毛皮を花をくれよ

 色々大変だった。ただ、どんな状況であっても、自分のテンション、生活を立て直せるのって自力じゃなきゃ自分の意志でなきゃむりなんだ。諦めよう、としながらも、でも、そうじゃないんだって。愚かな繰り返し性懲りもなく俺。

 何度か写真史の本を読んでいたら、やっぱ俺、写真撮りたい、というか撮りたい構図というか映像が頭に浮かんできて、めっちゃハッピーになった。何でもいいんだ、モノづくりをしたいという衝動ってハッピーなこと。

 でさあ、カメラ買わなきゃならない。とりあえず、十万位? 上を見たらきりがない。どうしても思いきれないんだよなー。一、二万位ならさすがにどうにかするけど、はした金でやりたいことを断念するのはみっともない。でもなー俺にとっては切実なんだよはしたがね問題。

 ただ、それだけじゃなくて、撮影道具とモデルに着てもらう衣装も必要なんだよね。何か作ろうとすると先ずお金が心配になる。がっくし。毛皮欲しいなあ。動物か人から剥ぎ取りたい。

 まあ、それはいいとして、問題はモデルだ。セルフポートレートみたいなのあまりしたくない(自撮り技術がない)んだよね。でもさあ、俺のしたい撮影に協力してくれるような、無茶を聞いてくれるようなモデルなんて、いない! 正確に言うならば友達が、いない!

 というか、素人の遊びに付き合う奇特な人はいなくて当然で、力入れて活動をしている人だってネットでモデル募集とかカメラマン募集してるのをちらほら見るよなー。

 ネットを見ていると、そういう時のトラブルを目にすることがある。男性から女性への、或いは女性から男性への卑怯な行為。こういうの見ている方も嫌な気分になる。ほんと、セクハラとか加害者が被害者ツラするのを見るのは気分が悪い。スケベ心で相手を傷つけるのダメ絶対。

 そういえば、数年前知り合いになった人に裸を撮られたことを思い出した。「あくまで練習でどこかに発表したりとかは絶対にやめて」と俺は言ったけど、相手は曖昧な返事をした気がする。でも今となってはよくわからない。まーどうでもいいやろ、俺の裸なんてさ。

 てかさ、脱ぐなよ、俺。肌にタトゥー入ってるから特定余裕だし。幾ら俺のハートとボディがプラスチック製だからって、玩具だって傷つくんですよ!

 セクハラ被害者可哀相! よくないよね! じゃねーよ。

 危機意識低すぎだね俺。やばいね。これを読んでいる悪いこのみんなは、親しくない人に(恋人だって後でこじれるやで)裸撮らせたらだめだぞ! お兄さんとの約束だ!(言われなくてもそんなんしねーよ)

 でもさ、いいじゃん裸位。昔のデッサン、モデルポーズ集とかだとちびっこの裸載ってるんだよね。こんなんでガタガタ言う方がおかしい気がする。勿論児童の権利が侵害されるという点で、そういうのが出なくなったのは良いことだと思う。でも、見る側が「裸位どうでもいい」というのが共有されていたらなあと思うんだ。子供でも大人でも性器が出ていても出ていなくても、(ゾーニングされていたら)過剰反応するほうが変だと思うんだよね。肌がでているからって、不潔とか言わないで欲しい。自分が不快なのを誰かの、世間の意見として言う、その無自覚な正義パンチしたがりの人、ほんと苦手だ。

 

 なんて考える俺は野山で暮らしたほうがいいのかもしれない。危機管理も自分の身体が傷つくということも理解してない。賢い動物並みの知性。てかさ俺マジ虎になりたいガルガルワンワン!

 てかさ、俺の為に路上に転がってくれよお菓子買ってあげるから、ってことだよいいじゃん友達なんだから裸になっても新宿でころがってもさあ、でも、俺、ともだち、いたっけな……まあ、いいじゃん。友情無くても犠牲になってくれ無様な姿撮らせてくれ。俺ならするのにな魔が差したらさあ、俺、割と簡単に魔が差す魔に刺される。

 ということで、勅使河原宏の『ふしぎな森 勅使河原宏いけばな作品集1』を読む。彼の映画の作品はとても好きなのだが、彼のいけばなの作品を見ていなかった。植物はとても好きなのだが、いけばなって、敷居が高い。やるならある程度勉強したいんだよね。だから遠ざけていた。

 また、企業やオサレ空間で振れるいけばな作品。或いは本で見て、そこまで……みたいな感想を抱いたことがあった。植物なんだからそりゃきれいだよ。でも、そこに何かを見出すのが難しい。見出す、とかいう発想がおかしいのかもしれないけどさ。

 なのにさ、勅使河原宏の作品は、とてもよかった。それは彼がこの著作の中に書いている言葉で表せると思う。以下引用。(本の見開き、左側が写真で右が作品のキャプションと勅使河原宏の文章で構成されている)

 

 

 

いけばなから出発してオブジェに至る道程がある。それにはいけばなを反自然なものとして捉える理念に徹しなければならない。私はそこに光明を見出しているのだ。

庭がそうであるように、いけばなもまた反自然のものである。日本人の美意識は、自然のものをいかしながら抽象空間にせまるという独自性をもっている。

人がいけばなをいけているのを見るのは面白いものである。特に無駄なものを切り落としていくとき、自分の感性にてらしてみると大いに参考になる。

いけばなの素材はそれ自体の表現が豊かであるから余程しっかりした構成力を持っていないと、素材のおしゃべりに負けてしまって騒がしいだけのものになる。

いけばなの素材を、色と線とに割り切って捉えることが素材をいかすための最大の条件である。

緻密に練り上げていた花が、さりげなくという風情に仕上がれば最高ではなかろうか

こういう空間の取り方をするのは、昔私が日本画をやっていた、その名残りかも知れない。

いけばなをしている人の大半が、三次元の空間に気付かずに、専ら平面的生面性の世界に安住している。

いけばなに、いろんな意味を与える作り方には賛成できない。何かを象徴しているつもりになっている作品があまりにもそのものになり切っている場合は空間が限定されて白けてくる。いけばなは菊人形ではない。アブストラクトなものだ。

私はいけばなを反自然なものと解釈している。素材が植物だから<自然らしさ>に傾斜しがちだが、間違っている。利休が花は野にあるように、といったのは自然模倣ではなく、反立華を説いたのである。

いけばなに季節感などは無い。見るものが勝手にイメージするだけだ。

 

 

 

 こういった彼の言葉は、俺にとってとても分かりやすいものだった。それは俺が抽象画やミニマルアートが好きだからだと思う。感情移入の為の作品ではなく、空間把握と省略から生まれる形。それが美しいということなのだと思う。そして、美しい物の組み合わせで人をもてなす。

