小さな行為、願い

 小説を書き上げた。少し、気が楽になると共に、今後の展望を思うと気が重くなる。これ書いたって、どうにもならない。でも、書かずにはいられない。俺は小説を書くのが好きだから。

 美術館は大抵閉まっているし、仕事をするのも探すのも難しい状況。呑気に引きこもれるような貯蓄がない人間には、終わりが見えない今の状況はとてもキツイ。

 でも、それは俺だけではないし、もっと深刻な人らの叫びもネットらで目にする。とにかく耐えるしかない。耐えるには、じっとしているだけじゃだめだ。無理にでも、楽しむこと、本を読むこと、寝ること。

 正直数日、一週間位前までは、コロナに対してどこか他人事だった。でも、自分が感染者になりたくはないし、誰かにうつしてもいけない。

 ただ、メンタルの病気を持っている人間が精神的に落ち着こうって、結構難しい問題だ。でもな、やるしかない、悪いことを考えすぎないってことだ。

 わりと(メンタルが)元気だった、ここ一週間くらいの雑記。

 

Bunkamuraギャラリーで金子國義見る。何度も見てるから、今回はいいかなあと思いつつも、会場ではファッション雑誌の表紙にも使えそうな、モードな女性たちが多くて楽しい(写真禁止なので、それらは撮れないのだが)。

花屋で真っ白いチューリップが売っていた。普段見慣れない色で、とても目を引いた。重なった白い肌の事を考えながら帰宅し、数日後、その店のチューリップの色は変わっていた。買わなかった事を後悔したが、イマージュの中の白い花もまた、美しいから困るのだ。

 数日後、育ち切っていないやや球形に近い、白いチューリップを、店先で見つけた。しかし、あの時程心動かされなかった。すらりと伸びた、白いチューリップが輝かしかったのだ。当然、水をあげていくうちに花弁は伸びるだろうが、なんだかそんな気にはなれなかった。

泉鏡花の『春昼 春昼後刻』を読む。はらはらと流れる美文を追っているうちに、いつしか迷子になる。しかしそれは心地良いのだ。色彩感覚や動植物を捉えるたしかな目が、危うい、妖しい夢の世界を支えている。良い作品だった。

町田康『しらふで生きる』読む。毎日酒を飲んでいた著者が『狂気』で禁酒をして、持続している記録エッセイ。いつもの語り口が、気のせいか、少し(題材のせいか)説教じみて、冷静な気がする。だが、酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい、と言いながらも、人生を文体を楽しんでいる町田康が好きだ。

初対面の人が、僕アニメ好きなんですよーと言ったので、俺の大好きなアニメ

シリアルエクスペリメンツレイン
あいまいみー
坂道のアポロン

の名前を出すも、
相手の「あ、知らないです」
で、無事死亡☺
万人受けするアニメって何だろう。
シロバコや無限のリヴァイアス

 

海野弘『本を旅する』読む。序文

私にとって本を読むことと世界を旅することは別々のものではない。私は本の中を歩き回って旅をし、世界を本のように読みたいと思うのだ。

百冊の本が紹介されているのだが、知らない本や苦手なのもちらほら。でも、俺は彼の本が好き。本は世界に沢山あるって素敵だ

 

中身を見ずに買ったタゴール展、詩ではなく、画集だった。素朴な絵ではあるが、鳥の絵は好き。

『私の絵の起源は(中略)私のリズムへの本能、線と色との調和した組み合わせから得る楽しみに存していたのである。』

って、本人が言っていて、なるほどと感じた。

 

モローの本『ギュスターヴ・モロー 世紀末パリの異郷幻想』がとても良かった。大きな図版と、引用や分かりやすい説明。モローの美を堪能できる。

彼のとても好きな言葉を引用。

あなたは神を信じますか
私は彼しか信じない
私は触れるものも見えるものも信じない
私は見えないもののみを、
感じるものだけを信じる

 

桜の花を、漬けたのに、お湯を注ぎいただく。ほんのりすっばく、桜の風味がして良い気分

 

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 来月は俺の誕生日で、ちょっと無理しても、ハチドリのタトゥー入れようかなって思ってた。でも、今は色んな意味で難しいかもしれない。

 一週間前は、ほんと呑気だったなー俺。だけど、コロナ関係なく、これからの自分の展望が暗いのは変わらない。困難な状況が増えて、ちょい頭が悪い感じになっているけれども。

 外を歩けないとか、花や美術館に行けない見れないっていうのは、本当に精神衛生上良くないけど、色んな業界の人が踏ん張っているんだもんな、俺も負けないようにしなきゃな。

