大人になれない、ということはおぞましくも滑稽でおかしく、傍から見る分にはそれなりに楽しいのだろう。

へとへとになって寝たり、疲れてもいないのに寝たり、とにかく一日の内で何度も寝てしまう。時間を溶かして、無駄にしている感が強く、身体の中が、がらんどうになる感覚がある。

 小説をとりあえず書き上げ、しかし仕事は決まらず、腑抜け。何度も同じことを書いていて愚かで自分でもうんざりするのだが、こんな生活もうしまいにしたい、けれども注意力散漫な俺は、すぐに惚れる忘れるあれもこれも。

 色々と好きになる、好きな物が多い人生というのはいいことだと思うし、自分の数少ない長所だとも思うが、生活能力というか、お金を稼ぐ能力がとても低いと言うのは、色々と駄目にしてしまうのだ。

 そんな駄目な身体で、惰眠を貪り続け、自分が疲れているのかそうでないのかもわからぬまま日々を無駄にして、慰み程度の読書。読み散らした本、

『立ちどまって』李禹煥 詩やエッセイをまとめた一冊。俺は彼の作品が大好きではないけれど、なんか気になる、といった立場で(俺は一目で好きか嫌いかを感じる方で、作品について曖昧な態度をとるのはわりとめずらしいのだ)、この本を読んでも、その自分自身の評価は変わらなかった。俺にとって、彼は、彼の作品はふしぎな存在なんだ。俺が彼の作品の良さを感じ取れてない、訳ではないと思うのだけれども。そんな感じで、俺は彼の作品や著作に、もやもやした気持ちのまま、たまに、出会う。

『画家と小さな生きものたち』熊谷守一 熊谷はとても人が良いのだなあ、それが作品にも表れているのだなあと思える(誉め言葉である)一冊。気軽に読めるし、じいっと、対象を観察していたであろう画家のように、シンプルな形を見ていると落ち着く

『世界のインディゴ染め』昔から青色がとても好きで、実際この部屋のカーテンも寝具も衣装ケースも筆入れも青だ。バスタオルも青だった。困ったら青。この本では世界の国の人の民族衣装、インディゴ染めが紹介されているのだが、生活の中に溶けこんでいる藍色、というのは見ていて楽しくも、落ち着く。なぜ、青色は気分を落ち着かせるのだろうか。理由なんて知りたくないのだが、藍染めはどんな国の人の肌の上にも映えた。

 他に高峰秀子やら金子國義やらの本を読み返したりして、短編小説のアンソロジー三島由紀夫の『孔雀』を再読。文の装飾が酔っていて独りよがりな印象も受けるが、やっぱり俺は彼の作品が好き。物凄く失礼なことを言うと(いつもか)超秀才が頑張って作り上げた美の世界、と言った感があり、三島は森茉莉を美の世界の住人と褒めたたえたが、三島は美の世界の住人ではなかったのだと思う(でも、「小説家」としては断然三島の方が上手いのだが)。

 でも、いいな、孔雀。俺も羽捥ぎ取りたい。美しい物が無ければ死んじゃう、なんてことはなく、ただ、虚ろな心から手を伸ばすあれやこれや。家の中は、(捨て値の)ブランド品、買い過ぎた本、天使、ぬいぐるみ。

 でも、クレジットの支払いが俺を現実に引き戻してくれる。

 ゴッホは37でなくなったそうで、最近古井由吉の訃報を聞いて、残念な気持ちになりながらもどこか実感がない。彼の著作は生き続けるし、俺は彼の真面目な読者ではないから。

 希死念慮やら離人感の糖衣に包まれながら、眠り続け、そのうち手遅れになるのかな、そうでもないのかな、なんて濁った頭で考える。とりあえずシャワーを浴びなければ(毎日シャワーはしている)。それで、少し、本を読まなければ。その位しかやることがない、のもあるけれど、たまに、自分が読書が好きなんだと錯覚しそうで面白い。大人になれない、ということはおぞましくも滑稽でおかしく、傍から見る分にはそれなりに楽しいのだろう。

お前の中に住む宝石泥棒

早起きして、乃木神社へ。前本で読んだ白木の肌に金細工、という扉が見られなくってがっかりしたが、狛犬が良かった。直線が多く、モダンなデザインでかっこいい!

