まるで祈りの様に。

アスファルトの上に転がる、蝉の死骸を見た。今年初めて見た蝉だった。穴が空いた身体には、片方の羽根しかなく、それが強い光を浴びてきらきらと輝いていた。

 

新しいことをしたい。しなければ、駄目になってしまうかもしれない。そういう強迫観念なのか、逃避願望なのか、この状況と新しい仕事でかなりまいってしまっていた。

 一日の内に何度も気持ちがぐらつくし、平穏、とかいう言葉が遠い。それを手にする為に、頑張らなければと思うのだけれど、上手くいかない日々。でも、ふとした瞬間、それなりに悪くない気もするのだ。

 形にはなっていないが、久しぶりに気軽な短編小説を書こうと思ったから、そのアイデアが出たからか。それとも、誰かの本を読んで感銘を受けたからか。

 そういう短い時間は、夢を見ている、夢の中にいる気分。夢は脆く、すぐに覚めてしまう。夢の幻想の創作の現実逃避のことばかり考えていると、社会で生きていけるはずがない。

 なのに、どうしようもない夢を見るため、それに血肉を与えられるように願う。

 雑記。

アンナ・カヴァン中短編集『草地は緑に輝いて』読む。幻想、SF、随筆風等多彩な作風の中に共通するのは、不安と恐怖。妄想か、過剰反応か、現実か。それからは決して逃れられないのだ。執拗な、作者のオブセッションに読み手も包まれる。それでいて、愛らしさや美しい描写もあるのだ。

 正直言って、彼女の小説を読むのは結構疲れる。俺も、逃げ出したいし恐ろしい何か、から逃れられないと感じているからだろうか。

 『氷の嵐』の引用 アイス・ストームに襲われた後の、氷を浴びた街を目にする主人公。

「木々は美しいと同時に恐ろしかった。わたしは木々を怖がるまいとした。神様お願いです、どうか自然界のものにまで恐怖心をいだかせないでください。恐ろしいのは人間の世界だけで充分です……。」

『骰子の7の目 2巻 ハンス・ベルメール』読む。かなり久しぶりに見た彼の作品集は、淫猥さやグロテスクさよりもずっと、身体が持つ質量の奇妙さを感じさせた。緻密なデッサン力から生み出される奇怪な身体。そこには探求と喜びがある。人間の人形の身体は、不思議だ。それを鮮明に示している。

本江邦夫 監修『抽象絵画の見かた』再読。作品や作者への理解が深まる、分かりやすい手引き。抽象絵画というのは、好みが分かれる。つまらない落書きや、似たような画家の模倣に見える物もある。しかし、それらの中には確かに美しさが、秩序が存在するのだ。好きな画家の作品に気軽に触れられる良書

 久しぶりに出会う、バーネット・ニューマン、フランク・ステラ、クリフォード・スティル。スティルは生で見たことがないと思う。見てみたいな。

 本江邦夫、先生は俺の学校にも教えに来ていた。彼の授業が一番面白かった。熱意がある先生というのは、どの人も素敵だと思う。たまに、また大学や何かの教室に行きたいなと思う。勉強がしたい。でも、お金の問題でそれは叶わないだろう。それを思うと、自分の甲斐性無しや金銭を稼ぐ能力のなさ社会性の無さにうんざりげんなりする。でも、そのおかげで、たまに、輝かしい愚かさを見る力を育んでいるのかもしれない。

ぼんやりとした頭で、ALI PROJECTの令嬢薔薇図鑑を聞きながら、森茉莉の『私の美の世界』を再読していた。しばし、現実を忘れる。森茉莉の、卵料理の描写が一等好きで、卵料理の文章を世界一上手く書ける人だと思う。バターではなく、バタ。と書くのがとても好きだ。

ジャック・タチ監督『ぼくの伯父さんの休暇』また見る。この映画の滑稽でのんびりとした時間は、俺にとってもバカンスみたい。ドタバタコメディでありながらも、ユロ伯父さんは飄々として押し付けがましくない。モノクロの南仏での生活は、微笑ましく、開放的で、ゆったりと流れている。

監督エルンスト・ルビッチ他オムニバス映画『百万円貰ったら』見る。巨万の富を築いた男は死を向かえようとしているが、財産を譲るべき人間がいない。電話帳で選んだ人に100万ドルの小切手を送る。馬鹿らしいコメディもあるが、辛い展開も多い。様々な境遇にある市民がいきなり大金を得てしまう

というのは、人生を大きく変える要素だ。生活が激変する者もいて、映画を見る観客としてドラマチックな展開は面白いのだが、そこまで変わらない、変えられない人間もいるのだ。基本コメディ映画だが、辛い展開も多く楽しめた。オムニバス映画としても、優れていると思った。

ダイアン・アーバス作品集』を読み返していた。彼女の写真に心地良さを覚えるのは、被写体と同様に、彼女もチャーミングな人だからだと思う。人間が、他者が、不思議で間が抜けていて魅力的な面を知るのだ。目に見える物はどれも異質なんだ。彼女はそのよく分からないものに敬意を払い、捉えている。

高峰秀子のエッセイ『コットンが好き』再読。5歳から親の都合で映画界にいた高峰の、晩年のエッセイ。彼女のエッセイは飾らなさや謙虚さや芯の強さが読んでいて心地よい。二十四の瞳の、百合の弁当箱の話や友人の越路吹雪の死を悼む言葉は再読しても胸にくる。身近な、愛おしい物、人。大切な記憶。そういうのを感じられるなんて、とても豊かなことだと思う。

『世界をまどわせた地図 伝説と誤解が生んだ冒険の物語』読む。偽物の地図、存在しない国や怪物等が収められた楽しい一冊。希望や誤解や詐欺により生み出される、悪魔の島や黄金の国。オーストラリアには内陸海があった? 一番すごいのが、架空の国をでっち上げ、土地の権利や紙幣を作った詐欺師

映画『BOY A』見る。少女を殺害した(関与した)少年。彼は14年の刑期を終え、新しい名前を得て世に出る。ソーシャルワーカーや友達の助けを得て、彼女もできる。まっとうな生活を歩む彼。しかし。展開は予想がつくのだが、見ていてキツかった。主演のアンドリュー・ガーフィールドの演技がとても良かった。不器用で過敏な様を上手く表現していた。


加害者を許すことができるか、というのはとても難しい問題だ。この映画の主人公は、十分同情できる点がある。でも、彼を「殺人者」として晒し者にしたい人々を、正義の暴走とは言えない。ただ、許すのは、理解するのは困難という現実があるのだ。

 俺は、この映画の主人公は許されてもいいと思った。でも、凶悪殺人犯が少年法に守られて極刑にはならずに、十数年後には社会に出る。という文だけ目にすると、そう軽く考えるのは無理かもしれない。

