マンイーターの臥所に触れ

 新しい布団を買った。アマゾンで安いのを買ったら、あまりにもぺらいポリエステルでちょっと面白かったが、けっこう暖かい。本当に処分したいテレビデオ(!)は処分に5000円以上かかるらしい。いつかは捨てなきゃいけないのだろうが……思考停止、現実逃避、外へ。

 目黒のホテル雅叙園東京 いけばな×百段階段2019を見に行く。場所がら、というか、会場はきちんとした身なりのマダム率がものすごく高かった。たまに、同伴者らしき旦那さんやカレシの姿も見かけたが、一人で来てる男って俺くらいか? レベルのマダム率だった。

 生け花を普段見る機会が少ない、ほとんどないので、様々な作品を見られるのは中々刺激的だった。ホテル雅叙園の、古い建物、木の匂いというのもよかった。あと、当然なのかもしれないが、活けられている花のグレードが高い! 俺は花屋の店先で花を眺めるのがとても好きなのだが(買えよ)、会場にある花はとても立派な物ばかりだった。薔薇や菊が分かりやすかった。花弁の量が多いというか、どの花もボリューム感がすごいんだ。

 でさ、一番上の階がちょっとした休憩スペースになっていて、展示の終わりに 立花、投入、生花、自由花、盛花、文人花、と生け花の様式の歴史の説明が写真とキャプションで展示してあったんだ。そこの写真の生け花がね、正直に言ってここの今回の生け花のどれよりもいいんじゃね? と思ってしまったんだよね。

 恐らく、写真の生け花は、有名な人のなのか説明としてスタンダードなのか、どちらかとは思うんだけど、会場の花はそういうのではないのを目指しています感が強くって、何だかなあ、と感じるのが多くて。これは価値観、美意識の違いとしか言えないけれど、素人目に見て、かざりや余計な装飾なんていらなくて、器と花だけでいいのになって思うんだ。器と花を大切にして欲しい、なんて、素人が免状もってる人の作品に対する感想としてスゲー傲慢で笑えるなー。でも、まあ、感想なので。俺は写真の作品集でしか見たことがないのに、勅使河原宏のいけばなが一番素敵だと思う。ミニマルな精神が好きだ。

 とはいえ、俺は生け花にとってズブの素人なので、きちんと勉強している人らの作品を見るのは面白かった。花と器の組み合わせでどうやってバランスをとるのか、というのを見られるし。花を見る、というだけでも楽しい。金銭的な意味で、俺が生け花を学べる確率はゼロに近いが。

 目黒から歩いて恵比寿へ向かう。朝からトータスのアルバムをずっと聞いていた。多分、洋楽で一番好きで一番すごい(と俺が思っている)バンド。豊かなんだ。ロックの好きな要素が、音楽の好きな要素が幾つも。エモーショナルで心地よくって意識持ってかれるし優しいし。

 住宅街だからか、犬を散歩している人に何度かすれ違って幸福だった。俺、小型犬より中型犬、中型犬より大型犬見るとテンション上がるんだ。おっきい犬、触りたいって思う。俺は小さい頃猫を飼ってたんだけど、猫の骨格、身体、毛皮、に比べて犬はがっしりとした体格だから触りがいがある。動物さわりたいな。それか毛皮。

 恵比寿の写真美術館でtopコレクション 写真の時間 を見る。

 教科書、本に載ってる人たち、アジェ、ブレッソン、キャパ、ウィリアム・クライン東松照明中平卓馬森山大道……がずらりと並んでいて、あ、これ見たなあ、家に本あるなあ、と思ったりしながらも、良いプリント状態、大きさで並べられたそれらを目にするのは中々いい体験だ。

 で、肝心のいつでも見られる系(書店等で写真集がそれなりに簡単に手に入る)じゃないひとらのは、というと、俺にとっては全く合わない、ということだった。写真、作品そのものではなく、キャプションの助けで自立する作品は魅力的ではない。ということを大学の頃から感じているけれど、実際に世に出る作品の多くは理由が必要なんだ。

 とはいえ、それら、説明を要する、かのような全てが駄目だといいたいんではない。キャプションによって理解が深まる、ということだってある。にせよ、コンセプチュアルアート的な物の多くが、俺をげんなりさせる。それが作品だとしたら、見てくれが、外観が一番なんだ。印画紙もカンバスも喋ったりしないのに、そこに政治や哲学や思想を結びつけるのは下品だし頭が悪いと思うしセンスがないと思う。でもね、みんなやってるからね。いいんだねきっとアートワールドではきっと理由付けをして納得させてお金をひっぱらなければならない。でも俺は大嫌いだ。実社会でも創作の世界でも知人はいるが友人がいないというのは、まあ、こういう人柄に依るところが多い、でも、治せないんだなこれが。

 カミュの『異邦人』を再読。カミュの中でも短くて楽しくって定期的に読み返している。自由、ということが困難であることを、しかしながらその人にとっては、そうあるべきでそれ以外の生き方がが非常に困難なんだ、ということを強く感じる。