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 そして、本来の目的である、国立新美術館の ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年 展へ行く。それほどきたいしていなかったんだけど、とってもボリュームがあって見ごたえ十分な良い展示だった

 宗教画、風俗画、庶民の生活からお金持ちの人々、戸外制作から象徴主義までよりどりみどり。彫刻作品もあった。簡単に目にとまった作品の雑感を。

 定番の聖母子は、油彩を間近で見ると、赤子、イエスの身体の温かみが感じられて良かった。桃色の肌に薄っすら混じる静脈のようなエメラルドが目を引く。受胎告知もいくつかあったのだが、縦の構図のは初めてみたかも。しかも、天使ガブリエルの顔はほぼぬりつぶされていて、神聖さというよりも、ドラマチックな動きを感じた。意欲作。

『王子の肖像』という画が面白かった。昔は赤子の死亡率が高かったから、全身にお守りをつけている王子様の画なのだが、腰からクマの手やサンゴや不思議な模様のお守りやらベルやらがごちゃごちゃ並んでいて、さながら日本の傾奇者のような奇妙さがとても好きだ。また、王子の顔はやけに目がでかく、アンティークの西洋人形のようなつくりで、カンヴァスの大きさもそこそこあって、どういう経緯でこの画が作られたか気になった。

『小さな宝石商』という作品はポストカードも買った。幼子が小さなダイヤらしきものを手にしてみつめている、ただそれだけの画なのだが、ほほえましくもかわいらしい。彼女のテーブルの上には他にも小さな、多分大して価値がない宝石が並んでいるのだが、その小さな宝石たちを、彼女はきらきらした眼で覗き込むのだろう。

メッサーシュミット『性格表現の頭像 あくびをする人』これもポストカードを買ったが、やはり彫刻(立体)は平面の図録やらでは魅力が半減する。実物はとても迫力があって良かった。

 昔、仲が良かった、彫刻をしていた人が「(彫刻の)耳は複雑な形をしているから、いかに主張するか、省略するかで腕が問われる」みたいなことを言っていて、それ以来おれは彫刻は耳を見る。彼の作品は、生々しい、力強い耳だった。良い作品。

 作品数が多いし、見どころが沢山の良い展示だった。美術館も広々とした空間で気分がいいしね。

 でさ、俺さ、ちょい風邪気味なんだ。でも、歩いて六本木から渋谷まで歩いたで。普段なら、まあ、疲れたかなって感じだけど、展示をたっぷり見た後だから、かなりグロッキー状態。

 あ、そういえば、六本木のヒルズ近くにあるラピスっていう画材店、文具店が今も営業していてびっくり(というか、その店を通る度に思う)俺がガキの頃からあるお店で、六本木の一等地は入れ替わりが激しいのに、生き残っているのはマジすごいと思う。

 久しぶりに店に入るとさ、画材屋の匂いがするんだ。いろえんぴつ、マーカー、絵の具。画、久しぶりに描きたいなって思いながらしてないな。小説だけでなくて、画にもちゃんと向き合えるのかな。しなきゃなー。元気になって、できるかな?

 そんなことを考えながら、へろへろになってはなまるうどんに行って、大量のしょうがを食す。お茶とかしょうがをとにかく食べれば平気だと俺は思っているのだ。身体、燃やすぜ。

 ふらりと寄った文化村ギャラリーは、あれ……昔見たぞ、この作品。平野甲賀大友克洋のポスター。あと、宇野亜喜良のポスターも……まあ、全部同じってわけではなかったが……。後、バレリーナをかいた人の画がそこそこの値段で会場のまわりに展示されていて、これも前見たような……

 それで、まんだらけに行って本を買ってしまう。先日図書館で本を借りたばかりなのに。最後に西武デパートで値引きシールがついた食材を買って、帰宅して、流石に疲れ切って寝た。