 人を許すのも、他人に寛容になるのも難しい。過去も忘れるのは断ち切るのは難しい。でも、生きている人間は、明日を、自分のこれからを信じなければ歩いていけないのだ。

 俺はしばしば、自分の過去や未来が明るくないから、不安に依存し、自棄になり希死念慮に甘える。それしか方法がないのだと思い込み、まあ、実際そうなのかもしれないが、それでも、愚かな輝かしさを育む術を知っていて、それは他者の生き方や作品によるものだ。感謝する。誰かに感謝できるなら、まだ生きていけそうな気がする。

 精神的に不安定だと、誰かの言葉に作品に触れられない。ひたすら逃避するだけで、時間と体力を浪費する。それでも、本が、誰かの何かが救いになる。光を日常を思い出す。まるで祈りの様に。

下手くそでも、調律師の気分で

新しい仕事が始まった。慣れない肉体労働と、この終わりが見えない状況で、メンタルはかなりグラグラだった。でもさ、働かなきゃ生きていけないんだ。でもさ、働いて頭が駄目になったら、生きていることを見失っちゃうんだ。

 多分俺は人よりずっと、小さなことに過剰反応して疲れて逃げ回ってきたのだろう。そのツケを、払うことになっているのだろう。

 頭を使う本なんて、ほとんど読めなかった。一日のうち、本を一度も開かなかった日もあった。でも、本がなければ生きられないんだ俺。悲しみや不安にチューニングを合わせてしまう俺。だからこそ、自分から楽しさに喜びにアクセスしなくっちゃ。何度だって忘れる。でも何度でも思い出さなきゃ。俺の人生俺が感じたこと見てきたこと、悪くない、悪くないんだって。

ソライモネ『88rhapsody』読む。表紙見て、あれ?あびるあびい先生?と思ったらpn変えてたみたい。バンドマンの恋物語なのだが、すごく良かった。ポップな絵の魅力、長髪バンドマンかっこいい。上手くいかない生活があっても、登場人物がとってもキラキラしている。作者の愛が皆に降り注いでる。

 この人の漫画は何冊か持っているのだが、どれもこれも登場人物が魅力的だ。主役だけではなく、わき役も。登場人物が生きている、暮らしている感じがする。どういう物が好きで嫌いで、どういう癖があってどういう人生を歩んできたのか、みたいなバックグラウンドを感じる。人はみんな違う、けれど(漫画に出てくる人は)魅力的だ、(物語に登場するなら)魅力的でなければ、引力がなければならない。そんなことを感じる。作者の愛で、キャラクターが動くんだから。

何故か『ユリトロ展』のカタログを見ていた。前は彼の良さが分からなかった。今もかもしれない。だが、彼の街を描いた絵は、俺が新宿や繁華街に抱いている感情と近いような気がした。こちらがどう思っていても、街は人間によそよそしいのだ。街の中では誰もがよそ者になる。それは多分切ない幸福。

五十嵐豊子 絵本『えんにち』読む。いつもの街が『えんにち』になっていく光景、縁日で楽しむ人々が描かれる。ほぼ文字がない絵本なのに、えんにちの楽しさ、息づかいが伝わってくる。子供の頃にワクワクした光景が、絵本の中にあった。

アンドルー・ラング再話 エロール・ル・カイン絵『アラジンと魔法のランプ』読む。魔法の力で起こる様々な、驚くべき奇跡の連続。それを絵にするル・カインの画力が本当に素晴らしい。手描きの幻想の世界は細密でありながらも、どんな場面か分かりやすく魅力的だ。

ル・カインの絵本はどれもこれもすばらしいけれど、その中でもかなり上位に入るのでは、と思う位に画が良かった。魅惑のオリエンタル、ファンタジックな東洋の魅力がつまっている。恐ろしくって奇妙で、惹かれてしまう世界。彼の画は細かく描かれていても、デザインとしてすっきりしているのが大好き。細密画の類は「見やすい」という点がとても重要だと思うのだ。

フェリーニ監督『オーケストラ・リハーサル』見る。いかにも人間くさい自由な人々のドタバタ喜劇。だけど俺がフェリーニ好きで期待が大きかったからか、今一つといった感じ。映画の時間も短いし場面も実質礼拝堂の中だけだし。フェリーニの映画は観客を圧倒するパワフルなのが魅力だと思う。

アイマスのライブに行って、地獄のミサワが感動する、という内容のツイッター漫画を読んだ。ゲームのファンだけど、声優のステージはなあ……からの感動、というのはよくある話なのかもしれない。でも、彼が本当にアイマスのステージに感動しているのが伝わってきて、とても良かった。

 俺はアイマスの緩いファンで、ゲームもcdも持っている。特別な推しキャラはいない。アイマスというコンテンツが続いているのを、陰ながら喜んでいる。その程度のファン。でも、誰かが誰かを感動させているという光景は、とても美しい物だと思う。そういう感受性って、本当に大切だ。

新しい、何かに感動できるような自分でいなきゃなって思う。体力気力お金がないとそれは結構難しい。でも、他者に感動できない人生なんて、つまんない。

生田耕作訳 ピエール・ルイス『女と人形』再読。カーニバルの喧噪の中、魅惑的な女性に惹かれたフランス人の青年。しかし彼の旧知のスペイン人が彼女の正体を暴露する。愚かな男と悪徳の女の愛憎劇。或いは怖ろしくも愚かしい喜劇。話の筋は単純だが、恋で身を滅ぼす残酷さと恐ろしさを堪能できる。

ウンベルト・エーコ『醜の歴史』読む。著者によって集められた、膨大な量の『醜』のカタログ。当時、醜さ恐ろしさを意図されたものが、現代人(俺)から見れば魅惑的な物に変化する。美は、美しい平均。醜は、歪み、はみ出し。美と醜は、案外簡単に反転するのだ。美に魅了された者への良いカタログ。

『家のネコと野生のネコ』読む。様々なネコの図鑑。素晴らしい写真が豊富だし、生態についてもきちんと書かれている。家も野生も、少し違うけど魅力は同じ。猫の写真というだけで素晴らしいので、あまり言うことがない。ページをめくる度に出会う猫に、ああ、いいなあと思うのだ。

美の壺 櫛』読む。俺は二十代の頃ずっと長髪だった。たまに、嫌味を言われたし、仕事も限られたが、長髪が自分のアイデンティティだった。俺が独り暮らしをする時、「苦労を分けるから本当はあげない方がいいけど」と言いながら、母が黄楊の櫛をくれた。母は俺の長髪を嫌っていたはずなのに。

 ずっと大切に使っていたのに、家でしか使っていないのに、無くしてしまった。今も後悔しているし、何でなくなったかも分からない。今は短髪で、櫛なんて必要がない、でも櫛は好きだ。

