きみになりたい。

 動物のことばかり考えてたら、猫を二匹飼う夢を見た(小さなころ捨て猫を二匹拾って飼っていた。それとは別の新しい猫)。夢の中の猫、かわいがりたいのに、俺が撫でても知らん顔して部屋の中歩いてた。可愛かった。

 毛皮をネットで検索すると、オークションサイトやらブランド物の通販やら本物からフェイクファーの安物まで色々とヒットしたのだが、いつもは誰が着るんだって感じのイカれたイタした、ハイブランドの洋服が、本物の毛皮を使用した服がそろいもそろってスタンダードなデザインというか実用的でちょっと面白かった。

 でも、俺が欲しいのは猟師が自分用に捕らえた、毛皮かもしれないと思ってしまった。ハイブランドの毛皮のコートなら欲しいし画になるし。でも、それよりももっと、仕留めた獲物の頭がついているような、生々しい死体が欲しいなあ。そんなのどうやって手に入るのだろうか?

 魅力的な死体について思いを巡らす俺、人並みに働いて、死体みたいになって。へとへとで鬱々となる。人とあって、平気なふりを続けていると頭がショートする。Windows98位の性能だ俺。

 自分が後、どれくらい頑張れるか、ということを常に考えていて、長生きして楽しく生きる、なんてのは最高だけど、俺にとってそういう展望は少額の宝くじに当たるような、そんな現実味が薄い物だ。

 何かしようとしているのに、つまらない問題でできなかったり形にできないことが多くて、自己嫌悪や内省で気が滅入る。今日も、雨で家にこもってた。

 少し、積んでいた本を片付ける。今週読んだ本は、世界のかわいいお菓子とか世界のかわいい刺繍とか世界の美しいステンドグラスとか……(本当にそういう書籍がある)疲れてるのか? 

 疲れてると、かわいい本かアウトロー関連の本が読みたくなる。図書館で毎回十冊くらいの本の貸し借りをするのだが、海野弘のとても素敵なイラストレーター・童話関連の本や幸福な食事の本(食って幸福な物らしいんだ!)を返却するのと同時に、ドラッグや犯罪や反社会的な本や作品を返却口に並べていると、なんだかひどく恥ずかしくなって、大体週に一度図書館で本を借りる俺、これって一週間のポルノ動画のアーカイブみたいなものじゃあないかと一人感じてしまうのだ。

 昔の本を読むとたまに変態性欲、なる記述に目が留まることがあって、まるで本棚ってプレイリストってぼくの変態性欲カタログ。他人の好きな人のそれってさ、気になる気にならないシェアしたいしたくならない、知らないよ。

 小説を読んだり書いたりすると、体調が悪くなるか気が滅入る。でも好きなんだ。怠け者の俺が続けられているのがこれ位しかない。小説は俺を必要としないけれど、俺は必要だ。でも身体に悪い。反社会的、というよりも何かに属するのが困難になる。犯罪集団だって、帰属意識が持てるとしたらその人には意義があることだ。良い悪い、という問題とは少しちがって、だってさ、視野狭窄なんだ夜目なんだ、小さな救いしか目に入ってないんだ。

 だから、健康の為に写真、撮ってみたいなって思った。それか動物を感じたい。毛皮とか本物とか。小説よりも身体を使う感じ。身体使わなきゃどんどん駄目になる分からなくなる。ポルノ以外でも身体使ってよミスター。頭使って解決しないなら、身体使って誤魔化す方が良い。身体使って空っぽになったら、頭を使ってやり過ごすしかない。日々、誤魔化しやり過ごし。

 野田彩子『ダブル』読む。すごく面白かった。

 アマゾンの紹介文

 

天才役者とその代役。
鴨島友仁(かもしまゆうじん)と宝田多家良(たからだたから)は同じ劇団に所属している俳優仲間。
安アパートに隣同士で住み、共同生活をしている。
お互い無名ではあるものの、友仁は多家良の類まれな演技力を見抜き、その才能を世に知らしめるために彼を支えている。
自身も「世界一の役者になりたい」という想いを抱えながら。
やがて周囲は少しずつ、多家良の才能を見出していくが―――。

 熱気と実力はあるけれど、売れない役者の二人。宝田は天才肌のタイプで、画になる貌と才能を持っている。しかし生活、と言う物を把握できていない。勉強以外がまるで駄目な子供のような宝田。鴨島はそんな彼の才能に惚れ込み、献身的に、周りから見れば少し奇異に映るほど支えている。

 そんな中、宝田だけ、事務所に所属が決まって、彼の才能を世間が発見していく、

 という物語の始まりが描かれているのだが、すごく引き込まれた。多分、二人の関係がいびつでぴったりとしているからだと思う。共依存や恋人同士、のようでそうではない。二人の奇妙で幸福な関係。まるで仲の良すぎる兄弟みたいなふたり。多分、どちらかが欠けたら生活や役者人生に支障が出てしまうだろう。でも彼らは子供でも兄弟でもない。おそらく同性愛者でもない。この幸福な関係はいつまで続くのだろうか? どう発展していくのだろうか? 役者としての成功と、二人の関係という二つの要素が絡みあい、続きがとても気になる。

 知り合い、はたまにできるが友達、と考えると思考停止になる俺だけど、以前は親友と呼べるような友がいて、金がない学生だったこともあってか、毎日のように一緒に彼といて、何かあると彼のことを考えていた。その人の幸福が、一番輝いている状態が、俺の幸せだ。

 世界で一番素敵な物の一つは友情。なんてくさい台詞を吐いたとして、それは的外れではないような気がする。でも、友情だって愛情みたく愛人みたく肉欲みたく恋人みたく、あっさりと壊れたり戻せなく戻れなくなることがある。

