわけ。キティちゃんやけろけろけろっぴはんぎょどんとか、百年前のキャラを三つ並べて消すだけ。それだけ。ほんっと、つまんねーし俺なんでこんなゲームしてんだよキティーちゃん好きでも嫌いでもねーんだけどさ、てかさ、俺パズルゲームそこそこ好きなんだけど、大抵早く死ねばいいのにって思ってるのプレイしながら。だって、同じことの繰り返しなんだもん。同じことの繰り返し。早くゲームオーバーにならないのかなって思いながらもプレイ。でも、このゲームの曲がいいんだよね。聞いてると情緒不安定になれるんだよね。

 

 

(FC/NES)サンリオカーニバル/Sanrio Carnival-Soundtrack

 

 こんなのもネットにあるってすごいな。てかさ、この作曲者、マッピーメトロクロスの大野木宜幸なんだよね。同じ曲が一分半くらいでループするんだけど、どれもこれもいい曲ばっか。ラリってくる。マジで。ほんと好きなの。曲の題名も「あしたのてんき」とか「ひるごはん」とかだよ。いい年してあしたのてんき、プレイ。サンリオカーニバルのゲーム自体はなにも面白くないんだけど、曲が好きでたまーにプレイするんだ。でも、なんで俺、けろっぴやぽちゃっこ消してんだろうって思うと、正気度が削られてくる。ぬいぐるみとねてるばあいじゃないんだ僕。

 ということで、けろっぴも大好きな市川崑監督『黒い十人の女』再び見る。この映画ほんと好き。俳優がすごく豪華で、わくわくパーティ感満載!

アイドル映画ってこういうことなのかな。

 船越英二のひとでなしひとたらしも、山本富士子の選ばれた本妻の余裕も、岸恵子の強気と強がりも、岸田今日子の利発で感情的な厄介さも、宮城まり子のぞっとするような献身も、中村玉緒のはすっぱな若い魅力も、すごく贅沢でわくわくする。

 美男美女も美男美女じゃなくても、とりあえず穴ぼこだらけの殺人計画というのはキュートだからした方がいいんだきっと。てかさ、俺、ミステリとかホラーとか駄目なんだ。トリックも謎もちっともわかんない、興味ない。だからこういう悲喜劇がすごくしっくりくる。驚かせる、驚く要素に興味ないんだよ俺嘘。ルビッチの映画好き。

 はんぎょどんが好きな映画も見る。というか、単に映画の返却期限が迫ってたから映画見てるだけなんだよね。また、昔見た映画見る。デレク・ジャーマンの『カラヴァッジオ』見る。

 ちなみに今アマゾン見たら、デレク と テレク って誤字あった。でも、俺のいつもの文章なんて誤字脱字祭りだからなー許せちゃうなー。人生バグばっか。

 で、カラヴァッジオの人生ってバグ、というか犯罪まみれ、というか殺人犯。刑法に抵触する系アーティストはそれなりにいるけれど、殺人って珍しくない? 他に誰か思い浮かばない。まあ、殺人だけじゃなくて、すごい評判悪いよね。ほんとかどうか知らないけど確かめようがないけど。

 たまにアーティストの評伝を目にすると、ボロクソに書かれている人がいて、これ、いいのかなあと不思議な気持ちになる。メープルソープ、フランシス・ベーコンファスビンダー。あ、全員気難しいゲイの芸術家だ。まあ、たまたまでしょう。たまたまだきっと。それに、作品が良ければそれでいい。俺は他人なんだから! 他人の癖に、誰かの生きざまについて考えるんだ。

 船越英二は映画の中で、山本富士子に「十人も関係を持つなんて」と詰め寄られてこう返す。

「何で10人なの? 40人は親しくしているよ?」

 これが面白いのは映画の中の話だからだろうか? クズが面白いのは屑を楽しめてしまうのは映画の中だから? 事実は小説よりも奇なり、なんてお言葉があるけれど、ともかく、俺にとっては何かを楽しみにしなければ楽しみに感じられなくっちゃあ辛い。屑でもまともでも人並みでもいい、だから、楽しみを。楽しみをくれよ映画みたいな退屈なゲームみたいな。

 久しぶりに見る『カラヴァッジオ』は、やはりとても素敵だった。暴力と愛の映画。伝記、実際の出来事について本やら映画やらになるってことは、さらに嘘がフィクションが増すってことなんだけれど、ジャーマンが映画でやりたいことはわりと一貫しているような気がして、つまり、彼が撮るのは男同士のロマンチックエロチック。

