肉袋の中の宝石、悪魔

あまり外に出られず、家でグダグダしている日々。しかしこんな生活をずっと続けられるわけがなくて、久しぶりに肉体労働。マスクをして、体力が落ちた身体でのそれはびっくりするくらい疲れて、俺、大丈夫か? と思ったが、大丈夫大丈夫ではないとかではなく、やらなければ。やらなければ終りってことだ。

 とはいえ、体調は以前よりはだいぶ良くなっている。ちゃんと外出なきゃなってことだ。引きこもっていた頃は気分の波が激しかったが、一応読書の時間はとれていた。でも、当たり前というか、身体が疲れていると活字を追うという気にならない。

 けど、俺の楽しみは読書なのだ残念なことに幸福なことに。貧しい者にも等しく書物は開かれている(と思う)。好きなことがあるのは幸福だきっと。

 雑記。

ボルヘス詩集『永遠の薔薇・鉄の貨幣』読む。どれだけ理解しているかは置いておいて、俺は彼の書く文や詩や散文や講演の記録等が好きで、優れていると思っている。だが晩年に書かれたこの本は、好きとは思えなかった。意識したであろう、繰り返し現れる盲目や死からは詩情とは別の物を感じた

これまではページを開くと、彼の筆致に才能に夢中になっていたのに、この本は大して感受性が動かなかった。単純化して、同じことを語るのは意図したことだろうが、その詩は小説の一部を切り取ったかのような散漫さがあり、彼の以前の作品にも到達しないまま終わる物があったにせよ、それらには詩情を感じられたのだが、この本の中の文章には、そういったものが弱く、俺がこの本を理解してないとしても、別の本の方がずっと出来がいいのではと思ってしまった。好みの問題だろうか。目を向けている先が違うのだろうか。単に好きな作家の本の前で俺が戸惑っているだけなのか

生田耕作マンディアルグ『ポムレー路地』読む。彼の手にかかれば町の路地を幻が浸食する。「私の側の病的関心によって幻想的に拡大された細部」例えば「殺し屋の石鹸、いんちきトランプ、花嫁の鍵、悪魔の目玉砂糖」、もっと山ほどの不可思議に出会う。謎の女性。鰐人間。著者は一流の雄弁な人さらい。

 とてもこの短編は好みだった。マンディアルグの中でも一番好き。もしかしたら、マンディアルグとしては話が分かりやすいからかもしれない。すんなりと様々な魔術(意匠)や構成(骨子)が頭に入ってくるのだ。

 『前衛調書 勅使河原宏との対話』読む。勅使河原宏の足跡と映画作品についての本で、とても面白かった。華道家の家に生まれたが、美術への道を歩み映画制作をすることになる。だが、父と妹が相次いで亡くなり、華道家として本格的に生きることになる。彼の作品が様々な経験から育まれたことが分かる。

映画の話を引き出す四方田犬彦がうまい。勅使河原は型にはまった演技を嫌い『砂の器』での岸田今日子をとても褒めている。ヌーベルバーグの監督の話題、影響関心。『利休』のシナリオを赤瀬川源平に頼んだのは路上を見つめるトマソン、無用の物から。それが利休の茶室に繋がる

監督の立場にある時、撮影時に型にはまったものよりもハプニングへの対応や揺れを求めるのは、似ていても昨日と同じ花などない、自然の花で構成する世界、いけばな、花を素材を尊重して与えられた物を空間に配置するからだろうか。

 彼の花、いけばなの作品が好きなのは、美術の空間把握能力、抽象絵画やミニマルアートに通じる美意識を感じるからだろうか。映画、美術、華道、陶芸等というものが混じり合って、それぞれの制作に良い影響を与えているように思える。

 同著106p

四方田「(伝統とか映画史的記憶とやらが重荷になったかと質問して、勅使河原がないですと答えた後で)そこがハリウッドにこだわり続けるゴダールなんかと違うんですね。勅使河原さんのフィルムには映画というものをめぐる自己言及が全然ないわけです」

勅使河原「そうなんです、風景や人物たちに感動したりという、そういうぼくがただいるだけなんですね」

 この質問はとても興味深く、軽やかな彼のスタンスを表しているから、読んでいて楽しかった。目の前の題材を捉える、美しく或いは意図したとおりに撮る、なんて言葉で書くのは簡単だが、それができるのはとても困難だろう。美しいコンポジションを提示する作り上げるのに、美術、華道の感性が通じている。引用と主張(政治、意志)の織物を音楽に乗せて投擲するゴダールとはかなり異なる立場にいながら、二人共刺激的で素晴らしい作品を作っているというのは感謝したくなるような心持にすらなるのだ。

 アイラミツキの復帰第一作のシングル『lightsaver』のカップリング曲f.c.c. が本当にいい曲なのだが、この曲シングル限定でiTunesに売ってないのだ。何年もどこを探してもない。だが、数日前アマゾンで5000円で売っていた。マジかよ。今見たら数日で売り切れてた。マジかよ。

宇野千代95歳(!)のエッセイ『私は夢を見るのが上手』読む。歳をとり身体の不自由について「人間はどんなことでも、慣れれば平気になれるものなのである」と言えるのに明るい心持ちになる。歳をとっても、欲望はなくならず、整理されシンプルになる。書けなくても机に向かう姿。人生とは行動すること、そう彼女は言う。

ボルヘス、文学を語る』読む。米大学での講義録。様々な作品を手がかりにして、詩や文学について語る。それは自分の文学観と自作への言及になる。「書物は不壊の対象ではなく美の契機」「生涯で最も重要な事柄は、言葉たちが存在すること、そしてそれらの言葉を詩に織り上げるのが可能だということ」

ボルヘスの自撰短篇集『ボルヘスとわたし』読む。登場人物も読み手も夢の中に誘うようないつもの作品と共に、残酷で暴力的な作品も多い。百年前のブエノスアイレスを想う。自伝風エッセーと著者注釈があるのが嬉しい。その中でアルゼンチンの人間はやくざや女衒の話を好むとあり、日本にも近い文化、ヤクザ、任侠物。色町、花柳界についての作品の歴史と人気があることを思う。色欲と暴力は(物語の中では)どこでも人気だと言ったらそれまでだが、それが作品として残っている、未だに人気があるとしたら、見知らぬアルゼンチンに日本と近しいものを感じたのだ。