 親友、という言葉で思い出す友と、俺はもう二度と会わないだろうし、会ったとしてももう、しらじらいいだけだろう。過去は大抵ロマンチック。

 誰かのことを考えられる人、というのは幸福で、俺もたまに、いや、しょっちゅう、誰かのことを考えている。願わくば、それが恋人や友人であればいい。ドラマチックだしロマンチックだし。

 夢が、野心がある人というのは、それだけでもそれなりに素敵だ。わくわくしている人じゃないと、出会った人、きっとわくわくしたりしない。

 役者って素敵な商売だなって、たまに思う。嘘ばかりつけばいいから、いや、そんな簡単な話じゃない。

 二十代の頃オーディションみたいなのに出たことがあって、しかし「小説を書くときの資料になるから」という理由で受けたそれ。審査員に演じることとはどういうことですか? みたいな役者についての質問をされて、質問されるなんて思ってなかったから(馬鹿なのか?)、ちょっとびっくりして、でもその場で答えた。

「演じる他人の人生に責任をもって、やりとげることです」

 本当は「埋葬する」という表現をしたかったが、しなかったはずだ。文学的で、恥ずかしいじゃん。

 で、演技したんだ。台本持って。楽しかったよ。大きな声出して嘘つく。でも、途中で気づいてた。それはオーディションだけど、合格者は事務に所属っていうていで、実の所入学金やら登録料をだまし取るためのものだったんだって。

 後で俺、呼び出されて、事務所で二人がかりで説得された。才能があるよって言われた。ああ、個室に呼び出し二人がかりでさ、こうやって人を騙すんだなあ、とわりと冷静にその場を「記憶」しようと思ってた。人を騙す人の瞳、きらきらぎらぎらしてるんだ。はなっから疑ってるからさ、疑い過ぎてああ、この人たちはもしかしたら俺を騙そうとしていないのかも、なんて思っちゃうよね。

 ただ、金を巻き上げようとする事務所の人間ではなく、実際に演技を見て審査をしていた名前を知らない役者、らしい人から「この先演技を学ぶとして、エゴイスティックさを捨てておごり高ぶらないなら、君は良い物を持ってるよ」みたいな言葉を言われていたよ、みたいなのを後で聞かされた時、お金回収の為のオーディションだったとしても、その言葉は俺の胸に残った。

 その場その場で誰の迷惑にもならない嘘ばかりついて場を繋いでいる人間は、ばれる嘘はつかない。誰かを傷つける嘘は(なるべく)つかない。嘘を一つついたら、整合性を整える別の嘘をつかなきゃならないからさ。

 取り繕う手段は、それなりに心得ている俺。でもそれは役者の演技ではない。

 でも、誰かの、物語の誰かの責任をとること、機会があるならしたいと思ってる。だって俺も小説を書くときは、それを意識しているから。俺にとって魅力的な誰かを生み出し、埋葬するんだ。血肉を与えて友情、交合、みたいなふりだけして、それから眠らせるんだ。

 さすがに三十代でオーディション、なんて出る気はないけれど(夢や熱意がある人は別だ。俺には役者の魂がない)、でも、楽しかったな。大きな声で誰かのふりをするんだ。

 

 俺の友情はおわったけど『ダブル』は連載途中なんだ。きっと彼らの友情は終わらないんだろうな。ずるいな、うらやましいな。素敵なことだな。

 誰かのふりがしたい。それで、健康になりたい。けだものになりたい、俺、君になりたい。

愚かなけだもののように

 色々変化があって、よいこともあればそうでないこともあるというか、日々終えてあーっ疲れたーって感じだ。マジ毎日疲れ切っちゃう。え? 成人男性は大体そうだって? でもなー俺、生涯一、怠け者なので。

 軽い本ばかり読んでいた。疲れるとマジで頭を使う読書ができない。

 文豪の書いたラブレター とかそういう内容の本を読んでいたら、芥川龍之介が恋人に送った手紙がほんと、良すぎた。こんな人と結婚したい! って感じなんだマジ。相手への思いやりの上で書かれている文章。他の文学者の手紙と並べると、その素朴で愛情深くて思いやりがあって、平易な文章で書かれていて、彼の誠実な人柄にムネキュンするぜ絶対、って、ああ、でもそんな友達や恋人にしたい彼、自殺しちゃうけどさ! 

 それに比べて夏目漱石の安定の突き放した感じに思わず笑みがこぼれる。奥さんはアンドロイドと結婚、ばりの困難さだったのではないだろうか。

 あとは坂口安吾のがよかったなあ。思い煩いがありながらも、どこかそんな自分を観察しているような。深みにはまるのか、深みを覗き見るのか、という感が。

 ってなことを書きながら、俺にとってこの感想がそのまま坂口安吾への印象だという気がしてきた。

 他人の私的な手紙を見るのって、どんな言い訳があってもやっぱ品がないとも思う。でも、出版されてるものならさ、見ちゃう御免ね。

 『写真を紡ぐキーワード123―写真史から学ぶ撮影表現』大和田良

 を読む。

 写真史、といった内容の本は幾つも目にしてきた。誰が出した物でも、それなりに面白く楽しめるものだ。ただ、この本は珍しく、写真集を出している現役のカメラマンからの写真史(写真家)への言及と共に、テーマにそって、実際にカメラマンである著者が撮影をして説明をしている(前半が写真家、後半がテーマごとの撮影)。こういう構成珍しくない?