 その主題に、カラヴァッジオの持つ絵画の魅力は重なるように思えたし、絵画としてのカラヴァッジオ、鮮やかな色彩と人を引き込む構図筆力、といったものが映画でも表現されていてよかった。

 人の一生、というよりかは、交合と絵画の繰り返し。絵のモデルのになつている人物たちをモデルとして撮る手法は演劇的な、舞台上のできごとといった感じで、時代にはそぐわないタイプライターや計算機がわざと登場するような、虚構のストーリーにとても合っていた。そして、虚構と、愛し合う男たち。

 映画なんて、二時間も90分もじっとしているなんて正気じゃできないから、好きじゃないんだ、でも、そういうことしてると、人生って俺の人生って豊かだ、って錯覚してしまえる時がある。

 カーニバル。

 素敵な単語だ。実際のお祭りに参加したい、というわけでもないのに、どこかの国のどこかのお祭りを想像すると心が軽くなる、だから行かなくっちゃ。ぬいぐるみなんて捨ててそして新しい店でぬいぐるみを買って家に持ち帰って捨ててゲーム。とにかく行かなくっちゃ。ファンシーと暴力は、わりと俺に優しいんだ。

ジャンクと握手

 日々は虚しさと沸き上がる憎しみで出来ていて、心身ともに蝕まれているのか蝕んでいるのか判別はできず、こんなの好きではないのだ、と思いながらも惰性に甘える。小康状態とたまらなさ、を行き来するのは厭なことだ。

 好きな漫画家がリツイートしていたシオランの言葉(俺は見る用にツイッターをしている)。

「深刻な」人間になるのはたやすい。自分の欠点にまかせて沈潜してしまえばいいのだから。(『苦渋の三段論法』)

 

 耳が痛い言葉。別に、深刻になりたいわけでも不幸になりたいわけでもないのだが、力とか気力とか余裕とかが乏しく、でも、事実がどうであっても、元気なふりをしなくっちゃならない。元気なふりしてないと、ただ、腐るだけ。真実は事実は現実は生活はつでも冷酷。でも、怠け者の俺は、現実から身もふたもない残酷さがはがれてしまったら、何もしないだろう。現実にしょうもない事実に感謝。

 外に出る、ということは良いことだ。家にもいたくないし、外にいたら帰りたくなるのだけれど、電車に乗って、車内で本を読んだり、歩きながらぼんやりと音楽を聞くのはとても好きだ。それに、きっと健康に良い。健康にいいこと大好きなんだなんちゃって。

 大竹昭子『日和下駄とスニーカー―東京今昔凸凹散歩 』を読む。永井荷風の散策エッセイ『日和下駄』を手引きに、下駄の代わりにスニーカーとカメラで、東京都心の街を歩くといった内容で、読んでいて気持ちがよくなる。

 大竹が歩き、写真に撮った風景は、俺にも親しいものが多かったのだ。見知った、様々な駅名地名を目にするのは楽しい。さらに彼女の撮ったモノクロの写真が、あの時の記憶を蘇らせてくれるのだ。

 

 お茶の水駅を電車で通過する際に、いつも目に留まっていた風景があった。それを本の中では写真と共にこう紹介されている。

 

 ホームの下には神田川がゆったりと流れ、川面から向こうの岸の上までは険しい絶壁がそそり立っている。とくに新緑の季節は繁茂する木々に勇んで斜面をよじ登っていきそうな勢いがある。

 歌風はこの崖を「崖の最も絵画的なる実例とすべきものである」と評している。

 (でも、実際は江戸時代に川の流れを付け替える為に作った人工の谷だそうだ)

 俺がお茶の水駅を通る度に目にしていた風景。エッセイの中で荷風が好きだと書いて、それに触発されてこの本を書いた大竹も好きで、俺も好きな景色だった。その崖に繁茂する様子はもわもわんと雲のように力強く広がり、しかし広がり過ぎていてどこか人工的で、つい目で追ってしまうものだった。誰かも、あの景色を見て感銘を受けているというのは、何だかありがたい心持になる。

 荷風が『日和下駄』を書いた時、三十代半ばで、父の死、離婚、色街の女との再婚、そして離婚という様々な問題に向き合わねばならない時だった。同情してしまうような不幸、そして自身の身勝手。彼はそんな状況での散策をこう記す。

「その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである」

 歩くことで何も解決することはない、しかし、歩いていないとやっていられないし、たまに、気が楽になる時もある。不幸に居直るより、不幸に飲まれてしまうより、ただ、目的も行先もなく、歩いて行けたら。