 茶道、なんて門外漢だって学んでいる人だって簡単に言えるものではないのだと思う。でも、簡単に言える部分があるとしたら、美しい物を作り上げてもてなすという精神なのだろう。そしてそれを生み出すには感性も構成力も必要なんだ。何かを作り出す時は、作品について目の前の物質を良くすることを、きちんと配置することを考えるべきだ。エモーショナルな部分はその後だ。

簡単なことではないとしても、するのが好きなら、それでいいんだとりあえず。美しい空間を作り上げるのが、もてなすのが好きだとしたら。

 で、勅使河原宏の映画「利休」についての本『利休ワークス』勅使河原宏+満共敬司 を読む。

 映画の中でスポーツやら武道やら舞踏やら絵画やらが題材になることがある。でも、その多くが退屈なものだ。それは本物を見た方がずっといいから。その当たり前のことを了解していないと、辟易するようなものができあがってくる。単純に、その「動き、運動」は映像として見るに耐えるものか、という価値判断が、美意識が肝要になる。

 『利休』は良かった。映画自体もそうだが、秀吉と利休が対峙し、花を生け合うシーンの簡潔さ。利休の映画と言うだけではなく、この最小限の応酬、省略はすばらしかった。美しいとされるものでも、長く映す必要が必然性があるのかというのは、考えなければならないことだ。短くて済むならば短い方がいいに決まっている。

 この本はその利休の副読本というようなもので、見ていて映画を思い出して面白かった。

 個人的に面白かったのが、秀吉(山崎努)の怒りをかって、利休(三國連太郎)が自分の意志を曲げようとせずに、このままでは死んでしまうとりき(三田佳子)が泣くシーンでの解説。

 

ラストカットで、りきは利休の膝に顔をうずめてすすり泣く。この芝居がやや新派風であるという批評があった。つまり、型にはまりすぎているということだろう。

 たしかに現実生活では、人間は多分、ああいう悲しみの表現はしないだろう。もしする人がいれば、その人は芝居か映画でこんな場面を見ていて、それを演じているに違いない。

 では一体どんな悲しみ肩をすればいいだろうか? それも桃山時代の女性がだ。……考えてみればなんともむずかしい問題である。

 ただこの芝居をしている三田さんは、型にはまっているからこそ、いかにも気持ちよさそうに演じていた。そしてそんな芝居を喜ぶ観客がいるのもまた事実である。

 

 この映画の出演俳優は、三國連太郎山崎努中村吉右衛門松本幸四郎岸田今日子、といった名前が連なる豪華なものになっている。でも、演技では素人の人も多く出ているのだ。映画は最終編集権、監督の物であると俺は考えるので(編集で無言でどうにかなる)、演技の良し悪しについてはあまり分からないのだが、明らかにうまいとか下手なのは感じてしまう。

 で、三田佳子、わりといつも、なんか、下手というか型にはまった感じだと俺は感じていて。それを的確に評した文章がちょっと面白かった。

 ただ、演技がうまかろうと下手だろうと、迫るようなものだろうと型通りの物であろうと、映画として完成しているならそれでいいのだ。色々な役者がいて、それをうまく生かす。ああ、勅使河原宏は映画でも華道でもうまくそれをやっているのだなあと今更ながらにそう感じたのだ。

 やっぱすごい人がすごいの作ってるのを見られるのは、その考えに触れられるのはとても幸せなことだ。俺も何か作ろうって気になるし、プラスチックの心でも身体でも、暮らしていて悪くないって錯覚できるんだ。

 酔っ払うためには錯覚するためには、素面じゃないと真剣じゃないとフラットじゃないと難しい、というのはなんとも面倒な話なのだが、でも、もう少しもう少し、投げ出すことばかり逃げ出すことばかり考えていないで、頑張らなくっちゃ素面にならなきゃ人生。

夢幻チョコレートうつつ

イライラするとお菓子を食べる。ここ一か月近く、週四、五のペースで、一日にクッキーやせんべい類二袋、チョコ系二袋食べていた。なんかお腹ぷよってきた気がしている、つーかぷよって当然だべ!

 やべーし。俺、あんま太らない、と思っていたしそうなんだけどさすがにいい年なんで、ちょっと我慢するべきだしまじで。俺が栄養失調骸骨だったのは昔の話。でも、その時のセルフイメージをひきずってる。ガリガリの身体に一番、社会に適さない服が似合うでしかし。

 ということでおかしを我慢するためにお菓子を買おうと思ったんだ。体型維持の為には内容量が少ないお菓子食べればいいんだよね。

 でさ、久しぶりにペコちゃんのチョコえんぴつを手に取ったら、おまけのシールが売れ売れのうんこカンジドリルとコラボしていて、ペコちゃん、うんこの被り物してるんだ。

 マジかよほんと俺そんなペコちゃん見たくなかつた。君はそんな子じゃないはずなんやでもそんなの俺の思い込みだったんだ君のことを何も知らないのに一方的に清純さを押し付けていた俺が愚かな笑いものなんだよでも切ないよ君があんな姿になるなんて見たくなかった見たくなかったんだ

「あのこはーどこかの誰かとーえんじょこうさーいー!!!!!!」

 

 ということで、ツインクル買ってみました。初めて買った。可愛すぎてかったことなかったんだ。女の子が小さいときに食べたことがあるはずのお菓子。アルミホイルに包まった卵型のチョコレート。その中を割ると、こんぺいとうやチョコレートやラムネが入ってるんだ。マジかわいい。俺を割ってもただれた臓物しか出てこないけど、ツインクル割ったらおかし出てくる!かわいい!