 写真家って、写真史、については語りたがらないものだと思っていた。美術家もそうだ。美術史を書く(出版できるような形にする)美術家というのは思いつかない。

 前半は写真家を取り上げ、説明と共に引用文献としてその人らが撮った本、写真集(の中身)載っている。これを見るだけで楽しい。評論家が書いた文章よりもずっとライトで読みやすく、手軽に色んな人の写真集についても一部ではあるが見られてとても楽しめた。

 それに加えて、簡単な実演、講義と言った感の、モチーフごとの撮影も載せられていて、これはこれから写真を撮るような人にはもってこいの良書だと思う。

 というかさ、これ見てたらマジ写真撮りたくなってきていて、でさ、写真撮るのにはやっぱそれなりの値段がするカメラが必要でさ、その上さ、俺、撮りたいと思っているのが頭に浮かんでるんだ。毛皮なんだ。高価じゃんか。カメラは用意できたとしても、毛皮(を着た人間)を用意するのは困難だ。なのに、俺、本当に撮りたくてたまらない毛皮がけだものが。

 ビーパルとか山と渓谷とかの雑誌読んだらさ、漁師のおじさんが自分で仕留めた狐(おかしらつき!)を首に巻いていて、超クールだった! ファッションアイテムとしての毛皮について、俺はフェイクファーでも成立してれば別にいいと思うけど、本物の毛皮のこと考えるとやっぱわくわくしちゃう。毛皮、欲しいマジ。

 撮りたいものがあって、でもお金が原因で断念するのってやっぱ情けない。でも、どうすればそれなりに見栄えのする毛皮(フェイクファー)を用意できるのだろう。ああ、真面目に生きて働いて毛皮のコートを買っていればよかったと数秒後悔。

 その本にはアーヴィング・ペンも載っていて、久しぶりに見た彼の写真はやはりとても良かった。俺はファッション写真に詳しくないけれど、俺は彼を一番「洒落た」「ファッション写真」を撮る人だと思っている。

 で、ファッション写真ってことは作り物だってことだ。

 そして作り物から遠く離れようとした、中平卓馬。そんな意識がなかったであろうウジェーヌ・アジェの写真が本当に好きなんだ。写真は物を映す機会だということに真剣に向き合った写真家だと思うんだ。誰かが見た景色が写真には写っていて、写ってしまっていて、それなのに匿名性があるのに彼らしか映しえない、かのようなそれを見ると、写真が目指すのはここなんだ、俺が見たいのはこういう写真なんだって思う。

 けど、「洒落た」作り物だってやっぱり好きだ。ラリー・クラークだってティルマンスだってとてもキュートだと思う。大好き。

 本書には俺が大好きなダイアン・アーバスについて語ったスーザン・ソンタグの言葉が引用されている。

アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集」する写真家であった『写真論』」

 以前も引いた、ダイアン・アーバスの発言をまた引用する。

 

 知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。人間はいつも手探りで自分の道を探しているということです。

 ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れ込むことはできないということです。いいかえれば写真に現れてきたものは自分が入れ込んだものではないのです。

 自分の思い通りに撮れた写真はあまりありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。
 
 私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情を込めてはいますが、神聖化したりすることはありません。私は写真が何が写されているということにかかっていると思っています。つまり何の写真かということです。写真そのものよりも写真の中に写っているもののほうがはるかに素晴らしいのです。

 物ごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、自分が撮らねば誰も見えなかったものがあると信じています。

 

 ほんといいこと言ってる。優しさとか誠実さとか挑戦とか、まるで芥川龍之介の恋文のようなムネキュン。真面目なアーバス自死を思うと胸が痛くなる。カメラになろうとして死んでしまったのか、とかいう余計な感傷さえわく始末。

 この本に、中平卓馬の『来るべき言葉のために』の海の写真が載せられてるんだけど、久しぶりに見たそれは、やっぱ、すごくてさ、俺にとって海って魅力的だけどとても怖いんだ。海を見ていると水葬、というか、自分が大きなものに呑まれて駄目になる連想をしてしまう、のに、何だか心が安らぐ、かのような思いを抱いてしまう。怖い海、その怖さをマッスを肌触りを捉える中平は本当にすごい。それに海はすごい。

 でもおれ、海よりもっと獣がけだものが毛皮が好き。

 動物園、行こうかな。動物園で檻の中の彼ら見るとさ、自分が猛獣を殺して毛皮を剥ぐ夢想が頭をよぎることがある。俺は虎大好き。虎長生きしてほしいけど虎を殺すならきっと一生折に触れて殺したことを思い出しわくわくしてしまうだろう。勿論そんなことはできない(逆に喰われる)から、荒唐無稽なことは小説とか写真の世界でどうにかするしかない。

 荒唐無稽な生真面目さも甘えも悪ふざけも、実生活でどうにもできないこと、何かでっちあげて感情の処理をしなくっちゃ。

 毎日、毛皮けだもののこと考えてる。この気持ちをどうにかして発散させなくっちゃ。俺には毛皮はないけれど、愚かさと少しの何かしらがあるんだよきっと。

ヤンキー。優等生、それ以外

色々あって、気分が落ち着かない。それでも、やらなきゃいけないことはあって、心配事があって、気持ちが悪い方に引っ張られる。まあ、でも、そうじゃない話もある。

 身体動かしてると、ある程度気分転換になって、へとへとになって頭を使うような本が見られなくなる。自由に本を読んだり過ごしたりしたくて、根無し草生活を選んだのだけれど、たまに、その寄る辺なさに何もかもがどうでもよくなって、誤魔化して、何かしら消化や目隠し。

