希死念慮が揺籃なんて 戯言はやめて

数週間前に比べたら、大分調子が上向きになってきた。俺の上向きってのが、多分元気な人の普通かやや気分が優れないって感じだと思うから、順風ってわけではないので頑張ろう、

 って思ってたら、まさかの仕事先でコロ助ナリィ疑惑の人が出て、テンションガン下がる。俺は症状でてないけど、この先そこで働く(そりゃそうだ)のもげんなりするし、自宅待機になっても保証がないだろう。

 考えれば考える程悪いことしか浮かばない。でも、どうにか前に進まなきゃな。少しだけだけど、小説をかけていることだけが明るいことで、小さな幸福でわりとどうにかなることもあるって、俺は知ってるんだ。

 雑記

天気が良いので数ヶ月ぶりに上野と秋葉原を歩く。それなりに人が多い。欲しかったカワウソのガチャガチャが手に入ってとても嬉しい。黒いオルフェのDVDと桃のチョコレートと本とゲームを買った。読みたい見たいもやりたいものが多くて嬉しくて困る。

 人が多い場所が好きだ。雑踏が都会が好きだ。友人やお金がなくても、ざわざわがやがやごみごみきらきらした景色が好きだ。少し前までは、当たり前に色んな場所に行けた。それが今は難しくなっている。東京の感染者(陽性者)がずっと似たような数字を推移しているのなんでだろ。

あ、電車の座席に座らなくなったなー。

『かわいい こわい おもしろい 長沢芦雪』読む。江戸時代に高い人気を誇った、円山応挙を師匠にした芦雪。師匠譲りの高い画力と、若冲蕭白に近い大胆さを持つ芦雪の魅力に迫る。辻惟雄が前者に対応して人工の奇想と評したのは興味深い。ユーモアとすさまじい画力にわくわくする。見所ばかりの一冊

 芦雪の虎の画ほんと好き。水墨画の毛の表現、迫力とふわふわ感が本当にすさまじい。以前本物を見られてよかった。本を見て、本物を思い出すことができるから。好きな画家の動物の画はたいてい大好き。というか、俺が動物、毛皮を着たけだものたちがとても好きなだけかも。

大村しげ『京のおばんざい』読む。季節と行事を追って作る京都の家庭料理。京ことば、話し言葉で語られる料理はとても美味しそう。千枚漬けの最初の「かぶらの皮をごつうむいて」だけで情景が目に浮かぶ。あとがきで著者が、戦前戦後で料理は変わり、日常を若い世代に残したいと語っており、胸にくる。

 この本はとてもよかった。いわゆる京都紹介本、みたいなのは山ほど出ていて、俺も好きでちょいちょい読んでいるのだが、その中でもかなり良い本だと思った。それは、筆者が京都で生活をしていて、それを大事にしているのが伝わってくるから。なんだ、そんなの他の本でもそうじゃん、ってなるかもしれないが、京言葉で語り掛ける、という文章がとてもいい。自分の生活としきたりを大切にしているってのが伝わるんだ。日常を大切にしている人の文章は、楽しいんだ。

映画『ザ・プラネット』見る。アルゼンチンの音響派ミュージシャン、フェルナンド・カブサッキが実在しない映画の為に作曲した作品を元に、19名のアルゼンチンのアーティストがアニメーションを制作。抽象画のような表現からコミカルなカトゥーンまで。音楽がとても良い!大好きな初期トータスみたい!

 これは、音楽がとてもよかった! マジで1,2アルバムの頃のトータスっぽい曲があった(俺なりの最上級の誉め言葉だ)音響派大好き。というか、ジョン・マッケンタイア最高。長く続けているから、俺は一番初期の荒くってエモーショナルで暖かくてちょいミニマルな作りが大好きだが、この人の音楽はそれに通じるものを感じた。cd欲しいぞ

チェコのアニメ監督、カレル・ゼマン『鳥の島の財宝』見る。ある日、美しく平和な島に黄金がもたらされ、人々のいさかいのもとになるが…… 人形や切り絵のアニメーションは、どこか懐かしさと不気味さとかわいさを感じる。派手で美麗なアニメもいいが、ちょっと怖くてワクワクする、味のあるアニメ

ウィリアム・クライン監督『モード・イン・フランス』また見る。フィクションとノンフィクション風の映像が刺激的だ。ひねくれた愛国心、ファッション界への愛情。モードは大衆のもの、とは言え特別で虚構で素晴らしいもの。豪華な出演陣ときままなモデルを見るだけでも楽しい。

朝にウィリアム・クラインの映画見て、午後も銀座で彼の映画を見る『モダン・カップル』未来のフランスで、新しい生活様式のモニターに選ばれた二人は、生活の全てを監視測定放映され……未来の風刺コメディのはずが、映画から数十年後の現在は似て非なる恐ろしさが……ともあれ、外で映画見られて幸福

ウィリアム・クラインの『モダン・カップル』は、複数の出演者が寄りの構図があって、彼が大都市の人々を撮った写真集を想起した。ファッション界を撮った映画では、フォトジェニックなショットもあったが、猥雑でパワフルな感じは控え目だった。クラインの写真集また見たい。エネルギーチャージしたい

 久しぶりに銀座のエルメスで映画を見た。コロナの影響か、銀座は人がとても少なかった。資生堂ギャラリーへ行ったら、予約をしないと入れないって言われてガッカリ。花椿だけでも欲しかったな。