 政府は国民や文化に支援を。手洗いうがいはするけれど、無意味にであるかないこと。小さな行為、願い。

 暗いことばかり考えているとどんどん状況が悪くなるだけなので、本とゲームと映画と音楽を頼りに、俺も、みんなも元気でいられますように。

まぼろしにさよならなんてできないよ

朝に早起きして銀座へ。ウイルスの影響で一度は中止になったエルメスの映画上映だけど、再申し込みがあったんだよね。それで二日前にはいつもみたく、「お待ちしております」メールが届いたから、銀座へ向かったら、三月中は全てのプログラムを中止するという立て札が! お待ちしておりますメール送っておいてそりゃないよー!

(※後でエルメスのホームページで予約状況確認したら、四月某日に変更していた。勿論変更したのは俺。だけど三月に申し込みした分の記録があったから、エルメス側から、お待ちしておりますメールが送信されたんだよね。ちゃんと四月に再予約したんだから、メールが届いても日時確認しなかった俺が悪い。でも、お待ちしておりますメール来たから勘違いしたんだ)

 資生堂ギャラリーもしまってる。人がまばらな朝の銀座。祝日で、日の光で暖かいのに、何だか別の街みたい。銀座百点もらって、鳩居堂へ。銀座の鳩居堂に入ると、紙の、和紙の匂いに包まれるから好きだ(他の店舗はデパートの一角なので)。あれもこれも欲しくなるけれど、あまり無駄遣いはしないように。

 時間が空いて仕方がないので、四谷の教会ショップへ。そしたら、三万五千円の木彫りのキリストが売り切れていた!!!!! 哀しい!!!! どうせ買えなかったけど、値段の割にとても造りが良かったんだ。ガッカリしながらメダイを数個買って、教会へ。

 教会に行ったら、そこも色んな催しが中止の張り紙が!(俺はキリスト教徒ではない) ぼんやりした頭で聖堂に入り座っていると、正午を知らせる鐘が何度も、聖堂の中に鳴り響いた。広々とした空間で鐘の音を聞いていると、気分が良い。また、聞きたいな。

昼間に日の光を浴びながら、yo la tengo 聞きながら雑踏を歩く。健康的だ。真昼が大好きだって、今だけそう思うよ。

 某、女の子向けのキラキラショップが閉店セールで、全品半額! セールという文字を見るとIQがマイナス六億になるぼくは、気がついたらこんなに買い込んでしまっていた。愚かな中年、レジで自己嫌悪。夕ごはんは、ラムネと金平糖とキャンディかなー?

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 でもなー無駄遣い楽しい。一生無駄遣いしていたい。パステルカラーの世界に憧れる溝色の瞳の俺。

 持っているのに、どこにあるか分からず、『さよなら子供たち』のパンフを買う。ルイ・マルの映画は『地下鉄のザジ』も『死刑台のエレベーター』も『鬼火』も好きだけど、この『さよなら子供たち』が一番好きで、一番見るのが辛い。だが、どんな過酷な運命があったとしても、その前に、彼らは少年なのだ。生き生きとしたり、怯えたり、はしゃいだり、様々な眼差しを持っているのだ。

そこに寄せられていた、宮崎駿の文章が良かったので、引用。 

 

 

世界の奥深さをかいま見る瞬間の少年を描くのに成功しているからだ。それにしても、なんと寒々とした世界だろう。(中略)世界の敵意に触れて今も子供たちがたじろぎ、張りつめた瞳で凝視し続けているのを作り手が識っているからこそ、この作品は意味を持っている

 

 

 

 宮崎駿といえば、女の子を生き生きと描く人で、女の子の生活、冒険、戦いを描くイメージが強かった。だから、少年同士の、この映画についての言及は少しだけ驚いた。でも、性別は違えど、子供の心で、いや、真っすぐな瞳で世界と向き合うのなら、年齢も性別も関係ないんだよね。それができるか、年経ても、可能かはその人にかかっている。

 でも、そうしなければ、多分人生つまらない。困難なこと。常に驚き、挑戦し、世界の不条理に不思議に立ち向かう瞳。

 最近、完成させた自分の小説を読み直していて、苦痛だ。陰気で嫌味で読みにくくて、人に薦められない物語。こんなん書いても、どうにもならない。そう思いながらも書かずにはいられない。

 だけど、ものづくりしている人なら誰でもそうだと思うけれど、制作中やら完成後やらに、ふと、あ、いいなあ、とか気が楽になる瞬間がある。それだけでも俺にとって救いになる。きっと、素直に何かを見つめて、みつけているんだ。その時だけでも。錯覚、まぼろし。それを良いものにするように。一人感動するだけではなく、感性を、殺さないように。神様なんていないけれど、神々への捧げものになりうるように。そう思うと、少しはマシなものを作らなきゃって気になる。

 眠ってばかりの俺だけど、目を見開いて。

夢の中の絵画も、バベルの図書館も、天使になれずに息絶える俺達の為の贈り物。

久々に夜勤。へとへとになるというか、自分の体力のなさにうんざりげんなり。終わって電車でフォーレ弦楽四重奏をずっと聞いていた。疲れていると、音楽はクラシック以外聞けないって、ジジイか?