 何かに依存傾向にあったりストレス過多だったりすると、何かを消費する際に、それを消化している最中に別の何かを消費しなければならない焦燥感に襲われる。

 例えば物を食べる時に貪り喰らう、みたいなの、良くないって分かってるのにしてしまうんだ、でも、ちょっと、気分を変えてゆっくりと何かを味わう、向き合う、すると、身体感覚が蘇るような取り戻せるような気分になる時がある。

 代用品で我慢するのが人生じゃあない。

 俺の身体も俺の意志も俺の物、ということにしておかないと、生きるのは困難だ。その為にはお菓子と読書を。

 『ボルヘス怪奇譚集』を読む。ボルヘスが様々な国で生まれた物語の中から、本誌一ページ~四ページ位の分量のエピソードを集めた一冊。ぼんやりと、空想の物語に浸ることができる本。

 穏やかな夢の中でまどろんでいるかのような時間を味わえるこの本では夢の話もよく出てくる。昔の人たちにとっても、夢は様々なファンタジーと物語の源泉だったのだろう。良い夢を見る為によく生きる、なんてことは難しいことだろうけれど、寝ても覚めても素面で酔ってる時間が長ければいいのにな。

 マルグリット・ユルスナール『東方奇譚』を再読。ユルスナールの歴史ものより、ずっと気軽に読めるのがありがたい。

 最初におさめられている「老絵師の行方」という作品が一番好きだ。老絵師と弟子の旅の話。金銭を持たずに世界を旅する絵師、そして弟子は彼の為に私財をなげうち付き添う。

 旅の途中、彼らは王宮に捕らえられる。美しい容貌をしながらも、老人のような手をした、二十歳の王、天子。彼に何の罪があるのかと問う絵師。王は絵師に呪詛混じりで語る。素晴らしい老絵師の画に囲まれ過ごした自分が、現実の世界を見た時の失望を。

「死刑囚の血は汝の画布に描かれた柘榴ほど紅くないし、農村では虫が稲田を感嘆する妨げとなる。生身の女の躰は、肉屋の鉤につるされた屍肉のように、余に嫌悪をもよおさせる。(中略)世界は気の狂った絵師によって虚空にまきちらされ、われらの涙によってたえず消される、乱雑なしみの集塊にすぎぬ。漢の王土には最も美しい王土ではなく、余は皇帝ではない」

 そして王が老絵師に画を描けない身体にすることを宣告し、弟子が短刀を手にして王に飛び掛かる。しかし護衛兵に取り押さえられ、弟子は処刑される。

「兵士の一人が刀を振り上げ、玲(弟子)の首が切られた花のように胴を離れた。下役人どもが屍を運び去った後で、汪佛(絵師)は絶望しながらも、弟子の血が緑の石畳につけた美しい真紅のしみを感嘆して眺めた」

 この箇所すごく好きだ。首が切られた花のように胴を離れたという表現にも、強い絆で結ばれた弟子の死に絶望しながらも、目の前に出現した色に感嘆してしまう絵師の業、血についても。

 

王は老絵師へ最後の仕事として、未完成の山水画を描くように命じる。長い人生で蓄積した最後の秘密を注ぎ込むのだと、それを書き終えて両手を落とすのだと、王は言う。

 老絵師はその絵にとりかかると、その場には水が生まれ、そこには弟子、玲の姿が蘇っていた。そして二人は船に乗り旅に出る。飾られた絵には、もう、何も残されていない。

 あらすじだけ書くとなんだ、そうなんだって感じなのだが、これをユルスナールの実際の文章に触れると、ああ、彼女は老絵師のように、現実を夢幻の世界のように作り変えているのだということが分かる。

 幻想の世界、というのを構築するには、それ相応のセンスや筆力と言う物が必要になる。インスタントな、とりとめがないもの、びっくりする(させる)それ、というのもそれなりに面白いのだけれど、長い夢を見る為には、自分が夢を見続ける為には、強固な意志、素面の状態で向き合う必要がある。

 いつでも逃げ出していたい、なんて思ってしまう。でも、逃げ出すにしても毎日のチョコレートよりも誰かの夢想を。砂糖漬けのカカオよりも健康にいいんだ誰かの精製された妄想。と、いうことで今日もお菓子屋さん行ってきます。


Lab Pop Orange - GOODBYE CHOCOLATE KISS

 

 

 

 俺が学生の頃、当時六本木にあったゲーセンで、ホストがプレイしていた。めっちゃうまかった。ホストもポップンミュージック(のかわいい曲)するんだーって思ったんだ。いいよね。いつになってもチョコレート毎日食べていられるように。

 

正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ ところで魔法は?

どうにかもがく。どうしようもなさとかどうでもよさで俺の中一杯。どうにかしたいけどどうにかできない。何もない、何もない日々。いや、あるけどさ、生きてる実感がいつにもまして希薄で。自分の身体がどうでもいいとかどうにかしたいんだって焦燥。そういうどうでもいい日々。どうにかなりそうにない日々。

 直前になってキャンセルをしようかと思いながら、起床して、銀座のエルメスで映画見る。

監督マルセル・カルネ 『悪魔が夜来る』

15世紀フランスの伝説に基づく物語。美しき五月のある日、城では婚約の宴が続いていた。そこに紛れ込んだ吟遊詩人のジルとドミニク。二人は悪魔が人間たちを絶望に陥れるため地上に遣わした使者であった。ジルたちは不思議な力を使って城主の娘アンヌとその婚約者ルノーを誘惑し、破滅に導かんとする。

 しかし悪魔と契約を交わしたにもかかわらず、わずかな良心を残すジルは本来の目的を忘れアンヌと恋に落ちてしまう。そして嵐の夜、ついに悪魔自身が姿を現す。本作はナチス占領下の厳しい時代に製作されたこともあり、劇中には反ファシズムのテーマが垣間見える。映画史に燦然と輝く監督と脚本家の名コンビ、カルネ=プレヴェールによって作り出された美しき幻想譚。

 

 とのことで、俺集中力が園児だから、こういう話の筋がシンプルな物が好き。しかも製作が1942年ということでモノクロでさ、いいよね。モノクロ映画。

 昔の貴族の、豪華な宴というのは、とても映画映えする。だってみんな馬鹿みたいな衣装を着てるんだ。実用性から遠く離れた衣装。とても好きだ。話も演出も驚かせるとか特別な何かがあるわけじゃないけど、ぼんやりと饗宴を眺めることができるんだ。

 でさ、俺の隣、遅れてやって来た男性がいて、でもその人遅れてきたくせに隣で鼻息立てながら寝てるんだよね。たまに起きたら時計ちらちら。見なくてもいいのでは……という思いがよぎると、なんと、隣の女性もうつらうつらしていて、思わず苦笑いがこぼれそうになる。

 そう、この映画。結構退屈なんだ、堅実なつくりなんだけど、山場もないし演出も個性を感じるというものではないし。話は多分みんな分かるようなものだし。テンポ良くすればいいのになー120分映画だけど、90分にしたらいいのにな。

 とか思いながらも、やはり外で映画を見るのはとても健康にいい。それに、スクリーンの上でありえない、立ち会うことができない世界が広がっているのは、それだけでも幸福な事なんだ。悪魔とか魔法とか無駄遣いとか宴とかロマンチック過ぎる恋物語とか、虚構の輝き。手に入らないそれらのおかげで、ふっと、俺も気が楽になるんだ歩き出そうって気になるんだ。