 好きな個所。引用。

 

 またしばらくの沈黙が過ぎると、あなたは変わっている、きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、いつかはまた、その同じ理由からあなたが嫌いになるかもしれない、と彼女は言った。何も別に付け足すこともなかったから、黙っていると、マリイは微笑みながら私の腕をとり、あなたと結婚したい、とはっきりいった。君がそうしてほしくなったらいつでもそうしよう、と私は答えた

 

 

 もちろん、私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何おのも意味していない。健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。

 自分が異邦人だとしたら、きっとぞっとする。だけれど、処方箋がない物に関して、愛情や肉欲が鎮痛剤になることは分かっているし、愛情、みたいな感情も肉欲も、そうしたいと願うならば、発露があるならばきっといいことだ。しなきゃね。

 

 

健全なあまりにも健全な殺人

 昨日かいていた日記が、ページを放置して別タブのを見ていて戻っていたら、全部消えていた。ファック! 日記なんて消えたっていいか、と思ったが、読んだこと思ったことの記録は残しておいてもいいかも、等と思いながら、書き散らす。

 体調も家の中も荒れてる。メンテナンスって余裕がある時しかできないんだ。でも、メンテナンスしなきゃ、本当に駄目になるぞって、どうにか重い腰を上げて、現実の面倒事を少しずつ片付ける、予定。

 読書。中原昌也のしんさく、『パートタイム・デスライフ』を読む。何も伝えようとしない文章、伝達だけの文章、下らない匿名性の高い文章のコピペ、うんざりするげんなりする描写、そして、ユーモア。久しぶりに小説をよんで笑った。

 笑える小説を書ける人が、どれだけいるのだろうか? 悪趣味と怠惰。センスの良さで自由に横断。素晴らしい。でもさ、中原は小説が嫌いなんだ。嫌いだけど、書けちゃう。そして、捉えられないように、或いは捕らえられたって知るかって居直って。

 エロールルカインの『雪の女王』を読む。ほんとすき。ファンタジーが好きなんだって、彼のイマジネーションに触れると、そう思い出す。

 絵本だから、物語はシンプルでハッピーエンド。でも、雪の女王、って題材で初代ペルソナや、梶本レイカの『コオリオニ』を想起する。創作物の中で、登場人物が一生懸命すぎるのは、受け手も俺も辛くなるし、大好きなんだ。ハッピーエンドも好きだけれど、中断され、埋葬された人たちのこと、たまに思い出すんだ。

 ファンタジー。大好きな架空の世界。でも、俺は幻想も現実もしっくりこなくて、でも、そのどちらとも妙なお付き合いをする羽目になっていて、どきどき、おろおろ、びくびくしながら、頻繁にもうダメだって思って、でも、生き延びていて。

 少しずつ、身体やら住み家やらが駄目になるのを、メンテナンスをさぼっているのを、社会に適応できていないのを思い知らされ、そのツケを払っていて、もう、どうにかなればいいと思いながらもどうにかなっていない、らしいのは、ファンタジーと少しの現実のおかげ多分。

 少し、小説を書けている。幸福なことだ。作り物の中で、少し素直になってるんだ俺。塵芥、硝子刃物、石ころ宝石、集めて編集している、そんな幸福な気分だ。

 井村君江『絵本画家 天才たちが描いた妖精』を読む。多くのイラストレーター、画家の描いたファンタジー、妖精画を集めた本で、とても良かった。知らない人沢山! 知りたい人が沢山! 知ってる人だって好きな人ばかり、アーサー・ラッカム、ビアズレー、エドマンド・デュラック、カイ・ニールセン、ハリー・クラーク、シシリー・メアリー・バーガー! なんて素敵な画家たち!

 俺が初めて目にした人たちだって、素敵な人たちばかりだが、多すぎるので、一人だけ。

 リチャード・ダッド 69歳の生涯の内三分の二を病院と精神病院ですごした。26歳で父を殺して、精神病院に収容されて、なくなるまでそこで妖精画を描いた、らしい。父を殺したのは、隣で散歩をしている父は悪魔が返送しているから、という妄想に憑りつかれたから。

 彼はロイヤル・アカデミーに学んだ、ということで正当な絵画の教育を受けた彼の絵は病院に四十年! もいたというエピソードとは思えないほど、優れた人物、風景描写。彼の絵の一部分は、古典的な正統派の絵画だ。悪魔が見えた彼は正確なデッサン能力を身に着けていた! 