 帰宅してシャワーを浴びて、起きて寝てを繰り返していたら、深夜十二時を回っていて、また寝すぎたと、げんなりしながらもそこまで嫌な気持ちにならなかったのは、その前に見た夢の映像を記憶していたから。

 こんな夢を見た。俺は本当は行ったことがないニューヨークにいて、momaに行きたいと思いながら(夢だから当然なのだが)どこかの奇妙な美術館にいて、そこの作品に感動していたのだ。

 中でもピカソ作(当たり前だがピカソの作品ではない。しかも俺はピカソがやや好き程度だ)の巨大な黒と白の抽象画に感動していた。学芸員が「これは偉人の巨大な寝室です。人は具象絵画から始まり、抽象絵画に還っていくのです」と説明をしていた。なんのことだかよくわからない。

 でも、モノクロでカンディンスキーマチスフランク・ステラをごちゃまぜにしたような、迫力のある抽象画。しかもばかでかい。どこまでも続く抽象画だ。でもそれは夢の絵画で、俺は二度と会えない。そして、その画の細部も大部分も、すぐに忘れてしまうんだ。

 書き写したとして、それはつまらないものだろう。あくまで夢での感動した体験なのだから。でも、夢の絵画、ありがたい贈り物だ。

 もし、自分にきちんと働ける社会性なり精神力なり、お金を稼ぐ才覚なりがあったら、好きな時に好きな場所にいけるのにな、なんてたまに思う。お金を理由に、色々な美しい物を見たいものを目にしないで、老いるか自死を選ぶのかなと、たまに考える。

 お金に抗う、ということを真剣にしてことなかった。する必要も感じなかった。でも、新しいことをしなければ精神が老いるんだ。

 とか言いながら、またいつもの読書音楽映画で満足してしまう、懲りない俺。

アントニオーニの『さすらい』の台詞

「逃れられない悪癖以外の全てから 逃れようとした。」

ヒューかっこいー! 十代の俺はそれがかっこいいと思いまして、そういうこと以外ができませんで、三十代でそのツケを払っているような気がする。

 

十数年ぶりに、『麗しのサブリナ』見る。オードリー素敵!以外の感想がない……つーか、オードリーが主役じゃなかったら映画の魅力半減以下的な印象…… ブリジット・バルドーの主演した、バルドーを見るための映画みたく、ごちゃごちゃ言わずに見るのがいいっすよね。面倒な俺。

 何か一つでも美点が見つけられたなら、ご都合主義でもストーリーや登場人物に疑問を覚えてもいいじゃんか。って、思ってるんだけれども。

 アゴタ・クリストフ原作の映画『悪童日記』見る。原作の小説読んだの高校生の時だ! 映画を見ながら、おぼろげな記憶で、原作はもっと淡々と悪事を為していて、それが大きな魅力だった。その映像化は、生身のちびっ子が主演の映画では難しいはずだ。露骨なエログロとか、ちびっ子が主演だと映像化はほぼ無理だろう。

 でも、この映画の双子の幼い輝きも、切なく良かった。彼らの顔の変化、双子なのにたまに違って見えたり、物語の進行にしたがって顔つきが変わるのが魅力的だった。名役者のとはまた違った、刹那的な変化の、ある時間だけの魅力。

 よくある聖書系絵画の読みやすい本を読んでいたら、ジョットの『ユダの接吻』が! マジ好き過ぎる。自分のローブで包み込むようにしてキリストを捕まえるユダ。そして口づけ。犯人を他人に教えるのにキスをするか? というか、それいったら神話も聖書も意味不明な個所ばかりだが……まあ、ユダのキリストへの歪んだ愛情に胸キュン。普段は(一般誌の)男同士のイチャコラに何も妄想しない醒めた性格だけど、これはホモでは?案件っすわマジ。太宰治の『駆け込み訴え』は超王道エもい同人誌。異論は認める。