 最近ボルヘスをよく読んでいるなあと思う。彼の本を初めて読んだのは大学の時で、大学の頃読んだ本、好きになった本で、俺の好みはほとんど変わっていないことに気付くと、何だか虚しい気持ちになる。だけど、俺は大学の頃よりも作品に対する理解が深まった、或いは別の感受性を得るのだ、と考えるとまだましな気がする。

 恐ろしいことに俺は読んでいない本が山ほどあり、しかし俺は読んだ本を十全には理解できない血肉にできないそうだと少し思えてもそれらは薄れゆく。大した理解のないまま、やがて、精神か肉体かが駄目になるのだ。

 今の状況だと、それが身に染みる。大学の頃は先のことはなんとかなると思っていた。まあ、なんとかなったのかもしれないが、それから十年以上すると、駄目かもしれないという気持ちが滓の様に身体にたまっていくのだ。

 そういう考えを頭から締め出すためには、書く/読む、しかないのだ残念なことに。虎と遊んだり生でガムラン聞いたりしたい、けど今の俺ではとても無理だ。でも、俺は幸福だと錯覚できる時間が多い方がいい。だから肉袋の中の宝石を、悪魔が憑りついていないかと、ありもしない虚妄にふける。

目隠し、騙し、手当もね。

多少、調子が戻ってきているかもしれない。というか、数週間前、一、二ヵ月の状況が悪すぎたから、沼の中から頭だけ浮上したといった体だけれど。

 それでも、そのこと自体は喜ばしいことで、少しは自分の身体をいたわらなければと思う。俺は怠惰で自堕落だけれど、自分の身体を痛めつける。

 ただ、本を読みたいなら、本に文章に見えないものに人間に向き合うならば、多少の健康さ公正さ精神の余裕が必要なんだ、だから、たとえなくてもあるふりをした方がいい。目隠しは、騙すのは自分から。

 色んな店の閉店やら何やらのニュースが耳に入り、他人事ではないのに、まだ俺は実感がない。少しずつ、色んな物に触れる機会が減る。

 ただ、渋谷のレコファンが閉まると知って、最近は全然レコファンで買っていなかったのに、妙な気持ちになった。今は中古cd、レコードショップはどこも厳しいこと位分かっているけれど、閉店、おしまいの日は、宙ぶらりんの いつか であるはずだった。

 高校生になってバイトが出来るようになって、渋谷のレコファンにはとてもよく通っていた。実家から少し遠いが歩いて行けたのだ。バス代往復で安いcdが買えちゃうよ。何でもいい、誰かが好きな人がオススメした奴、ジャケットがかっこいい奴、沢山聞きたい知りたい。

 渋谷にレコファンは、最盛期には三店舗あったはずだ。でも、一番大きな店舗もしまるという。今は色んなサービスで無料で聞けちゃうし、俺もかなりcdを買わなくなってしまった。でも、cdが今も好きで、youtubeなんてなかった時代に、色んな曲に出会う機会を与えてくれたんだ。ありがとうレコファン。お疲れ様、というよりも、俺も好きなの買わなきゃなー。

バルバラ『赤い橋の殺人』読む。19世紀のパリで急に金回りがよくなった男。しかし、ある事件の真相が自宅で語られた時に彼は異様な動揺を示す。
探偵小説だが、執拗な心理描写、ボードレールの引用、貧困と反抗を胸に抱く芸術家、それに加え神や良心の不在といった要素があり、解説にもある通り『罪と罰』を想起させる。

マルグリット・ユルスナール『青の物語』再読。死後まとめられた、彼女が若い頃の短編集。表題作がとても好きだ。サファイアを求めて青の洞窟に向かう、様々な国の商人達。彼らは残酷な、或いは虚しい結末を迎える。詩情のある表現で世界を彩り、冷静で簡潔な表現で生き様を記録する。一時、宝石の夢を見る

白洲正子『鶴川日記』読む。鶴川に越して、30年になる著者の記録。当時は戦中で、田舎の朗らかな描写と共にそうも言っていられない状況なのだが、この本では日々の生活、自然との交流、村の人々や仲良くしている文学者等との話が多くて湿っぽさは薄く、著者のたくましさと穏やかな筆致を楽しめる

マンディアルグ短編集『狼の太陽』読む。人工物も自然も妄想も、悪夢に変える恐ろしい作品群。デコラティブで飛躍する文体を訳するのは生田耕作。奔放な夢魔の迷宮の中で迷子になる。

木下恵介監督『二十四の瞳』見る。原作は小さい頃読み、映画はいつか見るだろうと思いつつ、十年以上経って見る。前半は小豆島の自然を唱歌に載せて美しく描く。しかし貧困や親が幼子の運命を決め、戦争が人々の生活を激変させる。生徒を深く愛する高峰秀子の名演技と、人々の生きていく姿に涙が出る。

 リマスター版を見たのだが、古い時代に撮ったのに豊かな自然、海と山がとても美しく、広がりを持って捉えられていてすごかった。また、感動ものというか、そういった描写があることを知っているのに、映画を見て涙が止まらなかった。五回くらい泣いた。そりゃあ、ちょっとお涙頂戴演出ではないか、と思うこともないシーンもあったが、それでも高峰秀子(と子供達)の演技は良かったし、自分の意志を踏みにじられる子供達は見ていて辛い。だが、大好きな人の助けに力になれなくても、必死で生き抜く力と献身が伝わってくる。とても良い映画だった。

鈴木信太郎のエッセイ『記憶の蜃気楼』読む。小林秀雄森有正渡辺一夫等々錚々たる人々との交友。仕事も遊びも大切で楽しいと言える、恵まれた環境での、優れた研究者の探究心に触れる。ランボーの引用