 銀座の鳩居堂も久しぶり。デパートの狭いフロアではなく、お店にはいると和紙の匂いがするのがとても好きなんだ。ただ、消毒&マスクのせいかそこまで感じなかった。って、入り口近くがお香のコーナーになってたからその匂いがした。

 でも、棚に並んだ和紙の筒、一枚800~1200円位の、着物の柄のような上等で優雅な模様が並んでいるのを見ると、とても幸せだ。気軽にあれこれ買いたいけれど、そんな身分ではないので見るだけで我慢する。綺麗な物は世の中に山ほどあって、きりがないから。でも、今度行ったらいい加減一枚くらい買おうかな。その金で美術系の古本がかえる、なんて考えてしまう駄目な俺。

 『美しい和のガラス』読む。昭和等の昔のレトロな、日本で作られた日用雑貨の硝子を紹介。技巧をこらした硝子も好きだけど、古い日本製ガラスも素敵。当時誰もが使っていた醤油差しやソーダコップが、工芸品のよう。無駄をはぶき洗練されたデザインもいいけど、この路線の手頃な値段の硝子が欲しいな

植田正治作品集』見る。シュルレアリスム、ピクトリアリズムを感じさせるような作風。計算された美しい構図。しかしこれは絵画ではなく、写真だ。人の、被写体の持つ魅力を引き出している。少しダイアン・アーバスを思わせるような気もした。抜群に構図とセンスが良くて、写真の持つ偶然性も感じる

 彼の写真は知っていた、見ていたはずなのに、写真集でまとめて見てにわかファンになってしまった。図書館で借りたこの本、定価16000か18000だってよ! 買えるか! でも欲しい! 大きいし紙質いいし、その価値がある一冊。

 新しい小説を書いていて、自分の感受性、好きとか嫌いとか匂いとか欲望とか味とか不快感とか浮遊感違和感、自分、いや、登場人物が生きているって思えるあれやこれやに感応できるようでなくっちゃなって思う。その為には、自分がそれなりに前向きでけんこうでいなければ。

 現実を見たら希死念慮が揺籃だけど、そんなの馬鹿な話。美しいものを見て、美しいと言える状態でなくっちゃな。高い本が気軽に買えるように、高い値段が並んだ場所に行くことを臆さないように。俺はしょっちゅう気分が駄目になる。そのことをいつも責めていたけれど、できるだけ感受性を殺さないように。駄目な日もあるけれど、何かに触れて、小説書いていかなくっちゃな。

今も変わるから

 朝や夜、少し肌寒く感じる時があって、ようやく秋の始まりを実感する。デパートの菓子売り場で、和三盆の干菓子の形がお月見になっていた。まだマスクが手放せない生活で、東京の感染者はなんとも言えない推移をたどっているけれど、何事も変わっているのだろう。

 渋谷や新宿へは仕事帰りやら用がないけどなんとなく向かうのだが、ここ数日で明らかに人が増えた。あの日の前の混雑っぷりには戻っていないけれど。これが良いことだと感じられたらいいなと思う。

 神経が過敏になっていて、とても辛かったけれど、前よりかは緩和しているような気がする。それはきっと、新しい小説を書いているから。書かない時はずっと書いていないから、自分の書き方、文章の呼吸というか流れというのがしっくりこない気がするけれど、ある時はっと思い出す。自分の好きなリズム。物をつくるって、なんて健康に良いことだろうと思う。

 体力気力は低下していて、どうしても良いことが思いつかないし、起こらないけれど、小説を書きたいなら書けるならまだ平気なんだって、そう思う。

 雑記

『文豪と暮らし』読む。昔のゴールデンバットのデザインめっちゃかわいい。泉鏡花はおばけを信じていてたのに、犬やバイ菌を非常に恐れ、何でも加熱してパンの自分の指が触れた部分すら捨てた。室生犀星は貧乏が長く、ツグミを愛でるのではなく、食べた後、身体がほんのりと桜色になるのだ。等々

 泉鏡花が目に見えないばいきんを非常に怖がったのは、このコロナを意識せざるを得ない現状でとても身に染みた。俺も何かに触るだけで非常に気分が悪くなっていてヤバかった。外出ができない! 座席が空いているのに、電車で一人だけ立っていることもしばしば。

 見えないものが見える感じられる信じられるってもろ刃の刃かよ。(俺は幽霊妖怪信じていないし「見える」とか言う人が無理だけど、泉鏡花は好きだ)

Bunkamuraの展示カタログ『永遠のソール・ライター』読む。街を、街の顔色が変わる瞬間を捉えた写真。そして、妹やパートナーの女性といった、親しい人を撮り続けた写真。人生の大半をニューヨークで暮らしているのに、自分をよそ者と言う彼。だからこそ、街の些細な変化にときめくのだろうか。

 自分がひかれる街に住み街をとり続けているのに自分をよそ者だという彼の発言に森山大道を連想した。でも、ソール・ライターと森山はかなり離れているような気がする。ソール・ライターはきっと、よりよく生きよう楽しもうとした生活者としての一面があって、だからこそ家族やパートナーを美しく撮れた、とり続けられたのだろう。