 ふと、エロール・ル・カインの『おどる12人のおひめさま』を昨日読み直していたことを思い出した。12人もお姫様がいる、というだけで意味が分からなくてとても良いのだが、ル・カインの作品の中でも、個人的にはこの作品がベストではないか、と思うような、題材と彼の描く画との相性の良さを感じる。優れた絵描きのイマジネーションを広げる、自由でロマンチックな題材。絵本の中には秘密の宴。うっとりしてしまう、作り物。ああ、俺って本当に魔法が大好き。現実世界との親和性が低い人間は魔法のことばかり考えてるんだ。魔法が使えないのにさ。

 憧れのプレインズウォーカー(多元宇宙/Multiverseにおいて、次元/Planeの外に広がる久遠の闇/Blind Eternitiesを通り抜け、別の次元へと渡り歩く力を持っている存在のこと。読んで字の如く、「次元を渡り歩く者」の意)

にはなれる見込みはない

 

 けど、対戦する相手もいないのに、MTGの灯争対戦のパックを6つ買う。ワイも魔法使いになりたいんじゃ。お値段2200円。紙きれに2200円の出費なんて安すぎだろ!、なんて思う人は正常だがオタクだ。2200円は俺の眼球一つ売った値段だからねー。でも眼球はもう一つあるからねー。

 確率は物凄く低いが、当たりのカードは、売却6、7万なんだよね。天野喜孝リリアナフォイル。まあ、宝くじに当たる確率くらい? でも宝くじは外れたらゴミクズだけど、MTGはカードが残るよ! みんなMTGを買って僕と握手!

 当然、そんな高額カードは当たらないわけで、でも、日本画ウギン、萌え画のナーセットとビビアンが当たって、ちょい当たり、かな? このセットはプレインズウォーカーが必ず当たるから、むいていて楽しい。プレインズウォーカー、すごい魔法使いはいくらあっても困らない。明日も買いたい。魔法使い、なりたいんだよね、俺。

 本屋で『ボタニカルアート 西洋の美花集』というのを買った。とても美しい本だ。だって、花が描かれているんだ。それだけでも最高ってことだろそうだろ?

 でさ、美しい本って、山ほどあるんだ。まあ、大体2、300円くらいで買えるんだ。買えちゃうよ俺の眼球並みプライスで。途方に暮れるよ。美しい本、山ほどあるありすぎる。ああ、全部欲しいでも、全部は買えない置けない、だから買わなくていい買えやしないんだ。

 なんて見る度手に取る度思うけれど、買って読むとさ、やっぱいいよね。手のひらの上、花園なんだ。

 見知った画、どこかで見た画。なのに、とても楽しい。だって花が描かれているから。その中で、澁澤龍彦の『フローラ逍遥』の表紙に描かれている見事な椿の絵柄があってすごく幸せな気分になって、また彼の本が読みたくなるんだ。

 そして百合のページで思わず目が留まる。俺のタトゥーの柄と同じなんだ。てか、俺、図書館で適当な百合の画を図鑑から見つけて、彫り師の人に渡したんだよね。まさかここで再会するとは。誰が描いたか分からない画。でも俺は君の百合がとても素敵だと思ったんだよ。

 

 身体中が花園になる夢を見られたら、なんて思いながらも俺の身体、何年もタトゥー入れてなくて、無駄金使う代わりに生活費に消えてる。生活費以外に余裕がない生活。そんなんでプラスティックの心もズタ袋みたいな身体も駄目になってく、けど、誰かの魔法のことを非実在の王国のことを考えると、気が楽になる。俺も偽物魔法使い。

 帰りの電車でユルスナールの『とどめの一撃』を再読。俺は戦争とか歴史とか血筋とかほんっと興味がない。なのにさ、彼女の小説は本当に優れているから素晴らしいからその題材がどうであれ読みたくなってしまうんだ。

 「抑制した語調と抽象的な文体を用い、辛辣さをまぶした」語り口で、俺は「第一次世界大戦ロシア革命の動乱期,バルト海沿岸地方の混乱」なんてものを理解しているわけでも理解したいわけでも理解できるわけでもないのに、この作品は優れていて、この作品に見出すんだ痛ましくて、高潔なんだ。

 ユルスナールは序文で「高貴さとは、利害打算の完全な不在を意味する」と語っている。また、この作品は「人間的ドキュメントとしての価値(もしそれがあるとすれば)のゆえでこそあれ、決して政治的ドキュメントとしての価値のせいではなく」と述べている。だからだろう。俺みたいな政治も歴史も戦争もどうでもいいよ、なんて人間だってその痛ましさに高貴さにげんなりして、惹かれてしまうんだ。禁欲的な文章。それは彼女の持つ厳しいモラルから生まれるんだと思う。

 厳しい、げんなりするモラル、というので映画監督のハネケやキェシロフスキを想起する。それは誠実であるということだ。そして各々の誠実さがそれぞれの異なる刃物になり手にしようとする者らを拒絶し、手にできた者たちを傷つけ困惑させる。

 しかしそれは誰かの正義ではない。正しさの為のナイフではない。誰かを叩きたくて自分が被害者のふりして振り回す正義、楽しい卑近な凡庸な闘争なんかじゃあない。美しいモラルなんだ。美しく出来上がってしまっている=作品、なんだ。作者も傷つけずにはいられないようなモラルなんだ誠実さなんだ。だから、俺も知りたいって思うんだ。正義なんて知らないよ、でも、君の誠実さを魔法が見たいと思うよ。

 正しさを証明したい人らの、自己実現と正義の混同混交は本当にうんざりする。でもさ、正しさから距離を置きながらも自分のモラルを誠実さを「正義に近づこうとする姿勢」は、尊いと思うよ。自己実現よりも信念を。特定の性別とか政権とか国とか人種とかをぶちのめそうとする人の(しかもかれらは被害者ぶっていて差別反対をしていて平等とか正当防衛とか大好きなんだ!)正義なんかじゃない。

 正義って、それを行使する人にも、俺にも君にも不都合なことだよ。俺はそう思っているよ。

俺の生活、どうでもいいどうしようもない。でも、続けてもいいような気分になるよ。

 だから、もう少しもう少し、騙し騙し、チープな夢を錯覚を。

君のビヂネスになりたい

気分を上向きにするというのはとても難しい。なんとかどうにかしようとするんだけれども。

 どうしようもない日々。続いてる続いてくずっとだ!嫌になる慊い。

 外に出て歩きながら音楽を聞いている間は、俺もまあ、どうにかなるんじゃないかどうにかやっていけるんじゃないかって、そう思うんだ。どうにかなるとかどうしようもないとか、結局の所俺の思い込み。だったら、勘違いできますように。いつも、悪いことばかり考えてしまうんだ。それが俺の現実だとしても、目くらましを、目を見開いて、等と。