 起きて、大量の本の山とか、明日は日銭稼ぎがあるが、それ以降は空白で、頭が回らなくなってきた。逃げ出していけれど逃げる場所なんてない。どうしようもない、ではなく、どうにかしなければって話。

 あ、これを聞きながらたまたま知った指揮者オットー・クレンペラーという人のヴェートーベンをずっと流しっぱにしていた。彼はとってもスキャンダラスで色狂いだったそうだが、演奏はとても丁寧でエレガントに感じた。クラシックなんてわからない俺だけど。でも、ヴェートーベンはあまりこのみではないのに、彼のは気持ちよく聞けるんだ。

 色んな物が簡単に手に入るのに欲しい物は手に入らない、いや、いろんなものが手に入るだけでも幸福すぎる。増え続ける本の山と休むことを許されない俺のボロノートパソコン君。虚しくて辛くてそれなりに楽しい。

 自分が、たまに盗人になる想像をする。或いはそうなのかもしれない。誰かの生きている小石を、宝石を盗んで、飽きて、捨てるんだ。それは、なかなか良い職業かもしれない。愚かな話。

セブドラのサントラのレッツワーキンって曲は古代祐三で好きだけど曲名は嘔吐

メンタルオシャカ「クリスマスクリスマスお釈迦様」って歌詞すら出ない位の不良品っぷりしかし面接には行く。一個目は15分で終わったが二個目は1時間かかった!!筆記とかテストなしで! 

 ともあれ、面接の際は嘘ばかりつく羽目になって辛い。でも、「ほんとうにちかい」俺なんてどこの会社も必要としていないし雇ってくれないだろう。俺のペルソナ。大人気ゲームの、メガテン派生のペルソナみたいなのがあればいいのにな、それか、イマジナリーフレンド作る努力しなきゃな。

 『猫の絵画館』という本を読む。これがかなーり良かった。良い作品が多すぎて、何を書けばいいんだって位、ほとんど全頁素晴らしい本だ。

 この本は日本人の描いた猫、日本画の猫が載っているのだが、猫って、油絵や立体よりも絵筆の繊細な描写や、全ては描かない中にいる猫、という存在が素晴らしく妖しく、魅力的だった。書き込み過ぎない日本画だからこそ、猫の面妖で愛らしくって不可思議な存在感を表現できていると思った。

 見るのに体力がいるなあ、と思いつつ、ダグラス・サークの『風と共に散る』をまた見る。幼馴染のふたりの男とひとりの女性との三角関係を描く。

 サークの映画、というだけでそれはもう素晴らしい映画なのだ。物語の筋なんてありきたりでも凡庸でもご都合主義でもいい。画が、動きが(ゴダールだったら音も)素晴らしければ十分過ぎるのだ。

 主人公の幼馴染、ダメぼんぼんが自暴自棄になり、昔の関係に戻りたいという趣旨の「あの川辺へ帰りたい」という台詞を言うのだが、思いがけず涙が出てしまった。

 戻れないんだよね。いつでも過去は残酷なほど甘い。けど、前を向かなければって正論、痛くって、受け入れられない時あるんだしばしば。

 後、主人公に叶わない恋心を抱いている、ダメぼんぼんの妹が、終盤で重要な証言者になるシーンがあるのだが、そこでの妹と主人公とを映すショットがとても良かった。彼らの心情をうまくとらえている。というか、メロドラマ的なカタルシスがある。同時に俳優の(演技力というよりむしろ)演出された美しさにくらくらする。

 サークの映画を見ると、満足して、疲れる。小津安二郎の映画みたいだ。人間が生きている(画が動いている!)ことの素晴らしさが迫ってくるからかもしれない。俺、引きこもり気味だけれど。

 でもさ、動物植物好きで、『世界の美しいハチドリ』と『美しいハチドリ図鑑』また借りてしまった。内容はどちらも最高だ。ハチドリ、欲しいな。

 てか、今年の俺の誕生日にハチドリのタトゥー入れようかなって思った。その考えは(イグ)ノーベル賞級の素晴らしい発想だったが、お金、どうしようと思うと思考停止する。酷い生活を送っていると、お金がなくなるというのに恐怖に近い感情を覚えるのだ。