 昔は森山大道みたいな、もっというと中平卓馬みたなヒリヒリする人らの作品がすきだった。挑戦的で挑発的で、見る方もただではすまないような作品。でも、今は愛おしい人をとらえたものだって素直にいいなって思える。おっさんになって少しはよかったところかもしれない。

『かわいいナビ派』読む。ゴーガンや日本画の美学に影響を受け、自分たちを新しい美の預言者(ナビ)と称したナビ派。平面で装飾的、感覚的な絵画。読み解く絵画、理想化された身体とは逆の、身近な人や景色を愛した画家達の絵はゆっくり見るのが合っている。

『この写真がすごい2』大竹昭子・編読む。70人のインパクトがある一枚の写真と、編者の短い文章が並ぶ。写真家の名前や出展は後ろに纏められており、誰の作品なのかって先入観抜きで見られるのが素晴らしい。正直、好きではない写真が多い。でも、色んな人の写真が一気に見られるって刺激的で楽しい。

チャールズ・シミックコーネルの箱』読む。絵も彫刻も作れない芸術作品コーネルの作品と偏愛モチーフについて、著者が写真と散文を添えた一冊。箱の中につめられた小世界。がらくたも古典作品も同価値にコラージュ。子供が好きな物を集めたような、幸福な時間が閉じ込められているかのよう。

 コーネルの箱ナビ派の作品も、二十代の頃はもっと刺激的な作品を求めて目を向けなかった気がする。でも、些細な日常に、穏やかな時間に感応できるっていうのも素敵なことだ。

 俺の生活や精神状態はいっつもグラグラで、幸福な状態、という物に関する理解、共感、感応の数値が低いように思えていた。まあ、単純な話、希死念慮がどうだなんて言ってる人間が、幸福な人々の素敵な生きざまを見ても居心地がよろしくないっていう下らないことなんだけど。

 ただ、俺は俺の生活を良くしていかなきゃなって。何度でも忘れてどうでもよくなるけれど、好きな物を見て触れて、何かを書いていけたら。その時は忘れているのだろう忘れていいのだろう。忘却は恩寵、と言った川端康成を想起する。また読みたいな。でも、読んでいない本が山ほどあって、げんなりして有難いのかも。

本は俺の慰め蝕み。

身体の不調に悩まされていた。仕事を初めてから、ほぼ毎日寝ても2時か三時には目が覚めて、疲れがとれない。そんな状態だから体調が回復するというのは難しい。

 ずっと、小説を書かなければと思っていて、それと同じように様々な本を読まなければとも思っている。でも、うまくはいっていない。

 何々をしなければ、というのは、精神的にはとてもよくないらしい。常に自分が何かをしていなければと思っていると、安息なんてない。でも、それで何かが好転することはなくても、小説を書いていない自分なんて、生きていても仕方がない。小説こそが自分の人生、なんて大袈裟なことではなくて、単に楽しみがそれくらいしかないのだ。

 だから、何か一つくらいうまくいってもいいんじゃないかなあって思うんだけれど、そんな願望で小説がすらすら書けることなんてない。インスピレーションを受けるとしたらきっと、それなりに健康で何かに感動出来ている時だ。

 でも、日々不調。それで、ようやく、自分の不調の一つが歯をくいしばっていることにもあることに気付いた。ずっと気づいていなかった。肉体労働をする関係上、どうしても力が入っているというか、無駄な力も入っているし、緊張が続いてずっと身体が悲鳴を上げ続けているのだ。

 ぼーっとする、ぼんやりする。それがどうしてもできないのは、この先が怖いから。自分の状況がどんどん悪くなる中で、せっかくの自由な時間すら無為に過ごす恐怖。いつまで頑張れるのか、頭が働くのか、諦めないですむのか、ということをよく考えてしまう。

回答なんて出ないし、誤魔化し誤魔化し生きてきた。これからもきっと。でも、たまに錯覚するんだ幻想を見るんだ。その方がいい。たまゆら、人生がそれなりに素敵なんだって思う。

 雑記

『美しいアンティーク鉱物画の本』読む。百年前位に描かれた鉱物の絵。植物や動物とちがい、鉱物は硬質で命を持たないから、昔の彩色技術よりも、パソコン等での方が適しているかもしれない。なのに、手描きの鉱物はよい意味で温もりを感じる、不思議な魅力が宿っているのだ。 

マグリット辞典』読む。AtoZのキーワードを元に、マグリットやシュルリアリスト達に迫る。図版が豊富で見ていて楽しい。俺はシュルリアリストの「発言」をあまり信用していないのだが、マグリットが自分のも含めた商業仕事を嫌っていたのは興味深い。彼の作品はとても複製に向いていてポップだから

橋爪節也『大正昭和レトロチラシ 商業デザインにみる大大阪』読む。大正昭和の大阪の繁華街で配布されたチラシを紹介。デパート、喫茶店、キャバレーから選挙、電鉄、遊園地まで幅広い。今のよりも、情報を語りかけるようなチラシが多い気がする。当時の美意識や生活を感じられる楽しい一冊。

だらだらと、美術や旅や食べ物とかの本を読み散らかしていた。お金がない俺は、本を読んで行った見た食べた気になる。実際の体験の方が豊かなのは分かるが、こればっかりは仕方がない。