 歩いて、ふと、景色を感じることができたなら。

 金とか友愛とかに乏しい俺の慰み、徒歩、読書、音楽。

 渡辺浩弐『2999年のゲーム・キッズ 完全版』を読む。昔、ファミ通に連載していた、はずのSF短編集。週刊誌の連載だからか、数ページのショートショートが沢山収録された一冊(五〇〇ページ近くある)だ。

 未来の機械の生活、未来の人間の生活というのは、興味深い。俺は未来の犯罪やサスペンスというよりも、未来の人の、ロボットの生活というものが好きだ。新しい犯罪はたしかにわくわくするけれど、何よりも人の生活が誰かのロボットの意志が描かれているとしたら。ちょっと先の、或いはありもしない世界の生活。見てみたい。

 ただ、俺はSFに多少の苦手意識をもっている。著者が作り上げた設定にいちいち突っ込みをいれるべきではないことと、ある程度の共通認識を前提として楽しむものだ、というような思い込みが俺にはあるのだ。

 この技術があるのに、あの技術がないの? 等と感じることがたまにある。そして、技術が万能の魔法のように描かれてしまうなら(しかし高度な技術は魔法と言っても過言ではないし、物語の主人公が特別にそれを行使できても不思議ではないのだが)何だか興が醒めることもある。

 また、高度な世界の奇妙な人や狂気や精神的な問題を持った人の描写と言うのは困難であると思うのだ。精神疾患にある者にもそれぞれのルール、規範と秩序というものがあるはずで、未来に高度な技術の中で生きている彼らのそれ、に俺は興味があるけれど、そこを掘り下げるとSFとしての舞台、ガジェットを生かすのとはずれてしまうように思う。SF世界のイレギュラーな存在は、あくまで読者の理解の範疇にある狂人として登場するのだろうか? 特異な、ポエティックな、ぞっとするようなトリックスターはどこかの世界ではなく、身近な風景から見出す方が、まだ容易だと思うのだ。

 等と口にしてはみるものの、要するに俺はSFやらミステリを読むと一々なんで?と考え、内容が頭に入ってこないということなのだ、それを楽しむ素養やら才に乏しいのだ、向いてないのだ。不思議に疑問に感じることは何にだってある。それらが野暮な突込みばかりなら、別のを楽しむべきだろう。でも、好きなんだロボットの生活。神様信じてないのに、何かに帰依している人たちの生活も、好きなんだ。

 俺はこの著作、の一部。ファミ通に連載されていたそれを何度か読んだはずだった。でも、たしかな記憶はない。でも、その雰囲気には惹かれるものがあったのだ。

 ロボットが結婚する。子供を購入する。離婚をする。子供のデータを消す。新しい体になる。

 こういったストーリーは俺の好みだ。生活の中で生まれる、ロボットの苦しみ、悲しみ、喜び。それも技術的な処理でどうにかなってしまう。でも、人間だって感情の処理に依存を友愛を自涜を薬物を愛情を選んでしまう。どうにかなったり、バグが起こったり、どうしようもなかったり。

 そして大抵、身体にバグを残したまま生活は人生は続いて行ってしまうのだ。

 この本を読み終えて、楽しかったし、少し物足りないような気がしていた。元々がファミ通の数ページの連載をまとめたものだから、突っ込んだ内容を期待しすぎる方がおかしいのかもしれない。でも、俺はロボットの生活がロボットの喜びを苦悩を虚しさを、もっと知りたかったのだ(ロボットを主人公とした連作は本の前半で、後は様々な未来の人達のショートショートなのだ)。

 負の感情に身を任せるのは簡単で、使い古し汚れた寝具のように心地良い。自分を慰撫するものがそれしかないのなら、きっと仕方がないのだと思うし、貧乏人に「良い生活をしたら頑張って働いたら友達に相談したら」なんて言っても、意味がない。

 ただ、こんな生活は嫌だし、いやだ、と口に出せるくらいの元気は持っていたいなあと。

 

 【コスモドライバー∞UP】マイティボンジャック (Hey! speed Remix)

 

あからさまに酔っ払って フワフワ雲になって
あのコのこと考えると また少しいい気持ちになった

Hey,Jack
Hey,Jack どこまでもこの世界は 素晴らしくてしょうがないな
悲しみの爆弾を どこかへ持ってってくれないか?
Hey,Jack どこでなにをしてても 不安定でしょうがないな
あのコが笑ったなら もう2,3分でボクなんか消える

 

 少しの悲しさと虚しさとポジティブな気持ち。本と音楽と、行きたくもない場所に歩いて行くことを考えると、少し、まだ大丈夫なんだって。大丈夫だってとりあえず口にする方が、身体にいいんだつて。