 なのに、彼の描く絵は、画の全体は不気味で奇妙で、戦乱とファンタジーと宗教的な祝祭が入り混じっているかのような混沌と秩序に彩られている、ような印象を受けた。高い表現力と細密画、うねるような人の波、人が波になる、かと思えば、愛らしい妖精や神話的な登場人物の、安定感のある姿。とはいえ、魅力的な端正なそれらは混沌の中に間違いの様に生れているから始末が悪く、悪夢のように魅力的だ。

 彼のオブセッションは何なんだろう? 知りたいし知りたくないし、でも彼の作品は素敵だ。素敵で、偏執的。

 じぶんが知らない人達、素敵な人たちが沢山いるんだって思うと、やっぱりちょっとは処方箋に応急処置になって、それが続けばまるで元気、みたいになれるんだって、そう信じる。悪夢も惰眠も、散歩しながら涙を流すのも、散歩しながら歌を口ずさむのも、好きなんだ。不健康であるために、健康にならなくっちゃな。やだな。

涅槃も揺籃もまだ早い

 気分が悪くって、そんなこといつものことだけど、抜け出せない。そんな折、数年ぶりに健康診断を受け、体重を計ったら、予想よりはるかに太っていて動揺した。

 というか、ここ一年以上、ストレスで過食が多く、2、3日に一度は、お菓子だけで一日千カロリー(!)とってたんですよね。太って当然ですよね……。元々ガリガリだったので、腹がぷよってるのが本当に嫌すぎる。このままだと本当にデブになるので、バカ喰いは控えなければ。

 でもさ、寝るのとバカ喰いがストレス解消だったんだよね。色んな不安や不満から目を背けられていたんだよね。

 ただ、いつまでもそれじゃあ駄目ってことだ。分かってるけど、分かってるけどさ。

 好きな美術系の評論家、批評家の本やら大して好きでもない人の本をぱらぱらと見る。再読している中には、ああ、このエピソードや表現は好きだったな、なんて思い返したりして。

 ただ、自分の小説が全然描けてなくて、げんなり。俺は色んなものがなくって、でも、小説を書いている間は、完成させた時は、充足しているような気分になれるのだ。

 身体も精神も、友愛や金銭も、ガタガタだ。早い所なんとかしたい。でも、なんとかできないから、せめて、小説位かけてもいいじゃないか、と思うけれど、そう上手くはいかない。感受性が死んでいる、主人公を、物語を、動かそうという気力が涸れている。

 どんなに辛くても苦しくても、自分の人生は自分でどうにかしなければいけなくて、ついつい俺は不安に拘泥して、決して晴れないその寝台で眠り続けてしまうのだけれど、分かってるんだ、外に出なければいけないんだって。 雑踏こそが友人だって、分からなければならないんだ。

 行こう行こうと思いながらもずるずる先延ばしにしていた展示に行く

 住友コレクション 泉屋博古館 分館 文化財よ永遠に

 

 修復された文化財が展示されている、とのことで、展示数はあまり多くなかった。そして展示品は硝子越しでかなり距離があって、修復されている絵画なのだが細部やらがとてもみづらく、入り口で単眼鏡を貸してもらったほどだった。単眼鏡借りるなんて初めてだよ! 

 展示の品々の中でも 狩野一信 五百羅漢図 がすごい迫力だった。

羅漢図:釈迦が涅槃のとき,正法を付嘱され,この世にとどまって正法を護持することを命じられたという羅漢の像

羅漢:〈人々から尊敬・布施をうける資格のある人〉の意で,悟りをひらいた高僧を指す。

赤と緑の補色が目を引く中にいる人々、羅漢達。後輪のあるのが羅漢だと思うのだが、どれもこれも美しさというよりも悪漢のようなギョロ目の信用ならない男たち。美形=善人という理想化された身体表現ではなく、生々しさがありつつも、異様な迫力がある立派な画だった。

 他の画も、所々(修繕していても)剥落してあったり、顔がほとんどみえなくなっているのもあったが、それが両腕のないヴィーナスのように、また味が出ているので見ていて面白かった。

 水月観音像 は観音が岩肌に座し、衣の下部分がくすんだ薄桃色で身体には白い薄布をまとっており、その顔は仏頂面ではあるが、艶めかしく、魅惑的だった。ごつごつした岩と二重の後輪の対比も美しく安定感を感じられる。

 この会場で、個人的ナンバーワンが、富士三保清見寺図 伝雪舟

 これは、マジで印刷物では良さが半減以下だ。雪舟って有名だよな、ってどっかの本で見た気になっていたが、本物は墨絵の濃淡の表現力がすさまじく、どこを見てもバランスがとれていると感じられるような、幽玄の世界があった。力強さも儚さも、空気感も、荒々しさもあるんだよ。一枚の絵の中に全部ある! 絵ハガキ買ったけどさ、印刷されたらのっぺりした感じになっちゃうんだ。仕方がないことだけど。あー見られて良かった! 