俺の生活は饗宴であった、すべての人の心は開き、あらゆる葡萄酒は流れ出した饗宴であった。

 このエッセイを読むまで、俺はフランス文学の訳者鈴木信太郎という人に対してかなり神経質なイメージを持っていたのだが、そういう一面があるにせよ、結構恵まれている呑気なお坊ちゃんといった姿が見られて(というか、昔はかなり恵まれていないと、大学、留学、学者にはなれないだろう。あ、今もか?)楽しかった。感受性を育むのは喜びであって虚ろではないのだ。

 ピエール・ルイス『妖精たちの黄昏』読む。語り部が話す物語は、どれもこれも救いの無い悲劇で、納得出来ない聞き手が質問をしても、幸せな話がいいと言っても語り部は応えない。あとがきで、友人が著者に捧げた寓話を読み、この作品が腑に落ちた。その寓話は、様々な物を持っていても手に入らない。

 永遠の渇望を、どんな才能や輝きを持っていてもお前は不幸の闇に没するのだ。


この予言、寓話が友人の(!)書いたルイスへの本の冒頭にあり、『妖精たちの黄昏』とも奇妙な類似を見せている。知ってはいけないこと、意味がないことをたしなめる。くすぶる感情、気持ちが整理されないまま幕は降りる。しかし著者は美しい詩や物語を生み、作っていた。大人の為の残酷なおはなしだ。

 パゾリーニ監督『カンタベリー物語』見る。8つのエピソードを巡礼宿でつづるオムニバス作品。その中身は、性欲に正直過ぎる男女の物語。夜這い覗き男色罪で火あぶり兄弟で殺人、ラストの地獄では悪魔の尻の穴から僧侶が吹き出る。裸の男女が沢山。猥雑の極み。だが、構図陰影が巧く悲劇も明るく描く

 久しぶりに見たパゾリーニは、まあ、生命力にあふれていてすごかった。とにかく裸の男や女の多さ! でっぷりとした脂肪がついた男や女。尻と放屁。無修正だからか、丸出しの男性器に下着なしで服を着るという動作が何度か見られて、それが妙な躍動感というか、あっけらかんとした様子で、嫌なエロティシズムがない。アダルトヴィデオではない、映画の濡れ場での、つまらないセックスシーンもどきよりもずっと、パゾリーニの方が自然だから。

 とはいえ、それは自然を映す時は陽光で全体を映す、室内や緊張感があるシーンでは陰影を強くする(カラヴァッジオみたいに!)、猥雑な集団もあればシンメトリックな落ち着きのある構図もあるといった彼の美学映画のセンス、様々な使い分けができるから、下品さをあまり感じないのだと思う。

 岩波文庫シェリー詩集』読む。自然の讃歌、甘い恋歌、政治的な問題視される歌、神話を題材とした重厚な詩。様々な顔を持ち、詩情を感じさせる豊かな作品群。読み応えがある。丁寧な解説・脚注もあり、とてもありがたい。彼が30歳で亡くなったとはとても思えない!

ボルヘス『創造者』再読。彼の好きな物が集められた詩文集。それは、夢や引用や神話や記憶で編まれたバベルの図書館、或いは盲目の図書館。濡れた金貨、死後に対話する勇士、夢の中の虎、天恵の歌。

私は書物の引力を、ある秩序が支配する静謐な場を、みごとに剥製化して保存された時間を感知する という言葉は、いつ読んでも素晴らしい。

 体調や気分が優れないことはしばしば、というかパッシブスキル標準搭載。でも、何も消費できないんじゃ生みだせないなら死んだほうがまし、でも、死んだら本も音楽も映画もどこかへ消える。だったらまだ消費できますように。目隠し、騙し、手当もね。

優しさ落し物

やっと、すこし体調が安定してきた。というか、夜に調子が良くなるのはいつものことだけれど。

 それにしても、生活が一変、というか、かなりおかしくなっていて、それは俺だけではないのだけれど、この二ヵ月位の間はかなりまいっていた。

 昨日今日と、目的なく、家の周りを昼間に歩いていて、少しだけ気分が上向きになるのを感じた。外に出て歩きながら音楽を聞いて、街路樹の緑に目を向けるだけで、余計な雑念が薄まる。いつまでも悪意や不安不満に溺れるような生活態度では愚かだ。愚かなんだ。賢い生き方なんてできそうにない、けれど気分は悪いよりも良い方が好き。

 たまに、好きな物が分からなくなるどうでもよくなる。その割に惚れやすくすぐに感情がざわつく。そんな性分のおかげで大変困難になっているのだけれど、本を読む/書くというのはそういうのが役に立つ、ということにして。

 雑記。

 三好達治随筆集読む。彼の詩がとても好き。この随筆では、詩人が自然、動植物を見つめる精緻な眼差しもあるが、俗への嫌悪や虚ろな心情や自虐的な文も。だが、

どんなに寂寥になれて孤独を愛する人でも、人間はみな、大なり小なり他人の生活によって自分の心を支えているのです

と、心の広さを感じる

サン=テグジュペリの『夜間飛行』再読。郵便飛行業が今よりずっと危険だった時代に、夜間飛行という危険な業務を行う人々の話。彼らにとって夜空は、空は、死と隣り合わせで、しかし魅惑的だ。厳しささえ感じる勇敢さ。飛ぶ者、陸で見守る者それぞれの思いを現場の厳しさと、少しのロマンスで描く。

シュニッツラー短編集『花』読む。訪れた悲劇に対して、登場人物の心理描写を丁寧に描いている。目の見えない弟が、あるときからずっと暮らしている兄を疑う展開は辛い。

1983年岩波文庫の、売上カード挟まってた。
この頃文庫は旧字体で200円だよ。この時代の本棚見てみたい

ロウ・イエ監督『パリ、ただよう花』見る。北京からパリにやってきた教師の花。彼女は様々な男と身体を重ねる。どんな人種でも教育が近しくても遠くても、すれ違う人々。弱さに肉欲に寂しさに溺れる、愚かな人々。でも、そんな人達もたまに優しい。人々のどうしようもなさを捉えた切ない映画。

 彼の映画を何本か見たのだが、ほとんどの映画でセックスシーンと怒鳴り散らすシーンが出てきている。怒鳴り散らすシーンは、結構見ていてきつい。感情の爆発や行き違いというのに、彼は固執しているのだろうか。