 本は俺の慰め蝕み。

恋の時間愛の時間何にも追われない時間

 新しい小説を書こうとして、一文字も書けずにうろうろしている。一度決まれば後はわりと早いと思うのだが(でも、人がどんな風に小説を書いているかなんて知らないけど)、そのスタートに立つまでがとても長い。億劫だし面倒だし集中力が無いし。

 でも、俺は作り物の中では息ができるのだ。架空の空想の作り物の偽物の幻想のありもしない、いや、ありえるはずのいつかの何かのことばかり。

 多分、文章を書いていないと考えていないと文章を書く力は衰える。そのことは、スポーツ選手や料理人みたいなものに近いのだと思う。同じことの似たようなことの反復が、その人の輝きを作るのだ。

 とはいえ、ずっと現実逃避しているわけにはいかない。いかないというか、生活が成り立たない。最近は毎日のように辞めたいと思いながらも仕事を続けていた。俺は根気も集中力もないので、普通の仕事でもとても疲れてやる気がなくなる。

 後、どれくらい文章を書けるのか、日銭を稼げるのか、おかしくならずにすむのかと、たまに心に浮かんでは消える。きっと、緩やかな自殺の様にして俺はおしまいになるのだろう。

 でも、その前に少しでも現実逃避ができたら、夢を見ることが、錯覚を編むことができたら。哀しいやつまらない、よりかは楽しいことが好きだ。俺は厭世家やペシミストではないけれど、気が付けばメランコリーが親友。見えない親友の手を取りながら、誰かの錯覚を瞳に映したいと思うのだ。

 

 

Bunkamuraザ・ミュージアム 永遠のソル・ライター展。見る。この時期は人がとても少なくて良かった。ニューヨークの日常を撮り続けていた彼の作品は、ファッション写真のようにフォトジェニックだったり(というか)ファッション誌でカメラマンしていたのだが、人々の息づかいが伝わるような瞬間のショットだったり。特に、妹やパートナーの女性を撮った作品が良かった。

妹は仲が良かったけれど、ずっと病院生活になってしまったらしい。そんな彼女は同じ顔の角度の写真が多くて、表情も固く、世界に不信感を抱いているかのようだ。しかし、兄の撮影には応じていたのか。反対にパートナーの写真は生き生きとしていて、映画のワンシーンのようなものも多くて魅力的だ。

 正直、チラシを見た感じだとそこまで期待はしていなかったのだが、展示は思いの外ぐっと来た。カラー写真よりも、妹やパートナーの女性を取り続けたモノクロの写真がとても良かったのだ。

 それらの写真は、親密さがとても伝わる上に、彼のセンスの良さ、ファッション雑誌や映画のワンシーンのようなフォトジェニックなショットの魅力があって、幸福な時間を感じられる物だった。

図録欲しかったけど、高い上に俺が求めるものではなかった。判型小さめでカラー写真がたくさん載っている感じ。多分俺とは彼の写真の魅力的に感じた部分が違う人が構成したのかなあと思った。

 ソル・ライターは、きっと芸術家タイプというわけではないと思う。でも、芸術よりも愛おしい人との時間や街のちょっとしたできごとを大切にしていて、それを印画紙の上に定着できているのだ。見ていて心がすっと楽になったのだ。

 恋の時間愛の時間何にも追われない時間。俺が忘れたものたち。

 飯島都陽子『魔女の12ヶ月』読む。月ごとの、伝承やハーブの物語と、レシピや手仕事を紹介。魔女という名称だけだと、何だか怖いイメージがあるが、この本では実生活にも役立つ知恵も教えてくれる。本物の魔女がいたとして、彼女たちも薬効のあるハーブティーで一息いれていたのかも。

穂村弘『ぼくの宝物絵本』読む。歌人の著者が会社員だった頃、忙しくて自分の時間が取れなかった。そんな時に出会った絵本は、彼を様々な世界に連れて行ってくれた。絵本の紹介でもあり、彼にとっての絵本の魅力について語っている。それは、怖さ。めでたしもいいけれど、死の予感。誰かの生活を感じる

たなと『あちらこちらぼくら(の、あれからとこれから)』温かみのある終わりも好きだけど、続きが読めるのは嬉しい。ゆっくりと仲良くなった二人の、ゆっくりと進展する共同生活。細かい心理描写はキャラの存在と魅力に説得力を与える。たなとの漫画はめっちや読むやすいのもすごい。繰り返し読むぞ。

『知っておくべき四つの価値 宝石の常識』読む。宝石や鉱物の本って、割と似たような内容になりがちだが(それでも楽しいけど)、この本の色の価値基準表というのはとても分かりやすくて良かった。普段宝石を見ないし見られないから、同じ宝石にもこんなに違いがあるのかって気づくことが出来る 

 俺は決して手に入らない宝石も、数百円で買えてしまう宝石(原石、クズ石)も好きだけれど、等級の差、似たような宝石でもプロから見たら差があるというのを写真で見せてもらえるのは刺激的だった。

 最近喫茶店やお菓子のレシピやら鉱物やら、とにかく小説を読まずにさらりと読めるものばかり読んでいる。小説を書こうとしていると、誰かの小説に向き合えるような体力や集中力がない。とかいって、単に仕事でへとへとになっているだけなのだけれど。