 電車では、澁澤龍彦の『フローラ逍遥』再読してた。大好きなんだこの本。美しい植物がと、心地良い、短いエッセイ。最高の組み合わせだ。

 死んだ人のことばかり、会えない人のことばかり思ってしまう。ただ、それでも、空元気が出る方がましだ。数時間でしぼんでしまうなら、明日も何かを誰かのことを考えられますように。悲しみに埋もれるよりも、違う幸福を俺は知っているんだきっと。

大丈夫だよって、なんどでも俺に。

不安事やストレスの種があって、家でぐずぐずしていた。また、仕事を辞めて、引きこもって、なんて思いが頭をよぎるが、それをしたら後が辛くなるのだ、分かっているのに、そんなことばかり考えてしまって、体調不良やストレスやら、

それを和らげるのは頭を使うこと、何も考えないこと。この二つをしないのは、不安状態が自分にとって安心するからだろう。馴染みの、汚れた毛布を手放さないガキの様だ。でも、俺は中年なので。手放さなきゃたまに、居心地の良い汚い寝台を手触りを。

 また、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の『女が階段を上がる時』を見る。好きなんだ。この映画。高峰秀子は本当に演技が巧くって、この映画では彼女の愛らしさも強さもいじらしさも惨めさも、いろんな面を見ることができる。

 映画で出てくる黒水仙という香水は実在していて、キャロンのナルシス・ノワールという名称らしい。銀座の雇われマダムの高峰の着物姿、美しくて、惨めで、とても好きなんだ。

 幸福な人生が続く、ということを想像するのが難しい俺は、せめて、人間らしくいたいという意志、きちんとしなければという意志が肝要だと思うのだ。まだ、惨めすぎるのは御免だ。惨めだけれど。哀れだけれど愚かだけれど、でも、好きな映画を見ると、美しい人の意志に触れると、惨めさに居直るのは仕舞にしなくっちゃと思うんだ。

 その意志が長くは続かないとしても、でも、とにかく外へ。

 東京都庭園美術館でアジアのイメージ展を見る。台風の影響で休館になっていて、珍しく会期中、初日に訪れることになった。雨に濡れた目黒を歩きながら、面倒くさがりの俺は傘を手に持つのが嫌いだけれど、園内の本館への長い道を歩きながら、小雨を浴びる青々とした木々が目に入ると、まあ、悪くはないかなと思うのだ。

 展示されていた絵画よりも、陶器や工芸品の方が俺には興味深かった。後、どこもそうなのだが、美術館の建物がいい。古めかしくも新しい意匠がある建物全体が、下手な展示物よりも目を引いた。

 翡翠色の大皿に浮かび上がっているような半透明な魚の大皿が良かったなあ。名前をメモしていなかった……馬鹿だ。ふと、実際にはないのだが「おしろい彫り」という刺青の技法を思い出した。体温で刺青が浮かび上がるような技法らしい。あったらめっちゃかっこいいのにな。彫られたいのにな。陶器の皿の中、魚が浮かび上がってきたら楽しいのにな、なんてことを考えてた。

 この会場で、一番好きになったのは、香取秀眞(かとり ほつま)作の「鳩高炉」という作品だった。青銅(銅色)の鳩の高炉で、パンフレットの表紙にも載ってるかわいい作品。1954年に亡くなった、この人の晩年の作品らしい。

これさ、実物見たら写真の何倍も素晴らしかった。本当に欲しくなった。写真でかわいさ、は伝わるけど、実際に見ると立体、造形の存在感、重さが分かるんだ。かわいらしい、だけではない銅のマッスとシンプルな飾り模様がとても良かった。あー実物を見られて良かった。立体物は特に、実物を見てなんぼだ。逆に、写真の方がよく撮れてますね……ってのもあるからね。何でも現物見ればいいってものでもないかもしれないけれどさ。

 でも、普段は工芸品や陶器の類ってあまり見ないから、楽しかった。自分の経験値が低い物って、戸惑うけど、でも、楽しいな。自分が新鋭だって自覚する瞬間。中年の新兵。空元気だけじゃあ、耐えられなくなってきている、でも、また、何かを見に行かなくっちゃと思うんだ。

 野田彩子さんのツイートで、あ、会期終わっちゃう! と気づき中野の墓場の画廊の「無限のリヴァイアス」展を見に行く。原画やら設定資料やらが並んでいて、それらの多くははわりと(ファンなら)見たことあるかも、な気がしないでもないのだが、でも、俺この作品マジ大好きなんだよね。

 ロボアニメなのに、主人公がロボに乗れないんだよね。友人で敵対する優等生君といがみ合っているけど優秀な弟は操縦できるのにさ。でも、この平凡だけどいいこちゃん、いや、わりとダメかもしれない、な主人公がきちんと男の子向けアニメの主人公として生きていく、その生きざまが好きなのかもしれない。わけわかんない状況で、不利な、不当な扱いをうけても、めげない。ロボットには乗れなくても、少年漫画の主人公=戦う主人公、してるんだ。好きなんだ。

 あと、このアニメって結構エグイ設定が多くて、鬱アニメなんて言われたりすることもあるけれど、最終話が丸々一話分エピローグで、キャラの成長や和解が描かれているのがとても良いと思う。見終わったら不思議な爽快感があるんだよね。それで、また見たくなって、気分が落ちてきて、最終話で少し回復。永久機関