 汗かいて、必死で肉体労働。なまりきった身体には辛いけど、これはこれでなんだかいいなって。身体動かして目の前のことを片付けなくっちゃ。やるべきこと、沢山あるんだ。

 俺が真面目にやってると、いきなり初対面の職人さんに「にいちゃんさあ、スゲー顔してるけど、連続殺人犯にいなかった?」って話しかけられ、思わず苦笑い。でもさ、喋り方で雰囲気で、悪意で話かけているんじゃないって分かるんだ。だからさ、

「マジっすか。俺超善良な一般市民っすよ」って苦笑いで返す。自分で喋りながら「俺は善良だろうか?」と自問自答。すると職人さんも軽口を返す。その後も、折に触れて俺にちょいちょい話しかけてきて、こんなに俺に色々話しかけてくる彼とは、もう会うことはないのにさ、何だかくすぐったいような不思議なような。でも、ヤンチャな感じの、こういうノリっていいなって思うよ。

 多分、俺と気が合う人ってヤンキー(気質)か優等生(気質)が多くって、良い面だけ上げるなら、前者にはノリと情があって、後者には生真面目さと思いやりがある。俺は彼らのそういった要素を持ち合わせているはずだが(たいていの人にあるのだ)、いや、そういう振る舞いができるはずだけど、結局の所ヤンキーにも優等生にもなれなかった。

 昔はそれになりたい、って思ったことがあったのかもしれない。

 何かになって、誰かの仲間になりたかったのかもしれない。

 仕事終わりにふらふらと。近場だからと用もないのに疲れ切った身体で浅草雷門へ。仲見世の、うさん臭くてざわついた雰囲気はとても好き。ごちゃごちゃしていて、よく考えれば欲しい物なんてないのに、なぜだか魅力的に映る。特に外国人向けのチャチなお土産が好きだ。JINBEI を着たマネキンは頭に「神風」と書かれた日の丸ハチマキをしめている。クールジャパン!

 修学旅行生の白シャツとグレー(千鳥格子)のボトムスを見ると、若さに溢れていて可愛らしく映る。慣れない地をゆっくりと歩く学生さんは何にわくわくしているのだろうか。

 二人組の男の子の一人が 春はあけぼの の調子で「春はあげぽよー」と言っていて。意味わからんし阿呆でかわいいなあ、と思ったが数秒後に本当に彼は「春はあげぽよー」と口にしたのか自信がなくなる。俺は耳が悪い。それにティーンの子が「あげぽよー」なんて言うか? 考えれば考えるほど自信がなくなる。かわいい、可哀相なのは俺の脳ではないかという思いがよぎると少しだけ落ち込む。

 面倒事やら色んな事が一気に降りかかってきて、どうしようかなって思う。ふと、好きなアニメの言葉を思い出す。

「やるべきことがあったら、できそうになかったとしても、戸惑ってしまっても、覚悟を決めるの。そしたら気持ちが楽になるわ」

 かなり朧げだが、こういう趣旨のことを言っていたはずだ。大切だ、覚悟を決めること。受け入れること。悪いことなんて不安なんてありまくるんだから、それに拘泥し続けるなんて居心地がいい。そんな甘えばかりじゃあだめだよね人生。

 しょっちゅう心が折れる。ああ、もう頑張らなくていいのかなって思う。でも、何度も再生できるんだ、ってことにして。

 ある人と、色々と話して、その人のおすすめのアニメを教えてもらった。その人は自然な気遣いができる人で、そういう人といると俺も自然にそういう振る舞いになる。

 ほんとさ、俺、その場その場で誰かのように振舞うんだ。かっこ悪いね。でもそういうかっこ悪い処世術、誰も彼もしてるかも。そんでさ、ノリいい人にノリで返したり、思いやりがある人にこちらも気遣ったり、そういうのはいいことだと思うよ。あいてとたまゆら、空気の交換。

 教えてもらったアニメの題名をパソコンに打ち込み、PVを見ると、あっ、いいかもって思って、即ネットフリックスに入会。

キャロル&チューズデイ

火星のハーシェルシティの富裕な家に生まれた少女・チューズデイは愛用のギターと家出。首都のアルバシティに着いたものの荷物を盗まれ途方に暮れる。チューズデイは、アルバイトをしながら、路上でキーボードで弾き語りをしていたキャロルと知り合い、彼女のアパートに転がり込む。意気投合した二人は一緒に曲を作りミュージシャンを目指す。

 

 という内容で、少し未来の、住めるようになった火星(近未来アメリカ的な雰囲気)でのガールミーツガール。話の筋は分かりやすい感じでテンポよく進む。少し未来の世界におけるコンピュータやらガジェットの描写が楽しい。女の子同士が意気投合して、問題はありながらも夢いっぱいな感じもわくわくする

 そしてなにより、歌が曲が良い。二人でセッションして、曲が生まれる感じとかを尺をとってしっかりと描写しているし、アニメも曲も力が入っていて引き込まれる。

 これ作ってるの、俺が大好きな「坂道のアポロン」の監督だと知って、納得した。ほんと好きなアニメなんだ。若者の恋や青春はもちろん、音楽をしっかりと描いてる。力を入れたアニメーションでセッションしてたシーンを思い出せるんだ。ああ、作ってる人も登場人物も音楽が好きだって分かるんだ。とても素敵なんだ。

 俺にキャロル&チューズデイを教えてくれた人に、好きなアニメは「坂道のアポロン」って伝えたんだ。その人は見てなかったけど、きっと、見たら気に入るはずだ。どっちも、登場人物が、音楽が好きだから。