 ボルヘスの詩文集『創造者』の、冒頭の作品、自死を選んだ図書館長「レオポルド・ルゴネスに捧げる」の図書館の描写から、うっとりして困る。

ほとんど肉体的にと言っても良いが、わたしは書物の引力を、ある秩序が支配する静謐な場を、みごとに剥製化して保存された時間を関知する。右に左に、明晰な夢に没頭する読者達の束の間の顔がミルトンの代換法(語句の中で修辞的にも意味的にも適合しない単語を結びつけること。その意外性は読者の想像力を刺激する)さながら、好学のランプの光に照らされて浮かび上がる。

 こんなに魅力的に図書館を表現した人が他にいるだろうか? というか、ボルヘスは図書館大好きだから、何度も図書館について言及していて、彼が目の疾患を抱えていたことを考えると、残酷でもあり、痛ましく感じながらも嗜虐心に火をが灯るんだ、屑な俺。

 また、「天恵の歌」という詩文でも図書館について語っていて、その中の一か所

ギリシア史書の記述によれば)ある王は

噴泉と園庭に囲まれながら飢渇ゆえに死んだという。

わたしも当てどなく、この高く奥行き深い

盲目の図書館をさまようだけだ。

 

 彼の人生(ほぼ盲目状態で図書館長に就任した)を思うと、痛ましさと共に、俺も書物の、意味の虚無のごとき広さにがらんどうになる。多くのことを知り得ない、そもそもその手段さえ、試みさえ奪われる。老人も幼子も、天使になれずに息絶える。

けれど、本を人を意思を作品を貪らずにはいられない、グールのような人生、宿命。

 夢の中の絵画も、バベルの図書館も、天使になれずに息絶える俺達の為の贈り物。そう思うと、多少は気が楽になって、自分の現実なんて見ちゃあ駄目だ、本、読まなきゃな、等と考える。

I′m so happy because today i′ve found my friends they′re in my head

勧善懲悪覗機関

『酷い殺しも金故だ 恨みがあるなら金に言え』

仕事中に口に出したい

声に出して読みたい日本語っすね

 何かを買いたくてたまらなくて困る。消費するスピードよりも速く、色々な物を買ったり借りたり。だから本買う。本を買ってる時は、自分が豊かなんだって錯覚出来て良い。

nirvanaの大好きなlithium の歌詞が頭に流れる 
I′m so happy because today i′ve found my friends
they′re in my head

誰かの詩情が、熱量が、スカスカな俺の身体に火を灯すんだ。

赤瀬川原平×山下裕二の『日本美術応援団』『雪舟応援団』を再読する。この二人の本は、すなおで少し乱暴で、とても楽しい。一つの作品にまっさらな目でぶつかり、感動する、当たり前で大切なこと。赤瀬川が亡くなってしまったのは残念だ。

 この二人の文章のとても良い所は、自分はこの画は好きだとか分からない(分からなかった)と素直に言ったり、色々とぶった切ったりしているところだ。素直な意見はやっぱり楽しい。勿論、絵画を見まくった人の、暴言放言だからだけど(とはいえ、そういうのは本によっては少な目だ)。

ランボーの『酔いどれ船』にブルース・コフなる建築家が描いた抽象画らを合わせた奇妙な本を読む。大きなサイズと少ないページ数は絵本そのものなのだが、絵も、ランボーの詩も子供向けではないだろう。昭和の終わりに発行された本らしく、贅沢な本、時代と言うべきか。だってさ、絵本のような装丁と少ないページ数で定価3800円って書いてあったよ! サバト館もびっくり!

 心が腐って眠りすぎる。支払いのため外に出ると、アスファルトの上に寝そべる椿があり、正岡子規の句を想起する

朝な朝な 掃き集めたる落椿 紅腐る 古庭の隅に

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 日銭稼ぎで人と話す機会があり、自分(俺)の将来の展望について聞かれて言葉に詰まった(その人と多少仲良くなったのと、俺は色々とどうでもよくなっているのだ)。正直に通院しているし、一週間先、一か月先、二か月先のことでもう頭がいっぱいだ、というような説明をしたが、相手は当たり前だがそこまで俺の将来に興味があるわけではないから、曖昧な感じでその会話は流れた

 俺の良くない点は、目標がないということだ。いや、ないわけではないけれど、色々とうまくいかないし、色々と諦めてしまっている。だけれど、好きな物は沢山あり過ぎるし、挑戦しない人生なんて死んでいるのとほとんど同じようなものだ、多分。死んでいるのと同じなんだ、屍人なんだ俺。時折、人間のふりをして、きらきらしたものをかき集めるんだ。