 俺は、多分創作物、作品の中に色んな要素があるのが好きなんだと思う。だって、酷いことも楽しいこともあるから。普段の生活って、特に俺はうんざりしてしまうことばかりだけど、でも、アニメの映画の物語の登場人物みたく、楽しいふりも哀しいふりもできていたら。ずっと腐っているような役なんて、誰も好きじゃない。俺も。

 嘘でも、大丈夫だよって、なんどでも俺に。

素面で死体とサイケ

気分がふらふらふわふわ。寝てばかりもいられなくって、元気を出すためにアイドルポップを聞きたくって、youtubeで聞くだけじゃなくてipodでいつでも聞きたいから、近所のツタヤへ。

 代金はアルバム一枚300円くらい。でも旧作なら十枚で1000円! ということで千円で10枚借りることにして、でも、都心のツタヤではないから、借りるものに困って適当に借りてレジへ。

 そんなこんなで何の気なしに借りたアジカンのホームタウンっていう新しいアルバムがとても良かった。俺はポップソングが好きだから、アジカンのアルバムは大体聞いているけれど、そこまでのファンではないし、一番好きなのは サーフ ブンガク カマクラ だし。アルバムの数曲は好きかな、みたいな感じだった。

 でも、このアルバムは大人のアジカンって感じでよかった。いつものポップ、キャッチーさを残しながらも、低音が聞いていてなんか俺が好きだった2000年位の洋楽ロックテイストというか、ちょいグランジというか。

 長く活動しているバンド、製作者って、色んな試行錯誤や変遷があって、でも、受け手は、消費者はそんなことを知ったこっちゃないんだ(熱烈なファンをのぞいて)。

 でも、生き残って、進化している、変化している人らはやっぱすごいなぅて思えた。

 アジカンの最新アルバム(だと思う)とは逆に、大好きだった(今も嫌いではないが)髭の初期のミニアルバム「BATTLE OF MY GENERATION」を今更聞く。

 すごくよかった。あの頃の髭、というか、オルタナ・サイケ・ポストロックとかすごく好きなんだ。けだるくってどうしようもなくって、でも、どこかポップで勿論ロック。20代のころの俺の青春のどうしようもないロック! なんだこの言葉。恥ずかしいね! 気持ちいいね!

 大好きだったバンドのインディーズ時代の楽曲のcd。15年前に発売されたそれを聞くと、何だか不思議な気分になる。完全にリアルタイムではないけれど、髭は二十代の頃に聞いてはまって、最近聞いてなかったなあとか、自分の好きな物、趣味って変わらないなあ、でも、色んなのがかわってしまって、たまに、取り残されているような気分になってしまうな、とか。

 たまに、いや、一日に何度か自分が駄目になることを考えて、でも、あまりにもそういうことを考えすぎていて、考えることに疲れて、逆に平気な気がしてしまうのが滑稽だ。駄目でもどうにかなっちゃうよ。どうにかなっちゃうんだよ、きっと。

 滑稽な頭にはアイドルの甘すぎるポップスを、或いは何もしたくなくなるような、倦怠に似た充足のロックを。

 『画狂人ホルストヤンセン』を読む。ヤンセンは、大学時代に仲が良かった友人がとても好きな画家だった。プライドが高くって、人懐っこいくせに人付き合いが苦手な女の子。

 その子とはある事情で連絡をとらなくなってしまった。俺にしては珍しく、喧嘩したのではなくて、結構複雑な事情があった。でも、もう少しこちらから連絡をすればよかったのかなあと、通り過ぎていった誰かについて、ふと、思う。

 もうできないことだ。でも、これからできたらいいな。誰かに出会えたらいいな。

 ヤンセンのその本は、140ページという薄さなのに、本人のことやら評論や作品らがきちんと収められている良いものだった。画狂人、ひたすら画を描き続けるエゴイスト。俺は彼の熱心なファンではないが、彼が鉛筆で描いたアマリリスの画(コピー)が壁に貼っている程度には好きだ。

 

谷川渥が寄せた文章が好きなので引用。

41 ヤンセンにとっては、いずれにせよ対象をまるごと再現することではなく、
パウル・クレーのいう「見えるようにする」線によって対象を浮かび上がらせること、
線描することによって世界をわがものとする
ことが問題なのだ。その眼差しは、したがって解剖学的に解体され、
平面化されて、コレクトされていく。
その意味で、ヤンセンはまぎれもなく死のコレクターなのである。

 

 愛でも欲望でも虚妄でも、なんでもいい。意欲と言うのは大切だ。そして続けること。狂人、というのが誉め言葉になりうるとしたら、それはその人が真面目に生きている、真面目に生きようとしている時に限られるだろう。シラフで頭おかしくなくっちゃ。おかしくなくっちゃ、やってらんない。それでもって、素面じゃあないと、何も生み出せない。表現と表出は違う。人目を惹きたい一発芸人ではなく、綱渡り芸人なんだ、俺。

 だから、もう少し綱渡りの日々。続いてしまう。

 