 でもさ、ハチドリ位いいよね。頑張って、働かなきゃな。

 体調悪いと、俺最近一日中寝てしまっていて、日々を無駄にしていると自己嫌悪と虚無感で離人希死念慮コンボで終演トラジコメディ、なのだが、ホンマタカシの『たのしい写真3 ワークショップ編』面白かったな。

 その名の通り、ワークショップの様子が丁寧に描かれている本なのだが、ダイアン・アーバスのワークショップに触れているのも良いし(先日亡くなってしまった参加者・写真家の奈良原一高の本を読んでいたので、重なる部分があり、それも面白かった)ホンマタカシのワークショップの様子も見られて楽しかった。

 テーマと受講者の写真を載せているのだが、ホンマタカシの受講者の写真に対するコメントがとても誠実で的確だと感じた。彼は先生でもあるし、作品を目にする観客でもある(作品によってはとても感動できる)んだ。これを同時にきちんとこなせる人ってそうそういない気がする

 それは彼がニューカラーの作家だからだろうか? 均質な画面、というのはかなり意識しないと作れないだろう。俺はホンマタカシを超好き、ではないけれど、結構好きで、写真集も幾つか眼にしたが、もしかしたら俺は彼の文章や姿勢の方により興味を持っているかもしれない。足取りがしっかりしているし、軽やかに感じるんだ。俺が超好きな人ら、こいつよく生きてんな、みたいな人多くて(余計なお世話すぎる)、ホンマタカシのスタンスとかを見ると、ほっとするし、肩の力抜いて色々やろうぜって感じられて良い。

 あと、ワークショップって、いいなーって思った。お金があれば、俺も色々参加したいですけども、まあ、無理だな。それに、文学のワークショップって! ゲロは奇想、いや、ゲロ吐きそうな位困難だと思う。特に純文学とか書いている人間って、皮肉とか卑屈とかではなく、何かがアレだと思う。って、あんまり落ち込むことを書くのは止めよう。純文学(死語)書いている人って! 無駄なことしていて俺は好きだな!!!!!

 知らない誰かと出会う、ってのは大事なこと。(一方的に)知っている誰かと再開するのも大事だけれど。

 寝てばかりいるけれど、人でもイマジナリーでも作品でも、出会わなくっちゃいけないんだよねお釈迦様。

 

でぐちなし

 酷く調子が悪い。良くいく現場でミスをして、かなり罵倒された。俺が悪いので、それは仕方がないことなのだが、必死で色々取り繕って、空元気でやってきた、ヒビだらけの人間にとっては、もう、色々とどうでもよくなってしまった。お金をかせぐために、気持ちがぐらぐらぐちゃぐちゃになるのは、とても辛い。

 

というか、消化したいものがいろいろあるのに、横になることしかできない。それでも、生活費は発生するから働かねばならないし、俺が「健康的」に生きる為に、小説を読んだり書いたりしたいのに、エネルギーがわかない。

 今に始まったことではないが、色んなことがうまくいかなくって、もがきながらも、ずぶずぶと泥沼の中に沈んでいくのだ。

 お金をもらうということ、元気なふりをして、それ相応の働きをしなければならないこと。当たり前のこと。当たり前のことができない自分自身がほんとうに嫌になる。ひたすら、辛いとか哀しいとか虚しいとか、そういう感情がわき出て、薬で緩和する生活なんて、生きているといえるだろうか。

 芸術、花々、小さな錯覚。それらを感じられない位の状況で、でも、多分死にたくはないのかなと思う。分かるのは、出口がないことだけ。

俺の身体がアレクサンドリア図書館だって花園だって

外に出るのに素面ではいられないし、外に出るとひどく疲れるのだが、家の中にだっていられない。外に出ると、日銭稼ぎをすると、むやみやたらにばらばらふわふわそわそわして、物を買ってしまう。買わずにはいられない、けれど、購入するのが本やお菓子というのがまだまし、なのか? は分からないのだが、たまる本を消化するのも体力がいるし、お菓子の食べ過ぎは身体によくないらしい。健康になりたいものだが、健康になるなんて、天使になるよりも困難。