 それが形になれば。

 でも、形になったところで、俺にとっての慰めでしかないのだ。

 いつもみているmtgのyoutubeチャンネルがあって、俺はその人が作る解説動画がとても好きで、コメントまでしている(youtubeのコメント欄に、自分がコメントするなんて思いもしなかったのだ。俺が書いても意味ないでしょ、って思うタイプなので)。

 でも、コメントに返事があると嬉しい。その人の動画のおかげで、俺はマジックザギャザリングの世界をもっと知ることができたし、彼のマジック愛が動画から伝わってくる。動画編集を楽しんでいるのが、マジックそのものを楽しんでいるのが伝わるのだ。とても素晴らしいことだ。

 俺以外にもその人の動画は好評で、グッド評価がとても多い動画だ。

 ふと、俺も似たようなことができたらな、なんて思いがよぎるが、俺が一番好きなのは、多くの人が興味がないものなのだ。俺は度々ジャン・ジュネマルグリット・ユルスナールが、ジャン・ユスターシュが、カール・ドライヤー中平卓馬が……と好きな人のことを言い続けているが、それは虚空のかなたにきえていくだけ。

 好きなことで色んな人と交流するって、すごいことで、楽しいことなんだ、きっと。

 将来どうするんですか、みたいなことを会って二回目くらいの人に問われて、俺は正直に「自殺することを考えたら、やり残したことを片付けようという気力が少しわきました。だから、悔いのないように片づけたいんです」とまでは言えなかった。言う必要もないが。

 ただ、もうこれではだめなのかもしれない。俺もなーもっと色んな人と会うとか、今とは違う勉強の仕方をしないと、寝て腐るだけだ。問題はお金だけど、まあ、いつも問題はお金だけれど……

 ただ、俺はその人の動画を見て、mtgって、ファンタジー世界って楽しいなーって思えた。それだけでも十分過ぎる。色んな悪人も神様もヒーローも魔法使いもいる世界。空想の中でなら、世界は無限に広がり、俺だってPWになれる! 

 俺は、ロリータの洋服が大好きだ。それは、彼女たちがある意味パンクで、生き方として、ファンタジー世界の住人を選んだ存在だからかもしれない。まあ、単に彼女たちの感覚が、かわいい! 着たい! だけでも十分すぎるけれど。

 いつだってかわいい ばかり考えていたい

 いや、考えていて欲しい

 それがとても困難で、嗤われることであったとしても

 俺に女装趣味はないので、洋服可愛いモデルの子可愛いなー位の感想で、所得があれば全身ギャルソン、ドレキャン、気が狂ったようなハイブラの服を着て過ごしたい。でも、そんな金があるわけがないので、俺は文章を書くしかないし(こういう雑文ではなく、小説を)、できたら、別に何かを作り出したいな。

 何かを作れたなら、俺はもっと生きたいって思える気がするんだ。

「悲しみなどあてにはならない」

 相変わらずの綱渡り芸人の日々。少し、開き直っているのか感覚がマヒしているのか。分からないけれど、他に考えなきゃならないことは沢山あるはずだ。

 元気で、健康的に年を重ねる、ということがイメージできない俺は、今をどうにかせねばと思っている、のに、すぐ寝る怠ける。けれど消費した物の雑感等を

何故かヴィスコンティの『家族の肖像』のパンフを買っていた。この映画は、小品といった印象なのだが、好きで何度か見返している。老人(教授=監督)も若者(ヘルムート・バーガー=愚かで美しい左翼の青年)も、哀しい人だからだろうか。てか、バーガーの血を拭く教授!官能的でわくわくする。

 十年前(!)にこの映画について書いた感想を引くと、

『家族の肖像』のことを想起すると、少しはこの無駄に高揚した気分が収まってくる。ヴィスコンティのようでヴィスコンティではない教授と若き美しき男との触れ合い、が主題ではあっても俺にとって印象的なのは燕を手にした年老いたブルジョア女、が主要な女として見出されている点であって、若き美しき「ヘルムート・バーガー」の自死に件の女は涙を流しつつも「悲しみなどあてにはならない」と告げる、その生き生きとした、醜さ! 『ヴェニスに死す』のラスト、化粧をされた作曲家の道化のようにしかみえないあの顔のように、醜く、趣味の良さを救っている。

 とあり、俺も、何も変わってないんだなあと思う。愛する人を失い、涙を流しても、「悲しみなどあてにはならない」といえる強さ。げんなりする。だけど、ほんの少しだけ、羨ましい。

ねんがんの 今井キラの画集『ひと匙姫』をてにいれたぞ!