 新しい生活が始まっている。状況が良くならないまま、色々な問題に立ち向かわなきゃいけないのは、結構ハードだ。俺は気分の変調が激しいので、一日の内に何度もぐらつく。

でも、やんなきゃな。何かに触れられるように。できれば、新しい何かを生み出せますように。

うつろびともひとがたも、みんな友達

 新しい仕事が決まった。不安が色々あるし、いつまで続けられるのだろうか、なんて、始める前から考えている駄目な俺いつもの俺。でも、やらねば生活が終わるんだよなーとりあえずあまり暗いことばかり考えるのは止めよう。

 そういう風な考えがいい、とおもってはいても、東京の今の状況がとても悪く、これが改善されるということは考えにくいから、ちょくちょく具合が悪くなる。

 てなことを、ここ数ヶ月書き続けている。自由に、ふらりと外に出られない、何かのイベントや美術館とかに行けないってことがこんなにもストレスになるんだって、前までは気づかなかった。嫌なことに底なんてない。元気がないのは通常のことだけれど、そこばかり見るの、止めなきゃな。って、止めるのは無理だと思う。だから、別のことを考える時間を。何かを読む、作る時間を。

 久しぶりに次の小説を書くアイデアが浮かんできた。色々資料やら幻想の肉付けやら骨組みやらをぼやぼや考えていきたい。作り上げたものが何にもならなくても、俺は俺の小説が好き。そんな小さな幸福で生きていられるんだ、案外。そういうことにして。

 雑記。ここに書いていないのも読んでいることを思うと、本、結構読んでるなあ、俺。

岩合光昭『ネコを撮る』読む。動物写真を撮るのが抜群に上手い著者による、ネコとの対話記録。技法的なことも書いてあるが、それよりもシンプルな話、猫の性格や生態を知ろうとする、街を歩く、猫の生活に入り込む。構図も重要だが、被写体への理解と、忍耐、楽しみが伝わる本。猫を尊重しているのだ。

生田耕作訳 マンディアルグ短編集『燠火』再読。悪夢から覚めても別の悪夢。淫靡と嗜虐に糖衣を纏わせ、わりと読みやすいのにおぞましく、素晴らしい短編集。宝飾や少女や怪奇に眼を奪われていると、いつの間にか無数の刃で貫かれているのだ。悪鬼を育む幸福。

ぱっと見て惹かれ、中身も知らずに購入した『モダン図案 明治・大正・昭和のコスメチックデザイン』がとても良かった。舶来品への憧れや日本独自の浮世絵や叙情画により生まれた、懐かしさと品のあるデザイン。くすんだ硝子瓶や痛んだパッケージすら愛おしい。宝石箱を集めたような一冊。

 昔の化粧品、ってとても惹かれる。自分で使いたいというわけではなく、「きれい」や「あこがれ」といった、美に対する夢がつまっている感じがとても好きだ。単に硝子瓶が好きなのも大きいけど。デザインに花が多いのも俺的には好きなポイント。

ロオデンバッハ『墳墓』読む。短い散文と、『死都ブリュージュ』等を手掛かりとした著者の評論。何故彼はこんなにも墓や死に固執し美しく飾るのだろうか。愛の幻想を留める為なのか。彼は死を嘆きながらも恐れてはいないのか

「すべては虚偽と無益となる中に唯「死」のみは真実なのである」

ロジェ・ヴァディム脚本『恋するレオタード』見る。バルドーと親友の少女はウィーンの声楽学校に通う。そこの音楽教師のジャン・マレーに二人は恋してしまうが、彼は別居中の妻帯者で浮気者。愛に振り回される、二人の少女の成長を描く。若いバルドーが妖精のようなかわいさ!親友やマレーも魅力的。

 邦題からセクシーなラブコメと思いきや、愛が大切な少女の成長物語になっていて楽しめた。バルドーとは対照的な親友の女の子(清楚でかわいらしい)にもスポットライトが当たっているし。

小川三夫『棟梁』読む。徒弟制度、共同生活を送る宮大工の半生とその言葉。エゴの塊の表現者ではなく、集団で1つの物を作る職人の言葉。

木は一本一本違うし、人も一人一人違う

言葉で教えられないから弟子に入ってくる。

人は育てることはできないが、環境さえ準備してやれば学び育っていきます

 俺は集団生活とか子弟制度とか無理だけど、職人の人に憧れというか敬意を持っている。同じこと(のように素人には見える)を繰り返し行う人って、やっぱ好きだ。芸術家という名前のエゴイストに比べて、職人は与えられた仕事を全力でこなすぜって感じがカッコイイ。芸術家も、一部はすごく好き。

原作 マンディアルグ 挿絵 オーブレー・ビアズレー 翻訳 生田耕作『ビアズレーの墓』再読。怪しげな帳の中を覗けば、残虐と豪奢、奇怪と乱痴気。数多の宝石が輝き、弾け、滅する。サディスティックな饗宴の当事者になるのは、おぞましくも豊かだ。
「罪のない快楽はわたしの好みにあいません」

『コオリオニ 上巻』と『悪魔を憐れむ歌 4巻』、主人公(たち)が暗闇の中をバイクで走るシーンがある。どちらも見開きで、暗闇の中、バイクは光の尾を放ちながら進んでいる。とても美しいのだ。電子版の良さもあるけれど、ページを開いたら暗闇(見開き)で、主人公が一瞬光になるなんて、辛くて綺麗だ

 見開きの感動って、漫画を読む幸福の一つだと思う。特にコオリオニで佐伯さんがバイクに乗るシーン、好きすぎる。というか、コオリオニは本当に好きで、一時期毎日読んでた位。作者の梶本レイカが今も制作を続けていると言うのは、読者としてはとても暖かく有難いことだ。

 プロでもそうでなくても、何年も何十年も続けるって、困難で素敵なことだ。

市川雷蔵主演『妖僧』見る。厳しい山嶽仏教の修行に耐えた道鏡は、法術を得る。そして女帝の病を治し、二人は恋仲になるが……
僧侶と女性天皇の(禁じられた)恋ということで、芝居の動きや言葉は抑えられ、落ち着いた画面が多い。モノクロの映像も合っている。長髪に髭の雷蔵が新鮮!