中年のささやき、詠唱、祈り

メンタルが酷いありさま、薬やアルコールで誤魔化そうとするのにも限界があって、こういう相談ができる人なんていないし(もし、仲良くなった人がいてもいえないけれども。面倒事を汚泥を、好きな相手に押し付けてどうなるっていうんだ??????)たまに、取り乱しそう、たまに、セックス。そうやって誤魔化す日々なのに、そうやってやってきたのに、それにしても調子が悪い。

 ゴッホが36で自殺をした。カート・コバーンは28だっけ? 好きな人は長生きしてほしいなあ、俺も長生きするのが望ましいなあと思いながらも、さっさと終わらせたいと思う。なのに、たまる、消化できない本やら何やら。ひたすら家で寝て、それだけ。何も無いなら、展望がないなら、さあ,でも、自殺したいわけではないんだ。自殺したいわけではないんだきっと。

 惰性で借りていたネットレンタルが上限の20枚になっていて、返却期限に追われ急いで消化する。どうでもいいcd雑感。

  わーすたのファースト。曲はいいのだけれど、歌詞がつぎはぎというか、適当な感じがどうも……思いついたそれっぽいキーワードをポンポン出して、つなげてる感じがする……勢いがあるという意味ではいいのかな?

 サチモスのサード。大きな路線変更で賛否両論、とのことで、俺も正直うーん、と思ってしまった。悪くないけれど、そこまで良くもないような……あ、レヴューの中で歌の下手な田島貴男に聞こえたっていうのが、腑に落ちすぎた! アーバンなロック、ブルース路線だと、すごいベテラン勢が沢山いるから彼らでいいじゃん、みたいに思ってしまうんだよね。でも、サチモス好きなんで次のアルバムも聞きます。

 ニァピン。pandaboyプロデュースなのを後で知った。アルバム通しての曲のクオリティの高さは心地良い。ただ、俺は彼の「コズミック・メロンソーダ・マジックラブ」と「けいおん の go go maniac」のミックスがとても好きなんだが、アルバムの中のダンス・クラブ・ユーロ系の曲の曲調が、前述の曲にかなり似ているのは、びみょうな気分になる。いい曲なんだけどね

 mili とても良い。音ゲーの人? なのらしいが、テクノポップ系の人らは活動期間が短い人らが多いので、長く活動して欲しい

 夢アド メロンソーダ 以外あまり印象にのこらなかった……昔の夢アド好きだったんだよね。かわいいし、楽曲いろいろあって挑戦的だし。今がそうではない、ということではないのにさ……なんか違う……とか大して思い入れがないくせに懐古厨という嫌な俺。

 クラリス。安定して数曲好き(性格が悪い。俺の)

 ジャズトロニック。安定して数曲好き(性格が悪い。俺の)

 ノーナリーブス。安定して数曲好き(性格が悪い。俺の)

 空気公団の「おくりもの」あまり期待せずに聞いたが、とても良いミニアルバムだった。捨て曲ほぼなしでアルバム通して聞ける。

 あんスタの魅惑劇。アリプロジェクト好きなので、とても良かった。アリプロの提供曲って、キャッチーな美メロとナルシスティックな詩が多くて、ほんと好き(聖少女領域とかの頃のアニメタイアップ系の)。というか、このアルバムはそれ以外も昔のV系みたいな感じの曲が多くてとてもよかった。

 ポップソング大好きなんだ、現実を忘れさせてくれる。ポップソングばかり聞いていたいんだ。お酒もお薬もセックスも、うんざりする。大好きなのに、うんざりする。多分俺はアルコールや薬物やセックスん愛されていないんだ。

 でも、ポップソングはただ、大好きだ。大好きで、どうでもいい。すぐに忘れて、たまに思い出して、ずっと、新しいのが欲しくなる。アイドルってポップソングって残酷。酷薄。でも、それは聞いている俺の資質が問題なのかもしれないけれど。

 なんて思いつつ、回らない頭で読書、古い本、既読の本ばかり。古井由吉大江健三郎の対談を読んで、久しぶりに名前を見て、ミシェル・トゥルニエの本を再読。六年前!に読んだ箇所がとても好きで、六年前と同じ感想を抱いていたので、引用。

 


 再読するミシェル・トゥルニエの『聖女ジャンヌと悪魔ジル』

二人が対話をする、好きなシーンがある。ジャンヌがジル・ド・レに「あなたは神学に詳しい。あなたの仲間は馬鹿にしているけれど」というようなことを口にすると、ジルが語る。

「それは本当のことだ私は思想などを持ったことは一度もない。私は学者でも哲学者でもないし、読み書きすることは大の苦手だ。しかし今年の二月二十五日に、あなたが突然シノン城にやってきた時から、私のこの、貧しい頭の中に止めることの出来る唯一の思想なのだ」

 ジャンヌは突然警戒しながらジルを見つめる(中略)

「だが、私は特に、あなたの中にあって、なにものにも汚すことのできない、その清らかさゆえに、あなたを愛するのだ」

 