甘くて残酷で可憐で、触れることの出来ない世界。頁をめくる度にうっとりして立ち止まってしまう。なのに、すぐに読み終えてしまう。 

 今井キラの描く少女たちは、男子なんていらない、って感じの排他的な美しさというか、もしかしたら(同性の)友達や恋人すら必要ではないような、孤独というか、孤高のヴェールをまとっている。でも、彼女たちがなんであれ、美しいのだ可愛らしいのだ。だから、それだけで十分過ぎるのだ。

 オリジナル・ラブの田島とペトロールズの長岡のライブアルバム、sessions聞いてるけど、マジでいい! 甘くてしっとりと調和していて、時には激しく。味わい深い大人の音って感じだ。激しくてノリが良いキャッチーな曲が大好きな俺だけど、この二人、このアルバムはとても心地よいんだ。すーっと染みわたる。熟練のわざって感じだ。

mtg動画面白いなあ。最近お気に入りの人のを良く見るんだ。マジックはフレーヴァーテキストもすごく素敵で、おっさんなので、古いのに好きなのが多い。
高潔のあかし/Righteousness

やがてわたしも、死の前にひざまずくときがくるだろう。だがそれまでは、勝利の栄光を味わわせておくれ。
――ホメロスイリアス」第18巻

 地獄界の夢/Underworld Dreams

眠気を誘うような思考の洞窟の暗い奥で、夢は日中の様々なものが落としていった欠片から巣をつくるのだ。
――ラビンドラナート・タゴール

木下恵介監督映画、『遠い雲』見る。脚本や登場人物は、どうかと思うが、高峰秀子の演技上手くて、もう、それでいいんだってなる。画面も広がりを感じさせ、構図も上手くて流石。メロドラマって、感情移入出来ないと見るのきつい。でも、高峰秀子木下恵介コンビなんで、最後まで見てしまうんだよなー

 30過ぎてから、高峰秀子の本やら映画を何度も繰り返して見ている。本も魅力的だが、この人の演技、大好きだ。日本映画で一番演技がうまいと思う(って、単に俺が好きってだけの話です)。俺は俳優の演技の良し悪しなんて大して分からない。けどさ、彼女の演技のうまさは感じるし、説明できちゃう(言語化してしまえる)んだ。演技のうまさを文字で説明だなんて無粋だからしたくないけど(でも、過去にしてるかもしれない。いや、してるだろう)

金子光晴旅行記、いや遁走記を拾い読みで、読み返してた。俺は彼の弱さに無計画に惹かれ、詩人である彼の文が、無軌道な生活を送りながらも冷静な文がたまらなく好きだ。汚泥も汚泥に咲く花をも等しく注視し、その不思議さを伝える力は、幸福なことではない。でも、それが詩人ということなのだろうか。

『アジア旅人』という、金子光晴の旅の記録と、横山良一がその旅の地の写真を合わせた本を読んだのだが、とても良かった。横山は写真だけで言葉は全て金子光晴の引用になっている。金子光晴のファンブック的な側面もあるのだが、まあ、俺は金子光晴のファンなので問題ない。というか、読み返したくなるなあ。読みたい本が多くて困るな。

 俺は、きちんとした頭で、どのくらいの本を消化できるのだろうか?

 ジョルジュ・バタイユ、と勘違いして借りたクリストフ・バタイユ『時の主人』 俺は全く知らない人だ。若い作家で、色々と絶賛されているらしいことが書かれているのだが、小説を読んで久しぶりに「なんだこれ!」って思った。小説はわりと有名どころやら古典を読み返したりが多い俺には、この本は頑張って優等生が書いた習作なのかな? としか思えなかった。つまり、俺には合わないし必要がない本だということだ。

 はっきりと自覚しているのは、俺は文章(小説)にもポエジー、詩的感覚、センス、美意識を求めるということで、物語の筋なんてわりとどうでもいいのだ。だからミステリとか興味が薄いのだ。話がご都合主義でも悪文でも、そこに輝くものがあるなら上等。

 などと感じているのは、考えているのは極めて少数なのかなと、今更ながらに、そう思う。でも、それが俺の思う文学作品なのだから仕方がない。よくできた、できのよい作品だって好き。でも、一等好きなのは、輝きや眩暈を閉じ込めた作品だ。自分がかいている小説に、それが出来ているか、よく考える。考えながら困難だと楽しいなあと思う。

 一人、自分で酔っているだけなのかもしれないとも思う。

 でも、酔えるなら、錯覚できているなら俺は幸福なんだって多分。

魔法は誰が教えてくれるの?