 市川雷蔵好きだけど、俺はチャンバラ映画が好きではない……途中で必ず飽きてしまう……なので、彼の出演作はあまり見られていない。ちょいちょい、見ていきたいとは思っているけど。

『パリの小さな美術館』読む。美術館というのは、どこも素晴らしいと思う。邸宅や修道院を改装したとか大好き。特にギュスターヴ・モローが自邸を公開したのは見てみたい。習作や未完成品もあり、若き芸術家に全てを見せたかったらしい。誰かの作品に想いを馳せる時間は、豊かなものだ。

ロジェ・グルニエ『写真の秘密』読む。戦場や報道に身を置いた作家、カメラと共に歩んだ人生と写真。スーザン・ソンタグダイアン・アーバスボードレール、ナダール、ウィージー他の発言。作家や芸術家にとっての写真という神秘、発明について語られており、読み口は軽やかだが、読み応え抜群! 以下引用。

15p スーザン・ソンタグの考えでは、「写真は、愛する存在やモノを、もっとも単純なかたちで、置換によって所有することを可能にしてくれるのであり、この所有行為が、写真に、唯一のモノのいくつかの性質を帯びさせる」という。

69p(ウィージーが)「三流の新聞雑誌にとっては、殺人犯の女たちが美形で、見た目がいいことが大事なんだ」というのだ。ウィージーにとっての飯の種である、ニューヨークの歩道で殺されたギャング連中について、彼はこう告白している。

「ときには、あまり画面に血を見せないようにと、レンブラント風に、横からの光を使って撮影していたんだ」

76p 写真撮影が不可能な場合もあるものの、そんなときでも、ちょっとしたテクニックで、泣き悲しんでいる一家に一枚撮ってくれるように頼むことだってできた。

 マグナムの有力メンバーであるインゲ・モラスは、「やましさなしに写真を撮れるということが、わたしにはわからなかった」と告白している。

 彼女はマグナムが好きで、50年代のことを、なつかしさをこめてこう述懐している。「あれは、すべてが芸術になる前の、報道カメラマンであることが幸福に感じられる時代だったのです」

132p ナダールは、だれもがそんなふうに「芸術家」になれるはずがないと、はっきりわかっていたのだ。

「写真の理論など、一時間で覚えられる。写真の基礎知識も、一日あれば学ぶことができる。学ぶことができないのは、光の感覚であり、さまざまに組み合わされた光によって生み出される効果を、芸術的に判断することなのだ。またもっと習うのがむずかしいのは、対象を精神的に理解することであり、モデルと一体になるための機転や気働きなのである。そうしたものを学んではじめて、暗室の最低の奉仕者にも手が届くような、乱暴かつ行き当たりばったりに撮った、無頓着そのものの造形的な複製(ルプロデュクシオン)などではなく、もっとも親しみにあふれ、好意にみちた、親密なる似姿(ルサンブランス)が得られるのである」

 

 

 

 この本は新聞社に勤めていたカメラ好きの(専業カメラマンではない)作家の、写真に対するエッセイ・評論で、とても面白かった。読みやすい平易で冷静な文章と共に、様々な人の写真観、美学について触れることができるから。

インゲ・モラス「やましさなしに写真を撮れるということが、わたしにはわからなかった」って言葉、好きだな。でも、写真は、報道写真は、求められてしまうんだ。

 でも、何よりも美しいか胸に来るかってのが一番だ。写真の曖昧な立ち位置は、俺を戸惑わせて魅惑する。

数十年ぶりに、『たこをあげるひとまねこざる』を読む。めっちゃ面白い。好奇心旺盛で、何でもまねっこをしてしまうジョージは、ウサギを家から出したり、ケーキをエサに釣りをしたり、タコに乗って飛ばされたり。めくるめく展開が飽きさせない。他のシリーズも読み直したくなった。

祝  真・女神転生5発売記念で、真・女神転生2再プレイする。メガテンや派生シリーズ全部好きだけど、初期メガテンディストピア感絶望感狂おしいほど好き。たしか悪魔絵師金子は、女性キャラでは真2のベスが一番好きって言ってた。自分「メシア」のために生み出された戦闘美少女。胸キュン。

ロジェ・グルニエ『夜の寓話』読む。戦争を経験した新聞記者である著者の、私小説のような短編集。或いは、フィクションを元に「記事」として再構築した感がある。脱走兵や焼身自殺等ショッキングな題材もあるが、あくまで筆致は淡々としている。記者の眼差しで記録された記事。少しの感傷とユーモア。

渋谷Bunkamuraギャラリーの壁に、世界こども図画コンテストの絵が展示されていた。こどもの絵って見ていて楽しいな。思ったものを、どばーってカンバス(白い紙)にぶつける感じがする。エネルギーと自由さ。きっと、描いてる子供も、楽しくって仕方が無いんだろうな

海野弘 監修『北欧の挿絵とおとぎ話の世界』読む。雪に閉ざされ、日照時間が短い白の世界。北欧神話キリスト教化によって異端と見なされ消えていった。しかし、おとぎ話は19世紀半ばから注目され、再生される。美しい絵や温かみのある絵が沢山収められた、幸福な一冊。

ルネ・ドマール著 建石修志 画『空虚人と苦薔薇の物語』読む。著者が死んでしまった為未完になった、至高の頂を目指す『類推の山』の話中話。不思議な双子とうつろびとの幻想譚。未完の為、決して辿り着けない『類推の山』の不可侵さと、奇妙で美しい調和を見せる。建石の画も題材にぴったりで素敵

巖谷國士 著 宇野亜喜良 絵『幻想植物園 花と木の話』読む。身近な植物や記憶の中のそれらを、暖かな眼差しで綴る。宇野の挿絵も可愛らしい。霞草は、英語ではベイビーズ・ブレスだって。かわいい。ベルニーニのアポロンとダフネは、小さなモノクロ写真でも伝わる迫力!本物が見たい。

ロジェ・ヴァディム監督『バーバレラ』見る。高校生の時に小西康陽のコラムで知って、見たいなと思いつつ、十数年! 期待通りのアホエロsfだった。ジェーン・フォンダの健康的なセクシーさが全て、と思いきや、背景や映像もサイケデリックだったり昔のsfの手作り未来感がある、奇妙な魅力の作品。

泉鏡花 著 中川学 絵『絵本 化鳥』読む。若い子にも泉鏡花の世界を、ということで、絵本に原文もある豪華な一冊。動植物の尊さ美しさを知る少年と、優しい母親の幻想的な話。日常を感受性の眼で拡大する少年。著者に重ねて見えてしまう。最後の文章は、優しく切ない。幻を信じるには愛が必要なのか

東雅夫 編『澁澤龍彦玉手匣』読む。テーマに沿って澁澤の短いエッセイを集めたアンソロジー。澁澤は仕事が多く、書き散らしたような物も見受けられるのだが、この本に収められているのは、ペダンチックディレッタントで己惚れ屋で愛らしいドラコニア、王子様の姿。編者の愛と敬意を感じる一冊。

 

 寝転がっておなかにカワウソぬいぐるみ置きながら本読むの幸せ。
本物触りたくて、カワウソカフェ検索したらあった。かわいい。でも、カワウソは不特定多数に撫でられてストレスにならないのか?と思うと行けない……(動物カフェを否定したいわけではない)あー動物撫でたい……

 泉鏡花マンディアルグボルヘスとか最近わりと読んでいるかもしれない。幻想文学、というジャンルがあるとして、それらの素晴らしい作品はどれもしっかりとした骨子がある。また、何よりも愛やフェティッシュや執着が必要なんだなって分かる。

 一人で鬱々として、元気を出してなんとか本を読む、なんて生活だと、元々朧げな愛をすぐに忘れてしまう。本の中でも人形でも人間でも、愛をオブセッションを忘れないようにしなくっちゃ。