 フェティッシュは、オブセッションは苦しみを与えるかもしれないが、何かを作る時には大切な物かもしれない。俺は同じような主題のものを繰り返し作る人が割と好きだ。とか言って、自分がそうだからかもしれない。

 ローデンバック『死都ブリュージュ』読む。愛する妻を失い、その想いに、何年も囚われている男。その妻に瓜二つの女性を偶然見つける。しかし、その女は身持ちの悪い踊り子だった。男の幻想は蘇り、朽ちる。敬虔なカトリックの都市で、彼は愚かな行動を止められない。ドラマチックな展開は巧みだ。

ジィップ著の戯曲『マドゥモァゼル・ルウルウ』再読。わがままで天衣無縫な14歳のじゃじゃ馬娘ルウルウの、自由なお喋り。訳が森茉莉で、彼女がルウルウを愛して、作者に手紙を出し、翻訳。森茉莉が手紙で、ルウルウが見える、今どこにいるのですかと尋ねているのは可愛らしい。装画は宇野亜米喜良

宇野千代 女の一生』読む。彼女の人生や生き方、仕事や好きな物を豊富な写真つきで紹介する一冊。晩年の彼女のエッセイを数冊読んだ位の俺でも十分に楽しめた。
好きなことには貪欲だが、喜怒哀楽が穏やかで、人と幸せを大切にする生き方。読んでいると心が解れる

 そういえば、最近またパソコンがフリーズからの強制終了からの普通に動いている、という状態で、俺のノートパソコンwin10だが6,7年使ってるかもしれない。しかもずっとつけっぱ動かしっぱなし。何でクラッシュしていないのか、分からない。いつ壊れるか。今壊れたらかなり金銭的にきつい。でも、もう、そんなに長くはないのを騙し騙し使っている。

 まるで俺の身体みたい、なんて思うけれど、俺の身体に代わりはいないのだ。たまに、些細なことで、身体があって意識があって良かったと思うこともあるし、俺は怠惰ですぐに回避しようとする癖に、自分の身体のメンテナンスもサボっている、痛めつけている。

 自分の身体に良いことをしよう。というのを自然とほとんどの人ができているというのは驚きで、しかし体調不良のままの時間よりかは何かを消費して埋葬する時間の方が有意義なので身体のことを考えて数日過ごして見たら、体調や気分が多少、しかし確実に改善された。

 ああ、俺は優しくされたかったのかなあというか身体は人は優しくされたいものかなあと思うのだが、俺は落し物が多くてそういうのを見つけるのは不慣れでぼんやりとしてしまう。

俺の為の図書館の司書でなければ、辺獄で迷子

色々と安定していない。こんな時だから当然なのだけれど。

 雑記。

 『ボルヘス怪奇譚集』再読。世界中の、数十年前から、数千年前まで様々な物語を集めた一冊。滑稽や皮肉、幻想や理不尽、悲劇や洒落。幅広い物語の中の、数ページの断片の数々は、読む者を夢の図書館へと案内する。本を求める人はきっと、自らの終わりない図書館を編んでいるのかな。

 『林芙美子随筆集』読む。彼女といえば、『放浪記』の困難な生き様が頭に浮かび、この本にも愛金嫉妬悪口強気、もあるが、それよりずっと穏やかな文が並ぶ。生活の雑事や野草や詩句を愛する姿は、微笑ましい

川端康成の『禽獣』を


川端氏の触覚、視覚すべて愛(かな)しく美しい。という一文は胸を打つ

白洲正子『草づくし』読む。草花や和歌や古典文学や骨董品を自由に語る楽しい本。

若菜摘む、に俺は残酷な喜びを見たが、著者は豊穣の祈りとエロスを見る。
山部赤人の句

春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ
野をなつかしみひと夜宿にける

(菫摘みに来たら、魅せられてそこで一夜)
可愛すぎだろ。

今日も、何度も眠り続けて、夜になるとましになる。ふと、『マイ・プライベート・アイダホ』のことを思う。ゲイの監督が撮った(ガスの映画好きだが)、美少年同士の友情、片思い、犯罪。当時見ていて恥ずかしくなった。多分、俺は彼らに憧れていたんだと思う。あと、設定はハードだけど優しいから。

寺田寅彦『柿の種』読む。本人が日記の断片のようなもの、と言う短文集。動植物の話題がやや多いか。観察をして、明晰で読みやすい文は著者の人柄からか。

震災後、焼けた樹木に黴が生え、恐ろしい速度で繁殖し、植物も生える様を

焦土の中に萌えいずる様はうれしかった。

という言葉は胸に来る

YMCKのファミリー スウィング
聞く。いつものjazz+チップチューンの楽しい仕上がり。タイトル通り、ジャズ色強めで、ミュージカル映画を見ているような気分。捨て曲無しの、ワクワクしてちょっぴり切ないアルバム

ゴダール『フレディ・ビュアシュへの手紙』また見る。シネマテーク館長フレディへの映像手紙、という手法のわずか13分の短編映画。
音が画が動画が美しい。最高。後期ゴダールは自然も美しく撮る。
手紙というより、いつもの自由な独り言、エッセイ。平和な内容で、穏やかで幸福な時間は、すぐに終わる

シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』読む。一般的なアイスキュロスの作品とは異なる解釈で、暴虐と全能の神ジュピター(ゼウス)への抵抗と愛の成就による勝利が描かれる。訳注が数百!一読しただけでは読み取れてない点も多いだろうが、大地や月や精霊や神々の織り成す叙情詩はとても美しい。

『インノサン少年十字軍』読み返していた。少年十字軍って題材、耳から血が出る位好き。結末は予想がつくのに。踏み散らされる花々が好みというよりかは、彼らが絶望へ立ち向かう姿に心を打たれるのだと思う。
この本は全三巻。濃密。好きとか言っておいて、切なくてラストは読み返すのが辛い

夜になって少し安定。毎日こうだ厭になる。早く白骨かチェブラーシカになりたい。
軍艦島全景』の写真集をパラパラ見ていた。この本は、何年の何号棟はどういう目的で利用されていたか細かく説明されていた。写真だけではなく、生活の気配を伝える説得力がある。もう、誰もいない風景は心を慰撫する