 アニメの中の彼/彼女たちの大きな冒険。視聴者の俺に灯る小さな火。そういうこと、考えていかなくっちゃなって。

 諦めるまで、誰かのことを、好きな誰かのことを、死んでたり生きてたり生命がなかったりする誰かのことを考えられたなら。

酔いたい眠りたい

 僕は朝からおしっこ行きまくりでした。昼過ぎまでに4回もおしっこしました。僕の余生はおしっこ製造機として生きるのかなと思って絶望していました。その原因はジュース飲みすぎだということに夕方気付きました。

 ジュース メイド おしっこ

 悪い子のみんなはよく覚えておこう。ジュース飲み過ぎると排出されるんだ。豆知識だ。 

 

 飲み物のみまくり。連日お仕事。空いた日は面接、面接の後も仕事。なんて、働きまくっていた。あー俺マジ働きものやで、という思いがよぎるが、これ、社会人なら普通やんけ。

 いかに普段の自分が働いていないか、と思うとやべーなって思うけど、やばいと、頭と予定スカスカだと、いろんなもの詰め込めるよ詰め込もうノイズ。

 連日入ってた仕事が終わり、ビールで赤くなった顔で繁華街の歌いながら歩くと、幸福。

 

 

春でも秋でも真冬でも 愛はストリッパー

 

ってなんのことだよ、でも、かっこいいからそれでいいんだ。

 

中森明菜 少女A

 

 普通の女の子なの ってさ、言いたいことは分かるし間違ってないんだけどさ、こんな17歳他にいるのかよって感じでほんといい曲。中森明菜すごいね。

 暗くなった街で、明かりを避けて駅まで。家に着くころには酔いが醒めて、色々と忘れていたことが沸き上がってくるけどさ、疲れて、なんとかシャワーだけ浴びて、寝る。

 やっと訪れた休みの日、何かしなきゃなあと思いながらも、結局何もせずに無駄にする。

 そんなんよくないってことで、そこまで行きたいわけでもないけど、チケットを買って横浜高島屋へ。

 画業と暮らしと交流 横山大観 を見に行く。

 チケット代よりも俺の家から横浜への往復交通費の方が高いよって話。会場はかなり年齢層が高く、入りはほどほど。まあ、デパートの展示だしなあ、なんて軽い気持ちで鑑賞。けどさ、実物の墨絵を見ると、やっぱいいんだよね。

 前半は大観のコレクション、後半は自身の画が展示されていた。

 前半の大観のコレクションの中の作品。そんなに好みのは無かったのだが、夜桜 という作品(作者失念。美術館とちがい図録もらえない)は好きだ。

 花弁が薄い黒紫色で着彩されていて、重い感じがしながらも、花弁の端の方は塗られてないんだよね。闇の中の桜という感じの重々しさと、ちらと感じる花の白さを感じられる佳作。

 大観はタゴールとも交流があったそうで、掛け軸にタゴールベンガル語で詩を書いたのも展示されていた。かっこいい。読めないけど。どうせならキャプションで訳を書いて欲しかったなあ。

 大観の作品では 月下逍遥 という縦長の掛け軸の作品が見事だった。下の方に三人の古代中国風の風体の男、崖から伸びた樹、その葉は薄茶色なのだが、そこかしこに苔色の鮮やかな緑が散らされている。

 空白の多い墨絵の中でうまく濃淡を配していて、鮮やかな苔色の効果もあり、月下逍遥という題がとても合っていた。

 他にも動植物を墨で描いてるのがほんとうまいんだ。こればっかりは実物を見なきゃ分からない。売り場にポストカードがあったんだけど、全然違うんだ。印刷ではこの微妙な差は出ないというか、出せない。

 こういうのを現場で感じられると、実物を見られて良かったなって思える。

 でもさ、ネットが便利すぎて様々な作品だって本で触れることができるわけで、何もかもを味わうなんて難しいことだ。現物を見なくても、見られなくても、胸に刺さった大好きな物はいくつもある。

 ただ、自分ができるのは、しなきゃいけないのは、面倒くさがらず、外に出ることなんだろうなって。

 展示を見に行ってがっかりした回数の方がはるかに少ないからなー。そんなに見たくないよ、って思ってもさ。その金で時間で家でお菓子食べてたいよって思うけどさ。外でお菓子食べればいいべ。今日はたべっこどうぶつ二箱、横浜で歩きながらたべる、どうぶつ。

 数年ぶりに来た横浜駅。背の高い建物が多くって、何だか慣れないなあって思うけど、新宿や渋谷に初めて来た人たちも似たような感想を抱くのだろうか。デパートの綺麗な身なりの販売員とマダム。街には路上の隅にたまる疲れたリーマンと若者。こういう猥雑なエネルギーっていいなって思う。都会好きなんだ。よそよそしくって、意外といいとこある、そんな感じだ都会。

 家にいたら、寝ちゃうから俺。外でなくっちゃな。外で酔ったり冷静だったりしなくっちゃ。

残虐行為手当欲しい

 珍しく日々おしごと。めずらしい……? まあ、いい。とにかく、へろへろになりながらも、それなりに調子が上向きになっていく、こともある。元気じゃなくてお金とかの心配をすると、気分が落ち込むだけですしおすし。

 タレントがテレビで、歯磨き粉と洗顔フォームを間違えて、なんて、たまーに目にすることがあって、俺はそんなんあるかよ、あんま面白くねーなって思っててさ、先日髪をセットしようとジェルを出して、髪に撫でつけてたら全然決まらなくてあれ? って思ったらジェル状のシェービングフォームでさ、慌ててシャワーかぶって、濡れた頭に無理やりジェルで仕事へ。

 っての今週で二回もしてしまった。バカなのかな?