朝起きて、喉と頭に痛み。外に出なければならないのに、憂鬱になる、っていつもたいてい憂鬱。ブルーブルーブルー。今、色々と問題になっていて、それとはあまり関係なく、俺のこれからもヤバイ。最近こういうことばかりしか言っていない。 でも、少しでも気を紛らわせるため、読んだ本の雑記等を。

森山大道の『もうひとつの国へ』というエッセイ本を読む。暇人なので、森山大道の本は数十冊読んでいて、彼の写真や文章は好き、というか、心地良い。海外で展示を何度もやって本だって男十冊も出ている、しかし、その生活は、どこか適当で、野良犬じみている。一方的な共感を覚える。以下、引用。

『ぼくにとってのアートとは、ぼくの日常性の中に、一瞬の裂け目をつくり、そのすきまから異界を覗き見せてくれる
もののことである。(略)さまざまな街区や路上に転がっているように思える。(略)街角には、思わずのけぞって
しまうほどチープでジャンクでエロティックな代物もまた在って』

『”写す”ということへの、いくばくかの強迫観念を抱えながら、都市の路上を撮り歩く日々が、いわばぼくの
ルーティンワークである。むずかしいことだけど、生きているという実際の内訳にはなるべく立ち入らないようにして、
さし当たって”写す”という気分が、いまのぼくの、写真とのスタンスである』

 森山大道の本は何十冊も読んでいて、というか彼は100冊位本を出しているのではないだろうか? (アート系のくくりだと)おそらく荒木に次ぐ知名度というか、刊行数だ。なのに、彼はエッセイで度々貧乏だのふらふらしているだのといったことを口にしていて、俺みたいな無職のガチのやばさとは別にせよ、彼の中の異邦人というか野良犬というか、そういった面には一方的な共感を覚えるのだ。だから、俺は彼の作品が好きなんだ。肌が触れ合っているかのような、雑踏ですれ違っただけのような。そんな距離感。

 ロベール・ドアノー写真集 芸術家たちの肖像 を読んで、どこかで見たな、と思いながらも、ジャコメッティのアトリエを映した写真は、とても愛おしい。雑然としているような整理されているような矛盾した印象を受け、魅力的なんだ、単純な話で、俺は、彼が、彼の作品が、彼のアトリエが好きなんだ。

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 大好きな人がいる、という幸福。たとえそれがなくなってしまった、もう二度と会えない人だとしても。

 

 久しぶりに全然知らない人、ケン・リュウ『紙の動物園 』を読む。

 香港で母さんと出会った父さんは、母さんをアメリカに連れ帰った。
泣き虫だったぼくに母さんが包装紙で作ってくれた折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動きだした。魔法のような母さんの折り紙だけがずっとぼくの友達だった……。


ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作、しかもレビューの多くは絶賛。だけど、俺にはちょっと合わなかった。小説としてきちんとした佳作、だとは思ったが、「魔法」の扱いに誰も疑問を感じないのとか、後半のお母さんの「泣かせる」長台詞とか、どうも俺には合わなかった。

 というかさ、俺は、登場人物に善人ばかりが出る話や、魔法(があるとしてそれ)に「代償」が無いのがしっくりこないのだ。不思議な話は好きだけれど、それだと何でもありになってしまう。魔法があっても不自由であったり大変なのが当然ではないか、と感じてしまうのだ。

 ここら辺は作者の好みやら作品(絵本の世界なら何でもありでいいけれど)によって異なるし、簡単には言えないけれど。まあ、俺にとっての魔法は、悪魔と契約をして手に入るような物だってことだ。

 

ジャン・ジュネのエッセイの一節。

美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。

 

 

 最近、色々諦めようかとか、もう少し頑張らねばとか、いつものぐらぐらした気分に襲われながら、ひたすら寝ている。悪魔なんていないのに、俺は悪魔の夢を見る。できれば天使、キリスト、メシアの方がいいな。また、グレゴリオ聖歌を聞いてこれを書いている。神様悪魔様天使様、明日はもう少し、貴方たちのことを考えられますように。

バッハ、安紅茶、チョコレート

色々な予定がうまくいっていない。色々な本を借りて、とりあえず読む。色々な本を買って、とりあえず山積みにして、少しずつ崩している。こんな日々がいつまでも続くのかと思うと、ふと、飛び降りてしまいたくなるのだけれども、いつものようにバッハと安紅茶とチョコレートと読書。つまらない記録、惰性の日々。