Nq のrecording syntaxを数年ぶりに聞く。工業製品のざわめきのようなエレクトロ。買った時俺は学生で、CDを買い漁っていた。このCDもそうだが、ライナーノーツに佐々木敦の名前を見つけると、それだけで当たりだと分かった。なのに、俺は音楽雑誌をほぼ読まないから、彼の仕事をほとんど知らない

『フランシス・ベイコン 対談』再読。晩年のインタヴュー。偉大な画家にゴッホを上げる。二人の絵には近しいものを感じる。自分の画が人気なのは運が良かったと語る曲者の彼

僕の作品は、自分が嫌いなあらゆるものと、自分に影響を与えるあらゆるもののお陰というわけさ

永井荷風『花火・雨瀟瀟』再読。随筆のような小説のような作品と、短編小説が収録。知らぬ間に孤独になってしまうと言う著者。自己憐憫の甘さは薄く、雑事や自然の移り変わりを乾いた眼で美しく捉える。短編は浮気芸者嫉妬冷酷、という小品で、それを上手く書けるのは、やはり著者の孤独からか

音楽がないと不安になるので、寝るときも常に流している。しかし体力は消耗する。
思い切って音を消す。交感神経は喜んでいる気がする。
音の無い時間に身体を調律するのか、と思うと、調律師、チューニング出来る人が冥府の住人のように思えてくる。音を殺して身体を正しくするのだ彼ら

トリュフォー監督『野生の少年』また見る。昔の実話が元。森で発見された捨て子に教育を与える話。冒頭四つん這いで森を逃げる少年と追いかける犬達はすごい迫力。見世物になったり教育を押し付けられたり、胸が痛む場面が多い。だが、自然の中を二足で駆けたり温まる交流もある。少年の演技とても巧い

 教育を受けてはいても、雨を全身で受けて歓喜を表す少年。てか、ほんと少年の演技がうまいのだ。

ヒッチコック/トリュフォー』見る。トリュフォーが書いた『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を軸に、十人の監督が彼や著作について語るドキュメンタリー。サスペンスとサプライズは違う。とは、ホント名言。彼の映画の作法、美しいパズルについて、敬意と興奮で人々が語る様はとても楽しい。

 この映画でウェス・アンダーソンを久しぶりに見た(映画ではなく本人だが)。彼の映画、大抵家族が大きなテーマで、暖かくてトラブルばかり。でも、彼の映画見てないなー。見たい監督結構あるんだよな、でも。思うだけ。

 柳田国男『日本の祭り』読む。神事である祭り。その歴史を体験していない学生に向けて語る講義録。祭りを通じて、人が成長し結びつく。民俗学的な信仰の形。今は形骸化した文化、しきたり。経済発展は、文化を殺し、新しい娯楽や聖なるものを生む。忘れられる思いを記録し伝える事もまた、大切な事

 『二人のヌーヴェルヴァーグ』見る。ゴダールトリュフォー。批評精神と映画への愛と才能で結ばれた友情は、ゴダールが政治へと傾倒していくことで決別へと向かう。出てくる映画、ほとんど見てた。彼らの、あの時代の映画が大好きなんだ。才ある者は挑戦する者は常に新しい。彼らの作品も、勿論。

 見ていて楽しくて切なかった。高校時代に彼らの映画と出会って、それからずっと彼らの映画が好きだから。色んなあの時見たシーンが、彼らの映画の断片だけでも見るのは楽しい。ただ、俺は古い物ばかり愛するのか、あの時のまま年だけとって変わらないのかと我が身を思ってぞっとする。

 またそれとは別に、二人の決別。トリュフォーが亡くなって、しかしゴダールはまだ撮り続けているという奇跡に感謝すべきか。

 二人の才能ある監督に愛されたレオーにも焦点が当たっていて良かった。インタヴューで彼が、(一時期)近しすぎるトリュフォーに反発心を覚えるようになり、ゴダールの映画ではのびのびとできた、というのが何だか聞いてて微笑ましくなった。

 三日連続でトリュフォー関連の映画を見て、それはネットレンタルでたまたま適当に選んだのを見ただけなのだが、やっぱりいいな、好きだなと思った。それは映画の本の芸術の中の巴里。俺は一生会うことがない、できない巴里。

 体調がぐらぐらしている。というか、こんな時期に元気な人の方が少ないだろう。開き直って、読書の時間は増えたような気がするが、やはり街に出られない、色々な物が静かに幕を下ろす姿が流れ過ぎて、自分の感覚が麻痺してきているし、俺の何かも駄目になってきている。

 とはいえ、生活は続く。生きている限り。俺は俺の身体を任されているのだから、幕引きまでは良い選択をしなければ、つかみ取らねばならないんだ。

 書き終えた小説を、ちょこちょこ直しつつ、気持ちや小説を整理している。男を、生き生きとさせて、埋葬する。そういう物ばかり書いているのかと思うとぞっとする。でも、俺は俺の為の図書館の司書でなければならないのだ。それが俺の役にしか立たないにしろ、俺は書くことで虚ろな自分を繋ぎ留めているのだ。

 数年前から行き当たりばったりで、「人に読まれることを意識した」「俺が読みたい、古臭い」ファンタジー小説をネットにアップしている。ほんの少しだが、読んでいる人もいる。

 人に読まれる、ということで、最初の方に書いた文章は特に読みたくない。俺は読みやすい文章なんて書いてなかったし、書くつもりもなかった。

 エゴイスティックな自分の為の小説ならいいだろう。でも、さらりと読めるゲームみたいな、ファンタジー小説が読みたかった。

 読みやすくしようと思ったら、単にスカスカな感じになった。人に伝わる表現を、と思うと味気ない物になる。更新頻度も少ないし、惰性で続けていた。

 でも、気晴らしに小説を書くというのは、それなりに身体にいいものだ。最近は、物語の中でよく分からない図書館で、シェヘラザードの語る「おはなし」と称して、ボルヘス矢内原伊作やフランシス・ジャムやノヴァーリスボリス・ヴィアンを引用していて、書いていて楽しい。