 しばしば、自分が駄目で、もっともっと駄目になっていくのだと考える。たまに、誰かの何かの輝きや展望に目を奪われる。俺の凝り固まった思考や行動を改めてくれる。

 そういうことにしておいて、と何度でも思う。

まぼろしに目を見開いて

 新しい仕事で、帰ったらへとへとになって、頭を使う本なんて読めない日々。前に進むというよりも、ひたすら我慢してしのごうとする日々。そんなのがいいなんて思えないし、嫌でたまらなくって、逃げだしたくなる、逃げてばかりの俺の人生。

 楽しいのは、きっと本の映画のカンバスの中の世界だけ。

 なんてことを感じてしまう。間違ってはいないかもしれないけれど、生活をないがしろにしては、何も進められない。ただ、疲労に負けて過ぎ去る日々。

 でも、先日半年ぶり位に美術館に行った。それだけで、少しだけ自分の気持ちに変化を感じた。

 混んでない。嬉しい。三菱一号館美術館『画家が見たこども展』に行く。ボナール、モーリス・ドニナビ派の画家達の作品が多い。単純化した表現で、こどもの魅力を捉える。ジョルジュ・ラコンプ 木彫りのシルヴィの胸像 がとても良かった。赤木に少女の生命力を感じる

 展示で見られる作品は、子供というテーマで集められたからか、身近な存在への温かい眼差しを感じるものが多かった。誰かの作品を目にすると、気持ちが軽くなる。誰かの力が、俺にも流れ出すような心持になるのだ。

 画集で十分なんて感じるものもあるけれど、やっぱり現物を見るのって大切なことだ。情報量が違う、ということ以上に、誰かの熱情の結晶、作品を見るって大切な機会だ。

 ずっと、コロナやら金欠やらで外(のイベント)に出られなかった。ずっと辛さだけがたまっていって、駄目になるのかなあ、誤魔化さなければなあ、ってそれだけの生活。でも、美術館とかに行ったり、誰かに会わなくっちゃ。そうやって、まあ、悪くないんだって思わなければ生きていてもしかたがない。

 雑記。最近は軽く読める本ばかり読んでいた。感想を書く必要も感じない感じのばかり。でも、それでも本は本、読書は読書だ。本がない生活なんて、怖くって考えたくない。

まぼろしの奇想建築』読む。構想されながらも幻と消えた建築の数々を紹介。建物や都市を作るのは途方もない金や時間がかかるから、個人の力ではどうしようもないこともあるだろう。実際には作られなかった風景だが、それは実在の建築のイメージや、漫画映画の中で生きている。永遠に未来の風景。

ディック・ブルーナ ミッフィーを生んだ絵本作家』読む。アーティストを志しながら、デザイナーとして働き、才能を開花させたブルーナマティスドミニコ会修道院のデザインに強い影響を受けたという。紙の切り抜きというシンプルな手法。ブルーナの絵本も、人に伝わるセンスと暖かさがある。

高峰秀子 松山善三『旅は道づれ雪月花』読む。一線で働き続けた二人が老年に入り、のんびりと豊かな旅行をする。美術館で絵を分からないという人に、高峰がピカソの引用をする。
「すべての人が、絵画を理解したがっています。それではなぜ、小鳥の歌を理解しようとしないのでしょうか」

YouTubeのオススメに出てきたので、公式の少女革命ウテナの1話見た。すごく良かった。切り絵のような作画は全然古く無くて、異世界感が素敵。十年以上前に漫画読んでサントラもiPodに入ってるのにアニメ見てなかった。絶対運命黙示録って1話から流れるのか!って、なんか変な感動をしてしまった。

『世界の鉱物・岩石・化石・貝大図鑑』読む。写真が多く、見開きごとに一つのテーマ、鉱物を紹介していてとても分かりやすい。サファイアの小石、ジェードの埋葬服、アメシストのバスタブ、琥珀の象……見ているだけで物語の世界のイメージがわく。

たなと『スニーキーレッド 3』読む。とても好きな作品なので、また続きが読めるのが嬉しい。三崎さんのおもいやりドエム盤石。1巻から読んでると、ハルの変化に驚き&ほっこり。ラストのハルの心の声可愛すぎる。登場人物の幸福な日常が続いていくんだなって思える、ほんわかした一冊。

森山大道 写真集『tokyo』読む。東京駅銀座新宿渋谷上野秋葉原……有名過ぎる東京の観光スポットめいた場所を、モノクロのインパクトのある構図で捉える。最初は今更、こんなベタなのを見てもなあ、なんて感じていたが、続けて読む進めていると、改めてこの人は凄いと感じた。21で上京して、

60年東京に住んだという森山。しかし、未だに東京が分からずに撮り続けているという。変わらない東京、ではなく、森山の中の憧れ、幻想のフィルターがかかった東京。町は少しずつ変わっても、森山大道の東京への高揚は変わらないのか。老年の彼が、こんなにも変わらない写真を撮れている熱意に敬意。

スパンクハッピー 夏の天才
やくしまるえつこ summer of nowhere
go!go!vanillas サマータイムブルー
パリスマッチ アルメリアホテル

夏の曲は好きなのが多い。でも、今年の夏は例年よりもさらに嫌な夏だ。もう少しで、夏が終わりそうだけど、いつかこんな夏もあったなんて思い出すのかな。

アイドルマスターの全話と映画を公式が公開してたから、数年ぶりに全部みた。見終わって、懐かしい曲やら765声優の動画とか見てた。普段アニメをあまり見ないのだが、アイマスは本当好きで楽しめた。曲がいいのもそうだが、キャラクターの成長がぐっとくる。何より、制作者や声優の愛が伝わってくる。