 好きな物を好きだっていってないと、忘れてしまうからどうでもよくなってしまうから。幸福な時間の為には、誰かを好きでいなければって、何度も思う忘れる思い出す。

君が迷妄を払い迷宮に誘う

今年に入ってから何か月も、状況は悪いまま、ってことばかり書いていて自分でもうんざりしてしまう。でも、改善されないどころか、もっと悪いことになっている。仕事は決まらないし、たまに入るやつだって、この状況かで激減している。

 おまけに多額の保険料の支払いやドライヤーは壊れるし、冷蔵庫から水が出て、一応応急処置はしたはずなのだが、普段しなかったはずの異音が頻繁にするようになる。

 金ばかりが出て行く日々。気分が良くなるわけがないのだ。かなりまいっている。

 でも、落ち込んでばかりいるとさらに状況が悪くなるだけだ。ぬるい地獄に底なんてない、どんどん落ちて行くだけ、ならばその最中に読書等。

アクセル・ハッケ『クマの名前は日曜日』読む。日曜日の朝に僕のベッドにやってきた、クマ。名前は日曜日。僕らはいつも一緒の親友。なのに、クマは何もしゃべらない。
ある日、僕はクマになる夢を見て……
ユーモラスで可愛らしい物語。絵もとってもかわいい。

安野モヨコ 選・画『晩菊』読む。太宰、谷崎、芥川、森茉莉他、文豪が描いた、女性が主役の八つの短編を集めた一冊。小説もそうだが、安野モヨコの挿絵がとても良い。こういう漫画家がテーマに沿って古典作品を選んで絵を添える、みたいなのはとても良いと思う。他の人のも是非見たい。

小説や音楽ならアンソロジーって結構あるけど、漫画家が漫画を集めた一冊って中々ないかも。それを思うと江口寿史責任編集(だった)コミックキューって凄く豪華で素敵な雑誌だったなー。漫画家が好きな漫画を集めた本が読みたい。

ホウ・シャオシェン監督『黒衣の刺客』見る。唐時代の中国、女道士に預けられた少女は暗殺者になっていた。狙うはかつての許婚にして、暴君。台詞が少ないのに、固有名詞の多さと説明不足で、どういう場面か非常に分かりづらい。でも、映像や構図、美術がとても良く時間の流れが緩やかで優雅。

『ウォーハウス夢幻絵画館』読む。スキャンダルや貧困等とは縁のない生活を送ったらしく、資料も少ないそうだ。ラファエル前派に近しい画風の彼の作品しか知らなかった、でもそっちの方が好みだ。彼好みの、似た容姿の美女。力強さと憂いを帯びた女性達が、神話や詩文を再現する様を堪能できる

 この人は描く女性の顔がかなり似ていて、同じモデルで全ての画を描いたと言われても信じてしまうほど。好みのミューズを舞台に上げるタイプの画家。好きなことが、フェティッシュがあるというのはいいことだと思う。

泉鏡花原作 宇野亜喜良 山本タカト画『天守物語』読む。画集と言ってもいいくらいに、画が多い。泉鏡花の優雅で怖ろしい怪奇に、山本タカトの淫靡で蠱惑的な挿絵が相性良すぎる。しばしば手が止まってしまう、幸福な一冊。

アクセル・ハッケ『僕が神様と過ごした日々』読む。ある日神様に会って不思議な体験をする。よくある話ではあるが、ユーモラスで面白い。神様は言う「人間は神様と向き合うふりをしながら、結局のところ、自分自身と話している(略)自分たちのイメージする神だけが大事なんだ」って台詞は俺も同感

『怪異幻魚譚 釣魚の迷宮』読む。谷崎、澁澤、岡本かの子他。日本は水に恵まれているからか、魚にも縁が深いのか。収録作品もそうだが、幻想的な作品は海魚ではなく川魚が主題なのばかりらしい。太宰治の『魚服記』は再読しても哀しくさらりとした美しさがある。

生田耕作発言集成 卑怯者の天国』再読。彼が好きな俺からみても、偏見や暴言が見られるけれども、この人の言葉や生き様が好きだ。芸術至上主義の偏屈男。文学や翻訳を学び愛しているからこその、厳しい言葉は胸に来る。冗談めかして、岩波書店が一番嫌い、ポルノ文学を出してないからってのが好き

ロジェ・グルニエ『黒いピエロ』読む。己の人生に失望する男が眺めるメリーゴーラウンド、幼き日を回想。何かを成さなかった男の視線だが、冷静で老成している。金持ちの友人、恋心を抱く女性、悪友、皆戦争や生活で静かに崩れてゆく。賢明で何もない主人公だけが失意のまま息をする。乾いた円環に浸る。

 これといって劇的なことが起こるわけではないけれど、人間の人生というのは、誰でもそれなりにドラマチックだ。そういうこまごまとしたことから、ショッキングな出来事まで、丁寧に、冷静に語る姿、それでいて感傷的になる主人公の姿は痛ましさと爽やかさがある。派手ではないが良い作品だと思った。

ミヒャエル・ハネケ監督『ハッピーエンド』見る。イザベル・ユペール、ジジイ、少女の演技が凄く上手い。愛と欲望と献身があるはずなのに、表面的な解決しかできない、辛い展開は映像の美しさと共に胸を刺す。人間のエゴと愛の怪物という一面を、こんなにも鮮やかに描き続ける監督に敬意を

 ハネケの映画はいつも見る者を揺さぶる。監督は意地が悪い、でも問いかけ続ける。その真摯さと、映像のうまさでついつい見てしまう。

 この映画の登場人物は誰一人として幸福にならない、いや、望む幸せにはたどり着けないと言ったほうが適切だろうか。ネタバレになるが、ラスト老人が助けられてしまうことすら、自殺を邪魔される「アンハッピーエンド」に見えてしまう。人々のエゴと愛がぶつかり合い、取り繕う。それはきっと、映画の中の複雑なブルジョワジーだけではなく、俺らも同じなんだきっと。それでも、監督は映画を撮る。生きている限り人生は続く。

 もうそろそろ駄目かもしれないとか、どうしようどうしようもない、なんて毎日のように考えてしまうけれど、誰かの生きた証が、小説が映画が芸術が、迷妄を払い迷宮に誘う。どちらにしろ迷子。迷子の人生。

錯覚を編み、蝕み夢を

さすがにここまで長引くとは思わなかったというか、思わないようにしようとしていたというか。働き口は減っているし見つからないし。まあ、選ばなければ、誰でもどこかで働けるだろうが、大抵の人はそういうわけにはいかない。でも、そろそろ覚悟を決めなきゃなってことか。

 ふとした時、心がささくれ立っていることに気付いてしまう。自分の身体や思考がスポンジのように感じられる。でも、水を吸ったその時は、いきいきとしているような錯覚を覚えるのだ。錯覚で編んだ紐の上、綱渡り芸人で生きていけたら。