 でもさ、どうにかしようとしてもどうにもならない時の方が多くって、借りてきた映画、二本見たけれど、どちらも途中で飽きてしまって中断した。集中力が切れてるのかな。映画を見るって、二時間身体をあずけるってことだからさ、暇なくせに、時間が減るのが怖いんだ。考えたくないくせに、何かに夢中になっていたいんだ耽溺していたいんだ。自分の現実から逃れるために。

 でも、酔いは夜は夢は必ず醒めてしまう。素面で向き合わなきゃいけないんだ現実に。そんな時に頼りになるのは、結局の所本とか音楽とか映画とか……それしか知らない、頼れない。好きなのか好きじゃないのか分からない。でも、それ以外、よく分からない。

 でも、深く知ってるわけでもない。いつもよそもの。というか、よそものになれるからよそものでもいいから、俺は彼らのことが好きなのだろうか?

 堀野正雄の写真集を見る。彼は早くして写真を辞めてしまったのだが、初期の建造物を撮った写真はとても好きだ。いつもの俺のハイコントラストモノクロ大好き、という補正があるにしても、その構成美はかなりのものだ。ファッション写真にも通じるようなフィクションの世界を想起させる、強大、巨大な物質の持つ存在感。題名が○○に関する研究というのも好きだ。

 沢渡朔の写真集『ナディア』を見る。気になっていたけれど、数枚の写真、ではなく、写真集として見るのは初めてだ。ナディアというイタリア人モデルと恋に落ちた沢渡。その二人の愛の記録。なんて書くとナルシスティックな私小説的な甘い感じがしてしまうし、実際写真にはそういった点も魅力の一つとして表されているのだけれど、それとは正反対の不安感や孤独を写真から感じ取るのは、先入観からだろうか。

 この写真集は二人の親密さの記録だ。でも、二人はすぐに別れてしまう。この本の末尾に、ナディアが慣れない日本語で書いた文章が、切ない。

 

「最初軽井沢で貴方は私しにこう言いました『ナディアは私のニンフェット、私しのヴィーナス私しのナルシス、私しのダフネ私しの女……』今貴方のビヂネスとなった?」

「貴方のハートの中に入りたかったけれども貴方の悲しいフィーリングの写真に入っただけかも知れない。貴方は人形およくとった。私しはその写真はとてもすばらしいと思う

 人形は気持ちがないでしょ貴方は自分の気持ちで人形をとる。多分私しはもただ貴方の人形だった。『森の人形館』ベルメルの人形よりも少しダイナミックな人形でしょ!!」

「貴方はかびんからまだフレッシュな時に捨てたでしょ枯れてから捨てればよかったとおもわない?」

 

 昔の写真を見ることになったナディアは、その写真について恥ずかしい懐かしいと言う。そして「文章についても懐かしいですか」と聞かれた彼女は答える「わたし、このときのことを忘れてしまいたい。100パーセントあのころのわたしです。文章の方がこわい。いまはまだとても読めません」

 また、ナディアにとっていちばん懐かしい写真は という問いに、彼女はおばあちゃんの写真と告げる。亡くなってしまったから、と。

 

 この写真集は、森で街で、裸であったり服を着ていたり、悲し気であったり幸福であったり、演技をしているようであったり素に近い表情であったり、つまり、恋人、だった人の恋人であった時間の、そして「ビヂネス」による眼差しによって捉えられた、ナディアの記録だ。

 その中でも、俺が一番素敵だなと思ったのは、黒いマフラーに二人で入り、頬を寄せ合い歩くナディアとおばあちゃんの写真だ。他のフォトジェニックなファッション写真のようなナディアも素敵なのだけれど、他にはないあどけなさ、安心がそこからは感じられた。

 フェイクの、フィクションの美しさというものがある。俺がとても好きな世界。ギュスターヴ・モローの言葉を想起する。

「私は自分の目にみえないものしか信じない。自分の内的感情以外に、私にとって永遠確実と思われるものはない」

 この写真集『ナディア』には、そういうフィクションの美しさと、親密さ、或いはナディアという撮られてしまった愛されてしまった女性の危うさが現れているようで、胸を刺す。写真は写真だけで評価されるべきで、他の要素を見出すのはフェアではない、のだけれど、でもそれらは写真に現れているのだ。好きだけれど、一緒にはいられない、戻らない。でも、その写真の中には、それらは収められているのだ。

 親密になること。簡単だし困難で、途方に暮れてしまう。いつも、途方にくれるんだ俺。ただ、誰かについて親愛について孤独について考える時間は、俺がまだ生きているという実感を与えてくれる。俺の慰め。

 誰か、そして誰かについて考えるしかないんだって。

お前の頭ハッピーセットでデビル未満

 誕生日を迎えてしまった。二十代の頃は、三十代になっていたら死んでいるか気持ちだか人生だかが安定しているのだろうか、等と人ごとのように考えていたのだけれど、どうやらそういうのは訪れず、ずるずると、しぶとくみじめに生き延びていて、数年後、四十歳に自分がなるとしたらまたそんな感じなのかな、と思うとげんなりする、というよりかはもう、どうにかしなくっちゃ正気でいられる自信がない。諦めてしまうとか生き生きとした日々をおくるとか、そういうのがいい。そういう日々にしないと。死んで終わりなんだから、その間は、できるだけ多く良い一日を。

 なんて思っていても、惰性惰眠に飲まれる。過ぎていく日々。

 誕生日には無駄遣いをしなければならない。無駄遣いの下品な行為の残虐な行為の愛の言葉の口実欲しいんだ毎日毎日。そう思ってはいても先立つものがないわけで、しかし家にいるなんてまっぴらで、ぐずぐずとしているうちに日は回り、何の感慨もなくパソコンでタイプしていると電話が鳴った。

 ぎょっと、しながらも反射的に出てしまう。

 それはお世話になった先輩からの久しぶりの電話で、急なことがあって、現場に入ってくれないか、という頼みで、一瞬迷ったが、すぐにそれを受ける。久しぶりに六時起きでおきれるかなーって思いながらも、心配しているならば起きれちゃうんだよね。リラックスが苦手だけど、約束の時間は守れる俺。

 朝起きて、駅に向かう道。少し、ひんやりとしながらも日の光が身体に心地よく、ふと入った視界には山吹の黄。朝っていいなと久しぶりに身体が、そう思う。

 great3の『素敵じゃないか』がイヤホンから流れる。

 

 

愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか

"このくらいのことができない?"なんてさ
小さな頃から言われ続けて なんだか誰かに愛されるなんて あぁ
そんな資格ない そう思って ひとりぼっちだった
誰を抱いたって ただ泣かせるだけで
最後は幸せに できやしなかった
でもこれからは違う そうなんだ

愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか

 

 動画はなかった。でも、彼らの曲ならなんだって好き。好きな人らの曲をいつでもきけるなんて、うんざりする位幸せで、正気じゃいられないね。音楽とか美術とか、そういうのがあって、みんな法を順守しているのきちがいじみていると思う、いや、そうじゃない多分俺が知らないだけなんだ見ていないだけなんだみんなの乱痴気騒ぎ。

 

 

「悪意に満ちた言葉の その否定の強さに惑わされるなら

 己だけを崇めて 憧れなんてすべて捨てるんだ」

 GREAT 3 - I.Y.O.B.S.O.S.