きれいな昆虫、海月、金魚を集めた三冊の本を読んでいた。最近の写真集は、とてもセンスが良く、見ていてたのしい。でも、昆虫のは途中で無理だと思ってしまった。画面いっぱいの昆虫は、見ているとざわざわする。海月も、脳味噌やエイリアンみたいなのは苦手。金魚は平気だが、ずっと目玉を見ている

と不安な気持ちになる。俺が過剰反応しているだけ、というのはあるだろうが、動植物を見たときに魅力と不安・不快が入り混じる時があって、自分の感覚だけど不思議だ。ぱっと見ではいいなって思っても、だんだん不安な気持ちになる。鉱物を見てもならないのにな。

 最近、新しい小説の骨子を夢想しながら、なんとか形にできたらと思っている。その為に、動植物や鉱物の本を読んでいる。綺麗なあれこれ。お金が、生活力がない俺は、そういうのを気軽に手に入れることができないけれど、本のおかげでとても助かっている。でも、本当は「欲しい」なら、手に入れた方がいいんだけどね、分かってるんだけどね。

 そうは思っても、俺には俺の生き方しかない。すぐに疲れてキレて嫌になる、うんざりする身体と精神。でも、その代わり、夢想することには向いているのかもしれないし、そう思わないとやってられない。

 書き上げたから何か変わるという訳でもないのに、小説を書いていないと不安で仕方がない。きっと、生産的な行為が全然できていなくて、生活も綱渡りだからだろう。

 制作の欠片を見つける為、誰かの幻想に現実にある物体の豊かさに身を任せる。それは怖くて疲れることだけど、それなくしては何も生みだすことはできない。目の前の非情でげんなりする現実よりも、まぼろしに目を見開いて。

 

まるで祈りの様に。

アスファルトの上に転がる、蝉の死骸を見た。今年初めて見た蝉だった。穴が空いた身体には、片方の羽根しかなく、それが強い光を浴びてきらきらと輝いていた。

 

新しいことをしたい。しなければ、駄目になってしまうかもしれない。そういう強迫観念なのか、逃避願望なのか、この状況と新しい仕事でかなりまいってしまっていた。

 一日の内に何度も気持ちがぐらつくし、平穏、とかいう言葉が遠い。それを手にする為に、頑張らなければと思うのだけれど、上手くいかない日々。でも、ふとした瞬間、それなりに悪くない気もするのだ。

 形にはなっていないが、久しぶりに気軽な短編小説を書こうと思ったから、そのアイデアが出たからか。それとも、誰かの本を読んで感銘を受けたからか。

 そういう短い時間は、夢を見ている、夢の中にいる気分。夢は脆く、すぐに覚めてしまう。夢の幻想の創作の現実逃避のことばかり考えていると、社会で生きていけるはずがない。

 なのに、どうしようもない夢を見るため、それに血肉を与えられるように願う。

 雑記。

アンナ・カヴァン中短編集『草地は緑に輝いて』読む。幻想、SF、随筆風等多彩な作風の中に共通するのは、不安と恐怖。妄想か、過剰反応か、現実か。それからは決して逃れられないのだ。執拗な、作者のオブセッションに読み手も包まれる。それでいて、愛らしさや美しい描写もあるのだ。

 正直言って、彼女の小説を読むのは結構疲れる。俺も、逃げ出したいし恐ろしい何か、から逃れられないと感じているからだろうか。

 『氷の嵐』の引用 アイス・ストームに襲われた後の、氷を浴びた街を目にする主人公。

「木々は美しいと同時に恐ろしかった。わたしは木々を怖がるまいとした。神様お願いです、どうか自然界のものにまで恐怖心をいだかせないでください。恐ろしいのは人間の世界だけで充分です……。」

『骰子の7の目 2巻 ハンス・ベルメール』読む。かなり久しぶりに見た彼の作品集は、淫猥さやグロテスクさよりもずっと、身体が持つ質量の奇妙さを感じさせた。緻密なデッサン力から生み出される奇怪な身体。そこには探求と喜びがある。人間の人形の身体は、不思議だ。それを鮮明に示している。

本江邦夫 監修『抽象絵画の見かた』再読。作品や作者への理解が深まる、分かりやすい手引き。抽象絵画というのは、好みが分かれる。つまらない落書きや、似たような画家の模倣に見える物もある。しかし、それらの中には確かに美しさが、秩序が存在するのだ。好きな画家の作品に気軽に触れられる良書

 久しぶりに出会う、バーネット・ニューマン、フランク・ステラ、クリフォード・スティル。スティルは生で見たことがないと思う。見てみたいな。

 本江邦夫、先生は俺の学校にも教えに来ていた。彼の授業が一番面白かった。熱意がある先生というのは、どの人も素敵だと思う。たまに、また大学や何かの教室に行きたいなと思う。勉強がしたい。でも、お金の問題でそれは叶わないだろう。それを思うと、自分の甲斐性無しや金銭を稼ぐ能力のなさ社会性の無さにうんざりげんなりする。でも、そのおかげで、たまに、輝かしい愚かさを見る力を育んでいるのかもしれない。