 でさ、昼休み、中目黒。ランチ高いし。お昼のランチで九百円、千円が普通なわけで、俺みたいなプレインズウォーカー<多元宇宙移動魔法使い>はそんな金ないわけで、ドンキホーテで賢くお買い物だーあーマジドンキ安いしほんとドンキは皆の味方だよね、あれもこれも買うべ買うべ、で、いろいろ買ったらレジでお会計千円……あれー店員さん間違えてないっすかねーってレシート見たら、ずらずら並ぶ食品。店員 イズ JUSTICE 。俺 イズ BAKA 袋の中には一食じゃ食べきれないお弁当とパンとおにぎりとおそうざい。

 まあ、疲れてるんだよ俺。

 肉体労働をするとへとへとになって、気づいたら寝ちゃう。本なんて読めないマジで。会社員で読書家の人マジ凄い。俺は無理かなー無理会社員、ダメ、絶対。

 でさ、仏教系の対談集を読んでいてふと思ったんだけど、諸行無常ってことばがわりかしあがっていて、ならさ、釈迦の教えも移り変わる物なんじゃないのか? なんでそこは変わらないものとして信じ続けるのだろう? 

 キリスト教とかの方が強引で、神様偉いから信じろよ疑うなよ、みたいな信者以外は分かんねーよ納得できねー的な感じがあり、だから俺は教義に従うというよりかは考える、仏教の教えが面白いなあ、と感じるのだが。

 帰依する、ということに対する関心と危惧が自分の中である。強固な体系を受け入れる人のことが気になる。俺も大きな物語とか神様とかがいたら素敵だと思うんだけど、そういうのってレヴィナスの言う外部で、だからこそ機能する、と考えるのがとてもしっくりくるのだ。口に出せない程の恐ろしい物に、名状しがたいものに、ふれてしまえるだなんて、考えづらい。

 なんて御託、書き散らすのも多少の余力があってこそ。労働でへとへとになったら寝るだけだ、映画だって見れないよね、なんで、少し前に見た映画の感想。

 

 成瀬巳喜男監督  川端康成原作 原節子出演『山の音』を再び見る。前に見た時は学生だったと思うから、十年以上前になるだろうか。川端の原作は高校の頃に読んで、話の筋は複雑ではないから、気軽に見返そうと、この映画を手に取った。

 割と多くの人が思うことらしいのだが、小津に似ている。人物を中央に配した切り替えしとか、構図や柔らかな陽光、自然光(的な穏やかな明るさ)がスゲー小津っぽい。

 あと、原節子がいるからだろうか。原節子って昔の日本映画の中にいると、すごく異質な顔のつくりをしていて、外国人のような彫りの深さの彼女が一般家庭の気の良い奥様、みたいなのを演じているのを見ると、それだけで奇妙な感じがしてきて、しかしそれは汚点欠点では決してなく、しかし俺はお嬢様や奥様として古い映画に登場する彼女を見ると、役者が飛び出してきた、かのような、今自分が見ているのが映画なのだと思い知らされるような、不思議な心持になるのだ。

 映画としては川端原作の不気味な、主人公男性の背骨を舐めるかのような死の影老衰の影、といった物が鳴りを潜めてはいるのだが、それでも何だか奇妙な感じがするのは、俺が原節子から抱く印象からだろうか。

 

もう一本、成瀬巳喜男監督、高峰秀子出演『稲妻』

 原作・林芙美子、監督・成瀬巳喜男、主演・高峰秀子

 って並び、ほんと好きなんだ、『放浪記』『浮雲』ほんと好きなんだ、でも、この映画は、どうなんだ。自分の中で評価をつけるのに困った。勿論出来が悪い映画ということでは決してないのだ。なのにさ、消化不良というか、四人の兄弟の父親が全員違う、ってのいかされていたのだろうか? それでラストのやり取りがあるのは分かるのだが……もう一つくらいドラマがないと、なんて思ってしまった。それにラストも俺にはなんか物足りなかったんだよね。あっさりしすぎていると感じた。

 まあ、見ている時は楽しめたんだけどね。勝手な期待が大きすぎたのかもしれない。

 仕事終わるとさ、疲れ切ってるんだけど、なんだか歩きたい気分で、一駅二駅歩きながら帰る。ipodで曲を聞いたり、口ずさんだりするんだ。何も解決していないのに、何もいいことなんてないのに、何か、良いことがあったようなこれからあるような気分になる。数十分位、歩いていたい音楽聞いていたい小声で歌っていたい。

 カサブランカ・ダンディ - 沢田研二

 

 

 沢田研二 阿久悠 マジいいっすね。セクシーってこういうことなんですね多分。

"MILKY WAY" TOWA TEI with Yukalicious, Joi Cardwell & Ryuichi Sakamoto

 テイトウワ 外れないって感じですよね。けだるいのに悲しいのに幸せ。まるでハウス、クラブ、ソウルミュージックみたい!!!

 働いて帰宅して。そしたら売る物を段ボールにつめる。怠け者なのに俺、自分が自分じゃないみたい。たのしいかなしい。

日々小銭

久しぶりに決まったそこそこきちんとした仕事だったのに、辞めた。色々悩んだのだが、面接の時の説明と違うことがあって、どうしても無理になってしまった。求人や面接での説明と現場は違う。なんてこと沢山あったし、俺に限ったことではなく、働く人あるあるなんだと思う。

 そう思って、どうにか頑張ろうと思ったが、頑張れなかった。無理して頑張るのがいいのか、さくっと辞めるのがいいのか、それは難しい問題だ。でも、申し訳なさと不満を抱えながら面接をしてくれた人に退職の説明をしたら、その人がきちんと謝ってくれて、それだけでよかった。ありがたく、申し訳ない気持ちがわく。当然のことなのかもしれないけどさ。