 ボルヘスの講演をまとめた本『七つの夢』を読む。多くの引用と豊かな空想の織物。とても面白く読めた。以下、引用。

 

 第二夜 悪夢51p 未開人や子供にとって夢は目覚めているときの挿話ですが、詩人や神秘主義者にとっては目覚めの状態がすべて夢だということもありえないことではない。このことをカルデロンは至極あっさりとこう言っています。”人生は夢”と。またある種のイメージでもってシェイクスピアはこう言います。「我々は自分たちの夢と同じ木材で作られている。」

 第五夜 詩について133p アイルランドの汎神論者、スコトゥス・エリウゲナは、聖書が無数の意味を内包すると言い、それを孔雀の玉虫色の尾羽に喩えました。(中略)しかし、敢えて申し上げますが、それらの明言は聖書についてばかりではなく、再読に値するいかなる書物についても正しいのです。

 図書館とは魔法にかかった魂を沢山並べた魔法の部屋である、とエマーソンは言いました。私たちが呼べば、魂たちは目を覚まします。

 

 また、第七夜 盲目について という講演の中で、視力を(ほぼ)失ってしまったボルヘスが、図書館長に任命されるというエピソードが語られていて、とても胸を打った。本を愛しすぎた男が視力を失い、図書館長に任命され、しかし彼は光を失ったことを受け入れているのだ。

 俺は、きっと本を愛してはいない。けれど、光を失ったなら、いきていけないだろう。

 少し気になったのが、ボルヘスの言葉の中に、自分は憎しみとかを感じないというような発言があったことで、俺の好きな作家は、どこか、盗人か人殺しか保菌者のような人々で、ボルヘスはあまりにも「人が好い(勿論これは誉め言葉であり美点でもある)」ように感じられた。

 とはいえ、彼の本が素晴らしいことには変わりはないし、空想を、バベルの図書館を所有する(それは誰もができることなのだ)ことの大切さを改めて感じた。日々、イマージュを、詩情を錯覚を追っていかねば、狂ってしまう。生き延びるための幻想。

 ヴェルナー・ヘルツォーク監督『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』を見る。

 考古学ドキュメンタリー。94年に南仏で発見され、現存する世界最古とされるショーヴェ洞窟の300点以上の壁画。6日間だけ許可された洞窟内の撮影による貴重な映像とナレーションにより、洞窟の神秘を体験する。

 とのことで、ヘルツォークがドキュメンタリーかよ! とわくわくしながら見た。そういえば、四年前に銀座のエルメスで見たヘルツォークドキュメンタリー映画も良かったんだ。四年も前かー。日記を書いていると、検索が楽で助かる。当時の感想、

『跳躍の孤独と恍惚』という、スキージャンプ金メダリストへのドキュメンタリー。

 最初から、メダリスト(その時点ではまだだが)がジャンプ失敗したのを三回も連続で映すのがさすが性格が悪いな笑 と思ったが、その主人公もかなりマイナス思考で、結構珍しいなと思った。

 あと、前の映画と共通している発言があって、クライマーもジャンパーも、かなりきけんすぎることだからこそ、安全を第一に考えそれ以外考えないと集中力が出る とか、飛ぶときは不安なんて考えない みたいな一流の人の覚悟というか集中はすさまじいものがあるのかなと思った。

 主人公は成功した後も、成功したら民衆はもっと求めるだろ、とかなり冷静で皮肉っぽいことを言う。(オリンピックとか見ないけどさ)金メダリストがこういう発言するとか、俺は好きだなと思う。

 映画の最後は彼がひとりになってふらふらしたい、みたいなことを言っていて、お前最初から最後までそんなんで本当に金メダリストかよ笑 ってな具合で一人の人間の生々しさ、人間らしさを皮肉と茶目っ気と親愛をこめて、よく撮られていると感じた。