ぼんやりとした頭で、ALI PROJECTの令嬢薔薇図鑑を聞きながら、森茉莉の『私の美の世界』を再読していた。しばし、現実を忘れる。森茉莉の、卵料理の描写が一等好きで、卵料理の文章を世界一上手く書ける人だと思う。バターではなく、バタ。と書くのがとても好きだ。

ジャック・タチ監督『ぼくの伯父さんの休暇』また見る。この映画の滑稽でのんびりとした時間は、俺にとってもバカンスみたい。ドタバタコメディでありながらも、ユロ伯父さんは飄々として押し付けがましくない。モノクロの南仏での生活は、微笑ましく、開放的で、ゆったりと流れている。

監督エルンスト・ルビッチ他オムニバス映画『百万円貰ったら』見る。巨万の富を築いた男は死を向かえようとしているが、財産を譲るべき人間がいない。電話帳で選んだ人に100万ドルの小切手を送る。馬鹿らしいコメディもあるが、辛い展開も多い。様々な境遇にある市民がいきなり大金を得てしまう

というのは、人生を大きく変える要素だ。生活が激変する者もいて、映画を見る観客としてドラマチックな展開は面白いのだが、そこまで変わらない、変えられない人間もいるのだ。基本コメディ映画だが、辛い展開も多く楽しめた。オムニバス映画としても、優れていると思った。

ダイアン・アーバス作品集』を読み返していた。彼女の写真に心地良さを覚えるのは、被写体と同様に、彼女もチャーミングな人だからだと思う。人間が、他者が、不思議で間が抜けていて魅力的な面を知るのだ。目に見える物はどれも異質なんだ。彼女はそのよく分からないものに敬意を払い、捉えている。

高峰秀子のエッセイ『コットンが好き』再読。5歳から親の都合で映画界にいた高峰の、晩年のエッセイ。彼女のエッセイは飾らなさや謙虚さや芯の強さが読んでいて心地よい。二十四の瞳の、百合の弁当箱の話や友人の越路吹雪の死を悼む言葉は再読しても胸にくる。身近な、愛おしい物、人。大切な記憶。そういうのを感じられるなんて、とても豊かなことだと思う。

『世界をまどわせた地図 伝説と誤解が生んだ冒険の物語』読む。偽物の地図、存在しない国や怪物等が収められた楽しい一冊。希望や誤解や詐欺により生み出される、悪魔の島や黄金の国。オーストラリアには内陸海があった? 一番すごいのが、架空の国をでっち上げ、土地の権利や紙幣を作った詐欺師

映画『BOY A』見る。少女を殺害した(関与した)少年。彼は14年の刑期を終え、新しい名前を得て世に出る。ソーシャルワーカーや友達の助けを得て、彼女もできる。まっとうな生活を歩む彼。しかし。展開は予想がつくのだが、見ていてキツかった。主演のアンドリュー・ガーフィールドの演技がとても良かった。不器用で過敏な様を上手く表現していた。


加害者を許すことができるか、というのはとても難しい問題だ。この映画の主人公は、十分同情できる点がある。でも、彼を「殺人者」として晒し者にしたい人々を、正義の暴走とは言えない。ただ、許すのは、理解するのは困難という現実があるのだ。

 俺は、この映画の主人公は許されてもいいと思った。でも、凶悪殺人犯が少年法に守られて極刑にはならずに、十数年後には社会に出る。という文だけ目にすると、そう軽く考えるのは無理かもしれない。

 人を許すのも、他人に寛容になるのも難しい。過去も忘れるのは断ち切るのは難しい。でも、生きている人間は、明日を、自分のこれからを信じなければ歩いていけないのだ。

 俺はしばしば、自分の過去や未来が明るくないから、不安に依存し、自棄になり希死念慮に甘える。それしか方法がないのだと思い込み、まあ、実際そうなのかもしれないが、それでも、愚かな輝かしさを育む術を知っていて、それは他者の生き方や作品によるものだ。感謝する。誰かに感謝できるなら、まだ生きていけそうな気がする。

 精神的に不安定だと、誰かの言葉に作品に触れられない。ひたすら逃避するだけで、時間と体力を浪費する。それでも、本が、誰かの何かが救いになる。光を日常を思い出す。まるで祈りの様に。

下手くそでも、調律師の気分で

新しい仕事が始まった。慣れない肉体労働と、この終わりが見えない状況で、メンタルはかなりグラグラだった。でもさ、働かなきゃ生きていけないんだ。でもさ、働いて頭が駄目になったら、生きていることを見失っちゃうんだ。

 多分俺は人よりずっと、小さなことに過剰反応して疲れて逃げ回ってきたのだろう。そのツケを、払うことになっているのだろう。

 頭を使う本なんて、ほとんど読めなかった。一日のうち、本を一度も開かなかった日もあった。でも、本がなければ生きられないんだ俺。悲しみや不安にチューニングを合わせてしまう俺。だからこそ、自分から楽しさに喜びにアクセスしなくっちゃ。何度だって忘れる。でも何度でも思い出さなきゃ。俺の人生俺が感じたこと見てきたこと、悪くない、悪くないんだって。