 もっとも、読んでいる方がそれで楽しいのかは分からないが、読んでいる人がほとんどいないという点では、好き勝手できて気が楽でいい。「人に読んでもらえるような」作品にしよう、とは思ったが、自分の為に書いているのだ。

 登場人物、がでるとして、誰かの人生に向き合う作業、というのが作品を作る上では必要になる場合が多いだろう。それは大抵とても疲れる作業だ。毎日他人の苦しみや喜びのシャワーを浴びていたらおかしくなる。

 でも、小説は、文章は、何でもいいから書き続けている方が良い。地獄のようなマラソン、なんて思うよりかは、司書なんだ世界の編集者なんだと思う方が身体にいいだろう。

 体調ぐらぐらだけれど、何かを消費して、何かを生み出さなければ。それが当たり前なんだって、そうやって生き延びなければ辺獄で迷子

 

その位の人としての心はこぼさないように。

小説を書き終えた。これから校正や推敲が待っているので、まだまだ終わりではないのだが。でも、一応は終わらせた。でも、それが何になると言うのだろうか。書いているうちは勿論書きたいから書いているし、それなりに楽しんでいたり高揚したりする瞬間がある。

 でも、俺の作った物は泥の中にゆっくりと沈むだけだ。そして俺は作品を書き上げるといつも途方に暮れる。誰かにとっては価値がない物でも、俺に都は汚泥の中の硝子片のようなきらめきだから。それさえ、幻さえ見られないなら、俺は生きていることに不安定になり過ぎて、どうにか誤魔化し、寝続ける。死んでるのと変わらない。

 それには自由に外出できない等の、現在の状況も最悪で、一応、収束には向かっているが、こっから日銭稼ぎをすることを考えると、頭が痛い。最近はまた過眠が酷い。何かから逃れたいけれど逃れられない。解決したいことは、俺の手では不可能に近い。それでも、当然人生は続く。無理やり空元気を出してどうにかするのも限界ではないか、と二十代の終わり頃から思っていて、しかしそれを続けている。

 皆、悪魔になれずに息絶える。でも、誰かの作品を読むと、自分に感受性があるような気がしてくる。少しの間だけかもしれない。でも、それでいいのかな。俺には覚悟が足りないのかな。

 本を読むのって、かなり体力精神力を使う場合が多いと思う。だから体力も集中力もない怠け者の俺が、よくつづけているなあと思うことがあるが、何もない人にも、本を開けばほら、人間と怪物と天使と、たまゆらの共犯者。

 雑記。

 ボリス・ヴィアン『心臓抜き』再読。題名最高。過去を持たない精神病医の見る異常な世界、探求。
だが、それ系のは、ウニカ・チュルン、アンナ・カヴァンバロウズといった強者がいるので。
風景描写や会話の軽やかさや面白さを味わうのだ。

ジャン・ジュネ詩集再読。彼の小説を傲岸な詩集とするなら、この詩集は幻想的短編小説か散文のようだ。男を悪徳を死を犯罪を性器を肉慾を、天使や神や花々で飾り、惜しみない賛美や愛の雨を降らせる。
愚かで薄汚く、きらきらした臥所或いは墓標。大好きだ。

日曜日の朝に
the velvet undergroundnico
sunday morning聞くと、死んでるのか生きてるのか、地獄の入口にいるのか煉獄を散歩しているのか、ホンワカふわふわした気持ちになる。

二曲目の僕は待ち人はヴァネッサ・パラディがカヴァーしていて、下手くそで最高にキュート

めっちゃ久しぶりに、漫画読む。原作SHOOWA漫画奥嶋ひろまさ『同棲ヤンキー赤松セブン2巻』めっちゃ面白かった! 迫力あるケンカやヤバイ展開あるし、ぎこちなくってくすぐったい触れ合いも、直球エロもある。読み応えすごい。次の単行本も楽しみ!

カフカカフカ寓話集』読む。彼の名前で想起する、終わりが見えない有名な作品ではなく、一ページの作品から、短編まで様々な物を集めた、ボーナストラックのような作品集。題材には動物や神話がちらほら。陰鬱さというよりも、奇妙な世界の観察、描写をしているような作品が並ぶ。

ゴダールの『勝手にしやがれ』のパンフ見る。表紙だけで、高校の時に戻れる。悪い役のベルモンドと少年のように愛らしいジーン・セバーグのコンビは最高。インタヴューでゴダールは、この作品の成功について複雑な心境を語っているが、
ギャング映画にあっては、男は死なければならない。って流石!

 だるくて虚しい日々が変わることはないだろう。だから、錯覚できますように。手に取る硝子片、それだけできらきらしているんだって、その位の人としての心はこぼさないように。

殺して花束を

物凄く嫌な思いをして、こんな誰も見ない雑記でさえ、詳細を書きたくない位。何日も、今もその悪罵や汚い言葉が俺の身体から消えない。今日、色々と思い出して何度も涙がこぼれていた。きっと、一生消えない。なんて、俺が単に泣き虫なだけ。

 俺みたいに、色々な物がなく、下衆な文学とかが好きな人種は、滓の様に溜まった汚泥を、浄化したり忘れられないまま生きるのだろう。そして、日々溜まる毒を消化できず、俺みたいなうちの誰かは、その汚泥の毒が回り、つまらない犯罪や狂気や自死に手を染めるのだろう。

 そんなの馬鹿らしいし、馬鹿だと思うんだけれどね。馬鹿だよでも哀しいな。薬やアルコールを飲んで寝るしかない。その余裕さえなくなったら、なんて怖いから考えない。

 一応東京でも収束の傾向にあるのは喜ばしいことだ。図書館や本屋や古本屋や美術館に行けない日々の虚しさ!!!