 でも、読む本はそうではないのだ。

 安野光雅『空想の繪本』安野光雅の書いたイラストの中でも、掲載誌が数理科学(知らないが)やユリイカといった雑誌だからか、不思議な絵が多い。現実ではありえない絵、騙し絵やファンタジー世界の道具や一ページを切り取った幻想的な物まで幅広く、それについて短いコメントもついていて読んでいて楽しい。

 俺のお気に入りは やぶ医者の七つ道具 とマクスウェルの悪魔(二重瓶詰になっているが、実は瓶の外にいる悪魔)だ。どちらも元絵がすばらしいいというか、文章で良さを伝えられないのがもどかしい。

高峰秀子『忍ばずの女』 高峰秀子のエッセイはかなり読んでいて、だから(映画の話になると特に)内容が重複するような所も多いのだが、それでも読んでいて楽しい。高峰と付き合いが多かった、現場での木下恵介(動)と成瀬巳喜男(静)の対比を語れるのは彼女だけではないだろうか。また、どちらの監督にも共通点があり、大袈裟さを嫌ったというのは納得だ。

 『放浪記』での宝田明のエピソード(簡単なシーンで成瀬がオッケーを出してくれない)は読んでいる方は微笑ましく、唯一手掛けたテレビシナリオの脚本『忍ばずの女』のエピソードも読みごたえがあった。

『バルビエ✖ラブルール』 ジョルジュ・バルビエの本は海野弘の素晴らしい一冊も手元にあるのだが、買ってしまった。こちらの一冊はいつどの本、雑誌に載ったイラストか、という細かい説明があるので、それを見るとそれぞれのまとまりを感じられて良かった、というか、バルビエの画は昔のモードのエレガントがあって、パラパラと見るだけでもうっとりとしてしまう。

 だが、この本は収録されている画のレイアウトに疑問を感じる所や、単純に画が小さい、つめこみました感があり、そこはどうかと思った。資料的な価値もあり、いいのだけれども……

『神秘と絢爛のバリ島絵画 その展開と軌跡展』 昔(といっても1900年代だが)の画の多くは、俺がイメージするバリ、東南アジアの画って感じのが多かった。とにかく書き込みの量が多く、また、農民や畑、自然を描いているというイメージ。また、画にバロンが多く登場していたのでなんか懐かしくなる(メガテン脳)でも、天敵のランダ(との闘い)はあまり描かれていなかったようだが……

 若い作家の作品は、いわゆるバリの絵画というよりも色々な意味で身近な物が多かったが、俺としては同じようなモチーフが埋め尽くす迫力のある、昔のバリの画が好きだ。

ジャン・コクトー『阿片』 これ、俺が高校の時に読んだはずだ……お久しぶりですね……中身は軽やかで気ままな(元)中毒者の言い訳エッセイなのだが、さすがコクトー、読んでいて楽しかったし、一部引用する。

73 すべて子供達は、彼等のなりたいと思うものになり得る不思議な能力を持っている。詩人達の心の中には、子供らしさが残っているのだが、詩人達には、この能力を失うのが辛い。ともすると、これが、詩人を駆って阿片に走らせる理由の一つかもしれない。

165 どうして世間の人々には、詩人の伝記なぞが書けるものか僕には不思議でならない。当の詩人自身にさえ自分の伝記は書けないはずだと分かっているのに。(詩人の一生の中には)あまりに多くの神秘と、まことの偽りと、こんぐらがりとがあるんだもの。

 これを読むとコクトーが紛れもない『詩人の血』を持った人間であることを感じるのだ。稚気と気まぐれと感受性が育むのは、彼自身であり、ポエジーなのだと。

 花の本があると、安いと、とりあえず買ってしまう。花が大好きなんだ俺。ただ、花だけを撮った写真集に対して何だか物足りなさを感じる時があって、それは美しい花を美しく撮っているからかもしれない。これを回避するにはアーヴィング・ペンのようにファッション、虚栄、虚像として美しく撮るか、メープルソープのように硬質の、彫刻のような、しかし艶めかしく撮るかといったなんらかの挑戦的なアプローチが必要だと感じるのだ。

 とはいえ、花を撮っている写真を見ると、実物の花程ではないが、美しいと思うし、小言を言いながらも買い続けてしまうんだ花の写真、写真集。

 最近また、過眠が酷い。このまま腐ってしまうのかなとも思う。花は枯れても腐ってもそれなりに趣があるのだが、人間が腐っても見苦しいだけだ。

 たまに、美しい物を考えることにしている。何でもいい、画でも情感でも情景でも花でも、生きものでも。その幻は、たまに、俺を苛み、しかし生かしてくれる。チョコレートを齧り、安紅茶を流し込み、錠剤を口にして、もう少し、生きなければと。