家にいるべきだし、第一金が無い。でも、家にこもっているとおかしくなる。流石にこの時期は極力行かないようにしていたのだが、厭になり新宿へ。仕方なく乗り換えで利用はしていたが、新宿駅で降りたのは2,3ヵ月ぶりか? こんなに新宿に行ってないのは初めてかもしれない。

 でも特に用があるわけでもない。薄汚くも華やかな雑踏を歩くと心地良い。紀伊国屋書店の壁に森山大道のプリントがあって、元気を貰った。本とお菓子とゲームを買う。色んな店先にビニールカーテンが出来ていて、人通りや店の人の入りもまばらだった。店内ガラガラで、通りを見る店主が目に入る。二回も。街が少しずつ弱っていく、かのような感覚。そんなのは感傷だって、思う方がいい。これからの生活は不安しかないが、明日のことは明日にできたら。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』再読。天界から火を盗んみ人に与えた罪で、終わりなき責め苦を受ける。永遠の苦しみとか火刑、という題材は恐ろしく、惹かれてしまう。『裁かるるジャンヌ』や自らの焼身自殺をした某国の僧侶。彼らのことが時折頭の中で映像になり、投射され、俺は陶然とする

赤瀬川源平が選ぶ広重ベスト百景』読む。シンプルかつ大胆な構図の作品は、どれもこれも素晴らしい。赤瀬川の感想・解説からは感動が伝わり読んでいて楽しい。技法や構図から、つげ義春水木しげるの絵を連想するといった話題まで、なる程と思う説得力がある。

ヒッチコック『鳥』久しぶりに見る。パニックの要素としての鳥って絶妙だなと思う。猛禽類でなければ、どうにかなりそうな感じと、集団で襲われたらどうにもならない存在。攻撃してこない鳥の群れは、いつ襲ってくるのか分からない恐怖心を生む。良く出来てるなー

辻惟雄他『花の変奏』読む。文学や絵画や行芸等の中に現れた花と日本文化についての一冊。仏教から花の意匠は生まれ、四季が花の文化を育む。九相観(死んだ人が土に帰る様)、六道絵の中で腐乱して啄まれ白骨になる様子に四季の移り変わりと花が描かれているのはおぞましくも美しい。

古今集では落花の首が多く収められているという。散ることへの嘆き感嘆安らぎ。日本人と花、諸行無常、全ては移り行くという仏教思想を感じる。それでも草花は芽吹き、魅惑する。文中に花筏(桜の花びらが集まり水面を流れる図)という俺の好きな言葉が出たが、桜は散るからここまで愛されるのだろうか

永井荷風『麻布襍記 附・自選荷風百句』読む。初めて荷風の小説を読んだのは高校生の頃で、なんとなく好きかもしれない、というぼんやりとしたものだった。おっさんになり、荷風の孤独侘しさ寂しさ優しさ、といった物が多少は身に染みてきた。孤独という病を抱えたまま生きるのは、辛い慰めなのか

赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』読む。フェルメールをカメラが出来る前の写真家、と定義し、その魅力に迫る。19世紀にカメラが登場するまで、絵画はリアリズムを目指していた。フェルメールの絵も本物みたいなのだが、少し違う。ところどころ筆のタッチがずいぶん粗いのだ。

それは視覚のレンズ効果。ピント機能により、合っているとこはありありと、合っていない所はぼやけて見える。また、絵画的な人のポーズではなく、スナップショットのように人の動きを切り取る。白い歯を見せる女性の絵画なんて、昔はほぼ無かった。写真のない時代に、写真的な写実と神秘を備えている

全編空撮のドキュメンタリー映画、ホウシャオシェン制作総指揮『天空からの招待』見る。台湾の美しい自然、発展、その代償。島国で農耕と漁業が盛んで山が多く、経済発展を遂げた台湾という国は日本に似ていて、映画を見ながら日本の自然と歴史に思いを馳せる。空撮で雄大な自然を捉えた映像は圧巻

山田五郎『へんな西洋絵画』読む。現代人が見たらへんな絵画を集めた一冊。明らかに遠近法がおかしい絵や想像上の動物、超絶技巧を駆使して描かれた細密画やデフォルメの激しい身体。時代や国や作者のことを考える。落選が続いて、絶望する男なる題をつけたナルシストイケメンのクールベの自画像がツボ

 大人、というか悪鬼のような顔をした「かわいくない子供」やデッサンが一部だけおかしい身体というのは、見ていて面白い。ぎょっとするものだったり、作者の美意識を感じられる物だったり。自由に描いているんだなって伝わる

檀一雄『わが百味真髄』読む。幼い頃両親が別離し、料理をすることになった著者は報道班員となり、各国の料理にも触れる。どんな食材も貪欲に求め、調理する。自分の為、人をもてなす為。何度か太宰治の名前が出てきて、さっぱりとした仲の良さを感じる。酒飲みは優しく強引で寂しがりだ。

図書館で古い『マラルメ詩集』を借りたら、装幀がピエール・カルダン。シンプルで洒落ている。神秘をまとう優雅な倦怠或いは音の連なりのごとき飛翔。

「諸々の対象の観想、対象がかもし出す夢想から立ち昇る心象、これが詩というものです(略)この神秘を完全に駆使してこそ象徴が形作られるのです」

 マラルメ関連の本を読むと、高確率で「難解」と書かれている。それはそうとして、彼の詩についての文章は、とても詩情に溢れていて良かった。説明できないことを表現するには、詩やユーモアのセンスが求められる。批評や評論がつまらないとしたら、その分に詩が足りないからだろう。俺はマラルメの詩や、もっと言うと古典的な詩を理解しているとは思えないのだが、彼の文章を優雅だと思えるのは幸福だ。何度でも迷い、感動できる。

 とはいえ、色々と当てのない中年がいつまでも迷子というのは、心身が腐っていくのだ。みっともなく、辛いことだ。蝕みの中で見る夢よりも、健康的な状態で、明晰な瞳で物事を見ていきたいのだが、そんなことができていたかなんて子供の頃から疑わしい。

 変わらない変われないんだ大体。それでも、本は大抵俺に優しい。図書館でならタダで、俺のメモリや処理能力以上の物が閲覧できるから。こんな状況だけれど、迷子を楽しむ心を忘れずに。

まあ、あと30分

久しぶりに肉体労働。電車のつり革なんて、絶対に触りたくない、なんて生活を送っていたが、汚れ仕事でそんなことを言ってられないし、マスクなんてしたら酸欠になる。

 でも、仕事をしていた方が雑念が入らずに済む。なにより生活費を稼がねばならないから、色々と動き出さなきゃなって思っていた。のだけれど、東京の状況はまた悪化しているし、色んな求人も少なくなっている。

 さすがにこんなに長引き、終わりが見えないとは思わなかった。俺のメンタルや色んなのが、じわじわと削られているのを実感する。本すら読みたくない日が続く、けれども俺に力を与えてくれるのは本位なのかな。