 でも、そしたらまた仕事探し。日々やりたいこととかやるべきことよりも、日銭稼ぎのことばかり考える生活。生きるための、テンションが上がらない。なんだか、俺、穴の開いたタイヤに空気を送り続けているような、穴の開いたバケツで水を汲んでいるような。

 でも、なにがあったって、どうであれ、俺が諦めたらそれでおしまい。早く、終わって欲しいなあとおもいながらも、まだ頑張らなきゃって。わかんないけど。色々分かってないけど。

 そんな時の日銭稼ぎ肉体労働は、なかなかいい。余計なこと考えてる気持ちの余裕なんてない。言われたことをひたすらこなさなきゃいけないんだから。

 それにしても、まだ五月なのにさ、暑すぎる。マジ、ダメになりそう。

 ダメになるって、ほんとのとこは分かんないけどさ。分かりたくないけどさ。

 次の現場まで時間あいて、渋谷から歩いて青山ブックセンターへ。普段見ない荘苑をパラパラ見ていたら、荘苑賞の作品と選評が載っていた。ファッションは好きだけど、自分はもうそういうのとは違う世界だ、なんて思いながら、何気なく見た。

 自分に刺さった、というわけではない。なのに、あーすごいなあと感じた。頑張っている人がいて、審査している人のコメントも真剣で手厳しく的確だ。頑張ってる人見ると、やっぱ、いいなって思う。知らない人、会うことがない人、どっかでめっちゃ頑張ってる人いるんだなって。

 そんで次の現場で、言われて気づいた。五年ぶりくらいに会った人。最初は知ってるって言われても「あ、たしかこういう人と仕事したっけなあ」くらいの記憶しかなかったんだけど、音楽の話、バンドの名前を出したら、急に記憶が蘇った。マジ音楽最高。俺の記憶力最低。

 連絡先だって知らないし、五年ぶりくらいに会ったのにさ、趣味の話したらすぐに盛り上がれる。こういうのっていいなって思うんだ。

 最近好きなバンドは? って聞いて、教えてもらった。その場で名前メモして、家で検索するよって伝える。

paionia - 東京 

 

 

 野太いボーカルに、ぐっとくる歌詞とメロディ。ああ、いい曲だなって思った(家に帰って検索した)。

 駅前で別れる間際、彼が最近ニューウェイヴのアーティストを聞いているという話をしていて、それじゃあ、と俺が超好きなトータスを紹介した。トータスはニューウェイヴじゃないけど!

 彼、すぐに検索してくれて、スマホにはtntのアルバムジャケが表示されていて、その場で「じゃあ」と別れた。

 Tortoise - TNT [Full Album]

 

 ふっと、気が楽になって。それも明日には消えてしまうような、か弱い灯だけれど、ありがたいなたのしいなって思って。

 嫌なことが色々あったとして、色々どうでもよくなったとして、でもさ、こういうこともあるんだって俺も何かできるんだって思うよたまに。

作り物に乾杯!

 金券ショップで、期限が明後日までの展示を格安で見つけた、という気のない理由でチケットを買い、休日の美術館という空間は遠慮したいものだけれど、覚悟を決めて朝早くから向かうことにする。

 俺は雑踏は好きなのだが、行列や店の中で人が多いというのはどうにも苦手だ。俺は目が悪く、美術館で作品を見る時は作品を間近で見なければいけないので、人混みの中で何かを見るならば鑑賞どころではなくなってしまう。

 行って来たのは、三菱一号館美術館 『ラファエル前派の軌跡 展』

 美術館へのアクセスは有楽町と東京駅の間で、有楽町、という名前を目にすると、いつも思い出してしまうんだ、フランク永井有楽町で逢いましょう。有楽町という土地の情報がほぼない俺にとって、有楽町=フランク永井という貧相で幸福なイメージが成り立っている。

ほんと、彼の甘い歌声は歌謡曲って感じがして好きだ。ちなみに有楽町には寄らずに、東京駅から美術館へ向かった。

 

有楽町で逢いましょう フランク永井

 

 

 三菱一号館美術館はお金をかけた昔の建造物という感があり、とても素敵だ。内部は天井がとても高く、そこまで敷地面積は広くないものの、開放感がある。

 で、肝心の客の入りなのだが、午前中に向かったからか、程よい入りで、見るのには困ることはなかった。また、今回は一部の作品はフラッシュ無しでの撮影が可能ということで、あちこちでシャッター音がした。最初は「おっ」と思ったが、じきに気にならなくなった。俺もいくつか撮影した。図録を買わない人間からすると、ありがたい配慮だ。というか、SNSでの拡散を目的としてこういう、一部撮影可という試みなのだろうか。

 目に留まったのは、チケットにも印刷されているロセッティの魔性のヴィーナスという作品。

 キャプションに「左手に美の象徴である林檎を持つ、美と愛の女神ウェヌス。肉感的なバラと長い雄しべのあるスイカズラに囲まれた彼女は、その添え名のとおり、右手に持ったクピドの矢で「人を心変わりさせる者」なのだろう。舞い飛ぶ蝶は、愛によって身を滅ぼした者たちの魂だろうか」

 と書かれており、アトリビュートを元にイメージが喚起される作品になつている。ただ、ラスキンに「花が雑」と言われたそうで、というか、正直、この画の技術の巧緻はどうか、と思う所があり、右上の取ってつけたような青い鳥も後輪の蝶と混じるような処理も、これでいいのかなあ、という感がするのだが、それでもこの画はとても魅力的だ。