 そう、俺はヘルツォークドキュメンタリー映画が好きで、この映画も当たりだった。貴重な文化遺産だか本来は立ち入り禁止だか制限があるとか、どうでもいいんだ興味はないんだ、でも、岩の凹凸がある壁画の迫力を伝えてくれるのはさすがの力量だと感じた。

 昔の人の絵だから、素朴なタッチで、最初は「ああ、こういうの何処かで見たな」なんて思っていたけれど、ヘルツォークが淡々と洞窟内の動物たちを映していくと、それらに生命力というか躍動感が感じられたのだ。とても丁寧な作りの、良作だった。

 同時に数冊本を消化していて、赤瀬川源平山下裕二雪舟の本を読みかけなのだが、雪舟は本物を見て、初めてその凄さが分かった。30過ぎてようやくだ。画面が、構図が、空間が完璧に思えてしまえるのだ。印刷では分からない、水墨画の、幽玄さ。それを描き出せる、雪舟のすごさ。溝口健二の映画を想起する。ケチのつかようがないというか、恐ろしい豊かさがそこにはあるのだ。

 俺は今まで何を見てたんだって話だ。洞窟の壁画だって、二十代の頃はその良さは分からなかっただろう。まだまだ勉強しなければならないことが山積みなんだ。でもさ、さっさと終わりにしたい色々と。

 そんな俺の空元気を鼓舞するため、誕生日に、久しぶりにタトゥーを入れようかと思った。以前も借りたが『美しいハチドリ図鑑』と『世界の美しいハチドリ』というのが、とてもいい本だ。だって、ハチドリが載っているんだから!!!

 ハチドリは色鮮やかで、花の蜜を吸って生きていると言うのが、本当に素晴らしい生きざま(は?)だと思う。俺は特に瑠璃色のハチドリが好きだ。

 タトゥー(小さいのなら2,3万で入れられるよ)の為に働かなければ、と思うと、嘔吐しそうになる。でも、たまには自分の身体を愛してあげなければ、俺の身体がアレクサンドリア図書館だって花園だって思い込まなくっちゃ、素面で生きるなんて、きちがいざただ。図書館なんだ花々なんだ、だから俺の身体を啄んで欲しいんだその針で。

ブラッディ・マリーと花々

 駅でブラッディ・マリーを二杯飲んで、恵比寿へ。ブラッディ・マリーの名前を目にする度、髭の超名曲、ブラッディ・マリーに気をつけろを思い出す。

 もういっかい殺してくれ来週ー って歌いたくなる。歩いていると椿が目に入る。くったり、と疲れている表情が好きだ。

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 恵比寿の山種美術館で 上村松園美人画の世界 見に行く。上村松園は、というか綺麗すぎる、誰が見ても好感を持つような画って、そこまで好みではないんだよなーとか思いながら現物を見たら、とても良かった。

 

「牡丹雪」の空間を感じさせながら、女性の凛とした美しさを表現しているのは見事。とてもいい。

「新蛍」という作品が、個人的には一番好き。縦に長い構図で、うちわを口元に寄せた、藍鼠の着物を着た女性が、薄竹色の簾からちらと顔を見せていて、楚々とした表情ではあるが、どこか清冽な艶めかしさを感じる、品のある魅力を感じられる作品だった。

 あと、村上華岳の 裸婦図 も展示されていた。岩場に薄着の女性が座っている画で、教科書とかにも載っている超有名な奴。誰もが一度は見たことがあるはずの作品。別に今まで好きでも嫌いでもなかったのだが、実物を見てみたら、すごかった。女性の不自然な丸みを帯びた顔や身体つきは、神仏というよりも、俺にとっては球体関節人形を想起させるもので、神々しい。

 また、その肉感的な身体のマッス、量感が印刷(本で見るの)では全くわからなかったが、実物はすごかった。そんな肉感的な、ひとがた、神仏的な女性が、幻想的な岩場にたたずんでいるという、とても神秘的な存在感のある画で、現物を見られて本当に良かった。やっぱ美術館行かなきゃなーって思った。貧乏人でも気力が無くても無理やり美術館行こう俺。