ソライモネ『88rhapsody』読む。表紙見て、あれ?あびるあびい先生?と思ったらpn変えてたみたい。バンドマンの恋物語なのだが、すごく良かった。ポップな絵の魅力、長髪バンドマンかっこいい。上手くいかない生活があっても、登場人物がとってもキラキラしている。作者の愛が皆に降り注いでる。

 この人の漫画は何冊か持っているのだが、どれもこれも登場人物が魅力的だ。主役だけではなく、わき役も。登場人物が生きている、暮らしている感じがする。どういう物が好きで嫌いで、どういう癖があってどういう人生を歩んできたのか、みたいなバックグラウンドを感じる。人はみんな違う、けれど(漫画に出てくる人は)魅力的だ、(物語に登場するなら)魅力的でなければ、引力がなければならない。そんなことを感じる。作者の愛で、キャラクターが動くんだから。

何故か『ユリトロ展』のカタログを見ていた。前は彼の良さが分からなかった。今もかもしれない。だが、彼の街を描いた絵は、俺が新宿や繁華街に抱いている感情と近いような気がした。こちらがどう思っていても、街は人間によそよそしいのだ。街の中では誰もがよそ者になる。それは多分切ない幸福。

五十嵐豊子 絵本『えんにち』読む。いつもの街が『えんにち』になっていく光景、縁日で楽しむ人々が描かれる。ほぼ文字がない絵本なのに、えんにちの楽しさ、息づかいが伝わってくる。子供の頃にワクワクした光景が、絵本の中にあった。

アンドルー・ラング再話 エロール・ル・カイン絵『アラジンと魔法のランプ』読む。魔法の力で起こる様々な、驚くべき奇跡の連続。それを絵にするル・カインの画力が本当に素晴らしい。手描きの幻想の世界は細密でありながらも、どんな場面か分かりやすく魅力的だ。

ル・カインの絵本はどれもこれもすばらしいけれど、その中でもかなり上位に入るのでは、と思う位に画が良かった。魅惑のオリエンタル、ファンタジックな東洋の魅力がつまっている。恐ろしくって奇妙で、惹かれてしまう世界。彼の画は細かく描かれていても、デザインとしてすっきりしているのが大好き。細密画の類は「見やすい」という点がとても重要だと思うのだ。

フェリーニ監督『オーケストラ・リハーサル』見る。いかにも人間くさい自由な人々のドタバタ喜劇。だけど俺がフェリーニ好きで期待が大きかったからか、今一つといった感じ。映画の時間も短いし場面も実質礼拝堂の中だけだし。フェリーニの映画は観客を圧倒するパワフルなのが魅力だと思う。

アイマスのライブに行って、地獄のミサワが感動する、という内容のツイッター漫画を読んだ。ゲームのファンだけど、声優のステージはなあ……からの感動、というのはよくある話なのかもしれない。でも、彼が本当にアイマスのステージに感動しているのが伝わってきて、とても良かった。

 俺はアイマスの緩いファンで、ゲームもcdも持っている。特別な推しキャラはいない。アイマスというコンテンツが続いているのを、陰ながら喜んでいる。その程度のファン。でも、誰かが誰かを感動させているという光景は、とても美しい物だと思う。そういう感受性って、本当に大切だ。

新しい、何かに感動できるような自分でいなきゃなって思う。体力気力お金がないとそれは結構難しい。でも、他者に感動できない人生なんて、つまんない。

生田耕作訳 ピエール・ルイス『女と人形』再読。カーニバルの喧噪の中、魅惑的な女性に惹かれたフランス人の青年。しかし彼の旧知のスペイン人が彼女の正体を暴露する。愚かな男と悪徳の女の愛憎劇。或いは怖ろしくも愚かしい喜劇。話の筋は単純だが、恋で身を滅ぼす残酷さと恐ろしさを堪能できる。

ウンベルト・エーコ『醜の歴史』読む。著者によって集められた、膨大な量の『醜』のカタログ。当時、醜さ恐ろしさを意図されたものが、現代人(俺)から見れば魅惑的な物に変化する。美は、美しい平均。醜は、歪み、はみ出し。美と醜は、案外簡単に反転するのだ。美に魅了された者への良いカタログ。

『家のネコと野生のネコ』読む。様々なネコの図鑑。素晴らしい写真が豊富だし、生態についてもきちんと書かれている。家も野生も、少し違うけど魅力は同じ。猫の写真というだけで素晴らしいので、あまり言うことがない。ページをめくる度に出会う猫に、ああ、いいなあと思うのだ。

美の壺 櫛』読む。俺は二十代の頃ずっと長髪だった。たまに、嫌味を言われたし、仕事も限られたが、長髪が自分のアイデンティティだった。俺が独り暮らしをする時、「苦労を分けるから本当はあげない方がいいけど」と言いながら、母が黄楊の櫛をくれた。母は俺の長髪を嫌っていたはずなのに。

 ずっと大切に使っていたのに、家でしか使っていないのに、無くしてしまった。今も後悔しているし、何でなくなったかも分からない。今は短髪で、櫛なんて必要がない、でも櫛は好きだ。

 新しい生活が始まっている。状況が良くならないまま、色々な問題に立ち向かわなきゃいけないのは、結構ハードだ。俺は気分の変調が激しいので、一日の内に何度もぐらつく。

でも、やんなきゃな。何かに触れられるように。できれば、新しい何かを生み出せますように。