 

 

 新兵のように前向きになれる。いつでも、何歳でもどんな病状でも正気でも、新兵のような気分。ってことにして。いつでも、大したものを持ち合わせていないのにいっちょ前のふり。楽しいふり。よきかなよきかな。

 駅で先輩に会うと、「あーマジありがとねっ」てノリで、朝ごはん食べたって聞かれて、食べましたって答えたんだけど、じゃあ朝マック行くかってさ、俺がどう言ってもマックに行くのは決まってたんだよね。

 とても賢い岩澤瞳ちゃんが「一週間マック食べたら人を殺したくなる」って言ってたと思うんだけど、それは学会に提出すべき論文の草稿。だけど、たまにマック食べると俺も工業製品みたいだぜって思えて、幸福だ。まずくもおいしくもない食糧。いや、おいしい、かな? わかんないや。だってさ、俺の頭ハッピーセットだぜ。

 現場で仕事する。単純作業、肉体労働はだるいけど、身体や頭に良い。それに元気なふりをしていると明るいふりをしていると、何だか自分がそういう人間みたいなきになってくる。これは本当なんだ。明るいフリ元気なふり、毎日した方が良いんだきっと。自分なんてものはない、のだから、健康な時間が多い方が良い。多分。

 昼飯おごってもらって、色々とどうでもよい話をして、今日急遽穴埋めで来て、たいしたことしてないのにめっちゃ感謝されて、そんなことないのになーって、ぽろりと「今日誕生日なんすよー予定ないし金ないし、逆にたすかりましたー」って言ったら、「エーマジごめんねー」からの、おっさん同士しみじみと年取ると身体やばいよねーって話になって、それもすぐどうでもいい話に変わる。どうでもいい話ができるのがありがたいなって思う。

 雑できい使いの先輩が、誕生日に仕事させてしまってるからか、やたらと俺をねぎらってくれるので、映画のデビルマンで、「ハッピーバースデー、デビルマン」って言われた位幸せですよと告げると、先輩マジ「はぁ面」していて、こういう伝わらなくてもいい、雑な会話ができるのが、しみじみありがたいなって思うんだ。

 仕事終わって、また会おうねって言って、誰かにまたねって言うとき、笑顔でも作り笑顔でも、その機会ってないものだけど、先輩とは多分また会うんだろうなって思うと、今日は良い日だなって思って、仕事終わりに寄った繁華街で無駄遣いを何もしないのに、それはそれでよかった、けど、デパートで(値引きシールが貼られた)お寿司とお惣菜を買って、華みやび飲みながら歩いていると、俺の息、少しアルコールの匂い。すぐに俺の頬は熱を持って、ふらふらと、悪くない、悪くないんだって思えてくる。

「愛されたかった いつでも 愛されたかった こんなに
泣いちゃいそうなくらい 素敵じゃないか」なんちゃって

人並みに人のふりの処方箋

 色々駄目だ。体調も調子も。明らかに俺悪くねーよな、ってことがちょちょいあって、本当に嫌な気分になって、解決なんてしないそういうことに拘泥してしまうのは、馬鹿なことだし、つまり俺の余裕がないってことなんだけど、いっつもないんだ余裕ぎりぎりで生きていたい、訳なんてないのにぎりぎりなんだ。

 

 いつまで身体が持つのだろうかとか、前向きに、建設的にものごとを感じられるようになるのか、というのは四六時中考えていて、馬鹿馬鹿しい。

 認知のゆがみ、という単語や概念を想起するとむやみやたらとむかむかして気分が悪くなって、つまりそれは俺の中にあるらしいのだけれど、ゆがみでも幻想でも錯覚でもなんでもいいのだが、自分で獲得しているのならば、それが世界を認識しよとする姿勢でありひいては美意識に繋がるものだ、とは思っても真実は事実は現実は、生きようとすることに、恒常性に優しくない。生活するための「認知の歪み(に相当するような目隠し、虚偽)」は称揚されるが、他人を自らを蝕むような、治療対象になるような思考は、正すべきなんだ、なんてものはまっぴらだし傲慢だしうんざりする、けれど俺は健康になりたい。健康に。ほんわかふわふわした気分、とはいかなくても、人並みに人のふりができるような生活がしたい人並みに人のふりが。

 とはいっても、しているのはいつまでお金が持つだろうかとか、いつまで俺は誤魔化していけるのだろうかという下卑た算段。

 そんな時に読み散らす本。本を読む、というのは、まあ、いいことだ。何かをしたような気がする。家に山積みになっている、未読の本やら何やら。ベッドの上、本だけで十数冊あって、酷い有様。家にヤコブセンの椅子とヴェルナーパントンの家具を飾りたい、けれどそれは俺の人生じゃないんだ多分ごみ溜めの繭の中での寝食。

 いつもにもまして集中力がないのだけれど、せっかく買ったから再び見る映画、アニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ

 ルグランが音楽を担当していて、ゴダールやカリーナもちょい役で出演している、これだけでも幸福な映画。

 

 自らがガンではないかと不安を抱くシャンソン歌手・クレオは、診断結果が出る7時まで、街で時間潰しをすることにする。

 のだが、モノクロのパリの街が、そしてクレオが、とても美しくって、モノクロの映画にはとても点が甘くなる俺だけれど、それを差し引いても、レネの『去年マリエンバートで』のごとき美しさ。一々構図が美しいんだ。うっとりするんだ。

 それは自分が癌ではないか、と悩むクレオの様々な感情の発露が捉えられているからで、彼女の不安も喜びも覚悟も笑いも映画の中に盛り込まれているのだ。不可解で硬質で美しく見るものを拒絶する『マリエンバート』とは違い、『クレオ』は単純な筋書きで、しかしクレオの不安定な心境がうまく映し出されていることから、この映画を豊かな物にしている。