 ボルヘス『幻獣辞典』再読。様々な時代の人々の創造力の産物、怪物を集めた楽しい一冊。「誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」って素敵な言葉だ。日本はゲーム文化に恵まれていて、この本に載っている幻獣の多くに、俺はゲームの中で出会ったことがある。

ボルヘスが、日本のゲームに触れたらなんて言うだろう? どんな時代も怪物が求められているなんて幸福だ

「我々は宇宙の意味について無知なように、竜の意味についても無知である。しかし竜のイメージには人間の想像力と相性のよいところがあり、そのことがさまざまな場所と時代の竜の出現を説明する」

たまたま、野宮真貴小西康陽の言葉が目に止まって、しんみりする。高校生の俺が好きになった時には解散していた、日本で一番好きなポップスター。今も昔も、野宮はキラキラしていて、小西は悲しみに寄り添っていて、変わらない。好きな人達が変わらない(ように見える)のは、切ない幸福だ。

マンディアルグ『海の百合』読む。高校生の少女が、サンタ・ルチアでヴァカンスを過ごす。そこで彼女は美しい男と恋に落ちる。健康的で潔癖で大胆で危うい若者の心情や、太陽の下の自然を丁寧に書き出す。肌を重ねた男を心に残したまま、名前も知らずに別れる「恋に名札なんか必要ないんですもの」

ステファヌ・マラルメ秋山澄夫訳『骰子一擲』再読。俺は決して詩に詳しいとか理解力があるとは思えないのだが、それでもこの詩が好きだ。豊かなイマージュの潮流を目撃する心地良さ。何度読んでも新しく、俺の物にはならない。秋山澄夫の解説も有り難い。

勅使河原宏監督『豪姫』見る。前作に近い関係の『利休』がとても好きなのだが、この映画はあまり合わなかった。俺が歴史に疎いのも一因だと思うが、主役らしき登場人物がいるとは言いがたく、断片的な物語が進行する。ただ、セットはとても美しい。竹のアーチをくぐる人々はとても良かった

映画監督の実相寺昭雄が好きだ。彼の映画は暴力エロ政治といった昔の日本映画って感じの作風が多いが、有名なのは特撮方面らしい。で、彼が監修した、地球防衛少女イコちゃん、なるものを見たら、ユルくて良かった。女の子が頑張って怪物退治する。特撮全然知らないけど、こういうユルいの見てみたい

ボルヘスの詩集『エル・オトロ、エル・ミスモ』読む。集められた詩は30年位の幅があるので、幅広い。死、ナイフ、暴力、歴史、神秘、不死等。俺はこの詩集に祖国のアルゼンチンへの思いを感じた。昔は血の歴史で育まれたものが国だったはずだ。熱と敬意とを揺籃に、人々は認識できない不死になるのか

 一進一退の日々の中で駄目になっていくことばかり考えてしまう。でも俺はあまりにも自分の身体を大切にしていないことにも思い当たるのだ。自分が幸福になるには、どうすれば楽しいか、という当たり前のことすら余裕がなくて投げ出している。それじゃあいつまでたっても辛いまんまだ。

 不幸や苦しみに底なんてない、として、まあ、苦しくない生活を。何度も落ち込んでしまうにしても、立ち止まり、気づかなくっちゃ。

明日の不幸は明日にして

 東京の状況は変わらず、色々と不安が残るけれどいつまでも家にいるわけにはいかない。不安にばかり心をさいているのはよくない、と分かってはいても気分は安定せず。

 でも、数週間前の自分のことを思うとまだ改善された気がする。いつだって不安定なのだから、楽しいことを考えている時間を大切にしなくっちゃ。

 雑記

編集者、カステックス編『ふらんす幻想短篇 精華集 上』読む。バルザック、ユーゴ、サンド、ネルヴァルら15作品が収録。読む前に、短い作品と作者の紹介があるので有り難い。幻想とは言っても、作品の源泉は悪魔が存在する世界の話から、狂気、薬物、宗教、ミステリ仕立てと幅広く読んでいて飽きない

カステックス編『ふらんす幻想短篇 精華集 下』読む。作家はボードレールリラダン、ローデンバックらで15作品。上巻との違いをあげるとしたら、下巻には悪魔との共生、自分の内から出る狂気、精神病といった視点が多く見られる点だろうか。モーパッサンの作品が、丁寧な狂気の記録で良かった

 この二冊の本はとても質の良いアンソロジーだった。編集者のカステックスという人は知らないのだが、こういう本があるともっと小説を読みたくなって楽しいな。

 アルコール依存症だった人ライターが、回復(禁酒)した本読んでた。様々な症状が出て、彼は好きだった物が好きじゃなくなった。でも、新しいものを好きになって禁酒は続けている。俺は酒をあまり飲まないが、何かに依存している自覚がある。1つのものだけが救いだと思うと、ある時破綻する。難しい

何かを好きだと思える心は、その人の支えになるが、体調、精神の悪化はその妨げになる。周りで頼れる人いるのは幸福なことだし、自分の矛先をそういう人や他人に向けている可能性もある。でも、何らかの帰属意識や帰依や依存無しで生きるのは難しい。自分が間違っているかもと気づく、考えることが必要なのかもしれない。

久しぶりに青山行ったら、
昔から、こどもの国(今は営業してない?)の前にある、岡本太郎の作品が目に止まった。近頃めっきり美術館行ってないからか、誰かの作品がとても胸に来た。様々な顔の子供たちの像は、とても力強くのびのびとしているようだ。美術作品が気軽に見られるって素晴らしい。

青山ブックセンターで色々見る。短い時間だけど、モード系の洋書や写真集とかパラパラチェックする。美しいもの、奇妙なものを見ると心が豊かになる。世界には不思議な物が沢山あると感じられることは幸福だ。知らない写真集が良くって値段見たら八千円だった。来世で買うぜ!

野田彩子『ダブル 2巻』読む。忠犬のような親のような頼もしい友仁、子犬のように天真爛漫で不安定で才能ある多家良。小学校の親友同士のような不思議な関係の大人。多家良の様々な顔を表現出来る作者の説得力。盤石に見える友仁の方が危うい気がする。二人の、終わりの始まりがあるならば、彼から?