 色んな人が職や店を失ったり、見つけられなかったり。俺も人の心配をしているような、余裕がある人間ではないけれど、きちんとした理由もなく攻撃的になったり、他人を蹴落としたり騙したりするような人間にはならないように。そうおもえたら、まだましだ、でも、何もかも嫌になったらなっちゃうのかななんちゃって。

 中断していた小説をコンスタントに書き続けている。いつもの少年青年中年が苦しみ悲しみたまに微笑む厭な話。中でも胸糞悪いシーンを書くのは、自分でも本当にうんざりする。しかし、書かねばならないのだ。誰の為?俺の為? そんなの知らないし、どうでもいいけれども。

 雑記。

 

ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』読む。狂気から回復して、憧れの東方へと旅に出たネルヴァルの、芳醇な幻想恋愛譚。恋の駆け引きと言うよりも、神話、精霊、建築、自然、文化に関しての記述が多く、壮観。豊かなイマジネーションが作り上げた世界の中で、俺も旅行者気分だ。

何度も何時間も眠り続けた。色んなことから逃れたいと願うも、目が覚めたら夜になっているだけ。ほぼ、誰も読まない本を読み、ほぼ、誰にも読まれない小説を書く人生。げんなりする。しかし、俺を慰め豊かにしてくれるのもまた、本なのだ。愚か者の為の阿片窟。本当に嫌になるのに、読む本を探す

ユルスナールの『流れる水のように』再読。これに収録されている『無名の男』という作品がとても好きだ。教養に乏しい、しかし賢明で考えなしな男の、澄んだ瞳の野生。極めて自然な、自死のごとき幕引き。
彼女は本当に描写が的確で冷静で、詩情と知性も持ち合わせていて、まるで俺は城に招待される気分だ。

Chet Baker聞きながら、小声で歌う。
let get lost
i fall in love too easily
but not for me

簡単な英語だから、俺だって歌える。てか、歌うってすごく健康に良い。それに、色男の歌声も。
嘘でもほんとでも、恋も失恋も悲劇も甘く軽々しく密やかに、心にしまって、時折、一人見つめ返す。

ボルヘス『不死の人』再読。いつもの、夢、神話、固有名詞、物語が入り混じる、ボルヘスと共に歩む冒険短編集。引用や物語豊さと共に、物語の中に、決して永遠には到達しない、十全さに触れてはならない。という意志を感じる。なのに、それを求めてしまうのだ。完成された、かのような円環の夢を見る

『天空の秘宝 チベット密教美術展』の図版編と解説編の二冊セットのカタログを見る。俺の乏しい仏教の知識でも、解説は丁寧で、豊富だ。何より、迫力のある作品が並ぶ。俺には信仰が無いし、死んだら終わりと思っているが、信仰がある人が作り上げる作品は、奇妙で不可思議で、どこか、神々しいのだ。

内藤ルネの本を読み返していた。師である中原淳一に憧れ、自身も、その才能で可愛らしい絵で雑誌を飾った。美しさを大切にする人、そういう人の精神や作品を見ると、花々を見るように、心が豊かになる。
著者の人生は順風満帆ではない。でも、彼は負けずに歩み続けた。
かわいい、美しいはいつでも正義

シェイクスピア十二夜』読む。互いに相手は死んだと思い込む双子。しかも妹は兄そっくりの男装をする。公爵の恋物語、人違いの喜劇。洒落た台詞やテンポの良い展開で、凄く面白かった。舞台で見たいな、なんて珍しいことを思った。でも、舞台は気軽には見られないんだよなー

tortoiseのファーストアルバム、繰り返し聞いてる。外国人のアルバムなら一番!レベルで大好き過ぎる。
穏やかでありながらもロック。何よりも、少ない音でこんなにも豊かな表現ができるのかという驚き、心地良さ。高校の頃から、何年経ってもずっと大好き。

夜になって、澱んだ気分で外に出て、フジファブリックのパッション・フルーツを聞いたら、とたんにフワフワで最高。志村がいないなんて信じられない、面識もない。でも、彼らは最高。数分間極楽

 家にいて様々なことが禁止されていて、それでかなりストレスや不安やらがたまっているが、本を読んだり文章を書く時間がとれるのはいいことだ、と無理やりいい方へ考えようとする。

 というか、本当に、素晴らしい小説を読んだり、俺の男が嫌な目にあう、誰かを埋葬する小説を「書く」というだけで、それだけで救われた気持ちになるのだ。それが、何にもならないとしても。

好きになってしまったから仕方がない

終わらない。東京に住んでいて、住宅街の近くなので、商店街がどの時間帯も人が多い。夜しか気軽に買い物できない。夜は薬局やお菓子屋とか百均がしまっているのがつらい。

 夜は夜で、散歩の楽しみはある。でも、さすがにそろそろきつくなってきた。寝て、読書。或いは腐るだけの日々。外に出て何かを吸収しなくっちゃ。新しい本を手にしなくっちゃ。通販は好きだけど、時間がかかるし、現物見たいんだ。本だな、本がたくさん並んでいるのを見たいんだ。

 とはいえ、色々再読して、改めてその本のことを知る機会を得られたのは、良いことだ。マイナスがあまりにも大きいけれど、そればかりに目を向けて体調を崩すよりかはまだ、読書の時間を。

 

雑記。

高峰秀子の対談集『いっぴきの虫』読む。相手が、東山魁夷松下幸之助森繁久彌市川崑……。だが、女優高峰は一歩引きながらも、相手と対峙して怯まない。
木村伊兵衛との対話の際、白をバックに写真を撮ったエピソードから、晩年の成瀬も同じことを言っていたなんて、高峰しか書けないなあ

マリヴォー『愛と偶然の戯れ』読む。初めて会う許婚者を密かに観察すべく、それぞれ召使いに扮した男女。召使いに扮した上流階級の人間も、その身代わりになった下男下女も、恋に落ちてしまう、喜劇。登場人物の喜怒哀楽が激しく、口が悪くテンポが良く楽しい。18世紀の作品なので、身分差が上手く機能

j・g・フレーザー『火の起源の神話』読む。世界の火の発生に関する物語が収められている。神様や動物からもらったり盗んだりする話もあるが、摩擦で火を起こす、雷が木に落ちて火事になり、そこで火を発見した。と、バラエティ豊か。火は、人類にとって必要だから、話が多いのか。俺はプロメテウス好き

白洲正子『花にもの思う春』再読。俺は和歌に明るくない。だけど、彼女の文章は、品と芯があり、心地良く読みやすい。

紀貫之の句

桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける

現実にはあるはずもない大空の波立ちを、現に白く波立っているように詠んでいるからこそ美しいのです

ガンアクションをテーマにしたtrpgガンドッグ・リプレイ ストレイ・ドッグ』昔の国産だけど、アメリカのアクション映画みたいな雰囲気でワクワク。カーチェイス、銃撃戦、爆発する船から脱出! 主人公が元軍人バツ一ちょいヘタレ33才。珍しいし、好み!