 パリでの二時間(映画は90分)の情景は、彼女の衣装チェンジと街と室内との変化、そしてクレオ自身のころころと変わる情感によって表されていて目まぐるしく変わり、宣告へと収斂する。

 ラストの、クレオの覚悟は、美しくも痛ましい。まるで、自分自身を納得させているかのような、そんな感想を抱いてしまった。幸福も不幸も、映画の中の人も、そうでない人も、凡庸で(本人にとっては)重大な生活は悲喜劇は続いて行ってしまうのだ。

 映画を終えて、狭い家の中に引き戻されてしまう俺だって、生活は続いて行ってしまう。

 いつにも増して体調が悪い、でも、真夜中になる少し前、その時間帯だけ、少し、体調が良くなることが多い。真夜中になるまで、朝になるまで。淡い夜の帳の時間、その間は何だか、俺も誰かの友愛の中にいる、かのような。ディスコミュージックやハウスミュージックやブルースやジャズやポップソング。そういった物に向いている時間。他人の声他人の肌、朝になるまではきっと幸福、だなんて、そんなことはないんだってさすがに知っているのだけれど。でも、まあ、音楽位なら、簡単に手に入ってしまう。幸福。幸福ということで。

 Big Fun - Blame It On the Boogie

 

 

  ジャクソンズのカヴァーで、プロデュースがPWLってマジ最高じゃないっすかね。しかも女の子向けの、三人組アイドルの男の子がゲイとか、オチもきいている。こういうクソダサポップスほんと好き。モータウンサウンドをクソダサポップスにするのほんと好き。リック・アストリーみたいに、歌唱力がある人をPWLプロデュース(ソウルミュージックをユーロアプローチ)よりも、やっぱ歌下手アイドル能天気ディスコポップスの部分を引き出して欲しいんだ。

 クソダサイファッションと下手な踊りも好き。子供が真似できそう、ってこういうポップスだと不可欠な要素だと思う。りゅうちぇるがカヴァーしたらヒットしそうじゃないですかね俺静止画のりゅうちぇるをみたことしかないけど。

恋=Do!

 田原俊彦のこの曲ほんと好き。歌詞が意味わかんない所も好き。恋はDO!って何だよ。このサビの上下ダンスありでも歌えるってさすがアイドルって感じで好き。

ギャル (GAL) - マグネット•ジョーに気をつけろ

 マグネットジョーって誰だよ。知らねーよそんな奴。でも、聞いたらその説得力を感じちゃうんだ。正に「私だけはと 誰でも思うけれど」「だめと言われる度に心が動く とっても危ない」んだよね。さすが(作詞)阿久悠やで。スリリングでどこか隙があるコーラスも好き。

NONA REEVES / 夢の恋人

 安定の良質ポップス。こんな曲を聞いていると、まるで俺の人生も素敵、みたいに錯覚しちゃうよどうしよう。

 俺、こんなにポップスが好きなのに、明るい曲が好きなのに、人生に反映されていない気がするんだおかしいな。

 高校の時に読んだ雑誌で、テイ・トウワが「家でテクノ作ってるみたいな人はネクラでしょ」とかいうようなことを言っていて、腑に落ちた。実際の所なんて知らない分からない。でもさ、DJが幸福な仕事だとしたら、何だか、居心地悪いよね。別に、幸福な音楽を作り出せる人が幸福だとして、それが悪いわけじゃないけれど、人の人生に楽曲の中に、幸福も不幸もどちらも大量にあるとしたら、『クレオ』みたに素敵だと思うんだ。

Private Eyes (feat Bebel Gilberto) Model: Faifah

 

 

 高校の頃に買ったテイ・トウワのCDに入っていて、ガキながらにすげーおしゃれーって思ったし、好きなアレンジなんだけれど、何だか寂しい気持ちになってしまうからあまり聞けなかった。ハウスミュージックをポップソングを、聞いて寂しくなるってことは、それが良質だってことの証だ多分。

 じっとしていられないような、でも好きな音楽。そういうのを聞きながら、行きたい場所なんてないけれど、一人、外を歩くと、どうにかなるような気がしてしまうことがあって、凡人の錯覚/Delusions of Mediocrity とか天才のひらめき/Stroke of Genius っていうような出来事があるとして、それはロマンティックなことだけれど、俺ができるのは日々の小さな積み重ねだけで、無為に過ごす日々、それしか『哀れみの処方箋』(この書名は好きなんだ)が思い浮かばないような人生。まるで、俺の認知に歪みがあるみたい、笑い事。喜劇、いや、悲喜劇。終焉トラジコメディ。

 でも、音楽を聞く気にすらなれない。夜になるまで。夜になるまでなにもしたくない。時間を無駄に何てできる「身分」じゃないのに。駄目になるまえにどうにかしなくっちゃ。俺が駄目になって、困るのは俺だけなんだから。

 そんな日々。効き目なんてあてにしていなのに頼ってしまう処方箋じみた、いや、何でもいいから代わりの何か代用品になる埋め合わせになる目隠しになる何か! 何でもいい何か! 何か!

 ショパンマズルカ第1番~第51番 / サンソン・フランソワ (ピアノ)

 

 クラシックってバッハ以外はよくわかんない、感性の乏しい俺だけれど、アファナシエフやグールドやカサルズは好きなんだ多分。そして、この人、サンソン・フランソワも。

 ショパンってあんまり聞けないのだ。演奏している人によっては、すごい拒否反応が出てしまう。なのに、彼のショパンの野性的な激しさは、ショパンの足りない部分にぴたりと収まっている、ような気がしてきて。うっとりする。乱雑な詩情。アファナシエフショパンはげんなりするような美しい怠惰、しかし統率されているそれ、があって、それも好きなんだけれど、フランソワのショパンはそれと対照的な野生が感じられて好きだ。

 酒におぼれて腕が衰えて四十代で死んでしまった、そうで、そういうエピソードも心温まりますねいやいや長生きして欲しかったですねそうですね。

好きなんだ、それに好きって言葉、嘘でも本当でも冗談でもいいから、口にした方がいいんだ。健康の為に幻想の為に認知の歪みの為に。

 ちいさなことで、救われる一瞬数分数時間。駄目になりませんように。何度も思う。何度も目隠し、いや、『目を見開いて』読んで。

何でそれ何て知らないよ

メンタルが沼の中。沈殿したまま浮上する気配がないのだけれど、何かしらどうでもいいことを書く/喋る方がいい。

 