 肉感的でかつ、人体や花の表現が作り物めいているのが、魔性のヴィーナスという題材と相性が良い。不自然に見える、構図としてやや収まりが悪いような配置、それこそも押しが強い、蠱惑的な魅力を持っているというのが、憎い、魅力的な作品だ。

 他に目に留まった作品は、ミレイの「結婚通知―捨てられて」 という作品。真っ黒な背景に浮かび上がる、手紙を手にした不安そうな不満そうな表情の令嬢。痛ましくも美しいその姿は、見ているこちらにも何事か起こっているらしいことが伝わってくるのだ。

 ウィリアム・ダイスの「初めて彩色を試みる少年ティッツィアーノ」

 屋外で液体と草花を用意して聖母子像を見ている少年の画。無理な体勢で椅子に身体を任せつつ、試案する、なんとも可愛らしい少年の姿。草木茂る屋外に対し、用意した花々がそこらに散らされているというのが、着彩やイメージの為の植物という対比で見ていて楽しい。

 フレデリック・レイトン「母と子(サクランボ)」

 見るからにお金持ちな母と娘が描かれた画。高そうな絨毯の上に寝そべる母に寄り添い、その口元にサクランボを向ける娘。二人の衣装は白、背景には百合の花々。金屏風には鶴。なんともロマンティックで品の良い作品に仕上がっている。

 エドワード・バーン=ジョーンズ「コフェテュア王と乞食娘」

 この画、俺が会場で見たのとネットでヒットする画とは違うのだが……

具体的に言うと、会場にあるのが下絵、習作みたいで、図録には個人蔵となっており、ネットでヒットする作品は、構図など全く同じなのだが、テート・ブリテンに所蔵されているという表示が出てきている。

 で、俺はちょっと習作っぽい感じの、この会場で見てきた画がとても良かったと感じたのだ。

 王が乞食の娘に惚れるという小説を題材にした作品で、会場の画だと、娘の顔の部分がぼやけて描かれている。それに対して、王の姿は立派で、甲冑の硬質な表現も見事。背景は木製の階段で、それらの書き分けが見事なのだ。明らかに力を入れて描かれている王の姿ではあるのだが、その王の少し上段にいる(会場の画では)顔がぼやけた乞食の娘の存在感。とても優れた画だと思う。

 そして、会場で一番俺の好みの画が バーン=ジョーンズ「慈悲深き騎士」

 主題はキリスト教の騎士道精神をロマン主義的な文脈で説いた『騎士道の誉』によるもので、兄弟の仇をとろうとしたした騎士だが、相手の命乞いから、それを許す。するとキリストの彫像が、兜を脱ぎ跪く彼を抱きしめ、その額に口づけるという画だ。

 こういうテーマがすごい好きなんだ。復讐、赦し、奇跡、抱擁、口づけ。厳かな顔つきをして甲冑を身にまとった騎士と木製の穏やかなキリストとの対比が情感を刺激する。

 こうして書き出してみると、好きな、素敵な作品が多く、思っていたよりもさらに良い展示だった。昔流行った中世ファンタジーゲーム好きの人にも受けそうな展示だと思った。

 会場から出て、有楽町方面、国際フォーラムで大江戸骨董市を開催しており、足を運ぶ。社会のネジとして嫌々働いていた時(今も)、ここに何度か行く機会があり、その時に知り合った人に「君さあ、テロリストにいなかっった?」という素敵なお言葉を戴いた。俺、一応時給が発生している場面ではマジガチ真面目に働いてるのにテロと無縁なのに! とかなんとか、どうでもいいことを思い出す。

 会場では何だかよく分からない物が並び、いかにも外国人にうけそうな浮世絵着物食器、といったものが並び、外国人率が結構高い。会場を進むと、いくつかの店で、箱に大量のこけしがいれてあるのを目にした。なんで? つーか、雑に入れられたこけしを見るとなんだか悲しくなったぞ。

 最初はいかにもジャパニーズゲイシャフジヤマハラキリ商品だけかと思いきや、ウエッジウッド、ミントンといったヨーロッパの食器類やら雑貨やアクセサリーやらを売っている店もそこそこあって、江戸の骨董……なのか? と感じながらも、若者よりも年齢層が上のこの会場には合っているのだろう。

 お腹が空いて、会場の住みで家から持ってきたパウンドケーキを食べていると、目の前で三十代で素手で牛を殺せそうな北欧系カップルが、人混みの中で接吻をしていた。いやーん、まいっちんぐ!(なんてことは全く思っていない)。その横を、茶色に染めたツーブロックモノグラムのバッグを手にした、俺とは違い仕事ができそうなスーツリーマンが小走りで通り過ぎ、俺はむしゃむしゃケーキを咀嚼。

 のろのろと歩く、釣りの時に着るようなポケット沢山便利ベストを着たしょぼくれたおじいさん。メタルTシャツを着た。かなりふくよかで元気そうなアメリカ人(偏見)。こういう雑多な空気が好きだ。

 帰りの電車で、家から持ってきた文庫本に目を落とす。玄関に落ちていた本を拾ってきていて、それは川端康成の『伊豆の旅』という伊豆にまつわる作品集で、彼の『伊豆の踊子』は何度読んでも楽しく読める。冒頭が有名だけれど、末尾の部分も好きだ。

「船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぼろぼろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」

 川端の作品に対して毀誉褒貶 を目にすることがあるが、ロマンティックな題材は、そういうものだと了解しているので、俺は気にならないし、俺は彼の小説が本当に好きだ。

 傲慢で残酷でぬくもりがあり甘く、愛情深く冷え切っている。川端とジュネの小説にはこれらがあって、たまらなく好きだ。お金も友愛もなくても、ロマンティックな錯覚の為に、俺。