末期の手前でずっと

 日々、やらねばと思いながら出来ていないことが多々ある。

 それなのに、身体の不調に悩まされる。その上、色々とあり、ひさしぶりに仕事を辞めなければ頭も身体もおかしくなる、そう思うまで追い詰められた。

 でも、ここで辞めたらもっと恐ろしいことになるのだ。なんとか耐えしのぐしかない。でも、それもあと何年続くのか。

 そう思っていた時、親の入院の知らせを聞いた。かなりショックだった。でも、俺の歳でも色々と問題があるのに、高齢の父に何かあってもおかしいことではない。

 皆、ゆるやかに、着実と、死の準備をしているのだ。

 その知らせやら状況を知った時、かなり動揺してしまった。でも俺ができることは少ない。いざという時ばかり考えていないで、元気でいなければならない。不安に押しつぶされ、何もできないとくすぶっているより、元気なふりをして仕事を続けることこそ、俺の務めなのかもしれない。

 ゴダールの訃報を耳にしたことを想起する。あの我儘で自己主張がつよくて飛び切りセンスがよくって映画の才能の塊が亡くなった。しかも、安楽死らしい。

 あんなに精力的に作品を作り続けた映画狂人が、自分で死を選ぶなんて、現実味がない。けれど、これは所詮他人の感想だ。彼は彼の人生を生き抜いた。燃え続けた。とても立派だ。遠い島国のおっさんから、ゴダールに敬意を。

 小説を書いていない。

 俺はラストが決まったら、始めて書き始めることができるので、書き出しから難航した。そのまま、様々な障害やら体調の悪化やら怠惰や言い訳から、頭の片隅にはいつも書かねばという思いはあるのに、書けなくなっていた。

 精神状態は悪化し体力は衰え、もう、若くはない年齢になっている。

 それでも、ラストは決まっていないけれど、今日一年ぶり位に小説を数行書くことができた。

 こんなかんじでいいのか、というおっかなびっくりと久しぶりに好きな言葉を記す快感で奇妙な心地良さを覚えた。しかし迷子だ。結末も決まっていないし、小説を「書く」という体力が確実に落ちている。

 俺が描いた物等、数人が喜ぶような性質のもので、俺が自分の人生が楽しくないなら、もう店じまいといった代物だ。

 道程の途中、歩いているつもりで沼に甘え餓死するように腐るだけ。

 それが現実味を帯びているのにまだ、書けるのか書きたいのか。

 心身ともにボロになっても、小説を書くときは傲慢で勇敢で楽しんでいなければ。そういう精神の欠片位は持ち合わせていないと、物語を動かす人間は生み出せない。

 たとえ終わっていても、マッチの火を見て美しいと思えるようでなくてはならない。

 美しいことを、忘れては生きていないのと同じだ。

雑記

ヨーロッパ バラの名前をめぐる旅 読む。その題名の通り、作家俳優音楽家画家等のエピソードと共にバラの花を紹介。豊富で美しい薔薇の花々と共に芸術家達の人生や生活に触れる事ができる楽しい一冊。

スイッチのライブアライブをクリアした。グラフィックと音楽(ボイス)がパワーアップ!バランス調整もあって、とても良いリメイクだった。だけど、新エンドクリアしたのだが、プレイ時間18時間。やりこみとかしてないが、流石にボリューム不足。その点は残念。

サントリー美術館 美をつくし 大阪市立美術館コレクション見る。幅広い年代の仏教美術日本画や工芸品等を鑑賞できる。中でも目をひいたのが 上田公長『雪中行旅図襖』。遠景近景の描写の巧緻さが素晴らしく、雪中という題材の良さを引き出している。他にも円山応挙の門下という森徹山の寒月狸図

は狸の毛がふわふわで、応挙とは違った描写の巧みさと存在感。橋本関雪の唐犬は犬の立派な体躯を描いており迫力満点だった。他にも根付けの細密さがすさまじく、このまま商品化しても売れそうなほど。一部は写真も撮れる。

小津安二郎監督『お茶漬の味』また見る。そこまで好きなわけでも、小津の中でそこまで優れているとも思わないのだが、見終わると何だか心が温かくなるのだ。気軽に見られる映画だからだろうか。どこにもない(俺には)幸福を、監督の優しい眼差しに触れるからだろうか。男女並んで歩くシーンとても良い

川端康成の初期短編集『水晶幻想 禽獣』また読む。禽獣が本当に好きですごい。日本で厭世家人でなしを書かせたら一番ではないかと思う。心を置き忘れたかのような人でなしの中のにも、きちんと情感も滑稽さもあるのをきちんと書けている。ふと、酷薄になるし親愛も出る。それを野花のように愛し捨てる