メンタルがどうしようもない。スカスカな頭とブレブレの集中力でパゾリーニの『デカメロン』を見る。頭に入らないなりに、単純な物語の筋が助かる。

 ああ、いいな。こういうどうでもいいエロチックな物語。豊かな気持ちになる、ほんの少しだけ。

 好きな映画監督の映像、というのは何であれ良いものだ。俺はわりと神経質で甘々なので、何か一つでもよければオッケーだと思う。色々分からなくても好きではなくても、好きな人の(撮った)映像がある、としたら幸福な事なんだきっと。

 写真機が欲しい、と思った。正確には、何か作りたいって思ったんだ。何か作る、と考えると、小さな目標とかやるべきことが頭に浮かぶ。何でもいい、作りたい、と思いたい。或いは作る、という覚悟が。覚悟があるならとりあえずは大丈夫だ。大丈夫だ、大丈夫だと自分に語り掛ける。

 写真集とか、写真の雑誌とか、写真の批評の本をまとめて読んでいて、でもそれは単に暇つぶしでしかないんだけれどね。てか、図書館で一度に十冊程度本を借りるから、大抵どうでもいい、大して見たくもない本を借りるのだ。

 でも、一度に多くの人らの作品を見るというのは、とりあえずよいことだ。アマチュアの作品もセミプロ(という表現がいいのかは分からないが)もプロの作品も、とにかくたくさん見て、考える感じる。考えることが感じることがあったなら、その作品は自分にとっての何かを与えてくれたってことなんだから。

 普段有名な人の写真ばかりみていたからか、雑誌の投稿写真をじっくりと見るのは新鮮な気持ちになる。それと、セミプロだったり、写真史には名前が出ないような人の作品。やっぱプロとは違うねとか、あれ、この人の好きとか思ったり。勝手な感想。ただ、撮られてしまったものなのに。

 写真って、簡単に撮れてしまうものだ。それに最近はスマホのカメラが高性能だからか、SNSがあるからか、カメラ雑誌や写真史とは無縁な素人のあの子もこの子も結構オシャレな、或いはどっかに載っても不思議じゃないようなのを撮る。

 素人のそれと、プロのそれ。或いはちょっと勉強した人のそれとプロのそれを比べて、どちらが良い、と言うのは難しい問題だ。そりゃ、自分が好きな作品とか作家は別格であったり(見てわかったり)、他の分野だってそういう問題はあるけれど、写真というのは他に比べると、発表媒体によってはそこまで技術が必要とされないという側面があるからか、何だか判断に困ることがある。

 撮れてしまうんだ。たまたまなのか、「センスがいい」ってことで片づけていいものか。

 写真がうまくなる、ってどんなことだろう。どういうつもりで写真を撮っているか、ということは前提としても、自分が写真家だとしたら、何だか心細い気分になる。

 いや、そんなのは写真への情熱がない人間の物いいだ。撮りたいと思うから撮る、撮り続ける。それだけだきっと。

 色んな人の作品を見ると、こんなん自分でも撮れるんじゃね、なんておこがましい気持ちと共に、俺が撮らなくてもいいんだって気持ちになったりする。

 まあ、でも、何にせよ、下らなくたって素晴らしくったって、何かを生み出している人は好きだし、そういう時間が多い方が良い。

 

 大橋仁、第二写真集。『いま』を見る。

 

妊婦、病院の協力のもと1年8ヶ月に及び10人の出産の瞬間を、そして、とある幼稚園の、四季を通じて強い光を放つ園児たちの姿を撮影。大橋が「命」を真正面から撮りきる話題必至の問題作。

 とのことで、この人のインタビューがわりと前のめりな感じで興味を持って、写真集を見てみた。

 出産の写真は、生々しく、正直ずっと見ていられなかった。勿論これは悪い意味ではなく、俺がそれに慣れていないだけだ。少ししか見ていないのに、新生児にまとわりついたぬめる体液の色を想起できる。ああ、親も、写真かも、きっと生まれてきた子に何かを感じ取っているんだなって伝わるショットだ。

 そして、園児たちの写真。とても良い。元気な子供たちの写真、なんて言うと陳腐だが、それを魅力的に撮るというのは、やはり大橋の眼差しがあってこそで、彼はきっと、カメラを手に、こどもみたいにわくわくしていたんだと思うんだ。

 俺は二十代後半になってからか、小さな子供を素直にかわいいなーと思えるようになった。それまではわりと無関心だった気がする。かわいいなーって思えるようになったきっかけは分からない。でも、ある時、彼らの、ちびっこのエネルギーってすごいなーって了解したんだ。もしかしたら、それが自分に欠けていたからだろうか。

 社会に出るということは、庇護ではなく、能動的に他人との関係を作るということだ。相手と社会と会社とチューニングを合わせなきゃいけないんだ。でも、子供は体当たりをする。良いとか悪いとかじゃない。わかんない。わーっていったりおどおどしたり泣いちゃったり新しい物に夢中になったり。

 オンオフの切り替え、というのが上手だったり適応したりできてしまう人ではないんだ俺。だからといって、子供ではないしむしろおっさんだし俺。だけど、あー、全身で喜んだり悲しんだりしたいなしたほうがいいなって、してないなって、たまに思う。子供には戻れないけれど、わくわくしないなら、生きてる意味ないよ。一度で終わりなんだから、それまで長く夢を見れるように、幻を描けるように。

 この写真集は大橋の家族への子供へのあたたかな眼差しと好奇心に満ちていて、優しい作品だ。

 ああ、俺はこういうのできないなあって思う。それが嫌いとかではなくて、そういうのをはいした、感情移入を拒む(かのような)写真が一等好きなんだ。質の違いはありまくるけれども、感情移入の為の写真を撮るのはそんなに難しいことではないと思うし、見るものに安心を与えてくれる。

 俺はそういう写真に触れると、どこかで居心地の悪さを覚えていた。

 質、と、自分で勝手に思い込んでいる独善の物差しで、「私小説」のごとき写真に触れ、あわないと思いながらも、その中に好き嫌いを見出す。親密さが嫌いってわけじゃあないんだ俺。でも、なんで俺は居心地が悪いんだろう。何で、私情がない、かのような写真に惹かれてしまうんだろう。

 大切なのはきっと、考え続けること。参加すること。ずっと、何も感じなかった「子供」への興味がわいた、みたく、俺は親愛さの発露と和解しなければならないのかもしれない。誰かを撮る/撮られることでそれは回復に向かえるのだろうか? 

 とにかくできることは、こういうどうでもいい垂れ流しの思考。黙って寝ているよりかはまだましだ。もし、できたら、誰かを何かを見る。立ち止まって考える。貴方は何で、写真を撮ってるんですかって、写真家を、写真を見て考えている。