辻惟雄『奇想の図譜』再読。彼の本は全部面白い。それは、奇妙なものに素直に感動し、解説もしてくれるから。若冲白隠北斎……といった有名所から、日本人の意匠に関する「あそび」「かざり」について語る楽しい一冊

歌物語『オーカッサンとニコレット』読む。韻文と散文が交差する、作者不明13世紀フランスの作品。王子と女奴隷の可憐な恋。旧字体と古めかしい訳だが、シンプルな筋だからわりと読みやすい。品がある。天国を拒否して恋人となら地獄でも、と言うのは、中世では大胆。若さと愛のロマンチックな作品。

sweet poolクリアした。世界観も、キャラも好み!基本皆病んでる中、某キャラのたくましさにぐっときた。ただ、ストーリーがかなり短い!あれ?もう終わり?あの設定は?
とか、もうちょい絡みが見たかったとか……
選択肢もあってないような感じ。
良作なだけに、そこだけは残念

ジャン・コクトー『おかしな家族』読む。文とデッサンの童話。俺はコクトーの小説も詩も映画も好きだけど、絵はイマイチ……と思っている。中身は、太陽と月は結婚して子供を作るが育児放棄。犬の先生は駄犬で解雇、星を教育係にして、はいよし!

って、こんな童話やだ!笑 皮肉はきいてるけどさ

マルコ・フェレーリ監督『ひきしお』パンフ読む。島で暮らす男と犬。そこに流れ着いた女。女は嫉妬から犬を殺し、女自身が犬になる。原始的な楽園生活。だけど、二人の楽園にも終わりが来る。二人とも所詮現代人なのだ。ドヌーヴや海の美しさと、甘い倦怠。楽園なんてないのだという切なさが残る

夜になったから、やっと外に出られる。今日届いたserphの別名義と tomgggの曲聴きながら暗闇歩くとめっちや楽しい。serphの別名義は電子フォークロアダンスフロア、って感じで、まじ上がる!tomgggは安定のお菓子の世界で癒される。夜と音楽は相性最高。でも、昼間も歩きながら聞きたいな

朝から廃墟のことを考えてた。人は何で廃墟に惹かれるのだろうか? 不在の光景の中に、生活感を見つけるから? 甘いディストピアへの憧れ? 

それはそうと、魔神転生2のジャケ、狂う位好き。ゲームや音楽も大好きだが、瓦礫と廃墟の中、逆光に照らされる悪魔使いなんて最高すぎる

ロウ・イエ監督『二重生活』見る。一人っ子政策があった頃の中国の話。不倫、暴力、殺人。泥沼。ただ、屑色男も子供には優しかったり、女性達もいじらしくも残酷だったり、複雑な心理を上手く描いてる。不鮮明で薄暗い画面や寄りも生々しくて良い。でも、ミヒャエル・ハネケみたく疲れる笑(褒め言葉)

ポーの短編集と廃墟写真家サイモン・マースデンの『ポーの黒夢城』読む。やっぱりポーの短編は面白いなー。廃墟写真も、雰囲気合っていて良い。ポーの怪奇小説の魅力は、危険と魅惑とを詩的表現で、破滅へと誘ってくれる所にあると思う。
禁じられた小旅行へいざ。

アポリネール詩集再読。口説き文句と皮肉。何より軽やかで、子供のような愛や鋭敏な哀愁を感じさせる。
若くして凶弾に倒れた彼は、何を思いこの詩を書いたのだろう

わびしい監視兵

ところで 僕の心臓よ
なんでそんなにときめくか
塹壕の中のわびしい監視兵
夜と死を見つめ続けるためですわ

 

バタイユ『空の青み』再読。猥雑と死が骨子。性に禁止もタブーもないのだという考え(現代人)の俺には、サド的な性描写の退屈さ(おぞましさなんて、あるのだろうか?)を感じるが、女性への淫売聖女オブセッションはその病が深いと言う点で興味深い。猥雑を求め浴びなければ生きられないなんて!

金子光晴『どくろ杯』再読。三十代の放蕩を七十代の自身で綴る。同じ所にとどまれず、無軌道なその日暮らし。結婚して子をもうけるが、その子を置いて、妻と金も保障もない中国への旅へ。遊人であっても、冷静な描写、自らをも刺す冷酷な眼差し。しぶとさと、豊かな詩情。名作。

 

 何もない日は、本を一、二冊読めているような気がする。幾ら本が好きとはいえ、やっぱ何か新しいことをしなきゃ駄目になる。書きかけの小説で手をつけてないものがあり、ずっと気になっているのだが、色々感じて、刺激を受けてから続きを書きたいんだ。でも、今は難しい。

 色んな人の悲しみや不安や無念、或いは罵声や怒りが流れて行っている。それ自体を否定することはできないけれど、俺は何がしたいって、きっと、好きな物を見て、触れて、感じて、表現したいんだ。そういうシンプルな感情。素直な感情に目を向けると、少しだけ心が落ち着く。

 元々過敏なのが、今回のことで悪化したり、意外としぶとい自分にきづいたり。今回のこととは別に、定期的に、あ、もう駄目なんじゃないか、という思いがよぎる。でも、悲しみも喜びもひきずるくせに長くは続かない、難儀な性格なのだ俺。

 自分ができることもしたいことも好きなことも、学生の頃から変わってなくて、俺の話を喜んで聞いてくれる人なんて、大学教授位しかいなかった。百年前、数十年前の詩と小説が一番好き。今の時代に、必要とされていないとしても。好きになってしまったから仕方がないのだ。