『リイルアダン短篇集 上』読む。訳者が複数いるし旧字体だから、文章が頭に入るのに難儀した。一番好みなのは鈴木信太郎の訳。宝石に恋に死に命を灯す詩情を感じる。
リラダンの小説は反道徳、一般的なモラルからは遠く、自由さといやな感じを覚える。それでいて話は蠱惑的なのだからたちが悪い

『文豪と借金』読む。石川啄木、約60人から金を借り「弱い心を何度も叱りつ、金をかりに行く」壷井栄、15家を変え50才で家賃が払えた。葛西善蔵、貧乏には慣れているが40過ぎでは世の中が厭になる。他、多数。教科書に載るレベルの人らですら、借金生活。文学って楽しい地獄絵図かよ

手塚治虫のエッセイ『ガラスの地球を救え』読む。手塚の幼少期、下に見られていた漫画、それを与えてくれた母や認めてくれた先生のおかげで居場所を見つけた話。豊かな自然の中で育ち、生命や自然に敬意や美しさを見出す話等、今読んでも胸に来る。自分の漫画に異物が多いのはコンプレックスに居場所を与えようとした、といった趣旨の発言も好きだ。

手塚治虫は、自分が、人間が不完全で過ちを犯すことを知っていて、だからこそ一人の人間として警鐘を鳴らす。簡単に割り切れない問題に漫画や言葉で立ち向かう。彼の残した多くの作品のことを思う。大好きな火の鳥鳳凰編にも言及していて読めて良かった

マンディアルグ短篇集『みだらな扉』読む。正直に言って不満だった。彼の描き出すエロスや悪夢や迷路はなりを潜め、そのフレーヴァーだけが香る。引っかかりや置いてきぼりにならず軽く読めるが、軽く読めるマンディアルグの作品なんて厭だな。

海野弘監修『世界の美しい本』読む。写本、初期の印刷本、豪華本といった本の歴史。それは美しい本を作ろうとした人たちの歴史でもある。序文でブックは予約、契約、約束という意味を内包しており、聖書は神と人々との約束を記したものとある。神様や制作者の祈りが本に輝きを与える。それが、美だ

プレステの風のクロノアの動画見てた。ポリゴンの絵本みたいでとてもかわいい。プレステやサターンや64の荒いかわいさや不気味さは何だろう。あれで感動してたのだ。最新機種のゲームは、誰かの夢の世界のような迫力があるし、ドットはちょっと怖くて魅力的。それぞれの良さがあるのはとても良いことだ。

 俺は三十代で、ファミコンスーファミといったドット絵、初期のカクカクしたポリゴン、プレステ2以降の実写に近づいたゲームと運よく?ゲームの盛り上がっていた時代をリアルタイムで経験していたが、それぞれの「最新の表現」に素直に感動できて、楽しかった。プレステの初期のゲームなんて、当時でもちょっとひどいなあ、という出来のが多かったのだが、それもまた好きだし、楽しかった。

山田五郎『銀座のすし』読む。銀座百点の連載をまとめた文庫本で、ファストフードだった鮨がフルコースのような値段になったのはなぜ、という疑問を足掛かりに銀座の鮨屋を訪れた記録。高い店に縁が無い俺が読んでも、とても面白い。店や人の歴史に対する敬意と共に、文学等の話題も自由に書ける幅広さ

 この人は有名だからずっと前から知っていたが、著作を読むのは初めてだった。とても読みやすいのだ。さすが元編集長といったところだろうか。手前勝手な作品では読みやすいと言うのは誉め言葉ではないこともあるだろうが、こういうルポやエッセイにおいて、知識や経験からくる考察や寄り道と共にすらすらと読ませる文章はとても上手で彼の他の本が読みたくなった。

 幸田文原作、成瀬巳喜男監督『流れる』見る。山田五十鈴が女将の、老舗の置屋田中絹代が女中として働きに来る。華やかに見えるお座敷ではなく、様々な立場の女性の生き様を描く。脇を固めるのは高峰秀子杉村春子岡田茉莉子ら。哀しく淑やかで凜とした名演技。それぞれの悲喜劇を捉えた傑作。

 落ち着いた構図もあり、女優の演技を堪能できる。雄弁にならずとも、内に燃える激情や口に出さない感情を感じる。元々好きだが、おっさんになってから成瀬巳喜男のすごさが分かってきたような気がする。

市川崑監督『ぼんち』また見る。船場の老舗問屋に生まれた男を市川雷蔵が演じる。若尾文子山田五十鈴中村玉緒船越英二越路吹雪等役者がとても豪華。しきたり、を人間よりも大切にする河内屋。それに翻弄される男女。多くが空襲で焼けても、残った者の人生は続く。雷蔵の色気と品が心地良い

 若尾文子がものすごい美人!(知ってるけど!)若くて調子乗っててしたたかでどこか抜けているような、画に描いたような芸者が「実写」で出てきたよって、見ていて楽しかった。あと、船越英二の顔はとてもいいけれど「あほぼん」っぷりが好きだ。むかしのいかつい男前だけど情けない姿は可愛らしい。市川雷蔵はほんと、動いて喋っているのが素敵だ。彼の顔も好きだが、いわゆる男前とかイケメンとかいわれるような役者ではないはずだ。でも、どの役でも彼には色気というものを感じる。ひとたらし、って感じだ。演技のうまさは勿論だが、動く彼を見るのは楽しい。

木下恵介監督『永遠の人』見る。恋人がいる小作人の娘。負傷して帰ってきた地主の息子に犯され、入水自殺するも果たせず、恋人と夜逃げする約束も破られ、地主の男と結婚して子を産むのだが……という前半だけでかなりきつい展開なのだが、不幸や憎しみには底はないのだ。産んだ子を愛せない母。妾の子、と苛められた息子は学友に暴力をふるうようになってしまう。その息子を愛せと言う愚かな父親。

 息子が置手紙を残し、自殺してしまい、男が女を叩くシーンがきつい。やりきれない。

見ていて思わず泣いてしまった。脚本に多少疑問もあるが、モノクロの自然や立派な家を映すカメラ、構図がとても美しい。高峰秀子のやりきれない生き様も、仲代達矢の弱い屑男も、二人の演技が上手く引き込まれる。すっきりしない映画だが、監督と役者がとても良い問題作

 木下恵介は自然を美しく撮るなあ、と思ってはいたが、この映画はとてもすごくて、どっしりとした自然の中で戸惑う人の姿と、お屋敷の中で対話したり事件に対峙したりする役者の姿がとてもよく撮れていた。モノクロの画面が美しいと思った。俺なりに最上級の誉め言葉だ。

 成瀬、市川、木下、と続けて巨匠の映画を見てきてふと思ったのが、商業的な、分かりやすい演出を一番好まないのが成瀬で、そういったパンチの聞いた表現もするのが市川崑、という気がする。木下はその中間だろうか。まあ、あえて言うなら、ということだけれども。

 でも、俺の勝手な想像だが、有名な、作品を見た人が多いのは市川崑木下恵介成瀬巳喜男となるような気がする。もっとも三人とも優れた作品を残しているのだから、好みはあっても優劣はない。でも、俺は二十代の頃はもっと市川崑に夢中で、成瀬は三十代になってから理解が深まった気がする。

 様々な物について、俺は少ししか知ることがなく、身体や頭が駄目になる。ただ、夢中になっている時間はそういう迷妄不安虚心が軽くなるのだ。明日の不幸は明日考えるべきだ。追いつかない幻の方が俺に優しい。