 小説を読めなくなっていた。体力的にも精神的にも。でも、川端康成はやはりすごくて心地良くて、俺が日本人の作家で一番すごいと思うし好きな人。残酷さも親愛もある。人間だから当然のこと。それを鮮やかな筆致で、末期の眼で書ける。好きだ。

アンダーテイル、クリアした。前評判がかなり良く、期待がかなりあった。五時間でクリアした。ガッカリした。戦闘はあまり楽しくない(最初の反応は楽しいけど)し、パズル要素もほぼなくて、選択肢を選ぶファミコンのアドベンチャー的な自由度の低さ。それなのに五時間でクリア。一応何周かしてね!

ということらしいが、する気はない。キャラクターは、面白いなと感じた物もあれば、もういいよって思ったのもある。何より、作者の思惑通りに行動しないとグッドエンド見られないよ!メタ発言あるよー!みたいなのもうウンザリ。作者の遊びに付き合わされているなんてウンザリ。ゲーム、或いは

物語がしたいんだ介入したいんだ。本とは違って、一本道ストーリーであっても、ゲームはプレイヤーがその世界に入れるというのはとても魅力的なことだ。このゲームの世界を気に入る人にはいいかもしれないが、単純にゲーム部分は微妙で、真の物語を知るには制限プレイ、ってウンザリ。

真・女神転生5クリアして、シリーズファンだから言わないようにしていたモヤモヤまで思い出す。自分が昔からのメガテン大好きおじさんでなければ、5はマップとストーリー微妙だけど良作!みたいな感想だったと思う。でも、もの凄くガッカリしたのはストーリーもそうだが、悪魔や神様が

ソシャゲのssrキャラ登場!みたいな感じだったのが本当に無理だった。メガテンでなければ、ビジュアルかっこいい!台詞意味ありげ!それでいいけど、美男美女集めて歴史上の人物や神話の神様の名前つけました!をメガテンでやられたら、ガッカリすぎた。人物にも神にも魅力がないメガテン。きつい。

『聖書外典偽典3 旧約偽典1 スラヴ語エノク書』読む。人間でありながら天使メタトロンになったエノクのエピソードが好きで、ようやく原典を読んだ。内容は天に昇ってその様子を知ったエノクが、地上に戻り教えを伝えるといったような物。正直、色んなゲームやらファンタジーで脚色されたもの

に比べたら、とても淡泊。シンプルに、教えを広めよう信じようという内容。まあ、当たり前だけど。物語の創作物として、恐らく信仰心が無いものがこういうエピソードを参考にするのは、みっともないことだろうか?俺はそう思わない。出来不出来はあるにせよ、皆好き勝手に神様すごい!こんなことを

言ったはずなんだ!いや、お前のは解釈がおかしい!等という風に様々な物語、偽典が増えるのは楽しいことだと思う。これって漫画の同人誌?みたいなことだろうか? 私の解釈はこうなんだ!という様々な人々の思い。 俺も誰も彼も、神様や天使は好きだ。好きなように語るのが健康に良い。

 新女神転生5に物凄くがっかりしたのは、メガテンは過去作には神話や神様に対する敬意があったのに、それを感じられなかったから。ああ、イケメンや美女出して高性能です! ってだけのが増えたら背景も何もなくってビジュアルだけ最先端のソシャゲの名前だけ神様のかりました!ってのと同じじゃんか。

 また、神々の扱いの軽さや描写不足に加えて、神々を信仰し振り回されるする人々(低級悪魔)が全然描かれていないのもきつすぎた。僕の考えた最強の神様! それをシリーズ作品でやられたらきつい。

 もう、多分女神転生は俺の知る物ではなくなった。真4辺りで感じていたけど、悪く言いたくないから蓋をしていた。変化というか、仕方がないことなのだろう。俺はネットスラングというか、すごい、という意味で神 という褒め方をする人たちが苦手なのだが、そういう表現に抵抗が無い人の方が今は多いと思う。

 インスタント神様。

 俺はそういう好みではないんだ。

腑抜け頭で安い、腹を満たす為だけのパンを食べながら、アンドラーシュ・シフ演奏のインヴェンション聞いてたら、まるで隣で演奏をしてくれているような錯覚に襲われた。クラシックしらんけど、シンプルな曲の方がピアニストの力量がより伝わるのかな?とにかくとても心地良いのだ。

 雑記を書きながらグールドのバッハを流し続ける。十数年続けている俺のやり方。クラシックは詳しくない。でも、グールドのバッハは心地良いそれでよい。

 空元気ができなくなっても、小説を書きますように書けますように