 頭を下げると、ジャンヌの傷が彼の目に入る。

「私があなたにしたいと願う唯一の口づけを受け入れてくれるだろうか?」

 彼は身をかがめて、ジャンヌの傷の上に唇を長々と当てる。

 彼はそれから立ち上がると、下で唇をなめる。

「私はあなたの血を聖体のように拝領したのだ。わたしは永久にあなたと結ばれているのだ。これからは、私はあなたの行くところならどこにでもついて行くだろう。天国でも地獄でも!」

 ジャンヌは身体を激しく揺すって起き上がる。

「天国か地獄へ行く前に、私はパリに行きたいわ!」

 

 あなたが唯一の思想なんだ、なんて感動的な台詞じゃないか? 感動的な台詞だ。台詞だ。普通の状況でそんな言葉が漏れたらご遠慮願いたいような台詞だ。というよりも、トゥルニエ=作家が書かせた「貧しい頭の中に止めることの出来る唯一の思想」という告白であるからこそ機能するのだろう。貴族ではないならば「二歳の雄牛くらいの知能」では輝かしくは生きられない。 俺も天国や地獄よりもパリに行きたいな

 

 

 今の俺は、天国か地獄かパリに行きたいな。

 最近再読した、ジュネの『泥棒日記』の中の台詞、あんたとなら、どこまでも! を想起する。狂気を孕んだ純潔、輝かしい蛮勇。そういうのが大好きなんだ、いや、単に俺がまともな生活が出来ていないから、共感してしまうんだ。

 

 丸木戸マキの「オメガ・メガエラ」とのばらあいこの『寄越す犬、めくる夜』の最新刊を読む。どちらも新しい本なので、ネタバレなどは書かないが、どちらもすごくよくって、どちらも読んで泣いてしまった。

『オメガ・メガエラ』は丸木戸マキのストーリーテラーの才能がオメガバースのどろどろメロドラマと相性良すぎ、キャラがそれぞれの思惑と不審や不安を抱えており、とにかく面白い。そして、シリアスな設定や辛さとギャグの割合がほどよく、ほんとこの人はエンタメとしてもうまいなーって思った。これ、実相寺昭雄が映画かテレビドラマで撮ってほしいなー(無理)

『寄越す犬、めくる夜』はどう考えてもバッドエンドにしかいかない話なので、読んでいて、たまに辛くなってしまう。キャラ救済、解決を求めながら、でも、キャラの不幸を何処かで求めている(キャラの不幸こそがエンタメなんだ)、という読み方をしつつも、今回のあるキャラの過去がきついなーって感じだった。このきつさは、個人的な経験に繋がる物だが、それにしても、あんまり好きじゃなかったキャラなのに、この巻でそのキャラの(不可解な、或いは嫌悪感すら持っていた)行動が腑に落ちてしまって、辛かった。彼の不器用で傲慢で献身的な愛情。でも、彼は救われない。俺が好きになってしまったキャラに、救いは(多分)ないんだ。

 ただ、どちらもまだ完結していない続き物だというのがありがたい。楽しみがあるというのはいいことだ。本当に、いいことだ。戸川純がテレビに出るからまだ死にたくないとか、着物の季節がまだ来ていないから生きようと思ったとか、そういう動機って素敵ですね(そうか?)

 体調が、気分が悪いと、何もかもどうでもよくなる。でも、如何にかしないと、生きていけないし、立ち直れない。極端な話だが、呼吸をしなければ、食事や睡眠をとらなければ、生きる選択をしなければならないのだ。物凄い負担だとしても。

 こんなどうでもいい文章であっても、書く方がまだまし。こんな文章をかくだけでもそれなりに時間がかかり、疲れる、でも、その繰り返しくらいしか、分からないんだ。コミュニケーションもどき。

 家で、一人寝て、腐るだけなのは心地が良すぎて、でも、まだどうにかしたいって思うから、明日は安らかであるようにと願いつつ、明日なんて来ないでくれと祈る。

悪意断捨離無効

疲労困憊、やらなきゃいけないことは山程あるはずなのに、ついついねてしまうし、おかしばかりたべまくってしまうし。ストレスの発散方法とか、アンガーマネージメント(なんだ、それ?)とか、よく分からないんだ、嘘、分かるけど、できるかどうかは別問題。でもさ、結局は積まれたゴミをどうにかしないと、生きていくのはもっと辛くなるってことだ。

 仕事の休憩中に、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』を再読。読んだのは十年ぶりくらい? でも、やっぱ初期の彼の作品はワルガキクソガキが多くて好きなんだ。 文章だって、割と好み、でも、大好きとまではいかないのは、彼の文章に自分の求めるポエジー(詩的な物)を感じないからだろうか。でも、面白いんだけどね。好きなんだけどね。

 なんか、ほんとに結局高校大学で好きな作家の多くに触れてしまった気がして、げんなり。死んだ人、死にそうな人ばかりすきだなんてぞっとする。今生きている人の小説が下手だとは思わないけれど、俺の好みとか価値観とはかなりずれているのだろう。