 恵比寿の公園に寄ると、もう桜が咲いていた。

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 もう、春なんだなって。俺は桜は散る時が、花筏になっている時が、葉桜になりかけている時が特に好みではあるが、桃色の桜を見ると、やはり嬉しくなるのだ。

 で、渋谷のまんだらけにいつもの様に寄って、馬鹿のように買ってしまう。図書館で10冊借りて消化している途中なのに!! 十一冊購入する。買い物依存かな? って、全部100円だったからだけどな! って、これが100円でいいのかよってのも沢山ありました……

チベット密教美術展

バリ島絵画展

花鳥風月展

赤瀬川源平山下裕二雪舟の本

バイロンとブレイクの詩集(いえのどこかにある)

安野光雅の大人向け絵本

津野裕子と鳩山都子の漫画

ムジールの愛の完成

写真の雑誌

 家に置き場がないのに、俺は何をしているのだろうか、しかも家で読んでない本がたまり続ける!! なのに買うしかない人生!!!

 先日フランシス・ジャムの詩集が良かったから、彼の短編、『野兎物語』を読む。数十ページしかない短い話だが、ほぼ全文詩情を感じられるというか散文の美しさに満ちていて、輝かしい小品とでも呼ぶべき良作だった。感受性を世界に向けて言葉を紡ぐと、何もかもが美しく映るんだっていう、当たり前のことを思い出させてくれる。そして、それを形にするってのは、その人の日々の努力の結晶なのだ。

 すぐに疲れたり駄目になる俺だけど、綺麗な物、だれかのものを、みていたいな、それで、自分の言葉で喋れますように。

デジャヴの中年

外に出て、へとへとになったり、家の中でひたすら過眠とか、おかしを食べすぎたり。本を読もうとか、文章を書こうという気になれない。新しいことをしようとする気力がわかない。

 結構な期間通院をしていて、色んなお医者さんに「(ゆっくりと効果がでてきますから)あせらずにいきましょう」というようなことを言われて、これで何人目だろう何度目だろうと、デジャヴに襲われる。

 何度も何度もこんな風にして誤魔化して、生き延びてきたのだなあ、でも、それも駄目になってきているのかなあと、最近はそんなことばかり考えているし、とにかく眠ってしまう。でも、そのツケは時間の浪費として払わねばならないのだ。

 何もできない、何も生みだせないというのは、精神上非常によろしくないし、ずっと俺、沼の中でもがいて、そのまま沈んでいくのかな、多分。その前に、空元気が出た時には、何でもいい、綺麗な物が見れたら書けたらいいな。

 久しぶりに澁澤龍彦のエッセイをパラパラと読んでいて『極楽鳥とカタツムリ』というエッセイ集の中で、極楽鳥に関する昔の人達の妄想混じりの記述が面白かった。澁澤もそれを面白がっていた。現実の鳥よりも、「極楽」に住む鳥についてああでもないこうでもないと妄想する、というのはとても楽しい。

 ふと、今の自分にはファンタジーとか妄想とか愛情とか欲望とか、色んなのが足りていないのだなあと気づかされる。過眠で、惰眠で、自分を守る。世界と自分とを遮断して、小汚い布団の繭の中でゆっくり、腐り、癒され、駄目になる。

 そんなの好きじゃない、好きじゃないのにな。でも、俺も俺に優しくしなきゃいけないんだ。眠るしか逃げるしかないのなら、そうするしかない。

 十年ぶり位に、オードリー・ヘップバーンフレッド・アステア出演の映画『パリの恋人』を見る。本当にかわいくってご都合主義でカラフルで素敵な映画。幸福な映画。幸福な映画を見られるなんて、なんて幸せな事なんだろう!

 一人で家にいたり、金(仕事)のための言葉、その場の会話を成立させるための言葉ばかり喋っていると、気が狂って当然だ。だから、無意味でも虚空に吠えるような気持でも、何か口にする方がいいんだ、好きなことを、自分の素直な言葉を。沼の中にうずめてしまうとしても。そうやって、いきてきたんだ、これからも。うんざりする。でも、それ以外分からない。