 日本橋高島屋の『資生堂のスタイル展』に行く。資生堂にそこまで思い入れがあるわけではない。そもそも俺は男だから化粧品を買わないのだ。(やっすい化粧水とかは買うけど)でも、重い腰を上げていくと、楽しかった。

 俺、古い瓶って大好きなんだ。だから昔のパッケージを見るだけでもとても楽しかった。昔のデザインの今にはない品の良さってあると思うんだ。あと山口小夜子のポスターもあって満足。セルジュ・ルタンスのプロデユースした一連のポスターや山名文夫の画もあって、資生堂ファンというか、レトロな品を求める人にはとても良い空間だったと思う。

 というか、これを会社として成り立たせている、というのが多分物凄いことなんだと思う。資生堂=オシャレ というブランド力を作り上げる、維持するというのはすごいなあと、自分とは遠く離れた世界のことだが思う。

 会場の催事場では、東北展も同時に行われていた。休日の高島屋は賑わっていて、幸せそうな人がいっぱいで、いたたまれなくなる。自分がこの建物の中で一番不幸な男だと錯覚しそうなくらいに。

 不幸でも、そうでなくても、さっさと逃げ出さなければ、気持ちを立て直さねばならない。銀座線で渋谷に出て、ふらふら歩く。何も買わなくても、雑踏を歩くと気持ちが少し楽になる。人肌も独りも他人だらけの街も、そこそこ俺に優しいんだ、きっと。

 期限が近いから、嫌々借りてしまったハネケの『ピアニスト』をまた見る。嫌な映画。嫌と言うか、ハネケの中で一番好きな映画だけど、やっぱ後半に行くにつれて見るのが辛くなる。周りとコミュニケーションがとれないプライドは高く手厳しい皮肉屋って……面倒ですよね……(じつと手を見る)

 でも、それでも、彼女は、主人公は生きようと(或いは破滅しようと)もがいている。その姿を笑うことなんてできない。彼女を、その生きざまを見るのはいたたまれないけれど、でも、俺もちゃんとしなきゃなってそう思うんだ。告白も決断も、本気で生きてない人間じゃないと、いざという時にたじろいじゃうもんね。

 借りた本で、戸部民夫『関東の美しい神社』を読む。写真+エッセイや注釈みたいな、最近のこういった本はとてもセンスがいいのが多いと思う。食べ物系の本とかもそうだ。下手したら、実物よりも「盛って」或いは「幻想的」に対象を捉えることができている。

 ともかく、この本で紹介されている神社でなじみが深いのは何度か行った明治神宮くらいなのだが、ここもこういう風に(他人には)映しているのか、写っているのかと考えると興味深い。俺が見ていなかった、或いは既知のそれに気づく。

 最近カメラで写真を撮っている。携帯のだけど。でも、俺には高級なカメラじゃなくて、手軽に撮りたい時に撮れるスマホで十分なのかもしれない(本当は、中平卓馬森山大道と同じのが欲しいな!!!)。

 写真を撮ると、無意識に街中で構図を探している自分に気が付く。これは中々良いことだと思うのだ。スマホのカメラだから、縦長のばかり切り取ることになるけど……でも、写真撮るのって、面白いな。いつかは、好きな人を物を沢山撮り続けたいな。

 この本の中で、特に好みだったのが、乃木神社だった。写真だけで判断するのはよくないのだが、マジ好み。ミニマルというか、決められた線で構成されているらしき設計はすごくモダンというか、機能美を感じる。

 また、狛犬も直線が強調されていてかっこいい! 普段想像するのとは全然違うんだ。それに檜の白い肌に金細工で模様がされている拝殿はめっちゃ好みだ。ミニマルな美と、きらびやかな装飾がお互いを阻害せずに調和している。写真だけでもうっとりする。

 檜の白い肌を思うと、幸田文の『木』というエッセイを想起した。すごくいい本なんだ。読み返さなきゃいけない本がまた増えてしまった。

 死ぬまで、駄目になるまで、おれはいったい幾つの本を読み返せるだろう? 理解に近づけるだろうか?

 幸田文の文章を読むと、身を律するような思いを感じることがある。大江の本を読むと、(俺が大好きな作家と比べると)悪意が憎しみが足りないのでは? と感じることがある。

 品性の良さと悪意憎しみ下劣さ、どちらも持っていたな。それが自分にとってしぜんだと思えるから、酷く、居心地が良いから。駄目かもしれないけれど、大丈夫だ大丈夫だよと誰かに俺に、俺が言うのはきっと、生きてきた誰かの、「もの」の、姿を感じ取れるからかもしれない。時にそれは愚かで痛ましくても、それ以外分からないことだらけ。血まみれの処世術が輝いて見えるのは十代の瞳にだけ、だとしても、俺は小説を書くときは自在に、それであらねばならないのだ、と。いや、単に俺が成長できていないのだとも。